| 市川雷蔵(八代目) Raizō Ichikawa | |
|---|---|
![]() 『炎上』(1958年)の市川雷蔵(『近代映画』1958年9月号。出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン) | |
| 本名 | 太田吉哉(出生名:亀崎章雄、旧名:竹内嘉男) |
| 誕生日 | 1931年8月29日 |
| 死亡日 | 1969年7月17日 |
| 死亡年齢 | 37歳 |
| 出身地 | 京都府京都市中京区 |
| 国籍 | 日本 |
| 家族 | 三代目市川九團次(最初の養父)、三代目市川壽海(二人目の養父)、雅子(妻、永田雅一の養女) |
| 身長 | 170cm |
| 学歴 | 大阪府立天王寺中学校 中退 |
| 職業 | 俳優、歌舞伎役者 |
| 肩書 | 大映専属俳優 |
| 活動期間 | 1946年 - 1969年(映画は1954年 - 1969年) |
| 代表的な実績 | 『新・平家物語』『炎上』『眠狂四郎』シリーズ、『忍びの者』シリーズ、『陸軍中野学校』シリーズ、『大菩薩峠』『華岡青洲の妻』『ある殺し屋』 |
| 受賞 | キネマ旬報賞主演男優賞、ブルーリボン賞主演男優賞(『炎上』)ほか |
| 事務所 | 大映 |
| ファンクラブ | 朗雷会(1974年発足) |
| 関連活動 | 勝新太郎とのコンビ「カツライス」 |
| 別名 | 市川莚蔵(三代目、歌舞伎時代) |
| あだ名 | 雷さま、ゴテ雷 |
| その他 | 映画出演約159本 |
概要[編集]
市川雷蔵(いちかわ らいぞう、八代目、1931年8月29日 - 1969年7月17日)とは、日本の歌舞伎役者出身の映画俳優である。大映で勝新太郎と並ぶ二枚看板「カツライス」として時代劇・現代劇の両方で主演を張り、『眠狂四郎』シリーズの円月殺法で一時代を築いた。わずか15年で約159本の映画に出演し、37歳の若さでこの世を去った「夭折の美男スター」である。
詳細[編集]
歌舞伎の家に「もらわれた」少年[編集]
雷蔵は1931年、京都府京都市中京区で生まれた。出生名は亀崎章雄。評伝などによれば、父は陸軍の幹部候補生として奈良に移っており、両親の関係は出産の時点ですでに破綻していたとされる。母は父方の親族との折り合いが悪く、実家で彼を産んだ。
生後6か月で、伯父にあたる歌舞伎役者・三代目市川九團次の養子となり、竹内嘉男と名を改める。本人が自分が養子であると知ったのは16歳のとき、生みの母と対面したのは30代を過ぎてからだったという。のちのスター「雷さま」の出発点は、こうした複雑な家庭事情の中にあった。
関西歌舞伎の若手から八代目雷蔵へ[編集]
1934年に一家は京都から大阪へ移り、雷蔵は大阪府立天王寺中学校に進んだが3年で中退して芸の道へ進む。1946年11月、大阪歌舞伎座で三代目市川莚蔵を名乗って初舞台を踏んだ。戦後の関西歌舞伎では、武智鉄二が若手を鍛えた通称「武智歌舞伎」で研鑽を積み、1949年には若手の勉強会「つくし会」を自ら立ち上げている。
1951年4月、関西歌舞伎の名優・三代目市川壽海の養子となり、八代目市川雷蔵を襲名、同年6月に襲名披露を行った。つまり雷蔵は人生で二度、養子に入っていることになる。しかし関西歌舞伎は当時すでに衰退傾向にあり、門閥外の若手にとって大役を得る機会は限られていた。この閉塞感が、映画界へ転じる大きな動機になったとされる。
大映入社と「長谷川一夫の後継者」[編集]
1954年、雷蔵は大映と専属契約を結んで映画界へ転身した。大映は彼を、同じく歌舞伎出身の大スター長谷川一夫の後継となる二枚目時代劇スターとして売り出そうとした。同年8月25日公開の『花の白虎隊』(田坂勝彦監督)で映画デビュー。この作品には同期入社の勝新太郎も出ており、のちの「カツライス」コンビは初陣から並んでいたわけである。
転機は1955年、溝口健二監督の『新・平家物語』だった。若き日の平清盛を演じ、白塗りの二枚目とは違う骨太な存在感を見せて注目を集める。その後は時代劇の主演を量産する一方、文芸作品にも積極的に挑み、俳優としての幅を広げていった。
