| 黒澤明 くろさわ あきら / Akira Kurosawa | |
|---|---|
![]() 1953年、『七人の侍』撮影現場にて(出典:ウィキメディア・コモンズ、PD) | |
| 本名 | 黒澤明 |
| 誕生日 | 1910年3月23日 |
| 死亡日 | 1998年9月6日 |
| 死亡年齢 | 88歳 |
| 出身地 | 東京府荏原郡大井町(現・東京都品川区) |
| 国籍 | 日本 |
| 家族 | 妻:矢口陽子(女優)、長男:黒澤久雄(プロデューサー)、長女:黒澤和子(衣裳デザイナー) |
| 学歴 | 京華中学校卒業、川端画学校・同舟舎洋画研究所で絵を学ぶ |
| 職業 | 映画監督 |
| 肩書 | 映画監督、脚本家 |
| 代表的な実績 | 監督作30本。『羅生門』『生きる』『七人の侍』『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』『赤ひげ』『影武者』『乱』『夢』『まあだだよ』 |
| 受賞 | ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞(『羅生門』)、カンヌ国際映画祭パルム・ドール(『影武者』)、アカデミー外国語映画賞(『デルス・ウザーラ』)、アカデミー名誉賞(1990年)、文化勲章(1985年)、国民栄誉賞(1998年、没後) |
| 事務所 | 黒澤プロダクション |
| 関連活動 | 脚本家(他監督作品への脚本提供多数) |
| 別名 | 黒澤天皇、世界のクロサワ |
| その他 | 三船敏郎とのコンビ作は16本 |
概要[編集]
黒澤明(くろさわ あきら、1910年3月23日 - 1998年9月6日)とは、日本の映画監督・脚本家である。『羅生門』で日本映画を初めて世界に知らしめ、『七人の侍』『用心棒』などのダイナミックな娯楽活劇で、ハリウッドを含む世界中の映画人に影響を与えた。完璧主義ぶりから「黒澤天皇」と呼ばれ、海外では今も「クロサワ」の名で通じる、日本映画史上もっとも有名な監督である。
詳細[編集]
なぜ「世界のクロサワ」なのか[編集]
黒澤明が特別扱いされる理由は、ひとことで言えば「日本映画の入口」をつくった人だからである。1951年、『羅生門』がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲得するまで、欧米の映画ファンにとって日本映画はほぼ未知の存在だった。この受賞をきっかけに、溝口健二や小津安二郎らの作品も海外で次々と「発見」されていく。
しかも黒澤の作品は芸術映画の枠にとどまらない。侍が野武士と戦う『七人の侍』、流れ者の浪人が宿場町のやくざを手玉に取る『用心棒』、誘拐犯を追うサスペンス『天国と地獄』と、筋立てがシンプルで面白い。言葉や文化の壁を越えて「とにかく面白い」と伝わる娯楽性が、世界中で真似され、リメイクされ続ける理由である。
黒澤映画の見どころ[編集]
黒澤映画の特徴としてよく挙げられるのが、雨・風・泥といった自然の使い方である。『羅生門』の土砂降りは、雨粒が画面に映るよう水に墨汁を混ぜて降らせたという逸話があり、『七人の侍』のクライマックスの雨中の合戦は今も合戦シーンの手本とされる。
撮影技術の面でも先駆者だった。1949年の『野良犬』で望遠レンズを本格的に使い、『七人の侍』では複数のカメラで同じ場面を同時に撮るマルチカメラ方式を導入、『生きものの記録』で全面的に採用した。役者はどのカメラが自分を撮っているか分からないため、芝居が自然になるという狙いがあったとされる。『用心棒』『椿三十郎』では、斬られたときの効果音と血しぶきを強調した殺陣を見せ、以後の時代劇のチャンバラ表現を大きく変えた。
画家志望だった監督[編集]
黒澤はもともと画家志望で、若いころには油絵『静物』が二科展に入選している。監督になってからもこの才能は生き続け、後期の『影武者』『乱』『夢』では、自ら描いた色鮮やかな絵コンテが撮影の設計図になった。『影武者』の資金集めが難航していた時期には、映画が撮れなくても絵で残そうと膨大な数の絵コンテを描いたと語られている。
