| 長谷川一夫 はせがわ かずお / Kazuo Hasegawa | |
|---|---|
![]() 長谷川一夫の肖像写真(出典:ウィキメディア・コモンズ「File:Kazuo Hasegawa.jpg」、パブリックドメイン) | |
| 本名 | 長谷川一夫(はせがわ かずお) |
| 誕生日 | 1908年2月27日 |
| 死亡日 | 1984年4月6日 |
| 死亡年齢 | 76歳(数え年77) |
| 出身地 | 京都府紀伊郡堀内村字六地蔵(現・京都市伏見区桃山) |
| 国籍 | 日本 |
| ジャンル | 映画(時代劇・現代劇)、舞台、テレビドラマ |
| 活動期間 | 1913年 - 1983年(子役時代を含む) |
| デビューアルバム | 1927年 映画『稚児の剣法』(林長二郎名義) |
| 家族 | 林成年(長男・俳優)、長谷川季子(長女・女優)、長谷川稀世(次女・女優) |
| 身長 / 体重 | 162cm cm / ― kg |
| 事務所 | 新演伎座(主宰) |
| 代表作 | 『雪之丞変化』(1935年・1963年)、『藤十郎の恋』、『鶴八鶴次郎』、『銭形平次捕物控』シリーズ、『地獄門』、『近松物語』、『忠臣蔵』(1958年)、大河ドラマ『赤穂浪士』 |
| 関連活動 | 東宝歌舞伎主宰、宝塚歌劇『ベルサイユのばら』初演演出 |
| あだ名 | 長さん、眼千両 |
| その他 | 旧芸名:中村一夫、嵐佳寿夫、林長丸、林長二郎/国民栄誉賞(1984年・没後、俳優初)、菊田一夫演劇賞大賞(1981年) |
概要[編集]
長谷川一夫(はせがわ かずお、1908年2月27日 - 1984年4月6日)とは、昭和を代表する時代劇の大スター俳優である。京都・伏見の生まれで、関西歌舞伎の女形から松竹の映画スター「林長二郎」となり、東宝・大映を通じて300本を超える映画に出演した。「流し目」の美男子として半世紀にわたり人気を保ち、晩年は宝塚の『ベルサイユのばら』初演を演出。没後、俳優として初めて国民栄誉賞を受けた。
詳細[編集]
「林長二郎」という社会現象[編集]
長谷川一夫の名前が全国に知れ渡ったのは、本名で活動を始めるよりずっと前、松竹時代の芸名「林長二郎」の頃である。1927年に松竹下加茂撮影所に入社し、『稚児の剣法』で銀幕デビューすると、その美貌で一気に女性ファンの心をつかんだ。デビュー1年目だけで18本もの作品に出演したというから、会社がどれほど売り出しに力を入れたかがわかる。
人気ぶりを示すのが、1928年正月に上京した際のエピソードである。東京駅には主に女性を中心とする約1万人のファンが出迎えに押し寄せたとされる。テレビもインターネットもない時代に、映画俳優ひとりを見るためにこれだけの人が集まったのは、まさに社会現象だった。
ちなみに「ミーハー」という言葉は、この林長二郎のファンを揶揄して生まれたという説がある。「みつまめ」好きと「はやし長二郎」好きの頭文字を合わせた造語、という話で、ミーハーの語源として今もよく紹介される。真偽はともかく、そんな説が生まれるほどのアイドル的存在だったのは間違いない。
1937年の顔切り事件[編集]
長谷川一夫を語る上で避けて通れないのが、1937年(昭和12年)の「顔切り事件」である。この年、長谷川は長年在籍した松竹を離れ、東宝へ移籍した。当時、看板スターの移籍は大問題で、新聞各紙からは「恩知らず」と強い非難を浴びた。
