| 美空ひばり みそら ひばり / Hibari Misora | |
|---|---|
![]() 映画『憧れのハワイ航路』(1950年)の美空ひばり(出典:Wikimedia Commons) | |
| 本名 | 加藤和枝(かとう かずえ) |
| 誕生日 | 1937年5月29日 |
| 死亡日 | 1989年6月24日 |
| 死亡年齢 | 52歳(数え年53) |
| 出身地 | 神奈川県横浜市磯子区 |
| 国籍 | 日本 |
| ジャンル | 歌謡曲、演歌、ジャズ、映画 |
| 活動期間 | 1946年 - 1989年 |
| デビューアルバム | 1949年 シングル「河童ブギウギ」(日本コロムビア)、1949年 映画『のど自慢狂時代』 |
| 家族 | 母・加藤喜美枝(マネージャー)、長男(養子)・加藤和也(ひばりプロダクション社長)、妹・佐藤勢津子 |
| 事務所 | ひばりプロダクション(1958年設立) |
| 代表作 | 「悲しき口笛」「東京キッド」「リンゴ追分」「柔」「悲しい酒」「真赤な太陽」「愛燦燦」「川の流れのように」、映画『鞍馬天狗・角兵衛獅子』『ジャンケン娘』『べらんめえ芸者』シリーズ |
| ファンクラブ | 美空ひばり後援会 |
| 関連活動 | 映画主演(出演170本以上)、舞台・座長公演 |
| あだ名 | お嬢、ひばりちゃん、歌謡界の女王 |
| その他 | 日本レコード大賞(1965年「柔」)、国民栄誉賞(1989年、女性初)、NHK紅白歌合戦出場17回 |
| リンク | https://www.misorahibari.com/ |
概要[編集]
美空ひばり(みそら ひばり、1937年5月29日 - 1989年6月24日)とは、神奈川県横浜市出身の歌手・女優である。12歳で「悲しき口笛」を大ヒットさせて以来、「柔」「悲しい酒」「真赤な太陽」「川の流れのように」などを歌い、「歌謡界の女王」と呼ばれた昭和の大スター。映画出演は170本を超える。1989年に52歳で死去し、女性として初めて国民栄誉賞を受けた。
詳細[編集]
9歳の初舞台から「天才少女歌手」へ[編集]
1937年、横浜市磯子区の魚屋の家に生まれる。本名は加藤和枝。芸能好きの母・喜美枝に背中を押され、幼いころから人前で歌っていた。1946年にはNHKの『素人のど自慢』に出場したが、子どもらしくない歌いぶりが理由とされ、鐘は鳴らなかった。
それでも地元の杉田劇場などで舞台に立ち、1948年には横浜国際劇場の公演で喜劇人・川田晴久(当時は川田義雄)に抜擢される。同じ年には「美空ひばり」の芸名で新聞広告に名前が載っていたことが確認されている。1949年7月、日本コロムビアから「河童ブギウギ」でレコードデビュー。同年の松竹映画『悲しき口笛』に主演すると、シルクハットに燕尾服で歌う姿が評判となり、主題歌は当時としては破格の45万枚を売り上げた。12歳で、一気に国民的スターになった。
映画と歌の二刀流[編集]
ひばりのキャリアは「歌って演じる」の両輪で回っていた。1950年代前半は松竹の『東京キッド』『鞍馬天狗・角兵衛獅子』『リンゴ園の少女』などで主演し、映画の主題歌がそのままヒット曲になる流れを作った。1955年には東宝の『ジャンケン娘』で江利チエミ・雪村いづみと共演し、3人は「三人娘」として大人気となった。
1954年には東映と専属契約を結び、時代劇映画の黄金期を支える看板女優になる。東映専属時代(1954年〜1963年)の出演作だけで102本、東映京都撮影所での出演は63作品にのぼる。撮影に集中するため京都に住んだ時期もあり、京都を「第2のふるさと」と呼んでいたとされる。映画の総出演数は170本を超え、その大半が主演だった。
「歌謡界の女王」の歌唱力[編集]
