| 成瀬巳喜男 なるせ みきお / Mikio Naruse | |
|---|---|
![]() 成瀬巳喜男(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン) | |
| 本名 | 成瀬巳喜男 |
| 誕生日 | 1905年8月20日 |
| 死亡日 | 1969年7月2日 |
| 死亡年齢 | 63歳 |
| 出身地 | 東京府東京市四谷区(現・東京都新宿区) |
| 国籍 | 日本 |
| 家族 | 元妻:千葉早智子(女優、1937年結婚・1940年離婚) |
| 学歴 | 工手学校(現・工学院大学)中退 |
| 職業 | 映画監督 |
| 肩書 | 映画監督 |
| 活動期間 | 1930年 - 1967年 |
| 代表的な実績 | 監督作は約90本。『妻よ薔薇のやうに』『めし』『稲妻』『晩菊』『浮雲』『流れる』『女が階段を上る時』『放浪記』『乱れる』『乱れ雲』 |
| 受賞 | キネマ旬報ベスト・ワン(『妻よ薔薇のやうに』『浮雲』)、毎日映画コンクール監督賞(『めし』『浮雲』)、ブルーリボン賞監督賞(『稲妻』『おかあさん』)、キネマ旬報賞監督賞(『浮雲』) |
| 事務所 | 松竹蒲田撮影所 → P.C.L.(のちの東宝) |
| 別名 | ヤルセナキオ |
| その他 | 高峰秀子の出演作は17本。林芙美子原作の映画化は6本 |
概要[編集]
成瀬巳喜男(なるせ みきお、1905年8月20日 - 1969年7月2日)とは、日本の映画監督である。松竹蒲田から東宝へ移り、市井の女性たちが金や男や家族に振り回されながらもしぶとく生きる姿を描き続けた「女性映画の名手」。代表作『浮雲』は日本映画の最高峰のひとつとされ、没後に海外で「小津安二郎・溝口健二・黒澤明に次ぐ第4の巨匠」として再発見された。
詳細[編集]
「4人目の巨匠」という立ち位置[編集]
日本映画の黄金期を語るとき、海外ではまず黒澤・小津・溝口の3人の名前が出る。成瀬巳喜男はその次に来る「4人目」として長く扱われてきた監督である。フランスの映画誌『カイエ・デュ・シネマ』が彼を「第4の巨匠」と呼んだのは、この位置づけをよく表している。
ただし「4番手だから格下」という話ではない。国内では1950年代から高い評価を受けており、『浮雲』は1955年度のキネマ旬報ベスト・ワンに選ばれ、1999年のキネマ旬報による「オールタイム・ベスト」でも日本映画の第3位に入った。海外での知名度が遅れたのは、派手な時代劇も様式美もない、地味な現代劇ばかりを撮っていたからだとよく言われる。
成瀬映画はどんな映画か[編集]
成瀬作品の舞台は、だいたい東京の下町や郊外の小さな家、場末の飲み屋、花街の置屋である。主人公は未亡人、芸者、バーのマダム、倦怠期の主婦など、社会の真ん中からは少し外れた女性たち。彼女たちは借金の返済や家賃、間代の計算に頭を悩ませ、頼りにならない男に裏切られ、それでも明日の暮らしのために動き続ける。
事件らしい事件はあまり起きず、目線の動き、ちょっとした会話、ちゃぶ台や縁側でのしぐさで人物の気持ちの揺れが伝わってくる。百科事典では「ペシミズムのメロドラマ作家」と書かれることもあるが、登場人物が絶望して終わる話ばかりではない。苦い現実をそのまま受け止めて、また日常に戻っていくラストが多いのが成瀬らしさである。
あだ名は「ヤルセナキオ」[編集]
成瀬には「ヤルセナキオ」というあだ名があった。名前の「ナルセミキオ」と、作品にただよう「やるせない」空気をかけた言葉遊びである。どこまでも報われない女性たちを描き続けた作風を、これほどうまく言い当てた呼び名もない。
ちなみに本名も成瀬巳喜男で、名前の「巳」は、巳年・巳月・巳日に生まれたことから付けられたとされる。1905年はたしかに巳年である。
経歴[編集]
1905年 - 1929年:小道具係から助監督へ[編集]
1905年、東京・四谷に、縫箔(刺繍)職人の父・利三と母・きなの次男として生まれた。鮫ヶ橋尋常小学校を出て工手学校(現在の工学院大学)に進んだが、父が亡くなったため中退している。
