| 日活株式会社 NIKKATSU CORPORATION | |
|---|---|
![]() 創立100周年を記念して日活撮影所に設置された手型モニュメント(出典:映画.com) | |
| 略称 | 日活 |
| 国家 | 日本 |
| 種類 | 株式会社 |
| 市場情報 | 非上場 |
| 業種 | 情報・通信業(映画製作・配給、映像制作、放送、アニメ事業) |
| 本社所在地 | 東京都文京区本郷 |
| 設立日 | 1912年9月10日 |
| 年齢 | 114周年 |
| 設立者 | 後藤猛太郎(初代社長) |
| 代表者 | 代表取締役会長 佐藤直樹、代表取締役社長 堀達也(2026年7月時点) |
| 資本金 | 1億円 |
| 従業員数 | 約200名 |
| 主要株主 | 日本テレビ放送網(親会社)、スカパーJSAT |
| 主要部門 | 映像事業、メディア事業、次世代事業 |
| 主要子会社 | ジャンゴフィルム、日活スタジオサービス、NKアニメーション |
| 関係する人物 | 堀久作、石原裕次郎、小林旭、鈴木清順、神代辰巳、中村雅哉 |
| 代表作品 | 『幕末太陽傳』『嵐を呼ぶ男』『キューポラのある街』『殺しの烙印』 |
| 別名 | にっかつ(1978年〜1996年) |
| リンク | https://www.nikkatsu.com/ |
概要[編集]
日活(にっかつ)とは、1912年に創立された日本最古の映画会社である。石原裕次郎を看板にした青春・アクション映画の黄金期、17年続いた「日活ロマンポルノ」、倒産と再建を経て、現在は日本テレビ放送網とスカパーJSATを大株主に、映画・アニメ・CS放送・配信を手がける老舗中の老舗である。
詳細[編集]
社名の由来[編集]
1912年、横田商会・吉沢商店・福宝堂・エム・パテー商会という国産活動写真の4社が合併して誕生したのが始まりである。最初の社名は「日本活動フィルム株式會社」だったが、株式市場でこれが「活フイ」(=活動がフイになる)と縮められてしまい、初代社長の後藤猛太郎が縁起を担いで同年9月10日に「日本活動冩眞株式會社」へ改称したとされる。その略称が「日活」で、以後100年以上この2文字が看板になっている。
現在の公式な設立日もこの改称日である1912年9月10日で、2012年には創立100周年、2022年には110周年を迎えた。「日本で映画が作られてから100年以上にわたって映画を作り続けている会社」というのが公式サイトの自己紹介であり、製作・配給してきた作品は7,000本を超えるとされる。
現在の会社のかたち[編集]
2026年7月時点の会社概要では、資本金は1億円、従業員は約200名、決算期は3月。代表取締役会長は佐藤直樹、代表取締役社長は堀達也である。ちなみに黄金期の社長も同じ「堀」姓の堀久作だったのは、ちょっとした偶然である。
事業は大きく3本柱で、映画・ドラマの企画製作や配給、アニメのプロデュース、版権ライセンス、撮影所の運営を担う「映像事業」、CS放送のチャンネルNECOやレインボーチャンネルを運営する「メディア事業」、バーチャルプロダクションや映像制作管理システムといったDXを扱う「次世代事業」に分かれている。本社は東京都文京区本郷に置かれている。
株主と業績[編集]
筆頭株主は日本テレビ放送網で、2位がスカパーJSAT。日活はこの2社の持分法適用関連会社という位置づけで、英語版の資料では日本テレビ系が約35%、スカパーJSATが約28%を持つとされる。非上場企業なので株を買うことはできない。
業績は決して楽ではなく、2025年3月期は最終損失10億6700万円の赤字だった。しかし2026年3月期(第176期)は最終利益3400万円を計上し、黒字転換したと報じられている。決算期が「第176期」と数字だけ見ても、この会社の年季がうかがえる。
歴史[編集]
サイレント時代と時代劇[編集]
創業翌年の1913年、東京・向島に日活向島撮影所を開設。1914年には『カチューシャ』(トルストイの『復活』の映画化)が大ヒットし、劇中歌「カチューシャの唄」も流行した。一方、京都では「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助を看板にした時代劇が量産され、日活は大正期の娯楽の王者となった。向島撮影所は1923年の関東大震災で被災して閉鎖され、その後は京都の大将軍撮影所、太秦撮影所が拠点となる。
