| 大映株式会社 Daiei Film Co., Ltd. | |
|---|---|
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大映のロゴ(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン) | |
| 略称 | 大映 |
| 国家 | 日本 |
| 種類 | 株式会社(旧大映は1971年に破産。徳間書店傘下の新会社は2002年に角川書店へ営業譲渡) |
| 市場情報 | 東京証券取引所(1949年上場、1971年12月上場廃止) |
| 業種 | 映画の製作・配給・興行、テレビ映画製作 |
| 本社所在地 | 東京都中央区京橋(旧大映時代) |
| 設立日 | 1942年1月27日 |
| 廃業日 | 1971年12月23日 |
| 廃業年齢 | 29周年(数え年30) |
| 設立者 | 永田雅一ほか発起人9名 |
| 代表者 | 菊池寛(初代社長)、永田雅一(1947〜1971)、徳間康快(再建後) |
| 資本金 | 40億円(1961年の公募増資後) |
| 上場 | 東京証券取引所(旧大映、1949〜1971) |
| 年間売上 | 約48億円(1963年1月期) |
| 所有者 | 徳間書店(1974〜2002) |
| 主要株主 | 徳間書店(親会社、1974〜2002) |
| 主要部門 | 京都撮影所(時代劇)、東京撮影所(現代劇) |
| 主要子会社 | 大映テレビ、大映興業 |
| 関係する人物 | 永田雅一、菊池寛、徳間康快、京マチ子、若尾文子、山本富士子、市川雷蔵、勝新太郎、田宮二郎 |
| 代表作品 | 羅生門、地獄門、雨月物語、座頭市シリーズ、眠狂四郎シリーズ、ガメラシリーズ、大魔神シリーズ、Shall we ダンス? |
| 別名 | 大日本映画製作株式会社(1942〜1945) |
概要[編集]
大映(だいえい)とは、1942年に戦時統合で誕生し、1971年の倒産、徳間書店による再建を経て2002年に角川書店へ事業が引き継がれた日本の映画会社である。『羅生門』で日本映画を初めて世界の頂点に押し上げ、座頭市やガメラ、大魔神まで生み出した「日本映画黄金期の五社」の一角だ。
詳細[編集]
戦時統合で生まれた「第三の会社」[編集]
大映の正式な出発点は、1942年(昭和17年)1月27日に設立された「大日本映画製作株式会社」である。日中戦争から太平洋戦争へと突き進むなか、政府は生フィルムの統制を名目に映画会社の統合を進めていた。当初の構想は松竹系と東宝系の2社に集約するというものだったが、新興キネマの幹部だった永田雅一が奔走し、3社目の枠をねじ込んだとされる。こうして新興キネマ、大都映画、そして日活の製作部門が一つになったのが大映だ。日活の映画館部門は合流しなかったため、大映は「作る会社」として出発することになった。
設立時の発起人は永田を含む9名で、永田は専務として実務を握った。翌1943年には文豪で文藝春秋社の創業者でもある菊池寛が社長に迎えられる。第1作は牛原虚彦監督の時代劇『維新の曲』(1942年)。撮影所は旧日活の京都・太秦撮影所、旧日活の多摩川撮影所(のちの東京撮影所)、旧新興キネマの京都撮影所などを引き継ぎ、それ以外の小規模な撮影所は統合後まもなく閉鎖された。
永田ラッパの時代[編集]
終戦後、社名は「大映株式会社」に改められた。戦時中に作られた統制会社の多くが解体されるなか、大映は数少ない「生き残った統制会社」となり、1947年には独占禁止法に対応して日活との関係を清算している。同じ1947年、永田雅一が社長に就任。1948年1月には公職追放の対象となったものの、ほどなく解除されて社長に復帰し、以後1971年まで大映の顔であり続けた。
永田は大風呂敷を広げる語り口から「永田ラッパ」と呼ばれた名物社長である。映画だけでなくプロ野球球団、競走馬、政界工作まで手を広げ、「政界の黒幕」とも評された。ワンマン経営は黄金期には強烈な推進力になったが、映画斜陽期には組織の硬直を招いたと指摘されている。1949年5月には東京証券取引所に上場し、1957年にはフジテレビジョンの設立にも出資するなど、映画会社の枠を超えた動きを見せた。
『羅生門』と世界進出[編集]
