| 溝口健二 みぞぐち けんじ / Kenji Mizoguchi | |
|---|---|
![]() 溝口健二(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン) | |
| 本名 | 溝口健二 |
| 誕生日 | 1898年5月16日 |
| 死亡日 | 1956年8月24日 |
| 死亡年齢 | 58歳 |
| 出身地 | 東京市本郷区湯島(現・東京都文京区) |
| 国籍 | 日本 |
| 家族 | 姉:寿々、妻:千恵子 |
| 学歴 | 葵橋洋画研究所などで絵を学ぶ |
| 職業 | 映画監督 |
| 肩書 | 映画監督、日本映画監督協会会長(2代目)、大映取締役 |
| 活動期間 | 1923年 - 1956年 |
| 代表的な実績 | 監督作は約90本(現存は約30本)。『浪華悲歌』『祇園の姉妹』『残菊物語』『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』『赤線地帯』 |
| 受賞 | ヴェネツィア国際映画祭 国際賞(『西鶴一代女』)、銀獅子賞(『雨月物語』『山椒大夫』)、ブルーリボン賞監督賞(『近松物語』)、紫綬褒章(1955年、映画監督として初) |
| 事務所 | 日活 → 新興キネマ → 第一映画社 → 松竹 → 大映 |
| その他 | 脚本の依田義賢、撮影の宮川一夫、美術の水谷浩、音楽の早坂文雄らと組んだ |
概要[編集]
溝口健二(みぞぐち けんじ、1898年5月16日 - 1956年8月24日)とは、日本の映画監督である。ワンシーン・ワンカットの長回しで社会の底辺に生きる女性を描き続け、『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』でヴェネツィア国際映画祭に3年連続で入賞した。ゴダールらフランスの若手批評家に神格化され、「世界のミゾグチ」として今も映画史の頂点に名前が挙がる巨匠である。
詳細[編集]
「女を撮らせたら日本一」の監督[編集]
溝口健二を一言で表すなら「女性映画の巨匠」である。芸者、娼婦、妾、旅芸人、売られていく娘――溝口作品の主人公の多くは、男社会のしわ寄せをまともに食らう女性たちだ。しかも彼女たちは、ただ泣いて終わるのではなく、どん底でも意地と誇りを手放さない。この視点の原点には、貧しさのため養女に出され、芸者を経て子爵の妾となった7歳上の姉・寿々の存在があったとよく指摘される。
監督作はサイレント期からの通算で約90本にのぼるが、戦前作品の多くはフィルムが失われ、現存するのは約30本とされる。それでも、残された作品だけで世界中の映画人を黙らせるだけの密度がある。
世界がうらやんだ「長回し」[編集]
溝口の代名詞が、カメラを止めずに一つの場面を丸ごと撮りきる「ワンシーン・ワンカット」だ。カットを細かく割って編集でつなぐのではなく、俳優の動きにあわせてカメラがゆっくりと移動し、引いた位置から人物と空間をまるごと見せる。観客は登場人物に感情移入するというより、その場に立ち会ってしまったような感覚になる。
この手法は1933年の『瀧の白糸』や1935年の『折鶴お千』あたりから現れ、1936年の『浪華悲歌』『祇園の姉妹』で一つのスタイルとして確立した。戦後、撮影の宮川一夫と組んだ大映時代には、クレーン撮影を駆使した流れるような移動撮影へと進化する。『雨月物語』のラスト、カメラが人物から離れて村の風景へと上昇していくショットは、映画史に残る名場面として今も語り草である。
ヌーヴェルヴァーグの「神」[編集]
国内では「女の監督」として知られていた溝口だが、1950年代にヴェネツィアで連続入賞したことで、ヨーロッパの映画批評界に衝撃を与えた。特にフランスの映画誌『カイエ・デュ・シネマ』に集まった若い批評家たち――ジャン=リュック・ゴダール、ジャック・リヴェット、エリック・ロメール――が熱烈に溝口を支持し、のちのヌーヴェルヴァーグの映画作りにも影響を与えた。
同じ時期に同じく海外で注目された黒澤明が「ダイナミックな娯楽性」で世界に受けたのに対し、溝口は「画面の美しさと持続する時間」で映画作家たちを虜にした。日本映画の国際的評価を語るとき、黒澤・溝口・小津安二郎の3人がセットで挙がるのはこのためである。
