志村喬
Takashi Shimura
Shimura_Takashi.JPG
志村喬(1956年『アサヒグラフ』掲載。出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン)
本名 島崎捷爾(しまざき しょうじ)
誕生日 1905年3月12日
死亡日 1982年2月11日
死亡年齢 76歳
出身地 兵庫県朝来郡生野町(現・朝来市生野町)
国籍 日本
家族 妻・志村政子(本名・島崎政子)
身長 163cm
学歴 関西大学専門部英文科(夜間)中退
職業 俳優
活動期間 1928年 - 1981年
代表的な実績 『生きる』渡邊勘治役、『七人の侍』島田勘兵衛役、『ゴジラ』山根恭平博士役、黒澤明監督作品21本に出演
受賞 毎日映画コンクール男優演技賞(1949年度)、紫綬褒章、勲四等旭日小綬章
事務所 新興キネマ → 日活 → 東宝


概要[編集]

志村喬(しむら たかし、1905年3月12日 - 1982年2月11日)とは、日本の俳優である。黒澤明監督作品30本のうち21本に出演した「黒澤組」最古参の常連で、『生きる』の渡邊勘治、『七人の侍』の島田勘兵衛、『ゴジラ』の山根博士などで知られる。生涯の映画出演は400本を超え、主役でも脇役でも画面を締める「日本映画の顔」だった。

詳細[編集]

生野の鉱山町に生まれる[編集]

本名は島崎捷爾(しまざき しょうじ)。1905年(明治38年)3月12日、兵庫県朝来郡生野町(現・朝来市生野町)に生まれた。生野は銀山で知られた鉱山町で、父は三菱の鉱山関係の仕事に就いており、一家は鉱山職員の社宅「甲社宅」に住んでいた。家系は士族で、祖父は戊辰戦争の鳥羽・伏見の戦いに加わった人物だったと伝わる。実兄の島崎敬夫は後に横浜ゴムの社長になっている。

1911年に生野尋常小学校へ入学し、1917年には名門の旧制神戸一中に進んだ。ところが軽い肺結核を患って2年ほど学業を中断し、父の転勤に合わせて宮崎県の県立延岡中学校に転校する。延岡では英語が得意で、ボート部の花形選手でもあったという。のちに「最も日本人らしい日本人」を演じた名優の少年時代は、意外にもスポーツマンで英語好きだった。

関西大学と大阪の劇団時代[編集]

1923年、関西大学予科に入学。しかし父が退職して学費をまかなえなくなり、夜間の専門部英文科に移って、昼は大阪市の水道局に勤めながら通学した。この英文科で劇作家・豊岡佐一郎らの教えを受けたことが芝居の道への入口になる。学内の演劇研究会に参加し、1928年にはアマチュア劇団「七月座」を仲間と結成した。

七月座はやがてプロ劇団化を図るものの財政難で解散。志村は大学を中退して演劇に専念し、1930年に五月信子の劇団「近代座」に加わって職業俳優となった。近代座では中国や日本各地を巡業し、その後も大阪の劇団を転々とする。この頃トーキー(発声映画)が登場し、「舞台で鍛えた声が生きる時代が来る」と見た志村は、映画界への転身を考えるようになった。本人は後年、自分の顔は無声映画向きではないがトーキーなら勝負できる、と考えていたと語っている。

新興キネマから日活へ、時代劇の大部屋俳優[編集]

1934年(昭和9年)、新興キネマ京都撮影所に入社し、無声映画『恋愛街一丁目』(上砂泰蔵監督)で映画デビューした。29歳のデビューで、撮影所には自転車で通っていたという。当初は剣劇映画の大部屋俳優という扱いだったが、1936年には年に10本以上へ出演するまでになり、同年の溝口健二監督『浪華悲歌』(山田五十鈴主演)では峰岸刑事役、伊丹万作監督『赤西蠣太』では角又鱈之進役を演じて、確かな腕を持つ脇役として注目を集めた。

1936年にマキノトーキー製作所を経て、1937年に日活京都撮影所へ移籍。ここで嵐寛寿郎主演の『右門捕物帖』シリーズに、右門のライバルである与力「あばたの敬四郎」役でレギュラー出演し、とぼけた敵役として人気を得る。1939年には年間26本に出演するほどの売れっ子で、日活時代だけで100本近い作品に出た。同年のマキノ正博監督のオペレッタ時代劇『鴛鴦歌合戦』では、骨董狂いの浪人・志村狂斎役で歌まで披露している。