この絵コンテはのちに画集として出版され、展覧会も各地で開かれている。1997年にはカルピスのCMとして、黒澤の絵コンテをもとにしたCGアニメーション「初恋」も制作された。
経歴[編集]
1910年 - 1942年:画家志望から助監督へ[編集]
1910年、東京府荏原郡大井町(現在の品川区)に、8人きょうだいの末っ子として生まれた。父は旧士族の体育教師で、映画好きの家庭だったという。京華中学校を卒業後、東京美術学校(現・東京藝術大学)の受験に失敗し、川端画学校などで絵を学びながらプロレタリア美術運動にも関わった。
青年期の黒澤に大きな影響を与えたのが、4歳上の兄・丙午である。丙午は「須田貞明」の名で無声映画の活動弁士として人気を得ていたが、トーキーの普及で職を失い、1933年に自ら命を絶った。黒澤はこの兄を通じて多くの映画や文学に触れたと自伝で振り返っている。
1936年、新聞広告を見てP.C.L.映画製作所(のちの東宝)の助監督試験を受けて入社。山本嘉次郎監督の下で助監督としての修業を積み、脚本も次々と書いた。同期の助監督仲間には、のちに『ゴジラ』を撮る本多猪四郎もいて、2人は生涯の友人となる。
1943年 - 1950年:デビューと三船敏郎との出会い[編集]
1943年、富田常雄の小説を原作とした柔道映画『姿三四郎』で監督デビュー。戦時中の作品ながら娯楽活劇として評判を呼んだ。1945年には、出演作『一番美しく』の主演女優・矢口陽子と結婚している。
戦後の1946年には原節子主演の『わが青春に悔なし』を発表。1948年の『醉いどれ天使』で、東宝のニューフェイス出身の若手・三船敏郎を起用し、以後長いコンビが始まる。この年には東宝争議が起き、黒澤は東宝を離れて仲間と映画芸術協会を結成。他社で『静かなる決闘』『野良犬』『醜聞』などを撮った。
1950年 - 1965年:黄金期[編集]
1950年、大映で撮った『羅生門』が翌1951年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、黒澤の名は一気に世界へ広がった。原作は芥川龍之介の短編「藪の中」と「羅生門」である。1951年には松竹でドストエフスキー原作の『白痴』を撮った。
東宝に戻ってからは、1952年の『生きる』、1954年の『七人の侍』、1957年の『蜘蛛巣城』と傑作を連発。1958年の『隠し砦の三悪人』は大ヒットし、のちに『スターウォーズ』の元ネタのひとつとなる。1959年には黒澤プロダクションを設立し、『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』と、娯楽作の大ヒットを重ねた。1965年の『赤ひげ』は約2年がかりの大作で、これが三船との最後のコンビ作になった。
1966年 - 1979年:ハリウッドの挫折とソ連での復活[編集]
『赤ひげ』の後、黒澤は活躍の場を海外に求める。しかし米国の『暴走機関車』は企画が流れ、20世紀フォックスの日米合作『トラ・トラ・トラ!』では撮影開始後まもなく1968年12月に監督を降板。表向きは健康上の理由とされたが、撮影方針をめぐる対立があったとされる。
1969年に木下惠介・市川崑・小林正樹と「四騎の会」を結成し、1970年に初のカラー作品『どですかでん』を発表したが興行的に失敗。翌1971年12月には自殺未遂を起こし、世間に衝撃を与えた。復活の舞台となったのはソ連で、1975年、ソ連との合作『デルス・ウザーラ』を完成させ、アカデミー外国語映画賞を受賞した。
1980年 - 1993年:巨匠の晩年[編集]
1980年の『影武者』は、黒澤を敬愛するジョージ・ルーカスとフランシス・フォード・コッポラが海外版のプロデューサーとして協力し、20世紀フォックスが海外配給を引き受けて実現した。カンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞し、興行的にも大成功を収めている。1985年にはシェイクスピアの『リア王』を戦国時代に置き換えた『乱』を発表し、同年、映画人として初めて文化勲章を受章した。