1920年、知人の紹介で松竹蒲田撮影所に小道具係として入社した。1922年ごろから池田義信の助監督につき、五所平之助のもとでも修業を積んだ。とはいえ監督に昇進するまでに約10年かかっており、同じ蒲田で次々と若手がデビューしていくなか、成瀬の下積みはかなり長かった。
1930年 - 1934年:松竹蒲田の若手監督[編集]
1930年、短編のナンセンス喜劇『チャンバラ夫婦』で監督デビュー。同年に『純情』『不景気時代』『愛は力だ』などを撮り、1931年の『腰弁頑張れ』で注目された。サラリーマン(腰弁)の悲哀を笑いと涙で描いた作品で、すでに後年の「庶民の生活と金」というテーマがのぞいている。
1932年の『蝕める春』はキネマ旬報ベストテン6位、1933年の『君と別れて』『夜ごとの夢』もベストテン入りし、特に『夜ごとの夢』はサイレント期の代表作として評価が高い。ところが撮影所での扱いはぱっとせず、個室ももらえない大部屋暮らしが続き、ほかの監督が断った脚本を回されたり、約束された企画を反故にされたりしたという。1934年の『限りなき舗道』が松竹での最後の作品になった。
1934年 - 1945年:P.C.L.移籍と芸道もの[編集]
1934年、成瀬は助監督の山本薩夫とともに、新興の映画会社P.C.L.映画製作所(のちの東宝)へ移籍した。1935年の『乙女ごころ三人姉妹』がP.C.L.での第1作で、同年の『妻よ薔薇のやうに』はキネマ旬報ベスト・ワンに輝き、一気に第一線の監督となった。この作品は1937年に『Kimiko』の題でニューヨークで公開され、アメリカで一般公開された最初の日本映画とされる。
1937年には『妻よ薔薇のやうに』の主演女優・千葉早智子と結婚し、長男が生まれたが、1940年に離婚している。同じ1937年の『雪崩』では、のちの黒澤明が助監督についていた。戦時中は『鶴八鶴次郎』『歌行燈』『芝居道』といった芸人の世界を描く「芸道もの」で評価を高めた。1941年の『秀子の車掌さん』は、のちの名コンビ高峰秀子との最初の作品である。
1946年 - 1950年:戦後の低迷期[編集]
戦後すぐの成瀬は、占領下の「民主主義」路線に合わせた『浦島太郎の後裔』『俺もお前も』『春のめざめ』などを撮ったが、いずれも本領発揮とはいかなかった。1948年の東宝争議のあとは、仲間と映画芸術協会に加わってフリーとなり、他社でも仕事をした。
1950年前後は『石中先生行状記』『白い野獣』『薔薇合戦』など、会社から回ってくる雑多な企画をこなす時期が続いた。その流れを一変させたのが、次の『めし』である。
1951年 - 1959年:『めし』から『浮雲』へ、黄金期[編集]
1951年の『銀座化粧』で銀座の女たちを描いたあと、同年の『めし』が大きな評価を受けて完全復活。毎日映画コンクール監督賞を受け、ここから林芙美子原作ものを中心とした傑作の時代が始まる。1952年には『おかあさん』『稲妻』でブルーリボン賞監督賞、1953年には『夫婦』『妻』『あにいもうと』、1954年には川端康成原作の『山の音』と林芙美子原作の『晩菊』を発表した。
1955年の『浮雲』でキャリアは頂点に達し、キネマ旬報ベスト・ワン、同監督賞、毎日映画コンクール監督賞などを総なめにした。1956年には『驟雨』『妻の心』、そして大女優をそろえた『流れる』を発表。1957年の『あらくれ』、1958年の『杏っ子』『鰯雲』(成瀬初のカラー作品)と、年に2〜3本のペースで撮り続けた。
1960年 - 1969年:晩年と遺作『乱れ雲』[編集]
1960年は『女が階段を上る時』『娘・妻・母』『夜の流れ』『秋立ちぬ』の4本を発表。1962年には林芙美子の自伝的小説を映画化した『放浪記』を撮った。1964年の『乱れる』では、未亡人の高峰秀子と、彼女に思いを寄せる義弟の加山雄三との揺れる関係を描いている。
1966年には『女の中にいる他人』『ひき逃げ』とサスペンス色の強い作品も手がけた。1967年の『乱れ雲』は、交通事故で夫を亡くした女性(司葉子)と、事故の加害者の男(加山雄三)との許されない恋を描いたメロドラマで、これが遺作となる。音楽は武満徹が担当した。1969年7月2日、直腸癌のため63歳で死去した。