経歴[編集]
1898年 - 1922年:貧しい少年時代と画家志望[編集]
1898年、東京市本郷区湯島新花町に、父・善太郎と母・まさの長男として生まれた。7歳上に姉の寿々、7歳下に弟がいる。父の事業失敗により1905年ごろ浅草へ移り、一家は貧窮する。姉の寿々は口減らしのために養女に出され、のちに芸者となって子爵の妾になった。この姉が、のちに経済的に溝口を支えることになる。
1914年に母が亡くなり、父との折り合いはますます悪くなった。少年時代の溝口は図案屋で働いたり、洋画研究所に通ったりして絵を学び、浅草オペラや文学にも親しんだ。1917年には名古屋の陶器会社に就職するが、わずか1日で東京に舞い戻ったという。1918年には神戸の新聞社・神戸又新日報に勤めて図案などを担当したこともある。
1920年 - 1931年:日活での修業とスランプ[編集]
1920年5月、日活向島撮影所に入社し、雑用係から映画の世界に入った。1923年2月、『愛に甦る日』で監督デビュー。同年9月の関東大震災で自宅が焼けたあとは、震災直後の街を背景にした『廃墟の中』も撮っている。震災で向島撮影所が機能を失うと、京都の日活大将軍撮影所へ移った。
1925年、愛人だった一条百合子に背中を剃刀で切りつけられる事件が起き、しばらく謹慎を余儀なくされた。この刀傷は生涯残り、のちの逸話のもとになる。1927年8月には、日活で同僚だった永田雅一の仲介で千恵子と結婚。1929年の『日本橋』(泉鏡花原作)で監督に復帰し、同年の『東京行進曲』をヒットさせて第一線に戻った。
1932年 - 1938年:第一の黄金期[編集]
1932年に新興キネマへ移り、1933年の『瀧の白糸』(泉鏡花原作、入江たか子主演)がキネマ旬報ベスト・テンで2位に入る。1934年には永田雅一とともに第一映画社の設立に参加。そこで撮ったのが、1936年の『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』である。
どちらも山田五十鈴主演で、大阪と京都・祇園を舞台に、男に翻弄されながらも強かに生きようとする女性を突き放したリアリズムで描いた。キネマ旬報ベスト・テンでは『祇園の姉妹』が1位、『浪華悲歌』が3位となり、溝口の名は一気に「日本映画を代表する監督」の位置に押し上げられる。脚本家・依田義賢とのコンビもこの『浪華悲歌』から始まった。1936年3月には日本映画監督協会の創立に参加し、翌1937年に2代目会長に就いている。
1939年 - 1950年:松竹時代と戦中・戦後[編集]
1939年からは松竹で撮るようになり、歌舞伎役者の悲恋を描いた『残菊物語』(1939年)がキネマ旬報2位。続く『浪花女』『芸道一代男』とあわせて「芸道三部作」と呼ばれる。1941年から1942年にかけては、真山青果原作の『元禄忠臣蔵』前後篇を撮影。松の廊下を実物大で再現するなど莫大な製作費をかけた超大作だったが、興行的には振るわなかった。
この撮影中の1941年12月、妻の千恵子が精神を病んで入院し、そのまま生涯病院を出ることはなかった。溝口はその原因が自分にあると悩み続けたとされる。戦後は田中絹代を主演に据えた作品を連発し、1948年の『夜の女たち』(キネマ旬報3位)で戦後の娼婦を生々しく描いて再起したが、1950年に松竹を離れた。
1951年 - 1956年:大映時代と世界的評価[編集]
1952年、新東宝で公開された『西鶴一代女』がヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞。長いスランプからの完全復活だった。1951年秋に旧友・永田雅一が率いる大映と専属契約を結んでおり、大映京都撮影所で撮った1953年の『雨月物語』、1954年の『山椒大夫』がいずれもヴェネツィアで銀獅子賞を獲得。日本映画が3年連続でヴェネツィアに名を刻むという快挙になった。
1954年には『近松物語』でブルーリボン賞監督賞を受賞。1955年には映画監督として初めて紫綬褒章を受章し、大映の取締役にも就任した。同年には大映と香港のショウ・ブラザーズの合作で初のカラー作品となった『楊貴妃』、続くカラー大作『新・平家物語』を発表している。