同年11月12日、東宝移籍後の作品『源九郎義経』(渡辺邦男監督)の撮影期間中、長谷川は撮影所から宿舎へ移動する途中で襲われ、左頬を切りつけられる重傷を負った。傷は頬を貫くほど深く、撮影は中止になった。犯人は撮影所に出入りしていた増田三郎という男とその身内で、実際に切りつけたのは身内の男とされる。襲撃は「松竹への恩義を忘れた」ことへの制裁という名目だったと伝えられる。
犯人の発見と出頭の説得には映画監督のマキノ正博が関わり、増田は一週間の猶予を得たのち、実行犯とともに太秦警察署に出頭した。裁判所は「役者の顔は生命」であるとして、実行犯に2年の実刑という当時としては重い判決を下したとされる。捜査の過程では、のちに大映社長となる永田雅一(当時は新興キネマの幹部)が一時検挙されたこともあった。長谷川本人は背後関係の追及を望まないと申し出て、事件は決着した。
親族にあたる俳優・林与一の回想によれば、傷はあと1センチ深ければ再起不能だったといい、長谷川は一時、俳優をやめて助監督や脚本家、踊りの師匠、衣装、床山など裏方の仕事に移ることも考えたという。見舞いにはライバルのスターは来ず、スタッフや大部屋俳優が毎日来てくれたことから、のちに「裏方さんを大事にしろ。彼らがいてこそスターが輝く」と周囲に語っていたとされる。なお2016年の映画『貌斬り KAOKIRI』は、この事件をモチーフにした作品である。
再起と本名への改名[編集]
事件の翌1938年3月、東宝は芸名を本名の「長谷川一夫」に改めることを受理した。師匠筋から授かった「林長二郎」の名を手放しての再出発である。復帰作となった『藤十郎の恋』では、独自に工夫したメイクで顔の傷跡を目立たなくし、二枚目スターの座にあっさり返り咲いた。
林与一の回想では、長谷川は顔を隠して映画館に足を運び、スクリーンに自分のアップが映った瞬間に観客から歓声が上がったのを聞いて、感極まって嗚咽したという。同年には成瀬巳喜男監督の『鶴八鶴次郎』で山田五十鈴と共演し、この二人のコンビは東宝の看板となった。事件で役者生命を絶たれるどころか、かえって人気の幅を広げたわけである。
「眼千両」と呼ばれた芸[編集]
長谷川一夫のトレードマークは、うるんだまなざしの「流し目」である。そのまなざしは「眼千両」と称され、のちには「100万ドルの流し目」とまで言われた。殺陣も、ただ強いだけでなく色気をたたえた立ち回りで、「婀娜(あだ)っぽい」と評された。
脚本家の小国英雄は、斬られたときの「手のアップ」が最もうまい剣戟俳優だったと語っている。また林長二郎時代には、のちに特撮の神様となる円谷英二(当時は撮影技師)とのコンビで、顔に陰影をつけた撮影にも挑戦した。白塗りの歌舞伎風メイクを平板に撮るのが常識だった当時としては新しい試みだった。
林与一によれば、長谷川は大衆演劇まで研究し、着物の裾や袖から腕や脚をのぞかせる色気ある所作を身につけていた。笠で顔を隠してから見せる、殺陣の決めでぴたりと止まって独特の間を取るなど、観客を喜ばせる技法を常に考えていたという。とことん「観客本位」の役者だったのである。
経歴[編集]
生い立ちと歌舞伎時代(1908年 - 1926年)[編集]
1908年、京都府紀伊郡堀内村字六地蔵(現在の京都市伏見区桃山)に生まれる。叔父の長谷川宗太郎が芝居小屋「大手座」を経営していたことから、幼い頃から芝居に親しんだ。1913年、中村鶴之助一座の『菅原伝授手習鑑 寺子屋』で、風邪をひいた子役の代わりに菅秀才を演じたのが初舞台である。