作風と「成瀬組」[編集]
女性映画の名手[編集]
成瀬が「女性映画の名手」と呼ばれるのは、単にヒロインものが多いからではない。彼が描く女性は、清く正しい理想像ではなく、金にこだわり、嫉妬し、嘘もつく生身の人間である。夫婦の倦怠、未亡人の再出発、水商売の女の計算、老いた元芸者の金貸し稼業などを、善悪の判断を下さずに見つめるのが成瀬流だった。
男性キャラクターは、だいたい頼りない。浮気をし、甲斐性がなく、決断を先延ばしにする。そんな男たちに振り回されながらも、最終的に暮らしを背負うのは女性の側である。この構図は『めし』『浮雲』『流れる』『女が階段を上る時』に共通している。
演出の特徴[編集]
成瀬の演出は、とにかく無駄がないことで知られた。撮影は几帳面で、予定日数のうちに必ず撮り終え、仕事時間は朝9時から夕方4時45分まで。助監督を務めた中野昭慶は、撮ったものがそのまま編集できるような演出で、フィルムに無駄がなかったと証言している。
役者にほとんど演技指導をしない監督としても有名で、高峰秀子は成瀬から演技について何も言われなかったと語っている。人物の目線のやり取りを細かいカット割りでつないでいく編集、廊下や縁側、路地に立つ人物の構図、戦後作品の街頭にしばしば登場するチンドン屋なども、成瀬映画の「印」としてよく挙げられる。
成瀬組のスタッフ[編集]
東宝での成瀬は、ほぼ固定のスタッフ「成瀬組」と仕事をした。主なメンバーは次のとおり。
- 製作:藤本真澄
- 撮影:玉井正夫
- 美術:中古智
- 照明:石井長四郎
- 録音:下永尚
- 音楽:斎藤一郎
- 脚本:水木洋子、田中澄江、井手俊郎
『浮雲』では、のちに『日本のいちばん長い日』などを撮る岡本喜八が監督助手についていた。中古智の美術は、狭い日本家屋の間取りを生かした生活感あふれるセットで、成瀬映画の「暮らしの手ざわり」を支えた。
代表作[編集]
『めし』(1951年)[編集]
林芙美子が新聞連載中に急逝し、未完に終わった小説の映画化。監修に川端康成、脚色は田中澄江と井手俊郎。大阪の天神の森で暮らす倦怠期の夫婦・初之輔(上原謙)と三千代(原節子)のもとに、家出してきた姪の里子(島崎雪子)が転がり込み、家庭の空気がさらにぎくしゃくしていく。
三千代はいったん東京の実家に戻り、夫と別れて働くことも考えるが、最後は迎えに来た初之輔とともに大阪へ帰る。原節子といえば小津安二郎作品のイメージが強いが、ここでは家事に疲れた普通の主婦を演じており、その姿が新鮮だと評判になった。
『晩菊』(1954年)[編集]
林芙美子の短編3作をもとに、元芸者の中年女性4人の老後を描いた作品。主人公の倉橋きん(杉村春子)は、口のきけない女中と暮らしながら金貸しと土地売買で稼いでいる。かつての芸者仲間のたまえ(細川ちか子)、とみ(望月優子)、のぶ(沢村貞子)にも金を貸し、容赦なく取り立てる。
昔燃えるような恋をした男・田部(上原謙)が訪ねてきても、目当てが借金だと分かった瞬間に態度が冷えていく場面は、成瀬作品屈指の名シーンとされる。子どもたちが巣立っていくなか、それぞれが自分の老いと向き合う姿を、苦さとユーモアを交えて描いた。
『浮雲』(1955年)[編集]
成瀬の最高傑作とされる作品。原作は林芙美子の同名小説、脚本は水木洋子。1943年、タイピストとして仏印(現在のベトナム)に渡った幸田ゆき子(高峰秀子)は、農林省の技師・富岡兼吾(森雅之)と恋に落ちる。富岡には日本に妻がいたが、戦後に離婚すると約束して先に帰国する。
ところが、遅れて引き揚げてきたゆき子が訪ねると、富岡はまだ妻と暮らしていた。失望しながらも離れられない二人は、群馬県の伊香保温泉への旅、そこで富岡が手を出す人妻おせい(岡田茉莉子)、ゆき子の転落と、ずるずると関係を続けていく。最後は富岡の赴任先である屋久島へ二人で渡るが、ゆき子は病に倒れて死に、富岡はその亡骸のそばで泣き崩れる。
高峰はこの役でキネマ旬報主演女優賞などを受けた。小津安二郎は日記でこの作品を絶賛したとされ、「俺にはできないシャシンだ」と語ったという話も伝わっている。
『流れる』(1956年)[編集]