1926年に松之助が亡くなった後も、京都では伊藤大輔や山中貞雄らが活躍した。1935年の『丹下左膳餘話 百萬両の壺』は今も名作として上映され続けている。また、のちに大映を興す永田雅一も、もともとは日活の社員だった。
戦時統合と配給専業時代[編集]
戦時中の1942年、国策による映画会社の統合で、日活の製作部門は新会社の大映へ移された。日活は自前で映画を作らない「映画館チェーン」の会社となり、太秦の撮影所も大映京都撮影所になってしまう。戦後の1945年には大映から直営館29館を譲り受けて映画館は90館に。同年11月、社名を「日活株式会社」に改めた。
製作再開と五社協定[編集]
1954年、社長の堀久作のもとで製作を再開する。拠点は東京都調布市に新築した撮影所で、ハリウッドのワーナー・ブラザースのスタジオを参考に造られ、「東洋一のスタジオ」と誇った。再開第1作は『国定忠治』。
ただし当時の映画界は松竹・東宝・大映・新東宝・東映が「五社協定」を結び、俳優や監督の引き抜きを封じていた。新参の日活はスターを揃えるのに大苦戦。そこで新人の発掘と育成に舵を切ったことが、結果的に次の黄金期を生むことになる。
太陽族と裕次郎旋風[編集]
1956年、石原慎太郎の芥川賞作品を映画化した『太陽の季節』に、作者の弟・石原裕次郎が端役で出演した。裕次郎は東宝・大映・日活のオーディションにすべて落ちていたが、プロデューサーの水の江瀧子と兄の推薦で起用されたのである。同年の『狂った果実』で主演と歌手デビューを果たし、1957年の『俺は待ってるぜ』『嵐を呼ぶ男』で人気は頂点に達した。
裕次郎の登場で日活は一気に若者の映画会社となり、1957年には川島雄三の『幕末太陽傳』も公開。同作は後に創立100周年記念としてデジタル修復版が作られている。
無国籍アクションの時代[編集]
1950年代末から1960年代にかけて、日活は「ダイヤモンドライン」と呼ばれるスター陣を売り出した。裕次郎に加え、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治らが並び、のちに宍戸錠や二谷英明も加わる。
この時期の日活アクションは、日本なのにどこか外国の港町のような舞台で、ギターを背負った流れ者が酒場で歌い、拳銃で悪漢を倒すという独特の作風で、「無国籍アクション」と呼ばれた。代表格は小林旭の「渡り鳥シリーズ」で、リアリティより格好良さ優先のノリは今見ても強烈。監督では鈴木清順、舛田利雄、野村孝らが知られ、ヒロインには浅丘ルリ子や松原智恵子らがいた。
純愛路線と作家の映画[編集]
アクションと並んで、吉永小百合と浜田光夫のコンビによる青春映画も大人気だった。1962年の『キューポラのある街』は吉永の代表作で、1963年の『伊豆の踊子』も今なお配信で観られる。浜田光夫や高橋英樹らの「日活グリーンライン」も売り出された。
一方で、今村昌平の『豚と軍艦』(1961年)『にっぽん昆虫記』(1963年)のような骨太の作家映画も生まれた。1967年には日活唯一の怪獣映画『大巨獣ガッパ』も作られている。1968年には三船敏郎と石原裕次郎が製作に関わった『黒部の太陽』が日活配給で公開され、大ヒットした。
テレビの時代と迷走[編集]
しかし1960年代に入るとテレビが急速に普及し、映画館の客は減っていく。後期には渡哲也らの「日活ニューアクション」も試みられたが、経営の悪化は止まらなかった。1970年には同じく苦境の大映と配給部門を統合した「ダイニチ映配」を設立したものの、翌1971年に解消。同年6月には長く会社を率いた堀久作が社長を退き、息子の堀雅彦が後を継いだ。
日活ロマンポルノ[編集]
成人映画路線への転換[編集]
経営危機の中で日活が選んだのが、低予算で製作でき興行も読める成人映画路線だった。1971年11月、『団地妻 昼下りの情事』と『色暦大奥秘話』の2本で「日活ロマンポルノ」がスタートする。この路線転換に反発して、多くのスターや監督が日活を去った。
当時、成人映画といえば独立プロのピンク映画が主流だったが、ロマンポルノは大手の撮影所・スタッフ・機材を使って作られたのが大きな違いである。低予算ながら、映像の質も俳優陣も一般映画に引けを取らないと評された。
ルールさえ守れば自由[編集]
ロマンポルノには「上映時間はおよそ70分」「10分に1回程度は濡れ場を入れる」といった決まりがあったとされる。逆に言えば、それさえ守れば題材も演出もかなり自由で、監督の作家性が前面に出た作品が多く生まれた。
批評家から高く評価されたのが神代辰巳、田中登、小沼勝、曾根中生らで、のちに一般映画で活躍する根岸吉太郎、金子修介、石井隆らもここから巣立った。相米慎二の『ラブホテル』や森田芳光の作品も、ロマンポルノの枠で作られている。女優では白川和子、谷ナオミ、宮下順子、美保純らが看板として知られる。