1956年3月公開の『赤線地帯』が遺作となった。次回作『大阪物語』の準備中に体調を崩して同年5月に京都府立医科大学附属病院に入院し、8月24日に骨髄性白血病のため死去した。58歳だった。本人には最後まで病名が知らされなかったという。墓は東京の本行寺にある。
作風[編集]
ワンシーン・ワンカットと「引き」の画[編集]
溝口の画面は、とにかく「引いて」いる。人物のアップは少なく、部屋全体、路地全体、湖全体のなかに小さく人物が置かれ、その位置関係の変化で感情が語られる。悲しい場面ほどカメラが寄らず、むしろ距離をとるのが溝口流だ。この冷静な距離感が、かえって登場人物の痛みを際立たせると評される。
長回しは俳優にとっても過酷で、数分間の場面をNGなしで演じきらなければならない。台詞を覚え、立ち位置を守り、カメラの動きとも呼吸を合わせる必要があるため、何十回ものテストが当たり前だった。戦後の大映時代には、宮川一夫のクレーン撮影と組み合わさり、移動撮影は絵巻物をゆっくり繰るような優雅さを帯びていく。
「反射していますか」[編集]
溝口は俳優に具体的な演技指導をほとんどしなかった。セットでは「やってみてください」と言うだけで、何度も繰り返させながら「反射していますか」と問い続けたという。自分の台詞の番が来てから喋るのではなく、相手の芝居に反応して初めて芝居になる、という意味である。
『近松物語』のヒロイン・香川京子は、2023年2月に角川シネマ有楽町の「大映4K映画祭」で行われたトークで、この「反射」の教えをいまも大切にしていると語った。何も分からなかった撮影当時、母親役の浪花千栄子に演技を教わってなんとか乗り切ったとも振り返っている。
徹底したリアリズムと美術[編集]
溝口は時代考証にも妥協しなかった。美術監督の水谷浩は溝口が最も信頼したスタッフの一人で、セットや小道具を本物同然に作り込んだ。『元禄忠臣蔵』で江戸城松の廊下を実物大で建てた話は有名で、溝口の「本物主義」を象徴する逸話になっている。
テーマ面では、男性中心の社会や封建制度に押しつぶされる女性、そして芸に生きる人間が繰り返し描かれた。原作も井原西鶴、近松門左衛門、上田秋成、森鷗外、泉鏡花など古典・近代文学から多く採っており、文芸映画の名手でもあった。
ヴェネツィア3年連続受賞[編集]
1952年『西鶴一代女』[編集]
井原西鶴の『好色一代女』を原作に、御所勤めの身から転落を重ね、ついには夜鷹にまで身を落とす女・お春の一生を描く。主演は田中絹代で、若き日の三船敏郎も、お春と身分違いの恋をする若侍の役で出演している。製作は児井プロダクションと新東宝で、撮影は平野好美。
1952年の第13回ヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞した。前年の1951年に黒澤明の『羅生門』が金獅子賞を獲ったばかりで、日本映画への注目が高まっていたタイミングでの受賞だった。溝口自身にとっても、戦後のスランプを抜け出す決定打となった。
1953年『雨月物語』[編集]
上田秋成の『雨月物語』から「浅茅が宿」「蛇性の婬」を下敷きにした怪異譚。戦国の世、陶工の源十郎(森雅之)は焼き物で一儲けしようと町へ出て、妖艶な姫・若狭(京マチ子)に魅入られる。故郷には妻・宮木(田中絹代)が待っているが――という物語だ。撮影は宮川一夫、音楽は早坂文雄。
霧の立ちこめる湖を小舟が進む場面の幻想的な美しさは、宮川一夫の撮影の代表例としてしばしば引かれる。第14回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞。撮影中、緊張した溝口の体の震えがクレーンに伝わってしまい、宮川の進言で溝口がクレーン上の監督席から降ろされた、という逸話も残る。
1954年『山椒大夫』[編集]
森鷗外の小説を原作に、平安時代末期、母と生き別れて人買いに売られ、山椒大夫の荘園で奴隷として働かされる厨子王と安寿の兄妹を描く。母・玉木役は田中絹代、厨子王役は花柳喜章、安寿役は香川京子。撮影は宮川一夫。
1954年の第15回ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した。この年は七人の侍も同じく銀獅子賞を受けており、日本映画2本が並んで受賞する形になった。ラストの海辺の場面でカメラがゆっくりと横に流れていくショットは、のちに多くの映画作家が引用・言及する名場面とされる。同じ1954年には『近松物語』『噂の女』も公開されており、まさに絶頂期だった。