1990年の『夢』は、黒澤自身が見た夢をもとにした8話のオムニバスで、スティーヴン・スピルバーグの協力を得てワーナー・ブラザースが配給した。同年3月には第62回アカデミー賞で名誉賞を受けている。その後『八月の狂詩曲』(1991年)を経て、1993年、内田百閒をモデルにした『まあだだよ』が遺作となった。
1995年 - 1998年:骨折と死去[編集]
1995年3月、次回作『雨あがる』の脚本を執筆中に京都の旅館で転倒して骨折し、以後は車椅子での生活となった。1997年12月には三船敏郎が死去し、翌年の葬儀では黒澤の弔辞を長男・久雄が代読している。
1998年9月6日、脳卒中のため88歳で死去した。同年10月、映画監督として初めて国民栄誉賞を贈られている。遺された脚本は弟子筋の監督たちによって映画化され、小泉堯史監督の『雨あがる』(2000年)、市川崑監督の『どら平太』(2000年)、熊井啓監督の『海は見ていた』(2002年)が公開された。
主な監督作品[編集]
代表作[編集]
| 公開年 | 作品名 | 主な出演 | ポイント |
|---|---|---|---|
| 1950年 | 羅生門 | 三船敏郎、京マチ子、森雅之、志村喬 | 1つの殺人事件を、証言者ごとに食い違う視点で描く。ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞。撮影は宮川一夫 |
| 1952年 | 生きる | 志村喬 | 胃がんで余命わずかと知った市役所の課長が、小さな公園づくりに残りの命を燃やす。2022年に英国でリメイク |
| 1954年 | 七人の侍 | 志村喬、三船敏郎、木村功、宮口精二 | 野武士に狙われた農村が7人の侍を雇う。上映時間207分の大作。後の「チームもの」の原型 |
| 1961年 | 用心棒 | 三船敏郎、仲代達矢、東野英治郎 | 2つのやくざ一家が争う宿場町に流れ者の浪人が現れ、両者を潰し合わせる。『荒野の用心棒』の元ネタ |
| 1962年 | 椿三十郎 | 三船敏郎、仲代達矢、加山雄三 | 『用心棒』の続編的作品。ラストの一騎打ちで噴き出す血しぶきは映画史に残る名場面 |
| 1963年 | 天国と地獄 | 三船敏郎、仲代達矢、山崎努 | エド・マクベインの小説が原作の誘拐サスペンス。白黒映画の中で一か所だけ色が付く演出が有名 |
| 1965年 | 赤ひげ | 三船敏郎、加山雄三 | 山本周五郎原作。江戸の小石川養生所を舞台にした医師の物語。三船との最後のコンビ作 |
| 1980年 | 影武者 | 仲代達矢 | 武田信玄の影武者となった盗人の物語。カンヌ国際映画祭パルム・ドール |
| 1985年 | 乱 | 仲代達矢、寺尾聰、根津甚八、原田美枝子 | 『リア王』を翻案した戦国絵巻。音楽は武満徹。ワダエミがアカデミー衣装デザイン賞 |
| 1990年 | 夢 | 寺尾聰、倍賞美津子、マーティン・スコセッシ | 「日照り雨」「鴉」など8話のオムニバス。スコセッシがゴッホ役で出演 |
| 1993年 | まあだだよ | 松村達雄、香川京子、所ジョージ | 作家・内田百閒と教え子たちの交流を描いた遺作 |
全監督作品一覧[編集]
- 1943年『姿三四郎』(デビュー作)
- 1944年『一番美しく』
- 1945年『續姿三四郎』
- 1945年『虎の尾を踏む男達』(GHQの検閲で公開は1952年)
- 1946年『わが青春に悔なし』
- 1947年『素晴らしき日曜日』
- 1948年『醉いどれ天使』(三船敏郎と初コンビ)
- 1949年『静かなる決闘』『野良犬』
- 1950年『醜聞』『羅生門』
- 1951年『白痴』
- 1952年『生きる』
- 1954年『七人の侍』
- 1955年『生きものの記録』
- 1957年『蜘蛛巣城』『どん底』
- 1958年『隠し砦の三悪人』
- 1960年『悪い奴ほどよく眠る』
- 1961年『用心棒』
- 1962年『椿三十郎』
- 1963年『天国と地獄』
- 1965年『赤ひげ』
- 1970年『どですかでん』(初のカラー作品)
- 1975年『デルス・ウザーラ』
