| 勝新太郎 かつ しんたろう / Shintaro Katsu | |
|---|---|
![]() 1955年(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン) | |
| 本名 | 奥村利夫(おくむら としお) |
| 誕生日 | 1931年11月29日 |
| 死亡日 | 1997年6月21日 |
| 死亡年齢 | 65歳(数え年67) |
| 出身地 | 千葉県柏市生まれ、東京都深川(現・江東区)育ち |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 旧制法政中学校中退 |
| ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台、歌手 |
| 活動期間 | 1954年 - 1997年 |
| デビューアルバム | 1954年 映画『花の白虎隊』(大映) |
| 家族 | 父:杵屋勝東治(長唄三味線方)、兄:若山富三郎(俳優)、妻:中村玉緒(1962年結婚)、長男:奥村雄大(俳優、のち鴈龍) |
| 身長 / 体重 | 170cm cm / ― kg |
| 血液型 | O型 |
| 事務所 | 勝プロダクション |
| 代表作 | 『座頭市』シリーズ、『悪名』シリーズ、『兵隊やくざ』シリーズ、『不知火検校』、『人斬り』、『顔役』、『御用牙』シリーズ、『独眼竜政宗』 |
| 関連活動 | 映画監督・脚本家・プロデューサー(勝プロダクション)、歌手、長唄三味線(名取名:杵屋勝丸) |
| あだ名 | 勝新(かつしん) |
| その他 | キネマ旬報賞主演男優賞(1963年度)、ブルーリボン賞大衆賞(1963年度)、毎日映画コンクール男優演技賞(1971年度)ほか |
概要[編集]
勝新太郎(かつ しんたろう、1931年11月29日 - 1997年6月21日)とは、日本の俳優・映画監督・プロデューサーである。本名は奥村利夫。大映の看板スターとして『座頭市』『悪名』『兵隊やくざ』の3大シリーズを当て、盲目の居合の達人・座頭市は海外にまで知られる当たり役になった。豪快すぎる私生活と数々の騒動から「昭和最後の豪傑」とも呼ばれる。
詳細[編集]
「勝新」とはどんな人か[編集]
長唄三味線の家に生まれ、10代で三味線の師匠をしていたという異色の経歴を持つ俳優である。大映に入ってからしばらくは同期の市川雷蔵の陰に隠れた「売れない二枚目」だったが、1960年の『不知火検校』で悪党役に転じてから一気に化けた。以後、1960年代の大映は雷蔵と勝の「二枚看板」で支えられ、二人の名前から「カツライス」と呼ばれた。
勝の芝居の持ち味は、台本どおりにやらない即興性と、目や指先まで使った身体の芝居である。自分で会社を作って映画を撮り、監督・脚本・主演を兼ねるようになると、その完璧主義が現場も会社の財布も振り回した。名作を残した一方で、借金、降板、逮捕と騒動にも事欠かなかった。妻の中村玉緒が晩年まで夫の思い出を語り続けたこともあり、没後も「勝新」の名は昭和の伝説として語られている。
代表的な役柄[編集]
- 座頭市(『座頭市』シリーズ):盲目の按摩で博徒。仕込み杖の逆手居合で悪人を斬る。映画26作とテレビ版100話で演じた、文句なしの代表作。
- 八尾の朝吉(『悪名』シリーズ):河内の百姓の息子で、喧嘩っ早いが情に厚い暴れ者。相棒「モートルの貞」との掛け合いが人気を呼んだ。
- 大宮貴三郎(『兵隊やくざ』シリーズ):旧満州の陸軍で、理不尽な上官に腕力で逆らう型破りな兵隊。インテリの上等兵・有田(田村高廣)との凸凹コンビもの。
- 板見半蔵(『御用牙』シリーズ):勝プロダクションが製作した、強引な手口で悪を暴く同心もの。劇画原作の時代劇である。
- 豊臣秀吉(『独眼竜政宗』):1987年のNHK大河ドラマで演じた豊臣秀吉。若き伊達政宗と対面する場面の迫力は、大河ドラマの名場面としてたびたび挙げられる。
なぜ今も語られるのか[編集]