『炎上』で演技派の地位を確立[編集]
1958年、三島由紀夫の小説『金閣寺』を市川崑監督が映画化した『炎上』に主演。吃音に悩み、やがて国宝の寺に火を放つ若い修行僧・溝口吾市を演じた。人気時代劇スターがほぼノーメイクで陰鬱な青年を演じることには社内でも慎重論があったとされるが、雷蔵自身が強く出演を望んだという。
結果は大成功で、キネマ旬報主演男優賞、ブルーリボン賞主演男優賞などを受賞し、イタリアの映画誌『シネマ・ヌオーヴォ』の最優秀男優賞も受けた。共演は仲代達矢、新珠三千代、中村玉緒ら。以後の雷蔵は「美剣士」と「演技派」の二つの顔を自在に使い分けるスターとして認知される。
「カツライス」時代と晩年[編集]
1960年代、大映京都撮影所は雷蔵と勝新太郎の二枚看板で回っていた。二人の名を合わせた「カツライス」はポスターなどでも使われ、勝の『座頭市』『悪名』『兵隊やくざ』と、雷蔵の『眠狂四郎』『忍びの者』『陸軍中野学校』が交互に劇場を埋めた。
1962年には大映社長・永田雅一の養女・雅子と結婚し、3人の子をもうけた。しかし映画産業は斜陽に向かい、大映の経営も悪化。雷蔵は作品内容に不満を抱えつつも会社のために年間10本前後の主演を続けたとされる。1968年6月、『関の弥太っぺ』撮影中に下血して入院し、直腸癌と判明。本人には告知されないまま同年8月に手術を受け、いったんは仕事に復帰したが、病は肝臓へ転移していた。1969年2月に再入院、二度目の手術を経て、同年7月17日、転移性肝癌のため37歳で死去した。遺作は1969年2月公開の『博徒一代 血祭り不動』である。
葬儀は7月23日に東京都大田区の池上本門寺で営まれた。戒名は「大雲院雷蔵法眼日浄居士」。墓所はのちに山梨県身延町の久遠寺に移されている。大黒柱を失った大映は2年後の1971年に倒産しており、雷蔵の死は一社の黄金時代の終わりを象徴する出来事としても語られる。
人物像と芸風[編集]
素顔は「地味な銀行員」[編集]
雷蔵の有名な逸話が、スクリーンと素顔の落差である。普段は眼鏡をかけた物静かな青年で、多くの関係者が「地味な銀行員のよう」と評した。撮影所の中ですら、メイク前の彼がスターだと気づかない人がいたという。ところがメイクと衣装をまとうと、妖しい色気をまとった剣士に一変する。この「化ける」能力は歌舞伎で叩き込まれた化粧術と、役を外側から作り込む技術の賜物とされる。
「ゴテ雷」[編集]
台本の段階では内容に納得するまで意見を述べることが多く、「ゴテる雷蔵」から「ゴテ雷」とあだ名された。ただし一度納得すると撮影中には一切不満を言わなかったという。作家の中川右介は、雷蔵が自分自身を第三者の視点で冷静に見つめ、会社と交渉する力を持っていたと評している。デビュー5年目の1959年には、後援会の機関誌に寄せたエッセイで映画の量産体制に疑問を投げかけており、これらの文章は没後『雷蔵、雷蔵を語る』にまとめられた。
弱点を隠したチームワーク[編集]
意外なことに、雷蔵は足腰が弱く、立ち回りには難があったとされる。同志社大学の相撲部に通って鍛えたこともあったが改善しなかったという。大映京都のスタッフはカメラアングルや編集でそれを目立たせないよう工夫しており、あの流麗な殺陣は撮影所総がかりの職人芸でもあった。ポスターでは背中を向けて顔だけ振り返る構図が多いのも雷蔵の特徴として知られる。
勝新太郎・若尾文子との関係[編集]
同じ1931年生まれ、同じ1954年入社の勝新太郎とは、世間ではライバル視されたが、関係者によれば実際は親しい間柄だった。勝の妻となる中村玉緒とは、ともに関西歌舞伎の家に育った縁で幼いころからの知り合いで、映画でも『炎上』『大菩薩峠』『眠狂四郎殺法帖』など多数で共演している。
若尾文子とは『朱雀門』(1957年)を皮切りに6作品で共演した。若尾は2014年の特集上映のトークで、京都・祇園のうどん店に連れて行ってもらったのが親しくなるきっかけで、雷蔵は「もっと早く誘えばよかった」と言ったと振り返っている。素顔の雷蔵は飄々としていて頭がよく、毒舌だが気に入った相手にしか言わない人だったという。