摘発と裁判[編集]
1972年には、警察が日活のロマンポルノ作品4本を摘発し、製作者らが起訴される事件が起きた。「芸術かわいせつか」を争ったこの裁判は長期化したが、1980年に東京高裁で無罪判決が出て確定している。表現の自由をめぐる映画史上の重要な裁判の一つである。
社名「にっかつ」とロッポニカ[編集]
1978年には債務超過による上場廃止の危機に陥ったが、増資などで乗り切り、社名をひらがなの「株式会社にっかつ」に変更した。1979年には撮影所の北半分がマンション用地として売却され、名物だったオープンセット「日活銀座」も姿を消した。
1988年5月28日公開の『ベッド・パートナー』などを最後に、17年続いたロマンポルノは幕を下ろす。同年、上映館を「ロッポニカ」と改めて一般映画の製作・配給を再開したが、この試みは半年ほどで終わった。製作された作品は約1,100本にのぼるとされる。
リブートと50周年[編集]
2016年、ロマンポルノは45周年を機に「ロマンポルノ・リブート・プロジェクト」として復活した。行定勲(『ジムノペディに乱れる』)、塩田明彦(『風に濡れた女』)、白石和彌、園子温、中田秀夫の5監督が、「総尺80分前後」「撮影期間1週間」など同じ製作条件で新作を撮るという企画で、映画ファンの間で大きな話題となった。
2022年には50周年記念の「ROMAN PORNO NOW」が始動し、松居大悟の『手』、白石晃士の『愛してる!』、金子修介の『百合の雨音』が公開された。現代の多様な生き方や女性の姿を描くことが掲げられており、往年のロマンポルノとはまた違う顔を見せている。
倒産と再建[編集]
会社更生法[編集]
1989年にはケーブルテレビ向けの会社を設立し、翌1990年2月にはCS放送「チャンネルNECO」の前身となる放送も始めるなど多角化を進めたが、本業の不振は覆せなかった。1993年、にっかつは会社更生法の適用を申請し、事実上倒産する。これに先立つ1989年には撮影所で火災が起き、死者も出ていた。
ナムコ時代からインデックスへ[編集]
救いの手を差し伸べたのは、ゲーム会社ナムコの中村雅哉会長だった。1996年に更生計画が認可されると資本金を100%減資して再出発し、中村が社長に就任。1997年には社名を漢字の「日活株式会社」に戻した。
2005年にはインデックス・ホールディングスのグループに入り、同年に佐藤直樹が社長に就任。2009年には日本テレビが株式の34%を取得して持分法適用会社とし、その後スカパーJSATも株主に加わって、現在の体制へとつながっている。同じ2009年には製作会社のジャンゴフィルムを完全子会社化し、映画館の運営は東京テアトルに委託した。
再建後の作品[編集]
再建後の日活は、自社単独よりも製作委員会への出資や配給で存在感を示すようになる。2008年の『百万円と苦虫女』、2009年に松竹と共同配給した実写版『ヤッターマン』、2011年の園子温監督『冷たい熱帯魚』、2013年の白石和彌監督『凶悪』などが知られる。『GANTZ』や『君に届け』『DEATH NOTE』シリーズの実写映画にも出資者として関わった。
2010年には、日本映画初の「海外公開専用」をうたうジャンル映画レーベル「SUSHI TYPHOON」を立ち上げ、『エイリアンVSニンジャ』などの低予算B級アクションを世界の映画祭に送り出した。2016年にはゲームレーベルも作っている。2014年には中華圏映画を配給する「ゴールデン・アジア」レーベルの第1弾として『西遊記〜はじまりのはじまり〜』を配給した。
日活撮影所[編集]
現存する唯一の「日活」スタジオ[編集]
東京都調布市にある日活調布撮影所は、日活の名を冠したスタジオとして現存する唯一のものである。1953年に着工し、1954〜1955年に段階的に完成。全面稼働時は約9万9千平方メートル、13ステージを誇ったが、1979年と2014年の用地売却で縮小し、現在は約4万5千平方メートル・5スタジオとなっている。2012年に現在の名称「日活調布撮影所」に改められた。
かつて日活が持っていた多摩川撮影所は、現在の角川大映スタジオとして残っている。日本映画の撮影所の系譜をたどると、あちこちで日活の名前に行き当たるのである。
人を育てる場所[編集]
撮影所の敷地では1975年から2013年まで専門学校「日活芸術学院」が運営され、多くの映画人を輩出した。同学院の事業はその後城西国際大学に譲渡されている。また2019年には撮影スタジオやポスプロ設備の予約サイト「match85(マッチバコ)」の運用も始めた。