女優たちとの仕事[編集]
田中絹代:15本を共にした「溝口の女優」[編集]
戦後の溝口作品を語るうえで欠かせないのが田中絹代である。1940年の『浪花女』を皮切りに、『女優須磨子の恋』『夜の女たち』『わが恋は燃えぬ』『西鶴一代女』『雨月物語』『山椒大夫』『噂の女』など、計15本の溝口作品に出演した。とくに戦後は、田中の演技力と溝口の長回しが噛み合い、日本映画史に残る女性像を次々と生み出している。
溝口は私生活でも田中に強く惹かれ、結婚を望んでいたという話が伝わるが、新藤兼人らの証言では溝口の片思いだったとされる。この2人の公私にわたる関係は、のちに吉永小百合主演・市川崑監督の映画『映画女優』(1987年)でも描かれた。
『月は上りぬ』をめぐる決裂[編集]
田中は1953年の『恋文』で監督デビューし、日本で2人目の女性映画監督となった。ところが2本目の『月は上りぬ』(1955年公開)の製作にあたり、日本映画監督協会の理事長だった溝口は、当時五社協定に加わっていなかった日活で撮ることに異を唱えたとされる。田中は小津安二郎らの協力を得て作品を完成させたが、これをきっかけに溝口との関係は疎遠になった。
1954年の『噂の女』が2人の最後の作品となった。皮肉なことに、その『月は上りぬ』は4Kデジタル修復版が2021年のカンヌ国際映画祭クラシック部門に選ばれ、「女性映画監督のパイオニア」田中絹代の再評価を後押しする作品になっている。
京マチ子:妖艶な幽霊から赤線の女まで[編集]
大映時代の溝口作品で強烈な印象を残したのが京マチ子だ。『雨月物語』では、源十郎を魅了する亡霊の姫・若狭を、能面を思わせる化粧と独特の所作で演じた。『羅生門』に続くヴェネツィア受賞作への出演で、京は「グランプリ女優」と呼ばれるようになる。
1955年の『楊貴妃』では、溝口作品で初めてカラーの画面に立つ主演女優として玄宗皇帝(森雅之)に愛される楊貴妃を演じた。そして遺作『赤線地帯』では、吉原の売春宿で働く奔放な娼婦ミッキーを好演。同作には若尾文子、木暮実千代、三益愛子らも出演しており、売春防止法の成立前夜の空気をいち早く切り取った作品として知られる。
依田義賢と宮川一夫:溝口組の両輪[編集]
脚本家・依田義賢[編集]
依田義賢は、1936年の『浪華悲歌』から大映時代まで、約20年間にわたって溝口作品の脚本を手がけ、その数は23本にのぼる。溝口は依田のことを「僕の肉体の一部」のようだと評したという。
ただし仕事ぶりは苛烈で、溝口は依田の脚本に何度も書き直しを命じ、なかなか満足しなかったという逸話が多く残る。依田はのちに溝口との仕事を回想した著書『溝口健二の人と芸術』を著しており、溝口研究の基本文献のひとつになっている。
撮影監督・宮川一夫[編集]
宮川一夫は大映京都撮影所の名カメラマンで、『羅生門』の撮影でも知られる。溝口作品では『雨月物語』『祇園囃子』『山椒大夫』『近松物語』『新・平家物語』『赤線地帯』など後期の8本を担当した。
宮川の端正なモノクロ撮影と溝口の長回しが組み合わさることで、大映時代の作品は「動く絵巻物」と呼ばれるような完成度に達した。宮川はのちに市川崑や篠田正浩らとも組み、日本映画を代表する撮影監督として名を残している。
水谷浩と早坂文雄[編集]
美術監督の水谷浩は21本の溝口作品を担当した。早坂文雄は『雨月物語』『山椒大夫』など後期8本の音楽を担当し、和楽器を取り入れた音楽で幽玄な世界を支えた。早坂は黒澤作品の音楽でも知られ、溝口と黒澤という対照的な2人の巨匠を音楽面で支えた人物である。2026年の国立映画アーカイブの展覧会でも、この4人の協力者に焦点を当てた特集コーナーが設けられている。
主な監督作品[編集]
代表作[編集]
| 公開年 | 作品名 | 主な出演 | ポイント |
|---|---|---|---|
| 1933年 | 瀧の白糸 | 入江たか子、岡田時彦 | 泉鏡花原作のサイレント映画。キネマ旬報2位。2026年にデジタル復元 |
| 1936年 | 浪華悲歌 | 山田五十鈴 | 大阪の電話交換手が転落していく物語。依田義賢との初コンビ |
| 1936年 | 祇園の姉妹 | 山田五十鈴、梅村蓉子 | 祇園の芸妓姉妹を描く。キネマ旬報1位 |