一つは座頭市というキャラクターの強さである。盲目のヒーローという設定はアジア各地で受け、のちにアメリカ合衆国でもリメイク『ブラインド・フューリー』(1989年)が作られた。2003年の北野武監督版、2008年の綾瀬はるか主演『ICHI』、2010年の香取慎吾主演『座頭市 THE LAST』と、勝の死後も座頭市は何度も作り直されている。
もう一つは、作り手としての先進性である。勝が監督した『顔役』(1971年)は手持ちカメラや極端なクローズアップを多用し、当時としては異様に生々しい映像で知られる。北野武やクエンティン・タランティーノらも勝の作品を評価しており、俳優としてだけでなく「映画を作る人」としての再評価が進んでいる。
経歴[編集]
1931年 - 1953年:長唄の家に生まれて[編集]
1931年11月29日、長唄三味線方の杵屋勝東治と妻・八重子の次男として生まれた。生まれたのは母方の実家がある千葉県柏市で、育ったのは東京・深川である。2歳上の兄・奥村勝(のちの若山富三郎)も俳優になった。幼なじみには、のちに俳優になる宇津井健がいる。
旧制法政中学校(現在の法政大学系列校)を中退し、父のもとで長唄と三味線の修業を積んだ。長唄の名取名は「二代目杵屋勝丸」。10代のうちから師匠として深川の芸者たちに稽古をつけていたという。転機になったのは1954年のアメリカ巡業で、現地で見たジェームズ・ディーンに感化され、俳優を志すようになったとされる。
1954年 - 1960年:売れない二枚目時代[編集]
1954年、23歳で大映京都撮影所と契約し、『花の白虎隊』でデビューした。同期には市川雷蔵がいた。大映社長の永田雅一には可愛がられたものの、白塗りの二枚目路線はなかなか当たらず、人気では雷蔵に大きく水をあけられた。入社当時のギャラは1本3万円で、雷蔵の30万円とは10倍の差があったといわれる。
流れを変えたのが1960年の『不知火検校』である。盲目の按摩が悪事を重ねてのし上がる悪漢ものの主演で、それまでの二枚目イメージをかなぐり捨てた演技が評判になった。この「盲目の男」という役柄が、のちの座頭市につながっていく。
1961年 - 1966年:3大シリーズで大映の大黒柱に[編集]
1961年、今東光の小説を原作にした『悪名』(田中徳三監督)で八尾の朝吉を演じてヒット。チンピラの「モートルの貞」を演じた田宮二郎との名コンビが受け、シリーズは全16作に及んだ。同じ1961年に女優の中村玉緒と婚約し、1962年3月5日、永田雅一の媒酌で結婚した。
1962年には子母澤寛の随筆を原作にした『座頭市物語』(三隅研次監督)が公開された。盲目の渡世人・座頭市が、下総の飯岡一家に身を寄せ、敵方の浪人・平手造酒(天知茂)と友情を結びながらも対決へ向かう物語で、これが大当たりしてシリーズ化される。さらに1965年には増村保造監督の『兵隊やくざ』が始まり、こちらも全9作のシリーズになった。
1963年度には『悪名』『座頭市』の両シリーズでキネマ旬報賞の主演男優賞とブルーリボン賞の大衆賞を受け、雷蔵と並ぶ大映の大黒柱となった。同じ大映の若尾文子らとともに、1960年代の大映黄金期を支えたスターの一人である。
1967年 - 1973年:勝プロダクション設立[編集]
1967年、自らの製作会社「勝プロダクション」を設立した。第1作は『座頭市牢破り』。翌1968年には安部公房の小説を勅使河原宏監督が映画化した『燃えつきた地図』を製作・主演し、娯楽時代劇だけでなく前衛的な文芸映画にも手を広げた。
1969年の『人斬り』(五社英雄監督)では、幕末の暗殺者・岡田以蔵を演じた。この作品では作家の三島由紀夫が薩摩藩士・田中新兵衛役で出演しており、出演を最初に依頼したのは勝だったとされる。共演には仲代達矢、石原裕次郎もいた。同年7月17日には盟友の市川雷蔵が37歳で死去し、大映は看板の片方を失った。
1971年、監督・脚本・主演を兼ねた『顔役』を発表。経営が傾いていた大映は同年に倒産したが、勝プロは兄・若山富三郎主演の『子連れ狼』シリーズ(1972年 - )や、自身主演の『御用牙』シリーズ(1972年 - 1974年)を東宝の配給で送り出した。1972年には監督作『新座頭市物語 折れた杖』も撮っている。