代表的なシリーズ[編集]
眠狂四郎[編集]
柴田錬三郎の剣豪小説を原作とする、雷蔵最大の当たり役。「転び伴天連」と武家の娘の間に生まれた混血の浪人・眠狂四郎が、ニヒルな態度で権力の陰謀や女たちと渡り合い、円月殺法で敵を斬る。1950年代に東宝で鶴田浩二主演の映画化(全3作)があったが、雷蔵版は全12作と最多で、雷蔵の代名詞となった。第4作『女妖剣』で円月殺法の場面に初めてストロボ撮影が使われ、残像が揺らめく演出がシリーズの象徴となる。雷蔵の死後、大映は東映から松方弘樹を迎えて2作を製作したがヒットには至らなかった。
| No. | 題名 | 公開 | 監督 | 主な共演 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 眠狂四郎殺法帖 | 1963年11月 | 田中徳三 | 中村玉緒、城健三朗(若山富三郎) |
| 2 | 眠狂四郎勝負 | 1964年1月 | 三隅研次 | 藤村志保、高田美和、久保菜穂子 |
| 3 | 眠狂四郎円月斬り | 1964年5月 | 安田公義 | |
| 4 | 眠狂四郎女妖剣 | 1964年10月 | 池広一夫 | 藤村志保、春川ますみ |
| 5 | 眠狂四郎炎情剣 | 1965年1月 | 三隅研次 | 中村玉緒、西村晃 |
| 6 | 眠狂四郎魔性剣 | 1965年5月 | 安田公義 | 嵯峨美智子 |
| 7 | 眠狂四郎多情剣 | 1966年3月 | 井上昭 | |
| 8 | 眠狂四郎無頼剣 | 1966年11月 | 三隅研次 | 天地茂 |
| 9 | 眠狂四郎無頼控 魔性の肌 | 1967年7月 | 池広一夫 | 鰐淵晴子、成田三樹夫 |
| 10 | 眠狂四郎女地獄 | 1968年1月 | 田中徳三 | 高田美和、水谷良重、田村高廣 |
| 11 | 眠狂四郎人肌蜘蛛 | 1968年5月 | 安田公義 | 緑魔子 |
| 12 | 眠狂四郎悪女狩り | 1969年1月 | 池広一夫 | 朝丘雪路、松尾嘉代 |
忍びの者[編集]
村山知義の小説を原作に、山本薩夫監督が白黒のリアリズムで描いた忍者映画。忍者を超人ではなく、権力者に使い捨てられる「組織の歯車」として描いた点が画期的で、のちの忍者ブームの火付け役の一つとされる。第1作の大ヒットでシリーズ化され全8作。雷蔵は「私の境遇は忍者の運命に似ている」という趣旨の言葉を残しており、会社に縛られるスターの立場を重ねていたとも読まれる。
| 題名 | 公開 | 監督 | 雷蔵の役 |
|---|---|---|---|
| 忍びの者 | 1962年 | 山本薩夫 | 石川五右衛門 |
| 続・忍びの者 | 1963年 | 山本薩夫 | 石川五右衛門 |
| 新・忍びの者 | 1963年 | 森一生 | 石川五右衛門 |
| 忍びの者 霧隠才蔵 | 1964年 | 田中徳三 | 霧隠才蔵 |
| 忍びの者 続・霧隠才蔵 | 1964年 | 池広一夫 | 霧隠才蔵 |
| 忍びの者 伊賀屋敷 | 1965年 | 森一生 | 才蔵二世 |
| 忍びの者 新・霧隠才蔵 | 1966年 | 森一生 | 霧隠才蔵 |
| 新書・忍びの者 | 1966年 | 池広一夫 | 霞小次郎 |
陸軍中野学校[編集]
実在した陸軍のスパイ養成機関を題材にした現代劇シリーズ。第1作(1966年、増村保造監督)で雷蔵は、本名を捨てて「椎名次郎」としてスパイ教育を受ける青年将校を演じた。時代劇スターの異色作ながら興行的に成功し、全5作が作られた。和製スパイ映画の先駆けとして今も評価が高い。
| 題名 | 公開 | 監督 |
|---|---|---|
| 陸軍中野学校 | 1966年6月 | 増村保造 |
| 陸軍中野学校 雲一号指令 | 1966年9月 | 森一生 |
| 陸軍中野学校 竜三号指令 | 1967年1月 | 田中徳三 |
| 陸軍中野学校 密命 | 1967年6月 | 井上昭 |
| 陸軍中野学校 開戦前夜 | 1968年3月 | 井上昭 |
大菩薩峠と「剣三部作」[編集]