レコーディングした曲は約1,500曲、そのうちオリジナル曲は517曲とされる。ジャンルは童謡風の歌からブギ、マンボ、ジャズ、民謡調、演歌、ポップスまで幅広く、「何でも歌える人」として語られる。2019年の発表では、シングル約4,850万枚を含むレコード・CD・映像などの総売上は約1億1,700万枚に達した。
耳と記憶力が飛び抜けていたとされ、英語の曲も一度聴けばその場で歌えたという話がある。楽譜は得意ではなく、音の上がり下がりを線で書き込んで覚えていたとも伝えられる。「悲しい酒」を歌うときに涙を流すのは有名で、本人は小さいころのつらい出来事を思い出していると語っていた。
52年の生涯と「不死鳥」[編集]
1987年4月、福岡市での公演中に体調を崩して入院。大腿骨頭壊死と慢性肝炎による療養生活となり、引退説も流れた。ところが同年8月に退院し、翌1988年4月11日、完成したばかりの東京ドームのこけら落とし公演として「不死鳥 美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」を開催。約5万人の観客の前で歌い切り、「不死鳥コンサート」として語り継がれている。
1989年1月に生前最後のシングル「川の流れのように」を発売。2月7日の九州厚生年金会館(北九州市)での公演が最後のステージとなった。同年6月24日、特発性間質性肺炎の悪化による呼吸不全のため52歳で死去。7月6日、女性として初めて国民栄誉賞が贈られた。
経歴[編集]
1937年 - 1949年:横浜の少女がスターに[編集]
1937年5月29日、横浜市磯子区で生まれる。終戦の翌1946年に地元で初舞台を踏み、1947年には杉田劇場で漫才コンビ・井口静波と音丸の前座として出演し、地方巡業にも加わった。1948年、横浜国際劇場で川田晴久の目に留まり、以後川田とは師弟のような関係を続ける。
1949年3月、東横映画『のど自慢狂時代』で映画初出演。7月30日に「河童ブギウギ」でレコードデビューし、同年秋公開の松竹『悲しき口笛』の主題歌が大ヒット。「天才少女歌手」として全国区の存在になる。
1950年代:三人娘と東映時代劇[編集]
1950年、川田晴久とともにハワイとアメリカ本土を巡業。戦後の日本人芸能人としてはかなり早い時期の海外公演だった。帰国後に公開された松竹『東京キッド』も大ヒットし、主題歌「東京キッド」は今も代表曲の一つ。1951年の松竹『鞍馬天狗・角兵衛獅子』では杉作役を演じ、以後この役は持ち役になった。1952年には「リンゴ追分」が大ヒットしている。
1954年、東映と専属契約。同年の第5回NHK紅白歌合戦に初出場した。1955年には東宝『ジャンケン娘』で江利チエミ、雪村いづみと「三人娘」を結成。1957年1月13日、浅草国際劇場の公演中に観客の少女から顔に塩酸をかけられる事件に遭ったが、顔に傷は残らず、まもなく舞台に復帰した。同年末の紅白歌合戦では出場2回目にして紅組のトリを務めている。1958年8月1日に個人事務所「ひばりプロダクション」を設立した。
1960年代:レコード大賞と結婚[編集]
1960年、「哀愁波止場」で第2回日本レコード大賞歌唱賞を受賞。1962年5月29日、25歳の誕生日に俳優・歌手の小林旭との婚約を発表し、11月5日に挙式したが、1964年に離婚した。当時は「理解離婚」という言葉とともに大きく報じられた。
1964年発売の「柔」は、日本テレビ系ドラマ『柔』の主題歌で、東京オリンピックで柔道が正式競技になった年とも重なって大ヒット。翌1965年に第7回日本レコード大賞を受賞した。1966年「悲しい酒」、1967年「真赤な太陽」とミリオンセラーが続き、紅白歌合戦では1963年から1972年まで10年連続で紅組トリを担当。1970年には紅組司会と大トリを兼ねた。
1970年代 - 1980年代前半:紅白を離れて[編集]