1974年 - 1981年:テレビ座頭市、影武者、倒産[編集]
1974年から1979年にかけては、テレビドラマ版『座頭市』を4シーズン・全100話製作し、自ら主演・演出にも関わった。弟子の松平健を鍛え、1978年に始まる『暴れん坊将軍』で時代劇スターに育てたのもこの時期である。
1979年、黒澤明監督の『影武者』で主役に抜擢された。海外公開も決まっていた大作で、国際的なスターになる絶好の機会だった。ところが撮影初日、自分の演技を確認するため現場にビデオカメラを持ち込もうとしたことから黒澤と衝突し、降板する。主役は仲代達矢が務め、『影武者』は1980年のカンヌ国際映画祭でパルムドールを受賞した。
1980年、日本テレビ系で放送された主演ドラマ『警視-K』が予算超過と視聴率不振で打ち切られる。これが決定打となり、1981年に勝プロダクションは約12億円の負債を抱えて倒産した。記者会見では「勝新太郎は負けない」と宣言している。翌1982年には妻・中村玉緒を社長とする新会社を立ち上げた。
1982年 - 1990年:大河ドラマと最後の座頭市[編集]
1987年、NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』で豊臣秀吉を演じ、お茶の間に強烈な印象を残した。1989年には16年ぶりとなる映画版『座頭市』を、製作・監督・脚本・主演で完成させ、松竹の配給で公開した。緒形拳らが共演している。
しかしこの撮影中、殺陣の場面で長男の奥村雄大が誤って真剣を使い、斬られ役の俳優が死亡する事故が起きた。事故は書類送検で決着したが、これ以降、勝が自ら映画を撮ることはなかった。1990年の黒木和雄監督『浪人街』が、出演した最後の映画となった。
1990年 - 1997年:ハワイ事件と晩年[編集]
1990年1月、ハワイのホノルル空港で大麻とコカインを所持していたとして逮捕された(詳細は「炎上とバズ」の節)。1991年には日本でも逮捕され、1992年に東京地裁で懲役2年6か月、執行猶予4年の判決を受けた。以後、活動の中心は舞台に移った。1992年4月には兄・若山富三郎が亡くなっている。
1996年に下咽頭がんを公表。最後の舞台は大阪・新歌舞伎座の『夫婦善哉』で、妻・玉緒と共演した。1997年6月21日、千葉県柏市の国立がんセンター東病院で死去した。65歳だった。葬儀は築地本願寺で営まれ、約1万1千人が参列した。遺骨は兄・若山富三郎と同じ寺に納められている。
主な出演作[編集]
3大シリーズ[編集]
| シリーズ | 期間 | 作品数 | 勝の役 | 主な共演・監督 |
|---|---|---|---|---|
| 悪名 | 1961年 - 1974年 | 16作 | 八尾の朝吉 | 田宮二郎(モートルの貞)、田中徳三ほか |
| 座頭市(映画) | 1962年 - 1989年 | 26作 | 座頭市 | 三隅研次、森一生ほか |
| 兵隊やくざ | 1965年 - 1972年 | 9作 | 大宮貴三郎 | 田村高廣(有田上等兵)、増村保造ほか |
映画(シリーズ以外も含む主な作品)[編集]
- 1954年『花の白虎隊』 - デビュー作
- 1960年『不知火検校』 - 出世作
- 1961年『悪名』(八尾の朝吉)
- 1962年『座頭市物語』(座頭市)
- 1965年『兵隊やくざ』(大宮貴三郎)
- 1965年『無法松の一生』
- 1967年『座頭市牢破り』 - 勝プロダクション第1作
- 1968年『燃えつきた地図』 - 製作・主演、監督:勅使河原宏
- 1969年『人斬り』(岡田以蔵) - 監督:五社英雄
- 1970年『座頭市と用心棒』 - 三船敏郎と共演
- 1971年『顔役』 - 監督・脚本・主演
- 1972年『新座頭市物語 折れた杖』 - 監督・主演
- 1972年 - 1974年『御用牙』シリーズ(板見半蔵)
- 1973年『王将』
- 1989年『座頭市』 - 製作・監督・脚本・主演、最後の座頭市
- 1990年『浪人街』 - 最後の映画出演
テレビドラマ[編集]
- 1969年『悪一代』
- 1973年 - 1974年『唖侍鬼一法眼』