バーチャルプロダクション[編集]
2020年には、巨大なLEDスクリーンに背景を映して撮影する「バーチャルプロダクション」のスタジオを開設し、子会社のバーチャル・ライン・スタジオを設立した。100年以上続く会社が最新の撮影技術にいち早く飛びついているのは面白いところで、現在もこれが「次世代事業」の柱になっている。
アニメ・放送・配信[編集]
アニメ事業への参入[編集]
2021年4月、日活は映像事業部内にアニメ事業部を設立し、本格的にアニメ事業へ参入した。これ以前から『乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった…』『神達に拾われた男』『カノジョも彼女』などのアニメに関わってきたとされる。
2025年3月3日には、アニメの企画・製作・宣伝を担う100%子会社「NKアニメーション」(資本金5,000万円)の設立を発表した。同年10月からは日活の発表により、TVアニメ『忍者と極道』が日本テレビで、『友達の妹が俺にだけウザい』がテレビ朝日系「NUMAnimation」枠とBS11で放送された。親会社格の日本テレビとの連携もうかがえる。
CS放送[編集]
日活は1990年に始まったCS放送「チャンネルNECO」と、成人向けのレインボーチャンネルを運営している。チャンネルNECOはスカパー!やケーブルテレビで視聴でき、日活の旧作映画や時代劇、オリジナル番組などを放送している。配信サービス「MEN'S NECO」も展開している。
日活プラス[編集]
2023年11月29日、Amazonプライム・ビデオの有料チャンネル「Amazonチャンネル」に「日活プラス」を開設した。月額390円で、裕次郎の『嵐を呼ぶ男』、吉永小百合の『伊豆の踊子』、渡哲也の『無頼』シリーズ、高橋英樹の『男の紋章』シリーズなど300本以上の旧作を配信。ロマンポルノの名作や、鈴木清順の初期作品もラインナップされている。
2022年には110周年とロマンポルノ50周年を記念して、当時のGYAO!で関連作品106本の無料配信も行った。7,000本を超える膨大なアーカイブを、配信時代にどう生かすかが現在の日活の大きなテーマである。
主な人物とエピソード[編集]
鈴木清順解雇事件[編集]
1967年の『殺しの烙印』は、宍戸錠主演のハードボイルドだが、あまりに斬新な演出に社長の堀久作が「わけのわからない映画」と激怒したとされる。翌1968年、鈴木清順は日活から解雇され、これに抗議する映画人や学生の運動が起きた。いわゆる「鈴木清順問題」である。
皮肉なことに、同作は後に世界的なカルト映画となり、4K修復版がヴェネツィア国際映画祭でアジア映画として初めて最優秀復元映画賞を受賞した。会社が怒った映画が、半世紀後に会社の誇りになったわけである。
赤木圭一郎の悲劇[編集]
「トニー」の愛称で人気を集め、和製ジェームズ・ディーンとも呼ばれた赤木圭一郎は、1961年、撮影所内でゴーカートを運転中の事故により21歳で亡くなった。デビューからわずか数年での死は大きな衝撃を与え、今も日活アクションを語るうえで欠かせない存在となっている。
石原プロとの関係[編集]
石原裕次郎は1963年に石原プロモーションを設立し、第1回作品『太平洋ひとりぼっち』(市川崑監督)は日活配給で公開された。日活での最後の出演作は1970年の『富士山頂』とされ、以降は石原プロ作品が中心となる。日活の黄金期と裕次郎は、まさに一心同体だったといえる。
余談[編集]
- 社名を「日本活動フィルム」から変えた理由が「活フイ(活動がフイになる)」という略称を嫌ったからというのは、日活史の定番トリビアである。
- 2012年の100周年では、日活撮影所に吉永小百合や三國連太郎ら64人の手型を並べたモニュメントが設置された。裕次郎の手型は本多劇場に展示されていたものの複製だという。除幕式で宍戸錠は撮影所での長い日々を懐かしそうに語った。
- 1975年に村上覚、1979年に根本悌二が社長に就いたが、根本はもともと労働組合の委員長出身だったとされ、映画会社の社長としては異色の経歴である。
- 『大巨獣ガッパ』は日活が作った唯一の怪獣映画とされ、他社が怪獣ブームに沸く中での一発勝負だった。
- ロマンポルノ出身監督の顔ぶれを見ると、のちに一般映画で賞をとる監督がずらりと並ぶ。「日本映画の人材育成機関だった」と評されることもある。
- 2012年の100周年特集上映「日活映画 100年の青春」の応援団長はテリー伊藤が務めた。
