| 山田五十鈴 やまだ いすず / Isuzu Yamada | |
|---|---|
![]() 1937年頃(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン) | |
| 本名 | 山田美津(やまだ みつ) |
| 誕生日 | 1917年2月5日 |
| 死亡日 | 2012年7月9日 |
| 死亡年齢 | 95歳(数え年96) |
| 出身地 | 大阪府大阪市南区(現・中央区) |
| 国籍 | 日本 |
| ジャンル | 映画、舞台、テレビドラマ |
| 活動期間 | 1930年 - 2002年 |
| デビューアルバム | 1930年 映画『剣を越えて』(日活) |
| 家族 | 父:山田九州男(新派俳優)、娘:瑳峨三智子(女優、1992年没) |
| 代表作 | 『浪華悲歌』、『祇園の姉妹』、『鶴八鶴次郎』、『流れる』、『蜘蛛巣城』、『用心棒』、舞台『たぬき』『香華』、テレビ『必殺』シリーズ |
| 関連活動 | 常磐津・長唄・清元・日本舞踊(清元は名取)、三味線 |
| あだ名 | ベルさん |
| その他 | 文化功労者(1993年)、文化勲章(2000年、女優として初)、従三位(2012年、没後) |
概要[編集]
山田五十鈴(やまだ いすず、1917年2月5日 - 2012年7月9日)とは、大阪府出身の女優である。本名は山田美津、愛称は「ベルさん」。13歳で映画デビューし、溝口健二の『浪華悲歌』『祇園の姉妹』でトップ女優となった。黒澤明の『蜘蛛巣城』『用心棒』、成瀬巳喜男の『流れる』、舞台『たぬき』、テレビ『必殺』シリーズのおりく役と、映画・舞台・テレビのすべてで代表作を持つ。2000年、女優として初めて文化勲章を受章した。
詳細[編集]
芸事漬けの少女時代[編集]
1917年、大阪市南区の千年町(現在の中央区東心斎橋)に生まれた。父は関西新派の看板俳優で女形を得意とした山田九州男、母は北新地の芸者だった律。母の方針で数え6歳ごろから常磐津、長唄、清元、日本舞踊を習い、5年ほどで清元の名取になっている。
ところが父の人気が落ち目になり、一家の暮らしは苦しくなった。10歳ごろには元芸者の母と一緒に三味線を教えて家計を支えたという。のちに黒柳徹子の番組でこの話を聞いた黒柳は、昔の人のたくましさに感心したと振り返っている。この時期に体に叩き込んだ三味線と踊りが、何十年も後の舞台やテレビで最大の武器になる。
「五十鈴」の誕生と、仕事がない1年[編集]
1930年、父の古い知人の縁で日活太秦撮影所に入社した。月給は100円。芸名の「五十鈴」は伊勢神宮を流れる五十鈴川にちなむ。同年、大河内傳次郎の相手役として『剣を越えて』でデビューした。まだ13歳である。
時代劇では娘役が足りなかったこともあって重宝され、1年で10本以上の映画に出たが、ある時期から突然お呼びがかからなくなる。本人はのちに「自分の芝居が未熟で使い物にならなかったから」と分析し、撮影所で客のダンスの相手などをして過ごした1年間を、1986年の「徹子の部屋」で笑いながら「ホステスとして過ごした」と語っている。その後、片岡千恵蔵プロダクションの作品に出演し、伊丹万作監督の『国士無双』や稲垣浩監督の『仇討選手』などで才能が開花し始めた。
溝口健二と「女の映画」[編集]
1934年、溝口健二らとともに第一映画社に参加する。1935年の『マリアのお雪』『折鶴お千』では10代半ばで主役に抜てきされ、翌1936年の『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』で一気にトップ女優の座をつかんだ。
『浪華悲歌』では、父親の借金のために社長の囲われ者になる電話交換手・村井アヤ子を、『祇園の姉妹』では、男たちを手玉に取ってのし上がろうとする京都・祇園の芸妓・おもちゃを演じた。どちらも、古いしきたりに従わず、自分の頭で損得を計算して生きる「強気な現代女性」である。二十歳前の山田がこれを演じきったことで、溝口が描く「女性映画」のイメージの一部を作った女優として語られるようになった。