- 1980年『影武者』
- 1985年『乱』
- 1990年『夢』
- 1991年『八月の狂詩曲』
- 1993年『まあだだよ』(遺作)
監督作は全30本。なお『生きる』だけは三船敏郎が出演していない、というのは黒澤ファンの定番トリビアである(1948年から1965年までの作品に限った話)。
三船敏郎との名コンビと決別[編集]
「獣」を見出した監督[編集]
三船敏郎は、東宝ニューフェイスの試験で、カメラマン志望だったのに「笑ってください」と言われて「おかしくもないのに笑えません」と答えた、という逸話で知られる。審査は不評だったが、たまたま会場をのぞいた黒澤がその野性的な迫力に目を留め、強く推したとされる。
1948年の『醉いどれ天使』でヤクザ役に起用して以来、2人は『羅生門』『七人の侍』『用心棒』『天国と地獄』など16本でコンビを組んだ。黒澤は三船について、猛獣使いになった気分だった、という趣旨の言葉を残している。三船の芝居にはほとんど注文をつけず、自由に動かせたという。世界中で「クロサワ・ミフネ」はセットで語られ、海外の映画人には2人をまとめて敬愛する人が多い。
『赤ひげ』での別れ[編集]
蜜月は1965年の『赤ひげ』で終わる。撮影に約2年を要し、三船は役作りの髭を伸ばしたまま他の仕事を受けられなかった。三船は当時、自らのプロダクションを抱えており、長期の拘束は経営に響いたとされる。これ以降、2人が組むことは二度となかった。
決別の理由についてはさまざまな噂が流れたが、長男の黒澤久雄は不仲説を否定している。日本映画界そのものが斜陽期に入り、2人とも独立プロの経営者として別々の道を歩まざるを得なかった、という見方が有力である。
晩年の再会[編集]
2人は長く顔を合わせなかったが、1993年に親友・本多猪四郎の葬儀の場で再会し、言葉を交わしたという話が伝わっている。1997年12月24日に三船が77歳で亡くなると、黒澤は弔辞を寄せ、骨折で車椅子生活だった黒澤に代わって長男の久雄が読み上げた。黒澤が亡くなったのは、そのわずか9か月後のことである。
「黒澤天皇」の逸話[編集]
完璧主義の伝説[編集]
黒澤は撮影現場で絶対的な権限を持ち、妥協を許さない姿勢から、マスコミに「黒澤天皇」と呼ばれた。その完璧主義ぶりを伝える逸話は数多い。
- 『羅生門』の瓦 - 巨大な羅生門のオープンセットには、年号を刻んだ瓦が約4000枚使われたとされる。
- 『赤ひげ』の引き出し - 画面に映らない薬棚の引き出しの中まで本物の薬を入れ、セットの柱や器にも使い込んだ風合いを付けたという。
- 『蜘蛛巣城』の矢 - クライマックスで三船敏郎演じる武将に無数の矢が射かけられる場面は、本物の矢を使って撮影された。矢を射たのは弓の名手たちで、三船は本気で怖がったと伝えられている。
- 『天国と地獄』の民家 - 列車からの撮影で邪魔になる民家の2階部分を、住人と交渉して撤去してもらったという有名な話がある。
- 『乱』の城 - 富士山麓に本物の城を建て、それを燃やして落城の場面を撮った。
「待ち」の現場[編集]
デビュー間もない仲代達矢は、『七人の侍』で通行人の浪人役に起用されたが、歩き方が気に入らないと黒澤に言われ、セリフもない数秒の場面に朝9時から午後3時ごろまで何度もやり直しをさせられた。仲代は2016年の4Kデジタルリマスター版の上映イベントで、この経験から「歩き方」の大切さを学んだと振り返っている。
天候待ちも日常茶飯事だった。理想の雲が出るまで何日も撮影を待つこともあり、スクリプター(記録係)を長く務めた野上照代は、その日々を描いた回想記『天気待ち』を著している。
勝新太郎の降板[編集]
『影武者』では当初、勝新太郎が主演に決まっていた。しかし撮影初日、勝が自分の演技を確認するためにビデオカメラを持ち込んだことなどをめぐって黒澤と衝突し、勝は降板した。代役に起用されたのが仲代達矢で、仲代は武田信玄と影武者の二役を演じている。この降板劇は当時の芸能ニュースをにぎわせた。
黒澤組[編集]