東宝入りと黒澤明との出会い[編集]

戦時統合で日活の製作部門が大映に組み込まれる中、志村は1942年に興亜映画を経て、1943年に東宝へ移籍した。同年、黒澤明の監督デビュー作『姿三四郎』で柔術師範・村井半助を演じる。これが黒澤との37年に及ぶ付き合いの始まりで、以後の黒澤作品の大半に顔を出すことになる。

戦時中には、若い頃に左翼系の新劇に関わっていた経歴を理由に特別高等警察(特高)に検挙され、約3週間(約20日間)拘留される経験もした。妻の政子と俳優の月形龍之介が保釈に奔走して釈放されたとされる。志村はこの体験を、戦後の黒澤作品『わが青春に悔なし』(1946年)で特高の刑事役を演じる際に生かしたといわれる。

経歴[編集]

戦後黒澤映画の主役へ(1948年 - 1955年)[編集]

戦後、志村は黒澤映画の中心に立つ。1948年の『醉いどれ天使』では、闇市のそばで開業する酒好きの貧乏医者・真田を演じて主演に抜擢された。結核を患うヤクザ(三船敏郎)を叱り飛ばしながらも見捨てない医者の姿は、戦後日本映画の名場面として語り継がれている。

1949年には『静かなる決闘』の医師・藤崎と『野良犬』のベテラン刑事・佐藤を演じ、両作で第4回毎日映画コンクール男優演技賞を受賞した。『野良犬』の役作りでは、実際に中年刑事の聞き込みに一日同行したと伝えられる。若手の三船を相手に、焦る新米刑事を落ち着かせる佐藤刑事の包容力は、のちの「頼れる父親像」の原型となった。

1950年の『羅生門』では、事件の目撃者である杣売り(そまうり)を演じ、この作品がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を獲ったことで、志村の顔も世界に知られるようになる。続く1952年の『生きる』では、胃癌で余命いくばくもないと悟った市役所の市民課長・渡邊勘治を主演。役所の「事なかれ主義」の中で死んだように生きてきた男が、最後に小さな公園づくりに奔走するという物語で、志村の代表作中の代表作となった。

『七人の侍』と『ゴジラ』の1954年[編集]

1954年は志村にとって特別な年である。4月公開の『七人の侍』では、野武士に狙われた村を守るため浪人を集める老練なリーダー・島田勘兵衛を演じた。冒頭、子供を人質にとった盗人を退治するため、髷を落として僧侶に化けるシーンは日本映画屈指の名登場シーンとして知られる。三船敏郎演じる菊千代が暴れ回る一方で、勘兵衛は物静かに全体を束ねる要(かなめ)であり、作品の重心は志村が担っていた。

同じ1954年の11月には、本多猪四郎監督・円谷英二特技監督の『ゴジラ』が公開され、志村は古生物学者・山根恭平博士を演じた。ゴジラを「水爆にも耐えた生物」として研究すべきだと訴え、駆除一辺倒の風潮に疑問を投げかける科学者であり、ラストの「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」という台詞はシリーズの原点として今も引用される。翌1955年の『ゴジラの逆襲』にも同じ山根博士役で続投しており、これは昭和ゴジラシリーズで役者・役柄ともにそのまま続投した唯一の例とされる。

つまり1954年の志村は、世界映画史に残る時代劇の主役と、怪獣映画の原点の重要人物を同じ年に演じたことになる。黒澤映画と東宝特撮という、日本映画を代表する二大ジャンルの両方で「顔」になった俳優は、志村のほかにほとんどいない。

脇役への転換と東宝の重鎮(1955年 - 1960年代)[編集]

1955年の黒澤作品『生きものの記録』を最後に、志村は黒澤映画で主役級を演じることはなくなり、以後は脇役に回る。それでも『蜘蛛巣城』(1957年)の小田倉則保、『隠し砦の三悪人』(1958年)の侍大将・長倉和泉、『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)の公団管理部長、『用心棒』(1961年)の造酒屋徳右衛門、『椿三十郎』(1962年)の黒藤次席家老、『天国と地獄』(1963年)の捜査本部長、『赤ひげ』(1965年)の和泉屋徳兵衛と、ほぼ毎作に出演した。