1914年に関西歌舞伎の中村福円に入門して「中村一夫」を名乗り、1917年には福円一座とともに上京して浅草吾妻座に出演、「嵐佳寿夫」と改名した。1918年には関西歌舞伎の大御所・初代中村鴈治郎の門下に入り「林長丸」を名乗る。女形として人気を集め、1926年、大阪松竹座の舞台で松竹の白井松次郎や二代目実川延若にその美貌を見出された。
松竹・林長二郎時代(1927年 - 1937年)[編集]
1927年、松竹下加茂撮影所に入社。師から「林長二郎」の芸名を受け、犬塚稔監督『稚児の剣法』で映画デビューした。同年の『お嬢吉三』で衣笠貞之助監督と初めて組み、以後約50本でコンビを組む。松竹在籍の11年間で出演した作品は約120本にのぼるとされる。
代表作の一つが、1935年から1936年にかけて公開された衣笠監督の『雪之丞変化』(第一篇・第二篇・解決篇の三部構成)である。原作は三上於菟吉の新聞連載小説で、親の敵を討つ女形・雪之丞を主人公とする復讐劇。長谷川はこの作品で3役を演じ分けて大ヒットさせ、人気は頂点に達した。ほかに『鯉名の銀平』(1933年)、『一本刀土俵入り』(1934年)などがある。
東宝時代(1937年 - 1949年)[編集]
1937年に東宝へ移籍し、上述の顔切り事件に遭う。1938年に本名へ改名し、『藤十郎の恋』で復帰。山田五十鈴と共演した『鶴八鶴次郎』(1938年)のほか、李香蘭(山口淑子)と共演した『支那の夜』(1940年)、『婦系図』(1942年)など、時代劇に限らない作品にも出演した。
1942年には山田五十鈴らと劇団「新演伎座」を結成した。小林一三と渋沢栄一の依頼によるものとされるが、ジャーナリズムからは厳しく叩かれたという。1944年には召集されて鳥取の連隊に入隊し、除隊後は終戦まで各地で慰問公演を行った。
戦後、1947年の東宝争議では組合・経営側のどちらにもつかず、大河内傳次郎らと「十人の旗の会」を結成して組合を脱退し、新東宝の設立に参加した。1948年には新演伎座を株式会社化して代表に就任し、『幽霊暁に死す』『小判鮫』などを製作している。
大映時代(1950年 - 1963年)[編集]
1949年、新東宝の『銭形平次捕物控 平次八百八町』で初めて銭形平次を演じ、これが生涯の当たり役となる。1950年には大映京都撮影所に重役として迎えられ、1951年から大映で『銭形平次捕物控』シリーズがスタートした。
大映時代は、まさに長谷川の黄金期である。1953年の衣笠監督『地獄門』は日本初のイーストマン・カラー作品で、京マチ子を相手役に、人妻・袈裟に横恋慕する武士・盛遠を演じた。同作は1954年の第7回カンヌ国際映画祭でグランプリ(最高賞)、第27回アカデミー賞で名誉賞と衣裳デザイン賞を受賞した。ただしこれらは作品に対する賞で、長谷川個人の受賞ではない。
1954年には溝口健二監督の『近松物語』で、香川京子演じるおかみ・おさんと駆け落ちする手代・茂兵衛を演じた。溝口の起用は大映社長・永田雅一の強い要請によるものとされる。同作はキネマ旬報ベスト・テン第5位に選ばれ、のちの「映画人が選ぶオールタイムベスト100」(1999年)でも第49位に入っている。
1958年の大映創立18周年記念作『忠臣蔵』(渡辺邦男監督)では初めて大石内蔵助を演じ、市川雷蔵の浅野内匠頭、勝新太郎の赤垣源蔵、京マチ子、若尾文子、山本富士子ら大映オールスターの中心に立った。1963年、映画出演300本記念作品として市川崑監督が『雪之丞変化』を再映画化し、長谷川は雪之丞と義賊・闇太郎の二役を演じた。同年の『江戸無情』を最後に映画界を退いた。かねて「二枚目を演じるのにふさわしくない年齢になる前に」と、55歳をめどに映画を去る考えを持っていたとされ、ほぼその通りの引き際だった。