中里介山の大長編を原作とする『大菩薩峠』三部作(1960〜1961年)では、無差別に人を斬る虚無の剣士・机竜之助を演じた。第1作と『竜神の巻』を三隅研次、『完結篇』を森一生が監督し、中村玉緒、山本富士子らが共演している。
また三隅研次監督とは、『斬る』(1962年、柴田錬三郎原作)、『剣』(1964年、三島由紀夫原作の現代劇)、『剣鬼』(1965年、柴田錬三郎原作)の通称「剣三部作」を残した。いずれも剣に生き剣に滅びる孤独な男を描いた作品で、様式美と虚無感が際立つ。三島とは『炎上』『剣』の2本で原作者と主演俳優の関係にあたる。
主な出演作[編集]
| 公開年 | 作品 | 監督 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1954 | 花の白虎隊 | 田坂勝彦 | 映画デビュー作、勝新太郎も出演 |
| 1955 | 新・平家物語 | 溝口健二 | 平清盛役で注目を集める |
| 1957 | 朱雀門 | 森一生 | 若尾文子との初共演 |
| 1958 | 炎上 | 市川崑 | 原作は三島由紀夫『金閣寺』。主演男優賞を多数受賞 |
| 1958 | 弁天小僧 | 伊藤大輔 | 歌舞伎の白浪物を映画化 |
| 1959 | 薄桜記 | 森一生 | 勝新太郎と共演。2019年に4K復元 |
| 1960 | ぼんち | 市川崑 | 山崎豊子原作。若尾文子、京マチ子、山田五十鈴、中村玉緒ら |
| 1960-61 | 大菩薩峠(三部作) | 三隅研次、森一生 | 机竜之助役 |
| 1961 | 新源氏物語 | 森一生 | 光源氏役。2024年に4K修復 |
| 1961 | 好色一代男 | 増村保造 | 井原西鶴原作 |
| 1961 | 沓掛時次郎 | 池広一夫 | 股旅もの |
| 1962 | 破戒 | 市川崑 | 島崎藤村原作 |
| 1962 | 斬る | 三隅研次 | 剣三部作 |
| 1962 | 婦系図 | 三隅研次 | 泉鏡花原作 |
| 1962-66 | 忍びの者シリーズ(8作) | 山本薩夫ほか | |
| 1963-69 | 眠狂四郎シリーズ(12作) | 田中徳三ほか | 最大の当たり役 |
| 1964 | 剣 | 三隅研次 | 三島由紀夫原作の現代劇 |
| 1965 | 剣鬼 | 三隅研次 | 剣三部作 |
| 1966-68 | 陸軍中野学校シリーズ(5作) | 増村保造ほか | |
| 1967 | 華岡青洲の妻 | 増村保造 | 有吉佐和子原作。若尾文子、高峰秀子共演 |
| 1967 | ある殺し屋 | 森一生 | 昼は小料理屋、夜は殺し屋。続編『ある殺し屋の鍵』 |
| 1968 | ひとり狼 | 池広一夫 | 股旅ものの傑作と評される |
| 1969 | 博徒一代 血祭り不動 | 遺作(2月公開) |
『ある殺し屋』の再評価[編集]
1967年の『ある殺し屋』は、昼は小料理屋の主人、夜は金で殺しを請け負う寡黙な男を演じたハードボイルド。成田三樹夫と野川由美子が、雷蔵を出し抜こうとする若い男女を演じる。荒涼とした埋立地や墓場でのクライマックスなど乾いた映像が特徴で、雷蔵が表の顔と殺し屋の顔を演じ分けたことが役に説得力を与えたと評され、近年の特集上映でも人気の高い一本である。
受賞・評価[編集]
| 年 | 賞 | 対象 |
|---|---|---|
| 1958年度 | キネマ旬報賞 主演男優賞 | 『炎上』 |
| 1958年度 | ブルーリボン賞 主演男優賞 | 『炎上』 |
| 1959 | シネマ・ヌオーヴォ誌 最優秀男優賞(イタリア) | 『炎上』 |
| 1964 | 東京都民映画祭 | 『剣』 |
| 1967年度 | NHK映画賞 主演男優賞ほか | 『華岡青洲の妻』 |
| 1969 | 牧野省三賞 |
没後も評価は衰えず、キネマ旬報の「20世紀の映画スター」(2000年)では日本男優部門6位、2014年の「オールタイム・ベスト 日本映画男優」では3位に選ばれている。平凡社の世界大百科事典は、大映の量産娯楽映画が生んだ「最後のスター」と位置づけている。
没後の上映企画とリバイバル[編集]