東宝のスター、そして劇団へ[編集]
1936年には新興キネマへ移り、1938年に東宝映画へ入社した。東宝第1作の『鶴八鶴次郎』(成瀬巳喜男監督)で長谷川一夫と組んだ芸人コンビの物語が大ヒットし、名実ともに大スターになる。戦時中の1942年には長谷川と劇団「新演伎座」を結成し、映画と舞台を行き来した。
戦後は東宝争議で揺れた映画界の中で新東宝を経てフリーとなり、劇団民芸にも参加して演技を学び直した。1947年の衣笠貞之助監督『女優』では、近代演劇の伝説の女優・松井須磨子を演じている。1950年代には独立プロ作品にも積極的に出演し、『現代人』(1952年)や『女一人大地を行く』(1953年)など、社会派の作品でも主演を務めた。
映画の代表作[編集]
成瀬巳喜男『流れる』[編集]
1956年の『流れる』は、幸田文の小説を原作に、東京の川べりにある芸者置屋「つたの屋」の没落を描いた作品である。山田は置屋の女主人つた奴を演じ、田中絹代(女中・梨花)、高峰秀子(つた奴の娘)との「三枚看板」で主演した。杉村春子、岡田茉莉子、往年の大スター栗島すみ子も出演し、日本映画を代表する女優たちが一つの家に集まった贅沢な一本である。
この年は『猫と庄造と二人のをんな』(豊田四郎監督)などでも高く評価され、ブルーリボン賞と毎日映画コンクールの主演女優賞、キネマ旬報ベスト・テンの女優賞を受けた。1952年にもブルーリボン賞と毎日映画コンクールで主演女優賞を受けており、1950年代は名実ともに「映画女優・山田五十鈴」の全盛期だった。
黒澤明『蜘蛛巣城』の浅茅[編集]
1957年の『蜘蛛巣城』は、シェイクスピアの『マクベス』を日本の戦国時代に置き換えた黒澤明の作品。山田は、夫の鷲津武時(三船敏郎)に主君殺しをそそのかす妻・浅茅を演じた。つまり日本版の「マクベス夫人」である。
能面のように表情を動かさず、すり足で静かに動き回り、最後は血の落ちない手を洗い続ける浅茅の姿は、日本映画史に残る名演の一つとされる。この作品で芸術選奨文部大臣賞を受けた。1958年のロンドン映画祭で上映された際には、ヴィヴィアン・リーが浅茅の演技とメイクに強い関心を示し、黒澤に何度も質問したという逸話が残っている。
黒澤明『どん底』『用心棒』[編集]
同じ1957年には、ゴーリキーの戯曲を江戸の長屋に移した黒澤の『どん底』で、強欲な大家の女房お杉を演じた。さらに1961年の『用心棒』では、宿場町を二分するやくざの一方、清兵衛の女房おりんを演じている。息子を跡継ぎにしようと算段をめぐらせる打算的な「姐御」で、三船敏郎演じる桑畑三十郎を相手に、気の強さと計算高さを見せた。
同じ1957年には小津安二郎の『東京暮色』にも出演しており、山田が出た小津作品はこの1本だけである。原節子、有馬稲子の姉妹の実の母親で、家族を捨てて出て行った女・喜久子の役だった。
「五十鈴十種」[編集]
1987年には、ファン投票で自身の主演作から10本を選ぶ企画が行われ、「五十鈴十種」と名付けられた。歌舞伎の「歌舞伎十八番」を思わせる命名で、映画女優としてのキャリアがそれだけ厚かったことを物語っている。
舞台女優として[編集]
映画から舞台へ[編集]
1950年代後半から活動の中心は舞台に移っていく。1959年には『関漢卿』で滝沢修と共演し、1962年には東宝演劇部と専属契約を結んだ。以後は東宝の商業演劇の看板女優として、毎年のように主演作を出し続けた。
代表作は、明治の女流三味線の名人・立花家橘之助を演じた『たぬき』。劇中で浮世節を弾き語りする姿が評判となり、1974年の芸術祭大賞を受けた。ほかに有吉佐和子原作の『香華』、『華岡青洲の妻』(1967年芸術座初演)、『淀どの日記』、『津軽三味線ながれぶし』、『愛染め高尾』、新派に参加した『太夫さん』などがある。『津軽三味線ながれぶし』では、歌手の三橋美智也と三味線の連れ弾きを披露した。