黒澤作品以外でも、1955年の丸山誠治監督『男ありて』ではプロ野球の監督・島村を演じ、黒澤作品以外での主演級の代表作となった。東宝特撮では『地球防衛軍』(1957年)の安達博士、『日本誕生』(1959年)、『モスラ』(1961年)の天野貞勝、『妖星ゴラス』(1962年)の園田博士、『フランケンシュタイン対地底怪獣』(1965年)の老軍医など、「科学者」「重鎮」役の常連でもあった。1961年のベルリン国際映画祭には黒澤の代理として出席している。

テレビと晩年の名脇役(1960年代後半 - 1981年)[編集]

1960年代後半からは大作映画とテレビドラマが活動の中心になった。映画では東宝の『日本のいちばん長い日』(1967年)で情報局総裁・下村宏、石原裕次郎・三船敏郎主演の『黒部の太陽』(1968年)で関西電力社長・芦原義重、『華麗なる一族』(1974年)、『新幹線大爆破』(1975年)の国鉄総裁など、組織の重鎮役を次々に演じた。

山田洋次監督の『男はつらいよ』(1969年)第1作では、さくら(倍賞千恵子)の夫となる諏訪博の父・飈一郎(ひょういちろう)役で出演。北海道大学の名誉教授という設定の頑固だが情の深い父親で、その後のシリーズ作品にも同役で登場している。博役の前田吟は少年時代から志村のファンで、父親役が志村に決まったと聞いて感激したと語っている。

テレビではNHK大河ドラマ『赤穂浪士』(1964年)をはじめ、『大坂城の女』(1970年)の千利休、『天皇の世紀』、『一心太助』の大久保彦左衛門、TBSの『赤い運命』(1976年)、『女たちの忠臣蔵』(1979年)、『不毛地帯』(1979年)など多数に出演。晩年は向田邦子脚本の『冬の運動会』『あ・うん』(1980年)でも重厚な演技を見せた。

闘病と死去[編集]

1974年に肺気腫と診断されたが、その後も仕事を続けた。1977年頃から病状が悪化し、入退院を繰り返すようになる。1978年には熊井啓監督の『お吟さま』で千宗易(利休)を演じ、豊臣秀吉役の三船敏郎と最後の共演を果たした。

1980年、黒澤明の『影武者』に田口刑部役で出演。これは黒澤が志村のために用意した役だったが、海外公開版では志村の出演場面がカットされ、のちにクライテリオン・コレクションのソフトで復元された。1981年の映画『日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章』では病を隠して役を演じきり、これが最後の映画出演となった。同年6月放送のドラマ『続 あ・うん』が最後の演技とされる。

1982年(昭和57年)2月11日、慢性肺気腫による肺性心のため、東京の慶應義塾大学病院で死去した。76歳、77歳の誕生日まであと1か月だった。

黒澤明作品への出演[編集]

志村喬は黒澤明の監督作品30本のうち21本に出演しており、これは黒澤作品の最多出演記録である。三船敏郎の16本を上回り、しかもデビュー作『姿三四郎』(1943年)から『影武者』(1980年)まで、三船よりも早く、長く黒澤と組んでいる。

No. 公開年 作品 役名 備考
1 1943 姿三四郎 村井半助 黒澤の監督デビュー作。柔術師範
2 1944 一番美しく 石田五郎 軍需工場が舞台
3 1946 明日を創る人々 劇団頭取 山本嘉次郎・関川秀雄と共同監督
4 1948 醉いどれ天使 真田 主演。三船敏郎と初の黒澤作品での共演
5 1949 静かなる決闘 藤崎孝之輔 毎日映画コンクール男優演技賞
6 1949 野良犬 佐藤刑事 毎日映画コンクール男優演技賞
7 1950 醜聞 蛭田乙吉 弱さを抱えた弁護士役
8 1950 羅生門 杣売り ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞
9 1951 白痴 大野 ドストエフスキー原作。製作は大映
10 1952 虎の尾を踏む男たち 片岡 1945年製作、1952年公開
11 1952 生きる 渡邊勘治 主演。最大の代表作
12 1954 七人の侍 島田勘兵衛 七人の侍のリーダー
13 1955 生きものの記録 原田 主役級としては最後の黒澤作品
14 1957 蜘蛛巣城 小田倉則保 『マクベス』の翻案
15 1958 隠し砦の三悪人 長倉和泉 秋月家の侍大将
16 1960 悪い奴ほどよく眠る 守山(公団管理部長) 汚職がテーマ
17 1961 用心棒 造酒屋徳右衛門 宿場町の有力者
18 1962 椿三十郎 黒藤(次席家老) 汚職側の重役
19 1963 天国と地獄 捜査本部長 誘拐事件の捜査を指揮
20 1965 赤ひげ 和泉屋徳兵衛 三船敏郎との黒澤作品最後の共演
21 1980 影武者 田口刑部 最後の黒澤作品。海外版では出演場面カット