舞台・テレビと晩年(1955年 - 1984年)[編集]
映画と並行して、1955年7月からは「東宝歌舞伎」を主宰した。東京宝塚劇場を拠点に、新歌舞伎座、御園座、中日劇場でも公演し、年2回ほどのペースで続けた。六代目中村歌右衛門、十七代目中村勘三郎、二代目中村扇雀らがゲスト出演し、レヴュー『春夏秋冬』なども人気を呼んだ。1981年には東宝歌舞伎で菊田一夫演劇賞大賞を受賞している。
1964年、NHK大河ドラマ第2作『赤穂浪士』(原作・大佛次郎)で大石内蔵助を演じた。討ち入りを描いた第47話は視聴率53.0%を記録し、これは大河ドラマ史上の最高記録として今も破られていない。共演には志村喬、滝沢修、舟木一夫、越路吹雪らがいた。1971年には紅白歌合戦にゲスト出演している。
1974年には宝塚歌劇団の『ベルサイユのばら』初演で、植田紳爾とともに演出を担当した(詳しくは後述)。1983年正月の東宝歌舞伎『半七捕物帳』が最後の舞台となり、同年秋に糖尿病の悪化で入院。1984年、妻・繁を亡くしたのち衰えが進み、4月6日、頭蓋内膿瘍のため東京慈恵会医科大学附属病院で死去した。76歳だった。
主な出演作[編集]
映画出演は300本を超えるため、主要作品のみ挙げる。
| 年 | 作品名 | 監督 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1927 | 稚児の剣法 | 犬塚稔 | 映画デビュー作(林長二郎名義) |
| 1927 | お嬢吉三 | 衣笠貞之助 | 衣笠との初コンビ |
| 1933 | 鯉名の銀平 | 衣笠貞之助 | 松竹 |
| 1934 | 一本刀土俵入り | 衣笠貞之助 | 松竹 |
| 1935 - 1936 | 雪之丞変化(三部作) | 衣笠貞之助 | 3役。人気の頂点 |
| 1938 | 藤十郎の恋 | 山本嘉次郎 | 東宝。顔切り事件後の復帰作 |
| 1938 | 鶴八鶴次郎 | 成瀬巳喜男 | 山田五十鈴と共演 |
| 1940 | 支那の夜 | 伏水修 | 李香蘭と共演 |
| 1942 | 婦系図 | マキノ正博 | 東宝 |
| 1949 | 銭形平次捕物控 平次八百八町 | 丸根賛太郎 | 新東宝。初の銭形平次 |
| 1951 - 1961 | 銭形平次捕物控シリーズ | 森一生ほか | 大映で17本 |
| 1953 | 地獄門 | 衣笠貞之助 | カンヌ国際映画祭グランプリ |
| 1954 | 近松物語 | 溝口健二 | 茂兵衛役 |
| 1956 | 残菊物語 | 島耕二 | 大映 |
| 1958 | 忠臣蔵 | 渡辺邦男 | 大石内蔵助役。大映オールスター |
| 1959 | 四谷怪談 | 三隅研次 | 大映 |
| 1963 | 雪之丞変化 | 市川崑 | 出演300本記念。二役 |
| 1963 | 江戸無情 | 西山正輝 | 最後の映画出演 |
テレビ・舞台[編集]
| 年 | 作品 | 備考 |
|---|---|---|
| 1955 - 1983 | 東宝歌舞伎 | 主宰・主演。1981年菊田一夫演劇賞大賞 |
| 1964 | 大河ドラマ『赤穂浪士』(NHK) | 大石内蔵助役。最高視聴率53.0% |
| 1971 | NHK紅白歌合戦 | ゲスト出演 |