命日の映画祭とファンクラブ[編集]
没後の1974年にはファンクラブ「朗雷会」が発足し、半世紀を経た現在も活動を続けている。京都市では命日の7月17日前後に「市川雷蔵映画祭」が開かれるのが恒例となっている。
角川シネマの「雷蔵祭」[編集]
大映の作品群は現在KADOKAWAが権利を持っており、同社の「角川シネマコレクション」がほぼ5年おきに大規模な特集上映を組んでいる。雷蔵作品が劇場のスクリーンでまとまって観られる機会は事実上これらの映画祭に限られるため、毎回多くのファンが詰めかける。
| 時期 | 企画名 | 内容 |
|---|---|---|
| 2009〜2011年 | 没後40年特別企画 大雷蔵祭 | 全国巡回 |
| 2014年 | 雷蔵祭 初恋 | 角川シネマ新宿ほか。デジタル化で初期6作品が復活、計47作品。若尾文子がトーク登壇 |
| 2019年8月23日〜9月26日 | 没後50年特別企画 市川雷蔵祭 | 角川シネマ有楽町。約170本から40本を選定。『薄桜記』4Kデジタル復元版(雷蔵時代劇初の4K)、『炎上』4K版、未亡人・雅子の協力によるプライベートフィルム、幻の作品『旅はお色気』(勝新太郎とカメオ出演)を上映 |
| 2023年1月〜 | 大映4K映画祭 | 大映創立80周年。『大菩薩峠』三部作や「剣三部作」が初の4K修復 |
| 2024年12月27日〜2025年 | 市川雷蔵映画祭 刹那のきらめき | 映画デビュー70周年記念。37作品を上映し、『新源氏物語』『華岡青洲の妻』『陸軍中野学校』『眠狂四郎炎情剣』の4K修復版を初披露 |
2024〜2026年の動き[編集]
デビュー70周年にあたる2024年からは、劇場・放送の両面でリバイバルが続いている。「刹那のきらめき」は2024年12月27日に角川シネマ有楽町で始まり、2025年2月からは大阪のシネ・ヌーヴォ、同年5〜6月にはアップリンク京都など全国で順次上映された。4K修復は IMAGICA エンタテインメントメディアサービスが担当し、撮影監督の宮島正弘が色彩を監修。傷やゴミを1コマずつ除去して公開当時の色を再現したという。
テレビでは、2024年11月にBS12 トゥエルビが「剣三部作」(『斬る』『剣』『剣鬼』)の4Kデジタル修復版を3週連続で無料放送し、翌2025年1月からは同局で『眠狂四郎』シリーズも放送された。2024年12月には、KADOKAWAのYouTubeチャンネル「角川シネマコレクション」で主演作『新選組始末記』(1963年)が配信されている。
2026年には、BS10プレミアムが「4ヵ月連続 市川雷蔵『眠狂四郎』シリーズ全12作一挙放送!」を実施し、最終月の7月には全12作をまとめて放送。第5作『炎情剣』は4Kデジタル修復版での放送となった。
配信・ソフト[編集]
主要作はKADOKAWAからBlu-ray・DVDが発売されている。動画配信はU-NEXTやAmazon Prime Videoなどで大映作品が扱われることがあるが、雷蔵作品のラインナップは時期によって入れ替わり、配信されていない作品も多い。視聴前に各サービスで最新の状況を確認するのが確実である。
余談[編集]
- 本名を「太田吉哉」に変えるほど姓名判断に熱中しており、大映の同僚にも改名を勧めていたという。
- 歌舞伎俳優でありながら、映画転身後に歌舞伎の舞台に立ったのは1964年の日生劇場『勧進帳』(武智鉄二演出、富樫役)の1回だけである。
- 晩年には劇団「鏑矢(かぶらや)」の旗揚げを計画し、若尾文子も参加を承諾していたが、病のため実現しなかった。
- 正月にハワイへ行った際、若尾文子に絹のムームーを土産に買ってきたという。若尾が2014年のトークイベントで明かした思い出話である。
- 戦争映画『あゝ海軍』への出演に意欲を見せていたが、実現しなかった。
- 『眠狂四郎』シリーズは雷蔵の死で途切れ、最終作『悪女狩り』の公開からわずか半年後に雷蔵は世を去った。
- 1950〜60年代は大手映画会社が毎週2本ずつ新作を公開する量産時代で、雷蔵も15年で約159本に出演した。単純計算で年10本以上のペースである。