| 1939年 | 残菊物語 | 花柳章太郎、森赫子 | 歌舞伎役者と乳母の悲恋。「芸道三部作」の第1作 |
| 1941年 - 1942年 | 元禄忠臣蔵 | 河原崎長十郎 | 前後篇の大作。松の廊下を実物大で再現 |
| 1948年 | 夜の女たち | 田中絹代 | 戦後大阪の街娼を描く。キネマ旬報3位 |
| 1952年 | 西鶴一代女 | 田中絹代、三船敏郎 | ヴェネツィア国際映画祭 国際賞 |
| 1953年 | 雨月物語 | 京マチ子、森雅之、田中絹代 | ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞 |
| 1953年 | 祇園囃子 | 木暮実千代、若尾文子 | 祇園の芸妓と舞妓。若尾文子の初期の代表作 |
| 1954年 | 山椒大夫 | 田中絹代、花柳喜章、香川京子 | ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞 |
| 1954年 | 近松物語 | 長谷川一夫、香川京子 | 近松門左衛門原作の不義密通もの。ブルーリボン賞監督賞 |
| 1955年 | 楊貴妃 | 京マチ子、森雅之 | 香港のショウ・ブラザーズとの合作。初のカラー作品 |
| 1955年 | 新・平家物語 | 市川雷蔵 | 吉川英治原作。若き平清盛を描く |
| 1956年 | 赤線地帯 | 京マチ子、若尾文子、木暮実千代 | 吉原の売春宿で働く女たち。遺作 |
その他の主な作品[編集]
- 1923年『愛に甦る日』(デビュー作)
- 1929年『日本橋』『東京行進曲』
- 1935年『折鶴お千』
- 1937年『愛怨峡』
- 1944年『宮本武蔵』
- 1945年『名刀美女丸』
- 1946年『歌麿をめぐる五人の女』
- 1947年『女優須磨子の恋』
- 1949年『わが恋は燃えぬ』
- 1950年『雪夫人絵図』
- 1951年『お遊さま』『武蔵野夫人』
- 1954年『噂の女』
遺作の次に予定していた『大阪物語』は、溝口の死後、吉村公三郎監督の手で1957年に完成している。
人物像・逸話[編集]
「これでなきゃ女は描けませんよ」[編集]
1925年に愛人から切りつけられた背中の傷について、溝口は「これでなきゃ女は描けませんよ」と語ったという逸話を、監督の内川清一郎が伝えている。女性を描くことへの執念と、自虐めいたユーモアが同居した、いかにも溝口らしい言葉として有名である。
テスト42回、80回[編集]
俳優への要求の厳しさはつとに有名だ。『楊貴妃』では山村聰に42回のテストを課し、『赤線地帯』では三益愛子に80回のテストを繰り返させたという記録が残る。若いころには入江たか子の芝居を「猫芝居」と罵倒したとも伝えられる。現場では昼食どきもセットを離れず、晩年はスタジオに尿瓶を持ち込んでいたという話まである。
「仕事は戦争」[編集]
溝口は撮影を「戦争」にたとえるほど仕事にのめり込むタイプで、スタッフにも俳優にも妥協を許さなかった。一方で、名作と同じくらい失敗作も多い監督だったことも知られており、スランプと復活を何度も繰り返した。その浮き沈みの激しさも含めて、評伝やドキュメンタリーの題材になり続けている。
新藤兼人のドキュメンタリー[編集]
若いころ溝口の下で美術助手を務めた新藤兼人は、1975年に記録映画『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』を監督し、田中絹代ら関係者の証言を集めた。この作品はキネマ旬報ベスト・テン1位に選ばれ、溝口の人物像を知るための第一級の資料になっている。
評価・影響[編集]
ゴダールと『カイエ・デュ・シネマ』[編集]
溝口の死後まもない1958年、ゴダールはフランスの週刊誌『アール』で、溝口をムルナウやロッセリーニに並ぶ監督と評し、溝口の撮るどのカットにも毎秒ごとに詩(ポエジー)が浮かび上がる、という趣旨の賛辞を寄せた。同じ年にはリヴェットが『カイエ・デュ・シネマ』に溝口論を書き、ロメールも翌1959年に溝口を「この国で最も偉大な映画作家」と呼んでいる。
ゴダールが溝口を「好きな監督を3人挙げるなら、溝口、溝口、溝口」と答えた、という有名な話も広く流布しているが、これは出典がはっきりしない「伝説」の類として扱われることが多い。