黒澤作品を支えた固定スタッフ・俳優陣は「黒澤組」と呼ばれる。脚本は黒澤が一人で書くことは少なく、橋本忍・小国英雄らと旅館にこもって共同で書き上げるのが定番だった。複数の書き手が同じ場面を書き、出来の良いものを選ぶ方式だったとされる。
スタッフでは、美術の村木与四郎、撮影の中井朝一・斎藤孝雄、音楽の早坂文雄(『七人の侍』まで)と佐藤勝、記録の野上照代らが長年支えた。助監督仲間だった本多猪四郎は、晩年の『影武者』から『まあだだよ』まで演出補佐として黒澤の傍らにいた。
俳優では三船敏郎のほか、『生きる』『七人の侍』の志村喬、千秋実、藤原釜足、加東大介、土屋嘉男らが常連。後期は仲代達矢、寺尾聰が中心となった。黒澤の長女・黒澤和子は『夢』以降の作品で衣裳を担当し、現在も衣裳デザイナーとして活躍している。
海外への影響[編集]
スター・ウォーズと「隠し砦」[編集]
黒澤の影響を最も分かりやすく受けた作品が『スターウォーズ』である。ジョージ・ルーカスは、1977年の第1作で、身分を隠した姫と凸凹コンビの道中を描いた『隠し砦の三悪人』を参考にしたことを認めており、ドロイドのR2-D2とC-3POは、同作の百姓・太平と又七がモデルとされる。ジェダイの衣装や殺陣にも時代劇の影響が指摘されている。
2025年4月に千葉で開かれた「スター・ウォーズ セレブレーション ジャパン」では、来日した製作陣が日本文化への傾倒を語る場面もあり、黒澤から始まった日本と『スター・ウォーズ』の縁は今も続いている。
西部劇からアクション映画まで[編集]
黒澤作品のリメイク・翻案は数え切れない。
- 『七人の侍』 → 『荒野の七人』(1960年、ジョン・スタージェス監督)、『マグニフィセント・セブン』(2016年)
- 『用心棒』 → 『荒野の用心棒』(1964年、セルジオ・レオーネ監督、クリント・イーストウッド主演)、『ラストマン・スタンディング』(1996年)
- 『羅生門』 → 『暴行』(1964年)
- 『天国と地獄』 → 『天国と地獄 Highest 2 Lowest』(2025年、スパイク・リー監督)
- 『生きる』 → 『生きる LIVING』(2022年、英国)
『荒野の用心棒』は無断で『用心棒』の筋書きを使っていたため、黒澤側が抗議し、最終的に日本などでの配給権や興行収入の一部を得る形で決着したとされる。また『七人の侍』の「仲間集め→特訓→決戦」という構成は、アクション映画やアニメ、ゲームの定番フォーマットになった。Netflixで配信されたザック・スナイダー監督の『REBEL MOON』(2023年 - 2024年)も、『七人の侍』に着想を得た作品である。
巨匠たちの「黒澤愛」[編集]
黒澤を師と仰ぐ海外の監督は多い。ルーカスとコッポラは『影武者』の製作に協力し、スピルバーグは『夢』の実現を後押しした。マーティン・スコセッシは『夢』にゴッホ役で出演している。国内でも宮崎駿が黒澤を敬愛しており、1993年には2人の対談が行われ、のちに書籍化された。
受賞歴[編集]
アカデミー賞[編集]
- 1952年 - 名誉賞(『羅生門』、外国語映画として。のちの外国語映画賞の前身)
- 1976年 - 外国語映画賞(『デルス・ウザーラ』、ソ連代表作品として)
- 1986年 - 監督賞ノミネート(『乱』。同作は衣装デザイン賞を受賞)
- 1990年 - 名誉賞
1990年3月の第62回アカデミー賞授賞式で、黒澤は名誉賞を受けた。プレゼンターはジョージ・ルーカスとスティーヴン・スピルバーグという、黒澤を敬愛する2人だった。壇上の黒澤は、自分はまだ映画が分かっていない、これからも映画を作り続けたい、という趣旨のスピーチをして、会場の大きな拍手を浴びた。当時79歳である。
その他の主な受賞・栄誉[編集]
- 1951年 - ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞(『羅生門』)
- 1980年 - カンヌ国際映画祭 パルム・ドール(『影武者』)
- 1985年 - 文化勲章(映画人として初)
- 1998年 - 国民栄誉賞(没後、映画監督として初)
2020年代の再評価:4K修復とリメイク[編集]
4K修復版の公開[編集]