※1952年公開の『虎の尾を踏む男たち』は終戦直後に製作されたが、占領軍の検閲により公開が遅れた作品である。

黒澤は主役について「何もしないで出入りすればいい」という考えだったのに対し、志村は脇役には脇役の「小手の利く演技」が必要だと考えていたとされ、二人の演技観は必ずしも一致していなかった。それでも黒澤は志村を最も信頼する俳優の一人として扱い、志村も黒澤を「脇役を大事にする監督」と評していた。志村は俳優を、監督という画家に使われる「生きた絵具」にたとえ、目立たないことこそがよいと語っていたという。

『生きる』と『七人の侍』[編集]

『生きる』の渡邊勘治[編集]

『生きる』(1952年)は、志村が映画史に名を刻んだ作品である。市役所の市民課長・渡邊勘治は、30年間無欠勤ながら実質的には何もしてこなかった男で、胃癌を悟ってから初めて「生きる」ことを考え始める。ブランコに揺られながら「ゴンドラの唄」(いのち短し恋せよ乙女)を口ずさむラストシーンは、日本映画を代表する名場面のひとつである。

撮影に入る直前、志村は盲腸の手術を受けた。移動性盲腸だったため手術が大がかりになり、体重がかなり落ちてしまったが、黒澤はむしろそのやつれた状態を保つよう求めたとされる。さらに撮影中、志村は役になりきるあまり、本当に自分が胃癌で余命半年だと思い込むようになり、実際に胃の調子が悪くなって「本当に癌になったのでは」と心配したこともあった。診断は神経性胃炎だったという。

この演技で志村は英国アカデミー賞(BAFTA)の外国男優賞にノミネートされている。『生きる』は2022年に、カズオ・イシグロ脚本、ビル・ナイ主演の英国映画『生きる LIVING』としてリメイクされ、改めて原典の志村の演技が注目された。

『七人の侍』の島田勘兵衛[編集]

『七人の侍』(1954年)の島田勘兵衛は、数々の戦に敗れてきた浪人で、百姓たちの頼みを受けて侍を集め、野武士との戦いを指揮する。派手な剣技を見せるのは久蔵(宮口精二)や菊千代(三船敏郎)だが、作戦を立て、仲間をまとめ、最後に「勝ったのはあの百姓たちだ」と静かにつぶやく勘兵衛がいなければ作品は成立しない。

七人の一人・林田平八を演じた千秋実は後年、勘兵衛が木賃宿で百姓の差し出した飯を前に「この飯、おろそかには食わんぞ」と言う場面を挙げ、この台詞と表情だけで泣かされたと回想している。志村自身もこの場面と台詞が好きだと何度も語っていたという。千秋実は、山場でもやりすぎない志村の抑制こそが感動を生むと評し、「芝居に見えない芝居」と表現した。

『ゴジラ』と東宝特撮[編集]

志村は東宝特撮映画の常連でもあった。特に本多猪四郎監督とは家族ぐるみの付き合いで、本多作品に多く出演している。

公開年 作品 役名 備考
1954 ゴジラ 山根恭平博士 古生物学者。ヒロイン恵美子の父
1955 ゴジラの逆襲 山根恭平博士 前作から同役で続投
1957 地球防衛軍 安達博士 ミステリアンの侵略を描くSF
1959 日本誕生 熊曽建(兄) 三船敏郎主演の神話大作
1961 モスラ 天野貞勝 新聞社の編集局長
1962 妖星ゴラス 園田謙介 天文学者
1964 三大怪獣 地球最大の決戦 塚本博士 脳外科医
1965 フランケンシュタイン対地底怪獣 老軍医 広島の病院の軍医
1974 ノストラダムスの大予言 病院院長 晩年の特撮出演