- 1974年 - 1979年『座頭市物語』『新・座頭市』(座頭市) - 全100話、フジテレビ系
- 1975年 - 1976年『痛快!河内山宗俊』
- 1980年『警視-K』 - 主演・監督、日本テレビ系
- 1987年『独眼竜政宗』(豊臣秀吉) - NHK
製作作品(勝プロダクション)[編集]
- 『子連れ狼』シリーズ(1972年 - ) - 主演:若山富三郎
- 『男一匹ガキ大将』(1971年)
- 『御用牙』シリーズ
- テレビ『座頭市』シリーズ
受賞歴[編集]
- 1963年度 キネマ旬報賞 主演男優賞(『悪名』『座頭市』シリーズ)
- 1963年度 ブルーリボン賞 大衆賞(『座頭市』)
- 1965年 牧野省三賞
- 1971年度 毎日映画コンクール 男優演技賞(『いのちぼうにふろう』『顔役』ほか)
- 1972年度 ゴールデンアロー賞 大賞(『子連れ狼』)
- 1989年 おおさか映画祭 主演男優賞(『座頭市』)
- 2000年 キネマ旬報「20世紀の映画スター・男優編」日本男優7位
- 2014年 キネマ旬報「好きな日本映画男優」4位
人物・エピソード[編集]
豪快すぎる金の使い方[編集]
勝の逸話で一番多いのが、金にまつわる話である。飲みに行けば支払いは必ず勝で、取り巻きが100人近くに膨れ上がることもあったという。店では1万円札をチップとして配り、その理由を「生の芝居を見せてもらっているから」と語ったとされる。売れる前のMr.マリックのショーに感激し、その場の手持ち約50万円をチップとして渡した、という話もよく知られている。
こうした金銭感覚は会社経営にもそのまま出た。勝プロの映画は撮り直しと粘りで予算が膨らみがちで、倒産の一因は映像への完全主義だったとされる。それでも債権者会議では勝に同情的な債権者が多く、少額ずつの長期返済で話がまとまったと伝えられている。
交友関係[編集]
- 石原裕次郎:日活の大スターとは互いに認め合う仲で、大げんかを「芝居」に見せて収めた、という逸話がある。
- 渡哲也:玉緒が風邪で倒れた際、渡に土下座して「くちなしの花」を歌ってもらった、という話が伝わる。
- 三島由紀夫:『人斬り』に出演を依頼し、台詞を録音したテープを渡すなど現場で支えたとされる。
- 仲代達矢:『影武者』の代役を引き受けた仲代は、勝の了解を得ようと何度も連絡したが会えなかった。1996年に仲代の妻・宮崎恭子が亡くなった際、勝と玉緒が弔問に訪れて二人で涙を流し、わだかまりが解けたと仲代は語っている。
- 海外ではデニス・ホッパーとも親交があったとされる。
「代わりはいない」[編集]
勝は自分について「俺の代わりはいない」とよく口にしたとされる。役者としての信念も一貫しており、映画評論家の白井佳夫に、生活を犠牲にしても自分の感覚に忠実に生きるのは正しいのかと問われると、迷わず正しいと断言したという。1990年代に『文藝春秋』で連載した対談は『泥水のみのみ浮き沈み 勝新太郎対談集』にまとめられており、ビートたけしがたじたじになる回や、三國連太郎との対談中に相撲中継を見ながら寝てしまう回などが収められている。
家族[編集]
- 父・杵屋勝東治:長唄三味線方。勝自身も長唄の名取である。
- 兄・若山富三郎:2歳上の兄で、俳優。勝プロ製作の『子連れ狼』で拝一刀を演じた。弟は兄を人なつっこく「兄ちゃん」と呼んでいたという。1992年に兄が亡くなった際、納骨の場で遺骨を口にして悼んだという話が伝わる。
- 妻・中村玉緒:女優。1962年に結婚。夫の借金や逮捕のたびに矢面に立ち、勝の死後に残った借金の返済にも奔走した。夫婦の対談では「離婚を考える余裕もない」と語っている。玉緒は2026年6月9日に86歳で亡くなり、「勝新太郎さんのもとへ逝く」と報じられた。
- 長男・奥村雄大:俳優(のち鴈龍の名で活動)。1989年版『座頭市』の撮影事故の当事者となった。
座頭市のその後[編集]
北野武版『座頭市』(2003年)[編集]