| 1974 | 宝塚歌劇『ベルサイユのばら』 | 演出(植田紳爾と共同) |
| 1982 | クイズダービー | ゲスト出演 |
| 1983 | 東宝歌舞伎『半七捕物帳』 | 最後の舞台 |
銭形平次シリーズ[編集]
野村胡堂の捕物小説『銭形平次捕物控』の主人公・銭形平次は、長谷川一夫の当たり役として知られる。1949年の新東宝作品『平次八百八町』を皮切りに、1951年から1961年まで大映で17本、計18本の映画で平次を演じた。
シリーズのタイトルは『銭形平次』(1951年)、『恋文道中』(1951年)、『地獄の門』(1952年)、『からくり屋敷』『金色の狼』(1953年)、『幽霊大名』(1954年)、『どくろ駕籠』(1955年)、『死美人風呂』『人肌蜘蛛』(1956年)、『まだら蛇』『女狐屋敷』(1957年)、『八人の花嫁』『鬼火燈篭』『雪女の足跡』(1958年)、『美人蜘蛛』(1960年)、『夜のえんま帳』『美人鮫』(1961年)と続く。怪奇味のある副題が多いのが特徴で、時代劇と探偵ものを掛け合わせた娯楽作として親しまれた。
銭形平次は長谷川以外にも多くの俳優が演じており、テレビでは大川橋蔵が長年にわたって演じたシリーズが有名だが、映画における平次像を確立したのは長谷川一夫だといえる。原作は1931年から1957年までの26年間に長短383編が書かれた大河シリーズで、「銭形」の名は建設現場で見た錢高組の看板に由来するとされる。
宝塚『ベルサイユのばら』の演出[編集]
1974年8月29日、宝塚歌劇団月組が宝塚大劇場で池田理代子原作の『ベルサイユのばら』を初演した。脚本は宝塚の植田紳爾で、演出は植田と長谷川一夫の共同である。当時の宝塚は赤字経営で、平日は客席に空席が目立つ状況だったが、本作は連日満員となり、1976年までの上演で約140万人を動員したとされる大ブームを巻き起こした。
長谷川が持ち込んだのは、半世紀にわたって磨いた「見せる」技術だった。たとえば照明の研究。2階席の方へ視線を送ると照明が目に映り込んで瞳がきらめくことに気づき、最も効果的な座席番号まで把握した上で、生徒に「どの席を見るか」まで指示し、2階席の手すりから1階席へ視線を落とすよう指導したという。瞳に照明を映し込んで輝かせる、舞台ならではの演技指導である。
また、若い頃に女形として修業した経験を生かし、男役と娘役それぞれの所作を自ら実演して見せた。「役者が苦労してこそ観客には美しく見える」という考えから、体をひねる姿勢を多用する演技を教えたとされる。これらは「型」として、長谷川の死後も植田紳爾によって受け継がれ、『ベルばら』再演のたびに生かされている。
一方で、こうした演出は当時の批評家から「俗悪だ」と批判されたこともあったと林与一は回想している。しかし観客は熱狂し、『ベルばら』は宝塚を代表する演目となった。1974年には文化庁芸術祭優秀賞、1976年にはシリーズとして菊田一夫演劇賞特別賞を受けている。
人物・エピソード[編集]
- 酒は体質的に飲めず、大の甘党だった。晩年は糖尿病などの持病に悩まされた。
- 最初の妻は師匠・初代中村鴈治郎の次女・林たみで、のちに離婚した。たみのきょうだいが二代目中村鴈治郎で、その娘が中村玉緒であるため、玉緒は長谷川の元妻の姪にあたる。再婚相手は新橋の芸妓だった飯島繁。
- 長男の林成年は俳優、長女の長谷川季子・次女の長谷川稀世はともに女優で、稀世の娘の長谷川かずきも女優になった。
- 1970年代ごろ、妻の繁と赤坂で料亭「賀寿老」を経営していた。