山根博士は、ゴジラを「殺す」ことより「研究する」ことを主張する人物で、娘・恵美子の元婚約者である芹沢博士がオキシジェン・デストロイヤーを使ってゴジラを倒した後、「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない。もし水爆実験が続けて行われるとしたら、あのゴジラの同類がまた世界のどこかへ現れて来るかもしれない」と語って物語を締めくくる。この台詞は、シン・ゴジラやゴジラ-1.0に至るまで続くシリーズの原点として、たびたび言及される。

主な出演作[編集]

映画[編集]

公開年 作品 役名 監督・備考
1934 恋愛街一丁目 - 上砂泰蔵。映画デビュー作(無声映画)
1936 浪華悲歌 峰岸五郎刑事 溝口健二
1936 赤西蠣太 角又鱈之進 伊丹万作。評価を高めた一本
1939 鴛鴦歌合戦 志村狂斎 マキノ正博。歌唱も披露
1939 - 1941 右門捕物帖シリーズ あばたの敬四郎 嵐寛寿郎主演
1943 姿三四郎 村井半助 黒澤明
1947 銀嶺の果て - 谷口千吉。三船敏郎のデビュー作
1948 醉いどれ天使 真田 黒澤明。主演
1949 野良犬 佐藤刑事 黒澤明
1950 羅生門 杣売り 黒澤明
1952 生きる 渡邊勘治 黒澤明。主演
1954 七人の侍 島田勘兵衛 黒澤明
1954 ゴジラ 山根恭平 本多猪四郎
1955 男ありて 島村達郎 丸山誠治。主演
1957 蜘蛛巣城 小田倉則保 黒澤明
1961 用心棒 徳右衛門 黒澤明
1963 天国と地獄 捜査本部長 黒澤明
1967 日本のいちばん長い日 下村宏(情報局総裁) 岡本喜八
1968 黒部の太陽 芦原義重 熊井啓
1969 男はつらいよ 諏訪飈一郎 山田洋次
1974 華麗なる一族 安田太左衛門 山本薩夫
1975 新幹線大爆破 国鉄総裁 佐藤純彌
1978 お吟さま 千宗易 熊井啓。三船敏郎と最後の共演
1980 影武者 田口刑部 黒澤明。最後の黒澤作品
1981 日本フィルハーモニー物語 炎の第五楽章 - 最後の映画出演

テレビドラマ[編集]

放送年 作品 役名 備考
1964 赤穂浪士 - NHK大河ドラマ
1966 - 1967 戦国太平記 真田幸村 大谷吉継
1970 大坂城の女 千利休
1971 天皇の世紀 吉田東洋
1971 - 1972 一心太助 大久保彦左衛門
1976 赤い運命 吉野剛造 TBS「赤いシリーズ」
1979 女たちの忠臣蔵 堀部弥兵衛 TBS
1979 不毛地帯 谷川元陸軍大佐
1980 - 1981 あ・うん/続 あ・うん - NHK。向田邦子脚本。最後の演技

このほか『大岡越前』、『男たちの旅路』、東芝日曜劇場、必殺シリーズなどにも出演している。

受賞・栄典[編集]

年 賞・栄典 対象
1950 第4回毎日映画コンクール 男優演技賞(1949年度) 『静かなる決闘』『野良犬』
1960 英国アカデミー賞 外国男優賞 ノミネート 『生きる』
1974 紫綬褒章 長年の俳優活動(1975年とする資料もある)
1980 勲四等旭日小綬章

英国アカデミー賞の外国男優賞には生涯で2度ノミネートされている。また1961年のベルリン国際映画祭で、『生きる』の演技に対してセルズニック金賞を贈られたとする資料もある。

人物[編集]

妻・政子と「親代わり」の志村家[編集]

妻の政子は8歳年下で、神戸の料亭の娘だった。見合い結婚で、二人の間に子どもはいなかった。戦時中に志村が特高に拘留された際には、政子が保釈のために奔走したとされる。

子どもがいなかった志村夫妻にとって、息子のような存在だったのが三船敏郎である。三船はデビュー間もない頃、志村の家に下宿しており、当時三船に届いた手紙の宛先には「志村喬方」と書かれていた。黒澤明が『醉いどれ天使』の頃、志村に三船の親代わりを頼んだのが始まりとされ、ロケ先では志村と三船がいつも同じ部屋だったという。三船は志村夫妻を実の両親のように慕い、三船が家庭を持ってからも家族ぐるみの付き合いが続いた。