1973年、親族をめぐる報道が続いたことを背景に紅白歌合戦への出場を辞退し、通算出場は17回で止まった。以後はNHKの番組への出演を控えたが、1979年の紅白には特別出演している。1977年には加藤和也を養子に迎えた。
1980年代に入ると、1981年に二人三脚でキャリアを築いてきた母・喜美枝が死去。1982年には「三人娘」の盟友・江利チエミが急死し、その後も弟の死、親交の深かった石原裕次郎の死(1987年)と、身近な人との別れが相次いだ。1986年にはデビュー40周年の記念として「愛燦燦」を発売している。
1987年 - 1989年:闘病と最期のステージ[編集]
1987年4月22日、福岡市での公演中に体調不良を訴え、福岡市内の病院に入院。3か月半の療養を経て8月3日に退院し、同年中に新曲を録音するなど活動を再開した。
1988年4月11日、東京ドームで「不死鳥コンサート」を開催。同年12月にはアルバム『川の流れのように〜不死鳥パートII』を発表し、1989年1月11日に表題曲をシングルカットした。1989年2月から全国ツアー「歌は我が命」を始めたが、2月7日の北九州公演が生涯最後のステージになった。3月に再入院し、6月24日午前0時28分、東京都内の病院で死去。52歳だった。死去当日、主要テレビ局は通常番組を変更して追悼特集を組んだ。7月の本葬では北島三郎、都はるみ、雪村いづみ、森昌子ら多くの歌手が「川の流れのように」を霊前に捧げた。
代表曲[編集]
| 発売年 | 曲名 | 作詞 / 作曲 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1949年 | 悲しき口笛 | 藤浦洸 / 万城目正 | 主演映画の主題歌。約45万枚の大ヒット |
| 1950年 | 東京キッド | 藤浦洸 / 万城目正 | 松竹映画『東京キッド』主題歌 |
| 1952年 | リンゴ追分 | 小沢不二夫 / 米山正夫 | 少女期最大のヒットの一つ |
| 1960年 | 哀愁波止場 | 石本美由起 / 船村徹 | 第2回日本レコード大賞歌唱賞 |
| 1964年 | 柔 | 関沢新一 / 古賀政男 | 第7回日本レコード大賞。2019年時点で195万枚 |
| 1966年 | 悲しい酒 | 石本美由起 / 古賀政男 | 145万枚。涙を流して歌う姿が定番に |
| 1967年 | 真赤な太陽 | 吉岡治 / 原信夫 | ジャッキー吉川とブルー・コメッツとの共演。約140万枚 |
| 1986年 | 愛燦燦 | 小椋佳 / 小椋佳 | 味の素のCMソング。デビュー40周年の誕生日に発売 |
| 1989年 | 川の流れのように | 秋元康 / 見岳章 | 生前最後のシングル。2019年時点で205万枚、最大のヒット |
「柔」:断った曲が最大級のヒットに[編集]
当初ひばりは「柔道は男がやるもの」として依頼を断ったが、ドラマの監督・渡辺邦男の説得で引き受けたとされる。発売から半年足らずで180万枚を超え、「テレビ主題歌の演歌は当たらない」というジンクスを破った。1964年と1965年の紅白で2年続けて同じ曲を歌い、どちらも紅組トリだった。漫画『YAWARA!』では、主人公の祖父・猪熊滋悟郎がこの曲を口ずさむ場面がある。
「悲しい酒」:実はカバー曲[編集]
「悲しい酒」の初出は1960年に北見沢惇が歌ったシングルで、ひばり版はそのリメイクにあたる。北見沢版はヒットせず、編曲者の佐伯亮がカバーであることを伏せたまま作曲者の古賀政男に提案し、1966年にひばり版が発売された。結果は145万枚のミリオンセラーとなり、同年の紅白でも紅組トリで歌われた。
「真赤な太陽」:30歳のミニスカート[編集]