幸田文の小説を原作に、東京・大川端近くの花街で没落していく芸者置屋「つた」を描いた群像劇。脚色は田中澄江と井手俊郎。最大の見どころはキャストの豪華さで、女中の梨花に田中絹代、置屋の女将つた奴に山田五十鈴、その娘・勝代に高峰秀子、芸妓の染香に杉村春子、なゝ子に岡田茉莉子という、当時の日本映画を代表する女優がずらりと並ぶ。
さらに料亭の女将お浜役で、サイレント時代の大スター栗島すみ子が出演している。抵当に入った置屋、借金の催促、ゆすりに来る親戚と、次々に持ち込まれる厄介ごとを、よそ者である梨花の目を通して淡々と見せていく構成になっている。
『女が階段を上る時』(1960年)[編集]
菊島隆三のオリジナル脚本による作品で、成瀬作品としては珍しく原作がない。銀座の高級バーで雇われマダムとして働く圭子(高峰秀子)が、店を持つか、結婚して足を洗うかで揺れる姿を、白黒シネマスコープの画面で描いた。店のマネージャー役で仲代達矢が出演している。
タイトルの「階段」はバーに上がる階段のことで、毎晩その階段を上るたびに圭子が「仕事の顔」に切り替わる。高峰秀子は劇中の衣装も自分で担当したことで知られる。
『放浪記』(1962年)[編集]
林芙美子の自伝的小説の映画化で、若き日の林をモデルにした林ふみ子を高峰秀子が演じた。貧乏暮らしのなか、カフェーの女給や行商をしながら詩や小説を書き、何人もの男と出会っては別れていく女の一代記である。共演は仲代達矢、草笛光子、宝田明、加東大介、小林桂樹ら、母親役は田中絹代。
この作品は、成瀬と林芙美子の関係の集大成ともいえる。同じ原作は菊田一夫の脚本で舞台化されており、こちらは森光子の主演で長く上演された。
林芙美子と高峰秀子[編集]
林芙美子原作の6本[編集]
成瀬のフィルモグラフィーで目立つのが、作家・林芙美子の原作の多さである。『めし』(1951年)、『稲妻』(1952年)、『妻』(1953年、原作は『茶色の目』)、『晩菊』(1954年)、『浮雲』(1955年)、『放浪記』(1962年)の6本が林芙美子原作で、その多くが代表作として名前が挙がる。
林芙美子は1951年に亡くなっており、生前に完成した映画を見られたのは一部だけだった。貧しさのなかで男に頼らず生きようとする女性、それでも男から離れられない女性という林文学のテーマは、成瀬の作風とぴったり重なっていた。両者の相性の良さは、日本映画史でもよく知られた組み合わせである。
高峰秀子との17本[編集]
女優でいえば、成瀬映画の顔は高峰秀子である。1941年の『秀子の車掌さん』で初めて組み、本格的なコンビは1952年の『稲妻』から。以降、『浮雲』『流れる』『あらくれ』『女が階段を上る時』『娘・妻・母』『放浪記』『乱れる』など、計17本の成瀬作品に出演した。
高峰は木下惠介作品にも12本出演しており、明るく健気なヒロインが多い木下作品と、苦くしぶとい大人の女を演じた成瀬作品の両方で主役を張った。『浮雲』と、木下の『二十四の瞳』が同時期の作品であることを考えると、その振れ幅の大きさが分かる。成瀬は晩年、病床で高峰に、白い幕を背景にした一人芝居の映画の構想を語ったというが、これは実現しなかった。
作品一覧[編集]
主な監督作品[編集]
| 公開年 | タイトル | 主な出演 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1930年 | チャンバラ夫婦 | 監督デビュー作(短編) | |
| 1931年 | 腰弁頑張れ | 出世作となった短編喜劇 | |
| 1933年 | 夜ごとの夢 | 栗島すみ子 | サイレント期の代表作 |
| 1935年 | 妻よ薔薇のやうに | 千葉早智子 | キネマ旬報ベスト・ワン、アメリカで公開 |
| 1938年 | 鶴八鶴次郎 | 長谷川一夫、山田五十鈴 | 芸道もの |
| 1941年 | 秀子の車掌さん | 高峰秀子 | 高峰との初仕事 |
| 1943年 | 歌行燈 | 花柳章太郎、山田五十鈴 | 泉鏡花原作 |
| 1951年 | 銀座化粧 | 田中絹代 | 4Kデジタルリマスター版あり |
| 1951年 | めし | 原節子、上原謙 | 林芙美子原作、4Kデジタルリマスター版あり |
