| 山本富士子 やまもと ふじこ / Fujiko Yamamoto | |
|---|---|
![]() 1950年4月27日、ミス日本の頃(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン) | |
| 本名 | 山本富士子 |
| 誕生日 | 1931年12月11日 |
| 年齢 | 94歳 |
| 出身地 | 大阪府大阪市西区 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 京都府立第一高等女学校(1949年卒業) |
| ジャンル | 映画、舞台、テレビドラマ |
| 活動期間 | 1953年 - |
| デビューアルバム | 1953年 映画『花の講道館』 |
| 家族 | 夫・山本丈晴(ギタリスト・作曲家、1962年結婚、2011年死去) |
| 身長 / 体重 | 159 cm / ― kg |
| 代表作 | 『婦系図 湯島の白梅』、『夜の河』、『夜の蝶』、『彼岸花』、『白鷺』、『濹東綺譚』、『黒い十人の女』、『私は二歳』、舞台『湯島の白梅』『春琴抄』 |
| 関連活動 | 第1回ミス日本(1950年) |
| あだ名 | お富士さん |
| その他 | ブルーリボン賞主演女優賞(1958年度、『彼岸花』『白鷺』)、キネマ旬報賞主演女優賞(1960年度、『濹東綺譚』『女経』) |
概要[編集]
山本富士子(やまもと ふじこ、1931年12月11日 - )とは、大阪府大阪市出身の女優である。1950年に第1回ミス日本に選ばれ、1953年に大映へ入社。『夜の河』『彼岸花』『白鷺』などで「日本一の美人女優」と呼ばれる看板スターになった。1963年に大映と決裂して映画界から事実上締め出されたが、以後はテレビと舞台で主演を張り続けた。1963年を最後に映画には一度も出ていない。
詳細[編集]
初代ミス日本、満場一致の「日本一の美人」[編集]
1950年、読売新聞社などが主催した第1回ミス日本コンテストで、山本はミス京都として東京・目黒雅叙園の本選に出場し、優勝した。応募者は全国で約700人とされ、審査は振り袖と洋服の両方で行われ、審査員の前で一人ずつ質問に答える面接もあった。結果は満場一致だったという。当時19歳。
もともと芸能界志望ではなかった。応募をすすめたのは、京都市役所の広報課にいた父の友人である。このコンテストは、戦後のアメリカ合衆国から届いた救援物資への答礼使節を選ぶという趣旨も持っていて、山本はその点に心を動かされて引き受けたとされる。翌1951年6月、日本の親善使節として渡米。出発前に吉田茂首相に挨拶し、歌舞伎座で歓送会が開かれ、全米12都市をおよそ2か月かけて回った。「ミス日本」はその後も続くミスコンテストの代名詞になったが、その初代が山本である。
大映の看板女優、そして小津安二郎の『彼岸花』[編集]
1953年に大映へ入社し、長谷川一夫の相手役に選ばれた『花の講道館』でデビューした。入社1年目から10本の映画に出演するという、現在では考えられない量産ぶりで、1954年の『金色夜叉』(お宮役)では初めてカラー映画に主演している。1955年の『婦系図 湯島の白梅』のお蔦役で人気を決定づけ、京マチ子・若尾文子とともに「大映の三大女優」と並び称されるようになった。
1956年の『夜の河』(吉村公三郎監督)では、京都の染物屋の娘・舟木きわを演じた。妻のある大学教授に想いを寄せる女性の恋を、染め物の色彩を生かしたカラー映像で描いた作品で、キネマ旬報ベスト・テン第2位に入った。1958年には、松竹の小津安二郎監督の『彼岸花』に大映から貸し出される形で出演。京都の旅館の娘・佐々木幸子を演じ、京言葉でまくしたてる明るい演技が評判になった。同じ年の衣笠貞之助監督『白鷺』(泉鏡花原作)とあわせて、ブルーリボン賞主演女優賞を受けている。『白鷺』はカンヌ国際映画祭で特別表彰を受けた作品でもある。