大映の名を世界に刻んだのが、黒澤明監督の『羅生門』(1950年)である。京都撮影所で撮られたこの作品は、1951年9月のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞(グランプリ)を受賞。日本映画が国際映画祭の最高賞を獲ったのはこれが初めてで、翌1952年3月にはアメリカのアカデミー賞で名誉賞(外国語映画賞)も贈られた。敗戦からわずか6年、日本映画が「世界で通用する」ことを証明した出来事として、映画史に特筆されている。
もっとも、当の永田は企画段階からこの作品を理解できず、試写の途中で席を立ち、のちに「わけのわからない映画」と評したと伝えられる。受賞後は一転して自社の手柄として大いに宣伝したため、当時は黒澤の「グランプリ」と永田を対比して皮肉る川柳まで詠まれたという。それでも、ここから大映は国際映画祭を明確に意識した作品づくりに舵を切っていく。
国際映画祭の常連へ[編集]
『羅生門』に続き、溝口健二監督の『雨月物語』(1953年)がヴェネツィアで銀獅子賞、『山椒大夫』(1954年)も同じく銀獅子賞を受賞。さらに衣笠貞之助監督の『地獄門』(1953年)は1954年のカンヌ国際映画祭でグランプリを獲得し、翌年にはアカデミー賞の名誉賞と衣裳デザイン賞も受賞した。『地獄門』は大映初の総天然色(カラー)作品で、スタッフの反対を押し切って永田が独断で企画を通したものだったという。
こうして1950年代前半の大映は、ヴェネツィア・カンヌ・アカデミーの三冠を次々にさらう「日本映画の海外窓口」となった。溝口健二はその後も『近松物語』(1954年)、遺作となった『赤線地帯』(1956年)を大映で撮っている。
撮影所と製作体制[編集]
大映の製作は、京都と東京の二大撮影所体制で回っていた。おおまかに言えば京都は時代劇、東京は現代劇という分担である。
| 撮影所 | 前身 | 主な特色 |
|---|---|---|
| 京都撮影所 | 日活太秦撮影所(1927年開設) | 時代劇の本拠地。『羅生門』『雨月物語』『地獄門』、座頭市、眠狂四郎、大魔神などを製作 |
| 東京撮影所 | 日活多摩川撮影所 | 現代劇の拠点。増村保造・若尾文子コンビの作品群やガメラシリーズなどを製作。現在の角川大映スタジオ |
| 第二撮影所(京都) | 新興キネマ太秦撮影所 | 統合初期の製作拠点 |
京都撮影所の跡地は現在の京都市右京区太秦周辺で、京都市立太秦中学校の門の横には「グランプリ広場」と名付けられた一角があり、金獅子とオスカー像をモチーフにした『羅生門』受賞記念のモニュメントが立っている。そこから北へ伸びる「大映通り商店街」は撮影所の名前を今も残しており、撮影への協力を惜しまない商店街として知られる。
一方、東京撮影所はKADOKAWA傘下の「角川大映スタジオ」として現役で稼働している。2024年9月にはダビングルームがDolby Atmos対応にリニューアルされ、2025年にはソニーグループと共同でバーチャルプロダクションの講座「Virtual Production Boost 2025」を開催するなど、最新設備の撮影所として生き残っている。スタジオ内のショップ「SHOP MAJIN」には大魔神像と小さな鳥居・お社が置かれ、「大魔神社」の御朱印まで販売されている。
大映が約30年間に製作した作品はおよそ1,500本とされる。1961年には日本初の70ミリ映画『釈迦』を製作し、1958年にはテレビ映画の製作と販売も開始した。このテレビ部門がのちに分社化した「大映テレビ」で、『ザ・ガードマン』『おくさまは18歳』、山口百恵主演の「赤いシリーズ」、『スチュワーデス物語』など、独特の濃い作風で一時代を築いている。
看板スターと五社協定[編集]
永田雅一は映画づくりにおいて「女優」を重視したといわれ、大映には自立した女性や激しい情念を描く作品が多い。その象徴が「大映三大女優」と呼ばれた京マチ子、山本富士子、若尾文子である。男優では時代劇の大スター長谷川一夫、そして市川雷蔵と勝新太郎の「カツライス」が二枚看板として君臨した。
| 名前 | 大映での主な活躍 | 代表的な大映作品 |
|---|---|---|
| 京マチ子 | 1949年入社。グランプリ女優と呼ばれる | 『羅生門』『雨月物語』『地獄門』 |
| 山本富士子 | 第1回ミス日本。1953年入社 | 『金色夜叉』『夜の河』『白鷺』 |
| 若尾文子 | ニューフェイス出身。増村保造作品で開花 | 『妻は告白する』『赤い天使』『卍』 |