二人は『銀嶺の果て』(1947年)から『お吟さま』(1978年)まで、映画51本とドラマ2本で共演している。三船が晩年に病床に伏した際には、政子が見舞いに訪れ、「三船ちゃん、しっかりしなさいよ!」と耳元で励まして頬を叩くと、三船の目から一筋の涙が流れたという逸話が残っている。

「大学教授」のような俳優[編集]

撮影現場の志村は派手に飲み歩くタイプではなく、台本の隅々まで目を通してびっしりと書き込みをし、共演者の芝居まで頭に入れていた。前田吟は、その姿を「大正期の大学教授」のような奥ゆかしさと表現し、気軽に話しかけられなかったと振り返っている。若い俳優が現場で芝居を覚えることには批判的で、稽古は日々のうちに済ませておくべきだと考えていた。

三船敏郎や勝新太郎のような「スター」のオーラを普段は出さず、スクリーンに映った途端に圧倒的な存在感を放つ。そうした意味で、純粋に「俳優」と呼ぶのがふさわしい人物だったと評されている。作家・澤地久枝は、志村を「器用ではないが役に没入しきる俳優」と評し、評伝『男ありて 志村喬の世界』を著した。

交友と趣味[編集]

三船のほか、渥美清、山村聰らに慕われた。東宝の後輩では宝田明、若林映子、夏木陽介らとも親しく、本多猪四郎とは家族ぐるみで付き合っていた。趣味はビリヤード、馬術、カメラ、小唄、弓道などで、40代後半からはゴルフも楽しんだ。

没後の顕彰[編集]

没後、志村の遺品は政子夫人の手を経て東京国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)に寄贈され、2010年に寄贈が完了した。2015年には同センターで企画展「生誕110年 映画俳優 志村喬」が開かれ、「演劇青年から時代劇俳優へ」「黒澤明との歳月」「日本映画の《顔》として」「素顔の志村喬」の4章構成で旧蔵資料が公開された。同館で男優を単独で取り上げた企画展はこれが初めてで、それまでは高峰秀子、田中絹代、香川京子といった女優の展示が行われていた。

故郷の朝来市生野町では、志村の生家があった旧生野鉱山職員宿舎「甲社宅」の一棟が、少年時代を過ごした大正期の姿に復原され、「志村喬記念館」としてゆかりの品を展示している(入館無料)。2022年には没後40年に合わせ、生前のスーツや直筆の色紙、パネルなど約90点を集めた回顧展もここで開かれた。

『七人の侍』『生きる』『羅生門』などの出演作は現在も繰り返し上映・ソフト化されており、2026年時点では『七人の侍』がU-NEXTで見放題配信、Amazon Prime Videoなどでレンタル配信されている。

余談[編集]

  • 『羅生門』『七人の侍』『生きる』と国際的に知られた作品に出演したため、海外の映画ファンの間でも知名度が高い。戦前の時代劇から晩年のテレビまで、生涯の映画出演は400本を超える(443本とする資料もある)。
  • 1945年の朝鮮半島でのロケがきっかけでキムチが好物になったという。
  • 戦前の『海援隊』(1939年)の撮影では、主演スターの遅刻や態度に腹を立て、かつらを投げつけて帰ってしまったという逸話がある。温厚な「教授」のイメージとは裏腹に、仕事に対しては厳しかった。
  • 映画『恐怖の時間』の撮影中、肩を揉まれていた最中に意識を失ったことがあり、医学生出身の俳優・土屋嘉男がとっさに応急処置をしたという。
  • 『男はつらいよ』の打ち上げの席で、山田洋次から『砂の器』(1974年)で前田吟と再び刑事コンビとして共演する構想を聞かされたが、双方が多忙で実現しなかったという。前田は、志村の今西刑事を見てみたかったと語っている。
  • 晩年のテレビの仕事を支えた向田邦子が1981年に航空機事故で亡くなった際、志村は夫人に「これでもう、テレビの仕事はこないな」と漏らしたという。実際、同年放送の『続 あ・うん』が最後の演技となった。
  • 『七人の侍』の勘兵衛の初登場シーンで、髷を落とし坊主頭になる場面は、のちの多くの映画・漫画でオマージュされている。

外部リンク[編集]

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