1953年から1963年までの約10年間で出演した映画は100本を超える。時代劇のお姫様や芸者から、市川崑監督の『黒い十人の女』(1961年)のようなモダンな作品、母親役を演じた『私は二歳』(1962年、キネマ旬報ベスト・テン第1位)まで、その幅は広い。東宝系の豊田四郎監督作『濹東綺譚』(1960年)のお雪役などで、キネマ旬報賞主演女優賞も獲得した。
1963年、「自分の立場は自分で守る」[編集]
人気の頂点にあった1963年1月、山本は大映との契約更改で、前年と同じ「大映で年2本、他社で年2本」という条件を求めた。前年に結婚し、年に10本も撮り続ける生活では家庭と両立できないと考えたためである。しかし大映側はこれを受け入れず、山本は1月末の契約切れを待ってフリーを宣言した。
大映社長の永田雅一は激怒して山本を解雇し、大手映画会社が結んでいた「五社協定」を盾に、他社や独立プロダクションの映画にも出られないよう働きかけたとされる。山本の自伝的連載によれば、決まっていた仕事が次々と白紙になり、東宝で予定されていた菊田一夫脚本・演出の舞台も中止に追い込まれた。菊田が記者会見で頭を下げたとき、山本は涙が止まらず化粧室に駆け込んだという。
それでも同年2月28日、帝国ホテルでの記者会見で、山本は「映画に出られなくなっても、自分の立場は自分で守る」という趣旨の発言をし、周囲から出た「詫びを入れるべきだ」という声には応じなかった。この一件は国会でも取り上げられ、世間からは大映側に「人権蹂躙」との批判も出た。五社協定の圧力は舞台にも及んだとされるが、当時急成長していたテレビまでは抑えきれなかった。こうして山本は、映画スターからテレビと舞台の女優へと活動の場を移すことになる。
映画に戻らなかった大女優[編集]
その後、五社協定の力が弱まってからも、山本は映画に復帰しなかった。1983年には市川崑監督から、自身も1959年版に出演した『細雪』のリメイクへの出演を打診されたが断っている。この話は1999年にNHKの番組で本人が明かした。1963年の『雪之丞変化』『憂愁平野』を最後に、映画の出演歴は止まったままである。
映画界から離れた代わりに、1969年からは東京・明治座の正月公演を中心に、毎年のように舞台の座長を務めた。『湯島の白梅』『春琴抄』『静御前』など、かつて映画で演じた役や文芸作品を舞台で再び演じ、テレビでも『山本富士子アワー』などの冠番組を持った。映画を捨てたというより、映画に戻らないまま女優であり続けた、というのが山本のキャリアの特徴といえる。
経歴[編集]
1931年 - 1952年:大阪から京都へ[編集]
1931年12月11日、大阪市西区立売堀に生まれる。母は船場の綿花問屋の長女だった。少女時代は日本舞踊を習っている。戦後、自宅が進駐軍に接収されたため転居し、大阪府立の高等女学校から京都府立第一高等女学校へ転入、1949年に卒業した。
このころ家にあった着物を接収で失った経験から、「女性も手に職を持つべきだ」と考えるようになったとされる。日本銀行の採用試験を受けたものの不合格になり、のちに関係者が「美貌が理由で採用を見送った」と明かしたという逸話も残る。1950年に第1回ミス日本に選ばれ、1951年に親善使節として渡米した。
1953年 - 1957年:大映入社とスターへの道[編集]
1953年、大映に入社し『花の講道館』でデビュー。同年は『丹下左膳』『浅草物語』『銭形平次捕物控 金色の狼』など計10本に出演した。1954年には『金色夜叉』で初のカラー作品に主演、同年の『月よりの使者』では高原の療養所で患者たちから「月よりの使者」と慕われる看護婦を演じた。
1955年の『婦系図 湯島の白梅』(衣笠貞之助監督)でお蔦を演じ、人気女優の地位を確立。1956年には『夜の河』『日本橋』『新・平家物語 義仲をめぐる三人の女』などに出演した。1957年は吉村公三郎監督の『夜の蝶』で京マチ子と銀座のバーのマダム同士の対決を演じ、『源氏物語 浮舟』では浮舟を演じている。
1958年 - 1962年:『彼岸花』『白鷺』と黄金期[編集]