三大女優と受賞[編集]
水谷八重子、杉村春子とともに「三大女優」と並び称された。芸術祭大賞は『たぬき』(1974年)、『愛染め高尾』(1977年)、『太夫さん』(1983年)と3度受けている。1982年には毎日芸術賞、1990年には菊田一夫演劇賞大賞を受賞した。
1993年から1995年には池波正太郎原作の『鬼平犯科帳』の舞台にも出演した。最後の舞台は、2001年の『桜の園』の朗読会である。18歳から84歳まで、舞台に立った期間はじつに70年近くに及ぶ。
「ばかなんでしょうね」[編集]
「徹子の部屋」には2000年までに計11回出演した。芸能生活40周年の新作舞台の稽古について、黒柳が「うらやましい」と言うと、山田は「ばかなんでしょうね」と答えたという。舞台に携わる限り、ほかの生き方はできないという思いを込めた言葉だった。
テレビと『必殺』シリーズ[編集]
草創期からのテレビ出演[編集]
テレビには1957年から出演している。NHK大河ドラマでは『赤穂浪士』(1964年)、『源義経』(1966年)、『葵 徳川三代』(2000年)に出演。1965年には有吉佐和子原作のドラマ『香華』(ポーラ名作劇場)にも出演した。
出演のきっかけは「自分から電話」[編集]
山田と『必殺』シリーズの縁は、本人の売り込みから始まった。娘の瑳峨三智子が出演した回を見た山田が、自ら朝日放送に電話をかけて出演を希望したとされる。このとき山田はすでに60歳近く、映画・舞台の大女優が自ら民放の時代劇に名乗りを上げた形である。
花乃屋仇吉と泣き節お艶[編集]
最初の主演は1976年の『必殺からくり人』(全13話)。深川で三味線の師匠をしながら、夜は屋形船で流しの三味線を弾く元締・花乃屋仇吉を演じた。もとは深川の辰巳芸者で、「涙以外とは手を組まない」が信条。武器は三味線の撥で、悪人の喉元を斬る。メインライターは早坂暁で、共演は緒形拳、森田健作、ジュディ・オング、芦屋雁之助、間寛平ら。最終話で仇吉は宿敵と相討ちになって息絶える。
1977年から1978年の『新 必殺からくり人』(全13話)では、旅芸人一座の座長・泣き節お艶を演じた。安藤広重の浮世絵『東海道五十三次』をモチーフにしたシリーズ初の「旅もの」で、広重が道中で見た悪人の仕置を依頼し、一座が江戸から京都へ殺しの旅を続ける。お艶も新内節の三味線を弾く策士で、殺しはやはり撥である。
女元締おりく[編集]
1979年の『必殺仕事人』ではおとわを演じ、1981年の『新・必殺仕事人』(全55話)から、当たり役となる三味線屋のおりくが登場する。柳橋で三味線屋を営む女将で、表では息子の勇次(中条きよし)と店を切り盛りし、裏では撥で悪人の喉笛を斬る。勇次とは血のつながりがなく、掟を破った仕事仲間を自ら手にかけ、その遺児を引き取って育てたという重い過去を持つ。
おりく役は『必殺仕事人V』まで続き、シリーズへの出演は約10年に及んだ。『必殺仕事人V』で共演した村上弘明は、山田が出番の合間に誰よりも早くスタジオに入り、背筋を伸ばして待っていたこと、本番の声がかかると一瞬で「殺し屋おりく」になったことを回想している。
受賞と文化勲章[編集]
女優初の文化勲章[編集]
1993年に文化功労者に選ばれ、同年には松尾芸能賞大賞と朝日賞も受けた。そして2000年、女優として初めて文化勲章を受章した。同年には名誉都民にも選ばれている。
それまで演劇界の女性では、1995年に「三大女優」の一人、杉村春子が文化勲章を辞退したことが知られていた。山田の受章はその5年後のことで、映画と舞台の両方で70年にわたって第一線に立ち続けたキャリアが評価された形である。のちに森光子も2005年に文化勲章を受章している。
主な受賞歴[編集]