作曲の原信夫は、ひばりの母・喜美枝から依頼を受け、当初の演歌調をやめてジャズのリズムで書いたという。編曲はブルー・コメッツの井上忠夫(のちの井上大輔)。グループ・サウンズ全盛期に合わせた曲で、30歳のひばりは歌番組で初めてミニスカートをはき、ゴーゴーを踊りながら歌った。原はこの曲を江利チエミに渡すかどうかも迷っていたとされ、ヒット後にチエミが「本当は私の曲よ」と悔しがったという逸話がある。2017年には連続テレビ小説『ひよっこ』の劇中歌にもなった。
「愛燦燦」:CMで正体がバレた歌声[編集]
味の素の「家族愛」をテーマにしたCM(ハワイで撮影)のために作られた曲。小椋佳は最初に別の曲を書いたが差し替えとなり、CMに映る農家の女性と降り注ぐ日差しから「燦々」という言葉を軸に作ったという。放映当初は歌手名が伏せられていたが、声でひばりだとすぐに知れ渡った。発売当時の売れ行きは大きくなかったものの、ロングセラーとなった。
「川の流れのように」:本人が押し切った最後のシングル[編集]
自分の歌から遠い若い世代にメッセージを残したいというひばりの意向で、当時若者に人気の作詞家だった秋元康が起用された。スタッフはポップス調の「ハハハ」をシングルにするつもりだったが、ひばりが強く希望して「川の流れのように」に変更された。雨粒が川になり、大河を経て海へ至る流れを人生に重ねて、身振りを交えて説得したと伝えられる。
秋元はニューヨークで作詞しており、歌詞の「川」はイースト川がモデルとされる。ひばりの死後に売り上げが伸び、1997年のNHKの投票「20世紀の日本人を感動させた歌」では43万票余りを集めて1位になった。テレサ・テンや、1996年の来日公演でアンコールに歌ったホセ・カレーラスなど、海外の歌手にもカバーされている。
主な出演映画[編集]
| 公開年 | 作品名 | 配給・製作 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1949年 | のど自慢狂時代 | 東横映画 | 映画初出演 |
| 1949年 | 悲しき口笛 | 松竹 | 初主演。シルクハット姿が話題に |
| 1950年 | 憧れのハワイ航路 | 新東宝 | |
| 1950年 | 東京キッド | 松竹 | 川田晴久と共演 |
| 1951年 | 鞍馬天狗・角兵衛獅子 | 松竹 | 杉作役。以後持ち役に |
| 1952年 | リンゴ園の少女 | 松竹 | 「リンゴ追分」を歌う |
| 1953年 | お嬢さん社長 | 松竹 | |
| 1954年 | 伊豆の踊子 | 松竹 | 川端康成原作 |
| 1955年 | ジャンケン娘 | 東宝 | 江利チエミ・雪村いづみとの「三人娘」 |
| 1959年 - | べらんめえ芸者 シリーズ | 東映 | 現代劇の人気シリーズ |
| 1962年 | ひばりの佐渡情話 | 東映 |
東映専属時代は時代劇の娘役・若衆役を中心に、1年に10本以上の主演作が公開される年もあった。男装の若衆役は特に人気が高く、のちのステージでも「柔」などを男装で歌うことがあった。東映京都撮影所での縁から、記念館の一つは現在の東映太秦映画村の中に作られている(後述)。
東京ドーム「不死鳥コンサート」[編集]
こけら落としを飾った復活公演[編集]
1988年4月11日、東京ドームのこけら落とし公演として開催された。正式名称は「不死鳥 美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって」。前年に長期入院を経験したひばりにとって、文字通り「不死鳥」としての復活を示すステージで、約5万人の観客が詰めかけた。
「最後の大舞台」として[編集]
この公演は結果として、ひばりが生涯で立った最大規模のステージになった。後年、闘病期に書かれていた日記の存在も明らかになり、当時の体調は万全ではなかったと伝えられている。公演映像は繰り返しテレビ放送・ソフト化されており、2026年6月にはBS日テレで、従来のソフトとは別のカメラ素材を使って再編集した「デジタルリマスター版」が放送された。