1958年は代表作が集中した年である。増村保造監督の『氷壁』、オールスター大作『忠臣蔵』(瑤泉院役)、小津安二郎の『彼岸花』、衣笠貞之助の『白鷺』に出演し、ブルーリボン賞主演女優賞を受けた。『彼岸花』は小津にとって初のカラー作品で、原節子が小津作品で見せたのとはまた違う、華やかで快活なヒロイン像を見せた。
1959年は谷崎潤一郎原作の『細雪』で三女の雪子を演じたほか、『暗夜行路』『歌麿をめぐる五人の女』などに出演。1960年は『濹東綺譚』『女経』でキネマ旬報賞主演女優賞を受賞し、『大菩薩峠』『白子屋駒子』にも主演した。1961年は市川崑の『黒い十人の女』、五所平之助の『猟銃』、『釈迦』などに出演。1962年には作曲家・ギタリストの山本丈晴と結婚し、同年の『私は二歳』では幼い子を育てる母親を演じた。
1963年:大映退社と五社協定[編集]
1963年1月、契約更改をめぐって大映と対立し、契約満了後にフリーを宣言。永田雅一社長により解雇され、五社協定によって映画界から事実上締め出された。この年公開の市川崑監督『雪之丞変化』(お初役)と、豊田四郎監督『憂愁平野』が最後の映画出演作となった。2月28日の帝国ホテルでの会見は、昭和の芸能史に残る「スターの独立騒動」として今も語られる。
1964年 - 1980年代:テレビと明治座[編集]
1964年から1965年にかけてはフジテレビ系のドラマ枠で『山本富士子アワー』に主演し、樋口一葉原作の『にごりえ』などを演じた。1964年には舞台で松本幸四郎と共演している。1967年には日本テレビ系の金曜劇場『山本冨士子のおけいちゃん』、1968年から1970年にかけてはフジテレビ系の土曜劇場で『雪やこんこん』『夕焼けこやけ』『明日天気にしておくれ』に出演した。1972年にはNHKの銀河ドラマで『夜の河』をテレビ版として演じ直し、1974年にはNET(現・テレビ朝日)で『白鷺』にも主演した。1980年にはテレビ朝日の『砂の影』に出演している。
舞台では1969年1月の明治座『夜の河』を皮切りに、1970年『千姫御殿』、1971年『吉野太夫』、1972年『静御前』、1976年『お市の方』、1980年『湯島の白梅』、1982年『春琴抄』と、ほぼ毎年1月に明治座で主演公演を行った。私生活では1968年に長男が誕生している。
1990年代 - 2010年代:舞台一筋[編集]
1990年代も『春琴抄』(1990年)、『湯島の白梅』(1994年)、『春雪の唄』(1995年)、『静御前』(1997年)と明治座で主演を続けた。2001年には明治座で『明治おんな橋』に主演。2002年12月には日本経済新聞の連載「私の履歴書」を執筆し、ミス日本から大映退社までの経緯を本人の言葉で振り返った。2006年から2007年にかけては、野口雨情をテーマにした舞台『日本の心、雨情のこころ』にも出演している。
2011年9月7日、夫の山本丈晴が亡くなった。同年11月に開かれたお別れの会では喪主を務めている。同月にはテレビ朝日系の『ワイド!スクランブル』にも出演した。
2020年代:卒寿と4K修復[編集]
2021年12月に90歳(卒寿)を迎えた。これに合わせて東京・池袋の名画座・新文芸坐では同年夏に山本富士子の特集上映が組まれ、「大映三大女優」のうち京マチ子が亡くなり、若尾文子と山本が健在であることにも触れて長寿を祝った。2022年には大映80周年を記念した「大映4K映画祭」でも山本の主演作が上映された。
2023年2月、第73回ベルリン国際映画祭のクラシック部門で『夜の河』の4Kデジタル修復版が上映された。同部門で上映された日本映画は本作のみだった。同年6月からは、関西を中心に高齢者住宅を展開するスーパー・コートのテレビCMにイメージキャラクターとして出演し、メッセージを本人の声で届けている。CM出演によって「施設に入居しているのでは」という噂も流れたが、これはあくまでイメージキャラクターとしての起用である。
2025年 - 2026年:94歳、名作は今もスクリーンに[編集]
2025年12月に94歳を迎えた。2025年から2026年にかけて、本人が新作に出演したり公の場に登場したりしたという大きな報道は確認できないが、訃報も出ておらず、2026年10月時点で存命である。