- 映画界に転じた後も歌舞伎界とのつながりを大切にし、同世代の六代目中村歌右衛門や十七代目中村勘三郎と交流を続けた。
- 稲垣浩とは稲垣の助監督時代からの知り合いで、のちに1952年の『風雲千両船』、1953年の『お祭半次郎』で監督と主演として組んだ。
- 『近松物語』の撮影では、溝口健二の「だめです、もう一度」の繰り返しに、長谷川が「監督、どこがだめなんですか。言ってくださいよ」と食い下がったという目撃談が残っている。
- 容色の衰えを自覚してからは、世阿弥の教えにならい、主役を食わずに脇に徹することを心がけていたと林与一は語っている。
- 1984年4月19日、没後に国民栄誉賞が贈られた。授賞理由は「卓越した演技と映画演劇界への貢献」。王貞治、古賀政男に続く3人目の受賞者で、同日に冒険家の植村直己も受賞している。
評価・影響[編集]
「時代劇六大スタア」の一人[編集]
長谷川一夫は、阪東妻三郎・大河内傳次郎・嵐寛寿郎・片岡千恵蔵・市川右太衛門と並ぶ「時代劇六大スタア」の一人に数えられ、その中で最も若かった。剛直な剣戟スターが多い中で、女形出身の柔らかさと色気を武器にした長谷川は異色の存在であり、「美男スター」という型を日本映画に定着させた。
国際的評価への貢献[編集]
主演作『地獄門』がカンヌのグランプリを受け、審査委員長のジャン・コクトーに絶賛されたことで、長谷川は黒澤明の『羅生門』、溝口健二の『雨月物語』と並ぶ、1950年代の日本映画の海外進出の一翼を担った。『近松物語』や市川崑版『雪之丞変化』も海外で高く評価され、後者は英語圏では『An Actor's Revenge』の題で知られている。
大衆の側に立った芸[編集]
長谷川の芸は、批評家受けよりも観客の喜びを優先するものだった。東宝歌舞伎も『ベルばら』も「俗悪」と言われながら大入りを続けた事実が、その姿勢をよく物語っている。没後、俳優として初めて国民栄誉賞を受けたことは、その人気が一時の流行ではなく、半世紀以上にわたって国民的なものだったことの証しといえる。のちに同じく没後に同賞を受けた美空ひばりとともに、昭和の大衆芸能を象徴する存在である。
宝塚への遺産[編集]
宝塚の『ベルばら』は、長谷川が遺した「型」を土台に今も再演され続けている。男役の目線の送り方や体のひねりといった所作は、長谷川の歌舞伎・映画経験がそのまま宝塚の舞台言語に移植されたものであり、その後も『ベルばら』は宝塚の看板演目であり続けている。
炎上とバズ[編集]
1937年の松竹から東宝への移籍は、新聞各紙から「恩知らず」と大きく非難され、昭和初期の芸能界を揺るがす騒動となった。移籍直後に起きた顔切り事件も含め、スターの専属契約や移籍をめぐる当時の映画会社間の激しい対立を象徴する出来事として語られている。また1942年の新演伎座結成もジャーナリズムから厳しく叩かれたとされる。
余談[編集]
- 「ミーハー」の語源は林長二郎ファンだった、という説がある。
- 大河ドラマ『赤穂浪士』の討ち入り回の視聴率53.0%は、大河ドラマ史上の最高記録として今も破られていない。
- 『地獄門』の企画は大映社内で全員反対だったが、永田雅一社長が強引に製作を決めたと伝えられる。結果はカンヌのグランプリである。
- 1963年版『雪之丞変化』は、永田雅一と市川崑が社長室で話しているうちに決まり、永田がその場で長谷川に電話して快諾を得たという話がある。
- 墓所は東京都墨田区の本法寺と、谷中霊園にある。