| 市川雷蔵 | 1954年に歌舞伎から転身。出演159本 | 『炎上』、眠狂四郎シリーズ |
| 勝新太郎 | 1954年入社。座頭市で大ブレイク | 座頭市シリーズ、悪名シリーズ、兵隊やくざシリーズ |
| 田宮二郎 | 1955年、演技研究所10期生として入社 | 悪名シリーズ、犬シリーズ、『白い巨塔』(1966年) |
| 中村玉緒 | 京都撮影所の時代劇・現代劇で活躍。1962年に勝新太郎と結婚 | 時代劇作品多数 |
この華やかなスター陣を「囲い込む」仕組みが五社協定だった。1953年9月10日、松竹・東宝・大映・新東宝・東映の5社が結んだ協定で、表向きは専属俳優や監督の引き抜き禁止、実際には映画製作を再開しようとしていた日活への対抗策だったとされる。大映はこの協定の主導役で、永田がその執行の先頭に立った。
協定の「負の顔」を最も鮮烈に体現したのも大映である。1963年、山本富士子が契約更改で前年並みの条件を求めて認められず、契約切れを機にフリー宣言をすると、永田は激怒して解雇。五社協定を盾に他社の映画や舞台にも出られないよう働きかけたとされ、この件は国会でも取り上げられ「人権蹂躙」と批判された。山本はテレビと舞台に活路を見出し、その後映画には一度も戻っていない。
1968年には田宮二郎が『不信のとき』のポスターで自分の名前が4番手に置かれたことに抗議。序列は結局トップに直されたが、永田は田宮を解雇し、五社協定を持ち出して他社映画やテレビへの出演も封じた。こうした締め付けは、テレビの台頭と新東宝の倒産(1961年)、そして1969年の市川雷蔵の早世を経て急速に効力を失い、1971年には専属俳優制度とともに事実上崩壊した。
主要作品とシリーズ[編集]
大映の作品は、国際映画祭向けの芸術作品と、量産型の娯楽シリーズの二本立てで成り立っていた。戦後まもなくは大映で始まった片岡千恵蔵主演の「多羅尾伴内」シリーズや、三益愛子主演の「母もの」が屋台骨を支えた。
| 公開年 | 作品・シリーズ | 監督・主演 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1950 | 羅生門 | 黒澤明/三船敏郎、京マチ子 | ヴェネツィア金獅子賞、アカデミー名誉賞 |
| 1953 | 雨月物語 | 溝口健二/京マチ子 | ヴェネツィア銀獅子賞 |
| 1953 | 地獄門 | 衣笠貞之助/長谷川一夫、京マチ子 | カンヌ・グランプリ、アカデミー名誉賞・衣裳デザイン賞。大映初のカラー作品 |
| 1954 | 山椒大夫 | 溝口健二 | ヴェネツィア銀獅子賞 |
| 1956 | 夜の河 | 吉村公三郎/山本富士子 | 2023年に4K修復、ベルリン国際映画祭で上映 |
| 1958 | 炎上 | 市川崑/市川雷蔵 | 三島由紀夫『金閣寺』の映画化 |
| 1961〜 | 悪名シリーズ | 勝新太郎、田宮二郎 | 今東光原作の河内やくざもの |
| 1962〜1971 | 座頭市シリーズ | 勝新太郎 | 第1作『座頭市物語』。大映倒産後も勝プロで継続 |
| 1963〜1969 | 眠狂四郎シリーズ | 市川雷蔵 | 柴田錬三郎原作。雷蔵版は全12作 |
| 1964〜1967 | 犬シリーズ | 田宮二郎 | 全9作 |
| 1965〜 | 兵隊やくざシリーズ | 勝新太郎 | 戦争喜劇アクション |
| 1965〜1980 | ガメラシリーズ(昭和) | 湯浅憲明ほか | 『大怪獣ガメラ』から『宇宙怪獣ガメラ』まで全8作 |
| 1966 | 白い巨塔 | 山本薩夫/田宮二郎 | 山崎豊子原作 |
| 1966 | 大魔神三部作 | 安田公義ほか | 『大魔神』『大魔神怒る』『大魔神逆襲』を1年で3本公開 |
| 1966 | 赤い天使 | 増村保造/若尾文子 | 2023年に4K修復 |
| 1996 | Shall we ダンス? | 周防正行/役所広司 | 徳間時代の大ヒット作 |
特筆すべきは1960年代の娯楽シリーズの充実ぶりだ。テレビに観客を奪われていくなか、大映は座頭市・眠狂四郎・悪名・兵隊やくざ・犬といったシリーズを次々と当て、さらに東宝のゴジラに対抗する形でガメラと大魔神という特撮キャラクターを生み出した。とりわけ大魔神三部作は1966年の4月、8月、12月と一年のうちに3本を公開するという驚異的なペースで作られている。