一方、出演作は今も映画館で上映され続けている。2026年5月1日からは、角川映画誕生50周年を記念した「角川映画祭」が角川シネマ有楽町をメイン館に全国で順次開かれ、旧大映作品の権利を受け継いだKADOKAWAのラインナップから、山本が出演した市川崑監督の『黒い十人の女』(1961年)が4K版で初上映された。同じ2026年の春には、東京・神保町の名画座・神保町シアターでも『夜の河』が上映されている。2026年12月には95歳の誕生日を迎える。
主な出演作[編集]
映画[編集]
- 1953年『花の講道館』(お光) - デビュー作、長谷川一夫の相手役
- 1953年『丹下左膳』(お艶)
- 1953年『浅草物語』(弓子)
- 1954年『金色夜叉』(宮) - 初のカラー映画主演
- 1954年『月よりの使者』(野々宮道子)
- 1955年『川のある下町の話』(井上民子)
- 1955年『婦系図 湯島の白梅』(お蔦) - 衣笠貞之助監督
- 1956年『新・平家物語 義仲をめぐる三人の女』(山吹)
- 1956年『夜の河』(舟木きわ) - 吉村公三郎監督、キネマ旬報ベスト・テン第2位
- 1956年『日本橋』(滝の家清葉)
- 1957年『源氏物語 浮舟』(浮舟)
- 1957年『夜の蝶』(おきく) - 京マチ子と共演
- 1957年『鳴門秘帖』(猪谷よね)
- 1958年『氷壁』(八代美那子) - 増村保造監督
- 1958年『忠臣蔵』(瑤泉院)
- 1958年『彼岸花』(佐々木幸子) - 小津安二郎監督、松竹作品、キネマ旬報ベスト・テン第3位
- 1958年『白鷺』(お篠) - 衣笠貞之助監督、泉鏡花原作
- 1959年『細雪』(雪子)
- 1959年『暗夜行路』(直子)
- 1959年『歌麿をめぐる五人の女』(小はん)
- 1960年『千姫御殿』(千姫)
- 1960年『女経』(土砂爪子)
- 1960年『濹東綺譚』(お雪) - 豊田四郎監督
- 1960年『白子屋駒子』(白子屋駒子)
- 1960年『大菩薩峠』(お松)
- 1961年『猟銃』(多木彩子) - 五所平之助監督
- 1961年『黒い十人の女』(風双葉) - 市川崑監督
- 1961年『お琴と佐助』(お琴)
- 1961年『釈迦』(ウシャマ)
- 1962年『如何なる星の下に』(美佐子)
- 1962年『秦・始皇帝』(朱貴児)
- 1962年『私は二歳』(小川千代) - 市川崑監督、キネマ旬報ベスト・テン第1位
- 1963年『雪之丞変化』(お初) - 市川崑監督
- 1963年『憂愁平野』(納所亜紀) - 最後の映画出演作
テレビドラマ[編集]
- 1964年 - 1965年『山本富士子アワー』(フジテレビ) - 『にごりえ』『おさん茂兵衛』など
- 1967年『山本冨士子のおけいちゃん』(日本テレビ)
- 1968年『雪やこんこん』(フジテレビ)
- 1969年『夕焼けこやけ』(フジテレビ)
- 1970年『明日天気にしておくれ』(フジテレビ)
- 1971年『女身』(NET)
- 1972年『夜の河』(NHK銀河ドラマ)
- 1973年『暗闇の丑松』(NET)
- 1974年『白鷺』(NET)
- 1975年『鎌倉はるなつ』(フジテレビ)
- 1979年『時雨の記』(読売テレビ)
- 1980年『砂の影』(テレビ朝日)
舞台(主に明治座)[編集]
- 1969年『夜の河』(1986年に再演)
- 1970年『千姫御殿』
- 1971年『吉野太夫』
- 1972年『静御前』(1981年、1997年に再演)
- 1973年『遊女梅川』
- 1974年『徳川の夫人たち』
- 1975年『八百屋お七 恋の曼陀羅』
- 1976年『お市の方』
- 1979年『まひる野』
- 1980年『湯島の白梅』(1984年、1994年に再演)
- 1982年『春琴抄』(1990年に再演)
- 1985年『お吟さま』
- 1987年『春雪の唄』(1995年に再演)
- 1993年『鶴来屋おゆう』
- 2001年『明治おんな橋』
- 2006年 - 2007年『日本の心、雨情のこころ』