- ブルーリボン賞 主演女優賞(1952年、1956年)、助演女優賞(1955年)
- 毎日映画コンクール 女優主演賞(1952年、1956年)
- キネマ旬報ベスト・テン 女優賞(1956年、1957年)
- 芸術選奨文部大臣賞(1958年、1984年)
- 芸術祭大賞(1974年、1977年、1983年)
- 毎日芸術賞(1982年)
- 菊田一夫演劇賞大賞(1990年)
- 文化功労者、松尾芸能賞大賞、朝日賞(1993年)
- 文化勲章、名誉都民(2000年)
- 日本アカデミー賞協会栄誉賞(2001年)
- 従三位(2012年、没後)
人物・家族[編集]
結婚歴[編集]
結婚は4回と報じられている。最初の夫は俳優の月田一郎で、1935年に長女の美和子が生まれた。のちの女優・瑳峨三智子である。月田とは1940年に別居、1942年に離婚し、娘は月田家が引き取った。
1942年には映画プロデューサーの滝村和男と再婚したが、1年余りで離婚。1950年に俳優の加藤嘉と結婚し、1954年に協議離婚した。同年、俳優の下元勉と結婚している。加藤嘉との結婚後には、劇団民芸に加わり、仲間と現代俳優協会を立ち上げるなど、演劇活動にも力を入れた。
娘・瑳峨三智子[編集]
娘の瑳峨三智子は松竹などで活躍した女優だったが、幼いころに母と離れて育った経緯もあり、母娘の間にはわだかまりが残ったとされる。撮影所で再会した際にも、娘は母を「山田さん」と呼んだという。瑳峨は1992年に亡くなっており、母娘は最後まで和解しなかったとも伝えられる。
晩年[編集]
1980年ごろに京都市の自宅を引き払い、東京都内の帝国ホテルの一室で暮らすようになった。安全が保障され、お手伝いを雇う必要もないというのが理由とされる。
2002年4月に脳梗塞で倒れ、この年を最後に公の場には出なくなった。テレビへの出演もこの年が最後である。2009年ごろにはリハビリに励んでいると伝えられていた。2012年7月9日、多臓器不全のため東京都稲城市の病院で死去。95歳だった。通夜・葬儀には約600人が参列し、山田を慕う後輩俳優たちの集まり「養子会」のメンバーである市村正親、西郷輝彦、榎木孝明、萬田久子らも参列した。墓所は京都の大徳寺三玄院にある。
没後の再評価[編集]
没後7年目の2018年には、18歳から84歳までの膨大な舞台写真と、松本白鸚、中村吉右衛門、片岡仁左衛門、坂東三津五郎ら交流のあった演劇人50人へのインタビューを収めた写真集『女優 山田五十鈴』が出版された。2022年には東京・神保町シアターで特集上映「没後10年 女優・山田五十鈴」が開かれ、『浪華悲歌』『祇園の姉妹』『鶴八鶴次郎』『流れる』など16作品が上映された。2024年には『文藝春秋』の特集「昭和100年の100人」で、村上弘明が山田との思い出を寄稿している。
余談[編集]
- 本名は「美津」なのに、愛称は「ベルさん」。芸名の「五十鈴」の「鈴(ベル)」から来ているとされる。
- 1987年のファン投票で選ばれた主演作10本を「五十鈴十種」と名付けた。歌舞伎の「歌舞伎十八番」を思わせるネーミングである。
- 1975年の新藤兼人監督のドキュメンタリー『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』には、本人として出演し溝口について語っている。
- 小津安二郎作品への出演は『東京暮色』1本だけ。溝口門下の山田を小津がほとんど起用しなかったことは、映画ファンの間でしばしば話題になる。
- 『必殺』シリーズへの出演は自分から朝日放送に電話して希望したもので、きっかけは娘・瑳峨三智子の出演回だったとされる。
- 晩年の住まいは帝国ホテル。ホテル暮らしの大女優という、昭和のスターらしい伝説を残した。
- 2000年のNHKドラマ『マッチポイント!』では、80歳を超えてなお、共演の村上弘明が驚くほどの色気と華やかさを見せていたという。