黒澤作品は、デジタル修復によって何度も「新作」のようによみがえっている。日本では2016年、『七人の侍』の4Kデジタルリマスター版が「午前十時の映画祭7」で全国55館で上映された。2022年には東宝の創立90周年を記念して国立映画アーカイブで開かれた特集上映でも、4Kデジタル復元版の『七人の侍』がインターミッション付きで上映されている。
海外では、公開70周年の2024年7月から、北米で『七人の侍』の4K修復版が劇場公開され、同年11月にはクライテリオン・コレクションから4K UHD版が発売された。2025年10月と2026年2月には、ニューヨーク近郊の映画館で修復版を集めた黒澤特集が組まれ、『用心棒』『椿三十郎』『乱』の4K版などが上映されている。
『生きる LIVING』とスパイク・リー版『天国と地獄』[編集]
2022年の英国映画『生きる LIVING』は、『生きる』の舞台を1953年のロンドンに移したリメイクである。監督はオリヴァー・ハーマナス、脚本はノーベル文学賞作家のカズオ・イシグロ、主演はビル・ナイ。第95回アカデミー賞で主演男優賞と脚色賞にノミネートされ、日本では2023年3月31日に公開された。『生きる』は舞台化もされており、2018年初演のミュージカル版は市村正親らの主演で2023年に再演されている。
2025年には、スパイク・リー監督、デンゼル・ワシントン主演の『天国と地獄 Highest 2 Lowest』が登場した。舞台を現代のニューヨークの音楽業界に置き換えたもので、北米で2025年8月15日に劇場公開されたあと、9月5日からApple TV+で世界配信された。日本でも同日から配信されている。
国内での影響[編集]
国内でも黒澤へのオマージュは続いている。2024年に大ヒットした自主映画『侍タイムスリッパー』は、クライマックスの「間」が黒澤明へのオマージュであると監督が明かしている。同年の三谷幸喜監督『スオミの話をしよう』にも、『天国と地獄』をモチーフにした場面がある。
2025年 - 2026年の上映・配信状況[編集]
劇場での上映[編集]
2026年4月から2027年3月まで全国68館で開催中の「午前十時の映画祭16」では、ラインナップ25作品の中に『用心棒』と『椿三十郎』が入っており、名画座以外でも大スクリーンで黒澤作品を見られる機会がある。各作品はおおむね2週間ずつの上映で、上映時期は劇場によって異なる。
2025年5月にはBS12で『荒野の七人』シリーズ5作が一挙放送されるなど、黒澤の「子孫」にあたる作品の放送も続いている。なお2012年には、WOWOWで黒澤の監督作全30本がハイビジョン放送されたこともある。
書籍・グッズ[編集]
2025年8月には、黒澤の監督作全30本のポスターを収めた『黒澤明 オリジナル映画ポスター・コレクション』(トゥーヴァージンズ)が発売された。黒澤プロダクションと東宝の全面協力による「世界初」の全作品ポスター集で、価格は2万5300円という豪華本である。
2026年5月には、黒澤和子の3人の息子、つまり黒澤明の孫たちがアパレルブランド「黒澤衣裳」を立ち上げた。PORTER CLASSICとのコラボで、黒澤が実際に着ていた服の生地を裂き織りに使った脚本カバー「AKIRA KUROSAWA SCRIPT COVER」を、同年7月7日に世界65本限定で発売している。
余談[編集]
- 「黒澤」の「澤」は旧字体で、新聞などでは「黒沢明」と表記されることも多い。
- 身長は約180センチと当時の日本人としてはかなりの長身で、サングラスと帽子姿がトレードマークだった。
- 『七人の侍』と初代『ゴジラ』は同じ1954年の東宝作品で、どちらにも志村喬が出演している。監督の黒澤と本多猪四郎は助監督時代からの親友である。
- 黒澤が亡くなった1998年は、三船敏郎の死去からわずか9か月後で、日本映画界は1年のうちに「クロサワ・ミフネ」の2人を失った。
- 『七人の侍』は、海外の映画人による「史上最高の映画」ランキングでも上位の常連で、英BBCが2018年に発表した外国語映画ランキングでは1位に選ばれたとされる。