人物[編集]
「お嬢」と母・喜美枝[編集]
業界内や周囲の人々からの愛称は「お嬢」。母・加藤喜美枝はマネージャーとしてひばりを支え続け、楽曲選びや作家への依頼にも深く関わった。「真赤な太陽」も喜美枝が原信夫に頼んだことから生まれている。
座右の銘[編集]
座右の銘は「今日の我に明日は勝つ」とされる。2026年1月にBS日テレで放送された特別番組のサブタイトルにもこの言葉が使われた。
京都と沖縄[編集]
東映時代に京都で暮らしたことから、京都を「第2のふるさと」と呼んだとされる。また1956年に初めて沖縄公演を行い、その後もチャリティー公演を重ねた。こうした縁から、2025年4月には戦後80年の節目として沖縄・うるま市と那覇市でひばりプロダクション主催の記念公演が開かれ、1972年の公演で歌ったとされる「安里屋ユンタ」の音源が初公開された。
加藤和也とひばりプロダクション[編集]
1958年設立のひばりプロダクションは、ひばりの死後も楽曲・映像・肖像の管理を続けている。現在の社長は長男の加藤和也で、記念館の運営、映像を使ったフィルムコンサート、テレビ特番への協力などを手がける。2026年の未発表曲発見の際には「母の歌声からは平和な青春の輝きを感じ取ることができる」とコメントした。
ゆかりの施設[編集]
嵐山から太秦へ[編集]
1990年代に京都・嵐山に記念館「美空ひばり館」が開館し、のちに「京都嵐山美空ひばり座」として約20年営業したが、2013年5月31日に閉館した。ファンの声を受けて東映太秦映画村への移築が進められ、同年10月に「京都太秦美空ひばり座」として再オープンしている。
東京目黒美空ひばり記念館[編集]
2014年5月28日、ひばりが1973年から亡くなるまで暮らした東京の旧宅の一部を改装し、「東京目黒美空ひばり記念館」として初めて一般公開した。駐車場には愛車のキャデラック、庭には大きな桜の木があり、和室の仏壇でひばりに手を合わせることができる。完全予約制で、長年ひばりに仕えたスタッフがお茶とお菓子でもてなす形式がとられた。加藤和也は旧宅について「母が唯一、自分に戻れる場所だった」と語っている。
生誕の地・横浜[編集]
生まれ育った横浜市磯子区では、ゆかりの杉田劇場(磯子区民文化センター)で「杉劇ひばりの日」と題したトーク&コンサートが恒例行事になっている。2002年には横浜にデビューを記念するブロンズ像が建てられた。
炎上とバズ[編集]
「AI美空ひばり」の誕生[編集]
2019年9月29日、NHKスペシャル『AIでよみがえる美空ひばり』が放送された。ヤマハがディープラーニングを使った歌声合成技術「VOCALOID:AI」で、ひばりの歌声と話し声の音源を学習させ、秋元康プロデュースの新曲「あれから」を「歌わせた」。振付は天童よしみ、衣装は森英恵が担当し、等身大のホログラム映像として再現された。権利を管理するひばりプロダクションと加藤和也もプロジェクトに関わっている。同年大晦日の第70回NHK紅白歌合戦にも「出場」し、大きな話題となった。
「冒涜」発言と賛否[編集]
2020年1月19日、山下達郎がTOKYO FMのラジオ番組『山下達郎のサンデー・ソングブック』で、紅白への出演やCD化には反対だというリスナーの投稿に対し「ごもっともでございます。一言で申し上げると冒とくです」と答えたことが報じられ、SNSでは「美空ひばり」がトレンド入りした。
批判側からは「歌だけならまだしも、曲間のセリフはいただけない」「故人を生きている人の都合で話させることになる」「AIで故人が都合よく神格化される」といった声が上がった。一方で、放送を見て当時を思い出し涙を流した視聴者も多く、その感動は否定できないとする意見や、「本人ではないと理解したうえで技術として楽しめばよい」という声もあった。ITジャーナリストからは、AIは人格の再現性が高いだけに「故人とAIは別物」という前提で使い方を議論すべきだという指摘も出た。また、秋元康がプロデューサーとして前面に出ていたことが反発を強めたのではないかと分析する論評もあった。