世界の映画作家たち[編集]
ほかにもアンドレイ・タルコフスキー、マーティン・スコセッシ、ヴェルナー・ヘルツォーク、テオ・アンゲロプロスらが溝口を敬愛した監督として知られる。英国映画協会の『サイト・アンド・サウンド』誌の「史上最高の映画」ランキングには『雨月物語』『山椒大夫』がたびたび名を連ね、キネマ旬報の歴代ベストでも『西鶴一代女』『雨月物語』『近松物語』が上位の常連である。
国内では、1957年に産経新聞社が溝口の名を冠した「溝口賞」を創設したが、3回で終了した。また2014年には米国で、現存する溝口作品約30本を巡回上映する大規模なレトロスペクティブが開かれている。
4K修復の流れ[編集]
2010年代以降、溝口作品は高精細なデジタル修復で次々とよみがえった。『雨月物語』は、スコセッシが主宰するフィルム・ファウンデーションとKADOKAWAがニューヨークの現像所で4K修復を行い、米クライテリオン・コレクションから2017年にブルーレイが発売されている。国内でも大映作品を中心に4K修復が進み、2023年1月からは角川シネマ有楽町ほかで「大映4K映画祭」が開かれた。
2020年代の再評価:没後70年[編集]
2026年、初の本格的な回顧展[編集]
没後70年にあたる2026年、東京・京橋の国立映画アーカイブで展覧会「没後70年 映画監督 溝口健二」が8月11日から12月13日まで開かれている。溝口に焦点を当てた初の本格的な展覧会で、日活向島時代、日活京都時代、新興キネマの第一の黄金期、松竹時代、大映京都の第二の黄金期、そして海外での評価という6章構成で生涯をたどる。
会場には脚本の原本、ポスター、スチル写真、スケッチ、デスマスクなどが並び、撮影台本と完成した映画を見比べられる展示もある。依田義賢・宮川一夫・水谷浩・早坂文雄という4人の協力者に光を当てた特集コーナーも設けられ、研究者によるギャラリートークも開かれている。
東京国際映画祭との共催上映[編集]
展覧会と連動して、2026年10月27日から11月1日まで、国立映画アーカイブの長瀬記念ホール OZUで「TIFF/NFAJ クラシックス 映画監督 溝口健二」が東京国際映画祭との共催で開かれた。上映は12プログラム・計13作品で、全作品に英語字幕が付く。
目玉は、2026年度に新たにデジタル修復された1933年の『瀧の白糸』デジタル復元版の国内初上映で、弁士と伴奏音楽付きで上映された。ほかに『浪華悲歌』『祇園の姉妹』『残菊物語』『元禄忠臣蔵』前後篇、『雨月物語』『祇園囃子』『山椒大夫』『近松物語』『楊貴妃』『新・平家物語』『赤線地帯』が並び、戦前から遺作までを一気に見渡せるラインナップとなった。
テレビ放送と配信[編集]
2026年9月21日には、NHK BSP4Kの「シネマ4K」枠で『雨月物語』4Kデジタル修復版が放送された。配信では、2026年9月時点で『雨月物語』がAmazon Prime VideoとDMM TVで見放題となっており、TSUTAYA DISCASでは宅配レンタルもできる。Filmarksの集計では、2026年8月時点で『山椒大夫』『近松物語』『西鶴一代女』『赤線地帯』『残菊物語』『祇園の姉妹』など22本が何らかのサービスで配信されている。
余談[編集]
- 日本映画が3年連続でヴェネツィアで受賞したうちの2本、『雨月物語』と『山椒大夫』はどちらも大映作品で、黒澤明の『羅生門』とあわせ、1950年代前半の大映は「世界に一番近い映画会社」だった。永田雅一は溝口の日活時代の同僚で、結婚の仲介役でもある。
- 『雨月物語』の撮影中、緊張のあまり溝口の震えがクレーンを揺らしてしまい、カメラマンの宮川一夫の進言で監督席から降ろされたという、巨匠らしからぬ逸話がある。
- 『西鶴一代女』には、まだ駆け出しに近い三船敏郎が出演している。黒澤組のイメージが強い三船だが、溝口作品にも出ていたのである。
- 『山椒大夫』が銀獅子賞を獲った1954年のヴェネツィアでは、黒澤明の『七人の侍』も銀獅子賞を受けており、日本の二大巨匠が同じ舞台で並んだ。
- 田中絹代との関係は、市川崑監督・吉永小百合主演の『映画女優』(1987年)で映画化されており、溝口をモデルにした監督も登場する。
- 1955年の紫綬褒章は、映画監督として初めての受章だった。