倒産[編集]
1960年代、テレビの普及によって映画人口は急激に減少した。大映もその直撃を受け、看板の市川雷蔵が1969年7月17日に37歳で死去したことは決定的な打撃となった。1970年6月には同じく苦境にあった日活と共同で配給会社「ダイニチ映配」を設立して延命を図ったが、効果は上がらなかった。
1971年に入ると、1月には永田がプロ野球のオーナーを退き、4月には東京・京橋の本社ビルを売却。それでも資金繰りはつかず、11月29日に全従業員の解雇を通告して業務を停止した。12月には不渡りを出し、同月23日に東京地方裁判所から破産宣告を受ける。東京証券取引所の上場も同月28日付で廃止された。永田は大映最後の作品となった『成熟』の試写で人目もはばからず泣いたと伝えられる。
倒産の原因としては、テレビの台頭という業界全体の逆風に加え、永田のワンマン経営と放漫な資金運用が挙げられることが多い。倒産時には怒った従業員が小道具や資料を破壊したという話も残っており、特にガメラ関連の造形物が多く失われたとされる。テレビ部門は1971年に「大映テレビ株式会社」として分社化しており、こちらはテレビドラマ制作会社として独自の道を歩んだ。
徳間時代[編集]
倒産後、労働組合が再建運動を続け、徳間書店の社長・徳間康快がこれを支援する形で、1974年9月に資本金2億円の「大映映画株式会社」が設立された(のちに大映株式会社へ改称)。こうして大映は徳間書店グループの映画会社として再出発する。
徳間康快は「映画は博奕打ちですね。それが根本です」と語ったとされる豪快な経営者で、日中合作の超大作に情熱を注いだ。囲碁を題材にした日中合作『未完の対局』(1982年)、総製作費45億円とされる『敦煌』(1988年)は、中国当局と交渉して人民解放軍の兵士をエキストラに動員したことでも話題になった。1985年にはスタジオジブリの設立にも関わり、宮崎駿作品を長く支えた人物でもある。
徳間時代の大映は、平成ガメラ三部作(『ガメラ 大怪獣空中決戦』1995年、『ガメラ2 レギオン襲来』1996年、『ガメラ3 邪神覚醒』1999年)で特撮ファンを熱狂させ、周防正行監督の『Shall we ダンス?』(1996年)を国内興行収入約27億円とされる大ヒットに導いた。同作は米ミラマックスによって北米公開され、2004年にはハリウッドでリメイクもされている。2001年には黒沢清監督の『回路』を製作し、カンヌ国際映画祭で国際批評家連盟賞を受賞した。
角川への譲渡とその後[編集]
2000年に徳間康快が死去すると、徳間グループはバブル崩壊後の負債処理に追われ、映画事業の売却を決める。2002年、大映の営業権は角川書店に譲渡され、同年11月に「株式会社角川大映映画」が発足した。
2004年4月には角川大映映画がグループ会社との合併を経て「角川映画株式会社」に改称し、「大映」の名は社名から消えた。旧大映東京撮影所も「角川大映撮影所」に改められ、2013年4月には会社分割で「株式会社角川大映スタジオ」として独立した子会社になっている。角川映画株式会社は大映の法的な後継会社ではなく、新設会社に事業が引き継がれたという形だ。その後、角川映画は角川書店との合併を経て、現在はKADOKAWAが旧大映作品のライブラリを管理している。
KADOKAWAは旧大映作品の4Kデジタル修復に力を入れている。大映創立80周年の2023年1月には角川シネマ有楽町で「大映4K映画祭」を開催し、28作品を上映(うち8本は4K版初披露)。市川雷蔵の「剣三部作」や「大菩薩峠」シリーズ、山本富士子の『夜の河』などが新たに修復され、『夜の河』は同年のベルリン国際映画祭でも上映された。
2025年にはガメラ生誕60周年プロジェクトが始動し、『大怪獣ガメラ』『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』の3作を樋口真嗣らの監修で原版ネガから4K修復。11月にUHD Blu-rayが発売され、12月5日からは角川シネマ有楽町ほかで昭和ガメラ全8作を上映する「昭和ガメラ映画祭」が開かれた。2026年7月からはBS10プレミアムで眠狂四郎シリーズ全12作の4か月連続放送が始まるなど、大映の旧作は今もテレビ・劇場・配信で掘り起こされ続けている。
年表[編集]
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1942年1月 | 大日本映画製作株式会社として設立 |