勝の死から6年後の2003年、北野武(ビートたけし)が監督・主演した『座頭市』が公開された。金髪の座頭市、タップダンスで終わるクライマックス、日常の音で作ったリズムなど、勝版とはまったく違う遊び心にあふれた作品で、第60回ヴェネツィア国際映画祭で監督賞にあたる銀獅子賞を受賞した。共演は浅野忠信、大楠道代、夏川結衣、ガダルカナル・タカら。興行的にも北野作品として最大のヒットになったとされる。
北野は対談などで勝に圧倒された経験を持つ一人で、もともと勝の当たり役を引き継ぐ形の企画だった。勝版のファンからは賛否もあったが、この作品で座頭市を知った若い世代や海外の観客も多い。
ほかのリメイク[編集]
- 『ブラインド・フューリー』(1989年、アメリカ合衆国) - ルトガー・ハウアー主演のハリウッド版リメイク。
- 『ICHI』(2008年) - 綾瀬はるかが女性の「市」を演じた。
- 『座頭市 THE LAST』(2010年) - 香取慎吾主演、阪本順治監督。
2020年代のリバイバル上映と配信[編集]
大映の映画は、大映を引き継いだ徳間書店を経て、現在はKADOKAWAが権利を持つ。その流れで2020年代にも勝の作品はたびたびスクリーンに戻ってきている。
- 午前十時の映画祭11(2021年4月 - 2022年3月):『座頭市物語』が4Kデジタル修復版で全国のシネコンで上映された。
- 没後25年 異才・勝新太郎 型破りな表現者(2022年6月12日 - 18日、東京・新文芸坐):『顔役』『新座頭市物語 折れた杖』『座頭市 あばれ火祭り』、『御用牙』3部作を35ミリフィルムで上映し、『警視-K』全13話も上映された。
- 大映4K映画祭(2023年1月 - 、角川シネマ有楽町ほか):大映創立80周年を記念した特集で、勝や雷蔵らを生んだ大映作品が4K版で上映された。
- 1989年版『座頭市』は「勝新太郎ディレクターズカット」の4Kデジタルリマスター版が作られ、CS放送の時代劇専門チャンネルで放送された。
配信は作品ごとにばらつきが大きい。2026年時点で、一部の座頭市作品がU-NEXTの見放題やPrime Videoのレンタルなどで見られる一方、配信されていない作品も多く、宅配レンタルやBlu-ray・DVDで補う必要がある。海外では、映画版25作をまとめたBlu-rayボックスが出ている。
炎上とバズ[編集]
1990年 ハワイ「パンツ」事件[編集]
1990年1月、ハワイ・ホノルル空港で、下着の中に大麻とコカインを隠し持っていたとして現行犯逮捕された。勝は入手先を最後まで明かさず、「なぜパンツの中に入っていたかわからない」と述べ、続けて「今後、もうパンツを履かないようにする」と語った会見は、ワイドショーで繰り返し流れる「迷言」になった。年明けから放送中だったビールのドラマ仕立てCMは第1話で打ち切られている。
現地では罰金1000ドルで釈放されたが、国外退去処分に不服を申し立て、約1年4か月ハワイにとどまった。帰国時に「総理大臣の代わりはいても、勝新太郎の代わりはいない」という趣旨の発言をしたと報じられ、これも話題になった。1991年に日本で逮捕され、1992年に懲役2年6か月・執行猶予4年の有罪判決を受けた。公判では傍聴人を「観客」と呼んだともいわれる。
1978年の阿片騒動[編集]
1978年には、マネージャーで弟子の男性が阿片所持で逮捕され、勝もその処分を頼んだ疑いで書類送検された。勝は阿片について「イランの貴族からもらった」と説明している。
『影武者』降板[編集]
1979年の『影武者』降板は、「世界のクロサワと大げんかした男」として長く語り草になった。ただし当事者の二人とも詳細を語らなかったため、関係者の証言は食い違っており、何が決定打だったのかは今もはっきりしていない。
余談[編集]
- 『影武者』の作曲家・池辺晋一郎によると、代役の仲代達矢は「相手は二人とも“勝”だから、我々は“負け”かな」と冗談を言っていたという。
- 若い頃は、のちの役柄とは正反対の白塗りの二枚目として売り出されていた。
- 原作とされる子母澤寛の「座頭市物語」は、随筆集の中のごく短い一編とされ、映画の座頭市像は大映と勝が大きく膨らませたものである。
- 世界的ミュージシャンのプリンスから、プロモーションビデオへの出演を打診されたことがある、という話も残っている。