CM[編集]
- スーパー・コート(2023年 - ) - イメージキャラクター
受賞歴[編集]
- 1950年 第1回ミス日本
- 1958年度 ブルーリボン賞 主演女優賞(『彼岸花』『白鷺』)
- 1960年度 キネマ旬報賞 主演女優賞(『濹東綺譚』『女経』)
キネマ旬報ベスト・テンに入った出演作には、『私は二歳』(第1位)、『夜の河』(第2位)、『彼岸花』(第3位)、『黒い十人の女』(第10位)がある。
大映と五社協定[編集]
五社協定は、1953年に松竹・東宝・大映・新東宝・東映の大手5社が結んだ取り決めで、専属の監督や俳優の引き抜きを禁じ、各社が専属俳優を他社に貸し出すことも制限するものだった。のちに日活も加わり、一時は六社協定となった。スターの移籍や独立を事実上封じる仕組みとして機能し、協定に逆らった俳優が映画に出られなくなる例がいくつもあった。
山本の場合、問題になったのは「他社出演の本数」だった。大映専属のまま『彼岸花』(松竹)や『濹東綺譚』(東宝系)など他社作品にも出ていた山本は、結婚後に出演本数を抑えつつ他社作品にも出られる条件を求めたが、大映はこれを認めなかった。フリー宣言は、トップスターが会社の専属契約から自由になろうとした例として注目を集め、国会でも取り上げられる騒ぎになった。
この騒動は結果的に、映画会社がテレビという新しいメディアを支配できないことも浮き彫りにした。映画界から締め出された山本がすぐにテレビの冠ドラマで主演できたのは、テレビ局が五社協定の外にあったからである。1960年代は映画の観客数が急減していく時期にあたり、大映自体も1971年に倒産する。山本の独立は、映画会社がスターを囲い込んでいた時代の終わり方を象徴する出来事のひとつとして語られている。
人物[編集]
- 夫・山本丈晴:作曲家・古賀政男の門下のギタリストで、古賀邸でのレコード録音のレッスンを通じて知り合った。両家は結婚に大反対で、丈晴は結核を患っており、「手術が成功したら結婚する」という約束があったという。山本は『彼岸花』の撮影中に手術成功の電話を受けて泣いたと語っている。山本家に男兄弟がいなかったため、丈晴は婿養子となって「山本」姓を名乗った。そのため山本は結婚後も本名のまま「山本富士子」である。
- 仕事上の名コンビ:結婚後の舞台やテレビの音楽は夫の丈晴が作曲することが多く、本人は「仕事上も最も長いコンビ」と振り返っている。
- 三島由紀夫の評:映画化作品で関わった三島由紀夫は、山本について外見だけでなく内面も含めて素晴らしい女性だと評したという。
- 京都育ちの大阪生まれ:生まれは大阪の立売堀だが、学生時代を京都で過ごし、ミス日本にもミス京都として出場した。『彼岸花』『夜の河』と、代表作には京都の女性を演じたものも多い。
- 大映の三大女優:京マチ子、若尾文子と並ぶ大映の看板女優とされる。妖艶な京、現代的な若尾に対し、山本は和服の似合う正統派の日本美人というイメージを担った。映画史家の中には、山本の顔立ちを「高貴」と評し、時代劇でこそ映える古典的な美の象徴と位置づける人もいる。
余談[編集]
- 林檎の品種「ふじ」の名前は、育成された青森県藤崎町の地名や富士山とあわせて、育成者の一人が山本富士子のファンだったことにもちなむ、という説がある。
- 「とんでもございません」という言い回しを広めた人物の一人とされることがある。
- 1967年の日本テレビのドラマ『山本冨士子のおけいちゃん』は、タイトルでは「富」ではなく「冨」の字が使われている。
- デビューした1953年だけで10本、1958年だけで15本の映画に出演している。年に10本以上という当時の大映の撮影ペースが、結婚後に出演本数を減らしたいと考えた背景にあった。
- 1958年の『彼岸花』は、小津安二郎にとって初のカラー作品であり、山本にとっては数少ない他社出演作のひとつでもある。小津の代表作『東京物語』の原節子と並び、小津作品のヒロインとして名前が挙がることが多い。
- 主演作『夜の河』は、公開から67年後の2023年にベルリン国際映画祭で上映された。