| 1942年7月 | 新興キネマ・大都映画を吸収合併、日活の製作部門を現物出資で継承 |
| 1943年3月 | 菊池寛が社長に就任 |
| 1945年 | 大映株式会社に改称 |
| 1947年 | 永田雅一が社長に就任 |
| 1949年 | 東京証券取引所に上場。プロ野球の金星スターズを買収し大映スターズに |
| 1951年9月 | 『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞 |
| 1953年9月 | 五社協定を締結 |
| 1954年4月 | 『地獄門』がカンヌ国際映画祭でグランプリ |
| 1957年 | フジテレビジョン設立に出資。大映スターズが高橋ユニオンズと合併し大映ユニオンズに |
| 1958年 | 大映ユニオンズと毎日オリオンズが合併し毎日大映オリオンズ(大毎)に |
| 1961年 | 日本初の70ミリ映画『釈迦』公開 |
| 1969年7月 | 市川雷蔵が死去 |
| 1970年6月 | 日活とダイニチ映配を設立 |
| 1971年12月 | 破産、東証上場廃止 |
| 1974年9月 | 徳間書店の支援で大映映画株式会社として再建 |
| 1995年 | 平成ガメラ第1作『ガメラ 大怪獣空中決戦』公開 |
| 1996年 | 『Shall we ダンス?』公開 |
| 2002年11月 | 角川書店への営業譲渡により角川大映映画が発足 |
| 2004年4月 | 角川映画に改称、撮影所は角川大映撮影所に |
| 2013年4月 | 角川大映スタジオが分社化 |
| 2023年1月 | 大映創立80周年「大映4K映画祭」開催 |
| 2025年 | ガメラ生誕60周年、昭和ガメラ4K修復と「昭和ガメラ映画祭」 |
プロ野球と大映[編集]
永田雅一は無類の野球好きで、映画会社社長でありながら球界の大物でもあった。1949年、大映は金星スターズを買収して「大映スターズ」とし、永田がオーナーに就任。この年には外野手の小鶴誠が打率.361で首位打者を獲得している。同年、永田は読売ジャイアンツの正力松太郎らとともにプロ野球の2リーグ分裂に関わり、1950年のプロ野球2リーグ制発足時にはパシフィック・リーグに加盟した。
1957年には高橋ユニオンズを吸収して「大映ユニオンズ」となったが、この年は最下位。1958年には毎日オリオンズと合併して「毎日大映オリオンズ」、通称「大毎オリオンズ」が誕生した。1960年にはリーグ優勝を果たしたものの日本シリーズで敗れ、永田は西本幸雄監督と電話で口論の末に解任したという逸話がある。1962年には私財を投じて東京・南千住に「東京スタジアム」を建設し、「光の球場」と呼ばれた。
しかし本業の悪化に伴い、1971年1月に永田はオーナーを退き、球団はスポンサーだったロッテに引き継がれた。これが現在の千葉ロッテマリーンズである。つまり千葉ロッテの球団史をさかのぼると、大映スターズという「映画会社の球団」に行き着くわけだ。
余談[編集]
- 永田雅一の1951年は「人生最良の年」と言われる。『羅生門』がヴェネツィアで金獅子賞を獲り、愛馬トキノミノルが日本ダービーを制して10戦全勝を記録したからだ。ところがトキノミノルはダービーの直後に破傷風で急死し、「幻の馬」と呼ばれることになった。
- 田宮二郎の芸名は永田雅一の命名で、プロ野球選手の田宮謙次郎にちなんだものとされる。名付け親に解雇され、干されたという皮肉な関係である。
- 永田雅一は倒産後も映画を諦めず、1976年に永田プロダクションを設立して高倉健主演の『君よ憤怒の河を渉れ』をプロデュースした。同作はのちに中国で大ヒットしたことでも知られる。
- 2025年の『大怪獣ガメラ』4K修復を記念したBS12の番組には、同作の主演・船越英二の息子である船越英一郎が出演した。親子二代で同じ作品に関わったことになる。
- 角川大映スタジオのショップには「大魔神社」なる社が鎮座し、御朱印まで頒布されている。怒ると村を踏み潰す魔神を祀ってよいのかはさておき、特撮ファンの聖地巡礼スポットになっている。
- 徳間康快は1997年、企画中の『阿片戦争』でヴィクトリア女王役にダイアナ元妃を起用しようとしたという話がある。実現はしなかったが、「最後の映画博徒」と呼ばれた徳間らしい逸話として語られている。