その後のバーチャルひばり[編集]
騒動の後もAIによる再現は続いている。2026年1月7日・8日には、BS日テレ開局25周年記念特番『令和に甦る美空ひばり ~今日の我に明日は勝つ~』で、最新技術による「バーチャル美空ひばり」が新宿区の歌舞伎町(かつて新宿コマ劇場で座長公演を重ねた場所)に現れる演出があり、新しい学校のリーダーズと「真赤な太陽」、市川由紀乃・三山ひろしらと「川の流れのように」を共演した。制作側は「当時の再現には現在の技術でもまだ及ばない点がある」とコメントしている。
2026年の動向[編集]
芸能活動80周年[編集]
2026年は1946年の初舞台から数えて「芸能活動80周年」にあたり、ひばりプロダクションが記念ロゴを作るなど1年を通じて記念企画が展開されている。5月29日には生誕89年の「美空ひばり生誕祭」が開かれた。
70年眠っていた未発表曲「二人きりで」[編集]
2026年5月、日本コロムビアが約11万本あるマスターテープのアーカイブ化作業中に、未発表曲「二人きりで」を発見したと発表した。1956年2月10日、18歳のときの録音で、作詞は藤浦洸、作曲は原六朗。同じ日に録音された「ワンワン物語」は1956年6月に発売されたが、この曲は何らかの理由で発売が見送られていた。没後に見つかったオリジナル曲としては2009年以来17年ぶりとされる。命日の6月24日に発売された4枚組の記念BOX『うたの宝石箱』に収録され、同日に配信もされた。ミュージックビデオもYouTubeで公開されている。
テレビ特番と各地のイベント[編集]
BS日テレは6月に3週連続で特別番組を放送し、『令和に甦る美空ひばり』の再放送、1981年の日本武道館公演「芸能生活35周年記念リサイタル」、不死鳥コンサートのデジタルリマスター版をオンエアした。6月21日には横浜の杉田劇場で80周年記念「杉劇ひばりの日」が開かれ、加藤和也、妹の佐藤勢津子らが出演した。
歌い継ぐ後輩たち[編集]
2026年9月2日には、氷川きよしのカバーアルバム『氷川きよし 美空ひばりを歌う』が発売された。全13曲のうち「東京キッド」「お祭りマンボ」「悲しい酒」「みだれ髪」「一本の鉛筆」「川の流れのように」の6曲が新録で、氷川は「今も尊敬し続けている偉大な存在」とコメントしている。
受賞歴[編集]
- 1960年 - 第2回日本レコード大賞 歌唱賞(「哀愁波止場」)
- 1965年 - 第7回日本レコード大賞(「柔」)
- 1989年 - 第31回日本レコード大賞 特別栄誉歌手賞(「川の流れのように」は金賞・作曲賞)
- 1989年7月6日 - 国民栄誉賞(女性初、受賞者として7人目。表彰理由は「歌謡曲を通じて国民に夢と希望を与えた」)
- 1990年 - 映画の殿堂入り
余談[編集]
- 1946年の『素人のど自慢』では予選の鐘が鳴らなかった。のちの「歌謡界の女王」の最初のつまずきとしてよく紹介される。
- 「柔」は2014年から2015年にかけて、作曲者・古賀政男が信仰した川崎大師の最寄り駅、京急大師線・川崎大師駅の接近メロディに使われた。
- 「川の流れのように」の作詞は、秋元康がタイトルから書き始めた唯一の曲とされる。2023年にはビールのCMソングにも起用された。
- 2026年の未発表曲「二人きりで」の発見は、日本コロムビアが保管する約11万本のマスターテープをデジタル化する作業の副産物だった。
- 1997年、「昭和を代表するスーパースター」として記念切手の図柄になった。
- 2007年の紅白歌合戦では、生誕70周年を記念して小椋佳が生前のひばりの映像と「愛燦燦」をデュエットした。