| 1952年 | おかあさん | 田中絹代、香川京子 | ブルーリボン賞監督賞 |
| 1952年 | 稲妻 | 高峰秀子 | 林芙美子原作 |
| 1953年 | あにいもうと | 京マチ子、森雅之 | 大映作品、室生犀星原作 |
| 1954年 | 山の音 | 原節子、山村聰 | 川端康成原作 |
| 1954年 | 晩菊 | 杉村春子 | 林芙美子原作 |
| 1955年 | 浮雲 | 高峰秀子、森雅之 | キネマ旬報ベスト・ワン、4Kデジタルリマスター版あり |
| 1956年 | 流れる | 田中絹代、山田五十鈴、高峰秀子 | 幸田文原作 |
| 1957年 | あらくれ | 高峰秀子 | 徳田秋声原作 |
| 1960年 | 女が階段を上る時 | 高峰秀子、仲代達矢 | 4Kデジタルリマスター版あり(2026年) |
| 1962年 | 放浪記 | 高峰秀子、田中絹代 | 林芙美子原作 |
| 1964年 | 乱れる | 高峰秀子、加山雄三 | |
| 1967年 | 乱れ雲 | 司葉子、加山雄三 | 遺作、4Kデジタルリマスター版あり(2026年) |
年代別の監督作品[編集]
- 松竹蒲田時代(1930年 - 1934年):『チャンバラ夫婦』『純情』『不景気時代』『愛は力だ』『押切新婚記』『腰弁頑張れ』『隣の屋根の下』『蝕める春』『君と別れて』『夜ごとの夢』『限りなき舗道』ほか
- P.C.L.・東宝の戦前・戦中(1935年 - 1945年):『乙女ごころ三人姉妹』『女優と詩人』『妻よ薔薇のやうに』『サーカス五人組』『噂の娘』『桃中軒雲右衛門』『君と行く路』『朝の並木路』『女人哀愁』『雪崩』『禍福』(前後篇)『鶴八鶴次郎』『はたらく一家』『まごころ』『旅役者』『なつかしの顔』『上海の月』『秀子の車掌さん』『母は死なず』『歌行燈』『愉しき哉人生』『芝居道』『三十三間堂通し矢物語』
- 戦後の低迷期(1946年 - 1950年):『浦島太郎の後裔』『俺もお前も』『別れも愉し』『春のめざめ』『不良少女』『石中先生行状記』『怒りの街』『白い野獣』『薔薇合戦』
- 黄金期(1951年 - 1959年):『銀座化粧』『舞姫』『めし』『お国と五平』『おかあさん』『稲妻』『夫婦』『妻』『あにいもうと』『山の音』『晩菊』『浮雲』『くちづけ』(オムニバスの一編)『驟雨』『妻の心』『流れる』『あらくれ』『杏っ子』『鰯雲』『コタンの口笛』
- 晩年(1960年 - 1967年):『女が階段を上る時』『娘・妻・母』『夜の流れ』(川島雄三と共同監督)『秋立ちぬ』『妻として女として』『女の座』『放浪記』『女の歴史』『乱れる』『女の中にいる他人』『ひき逃げ』『乱れ雲』
人物像・逸話[編集]
「小津は二人いらない」[編集]
成瀬が松竹を去った理由として必ず語られるのが、蒲田撮影所の所長・城戸四郎が「小津は二人いらない」と言ったという逸話である。成瀬の作風が、同じ蒲田で小市民映画を撮っていた先輩の小津安二郎と重なって見えたため、会社として二人も同じタイプはいらない、と冷遇されたという筋書きだ。
ただしこれはあくまで「伝説」とされる話で、城戸が実際にそう言ったのかははっきりしない。百科事典でも、小津と作風が重なると見られたことが移籍の一因とされる、という程度に書かれている。一方の小津は、成瀬の移籍について日記に「それも良し」と書き残したとされる。
同業者たちの評[編集]
同時代の巨匠たちの成瀬評はさまざまだった。『雪崩』で助監督についた黒澤明は、成瀬を「映画のエキスパート」と評し、撮影現場では何でも自分でこなす自信に満ちた監督だったと振り返っている。小津は『浮雲』を高く評価した。
一方で溝口健二は、成瀬作品について「うまいけれど力強さが足りない」という趣旨の、かなりきつい言い方で評したと伝えられている。地味で抑えた作風は、豪快さを好む人には物足りなく映ったのかもしれない。
弟子への助言[編集]
『浮雲』などで助監督を務めた岡本喜八には、時代に合わせてころころ作風を変えるのではなく、自分の考えを貫くようにと助言したという。生涯ほぼ一貫して庶民の女性と暮らしを描き続けた成瀬自身の姿勢そのものである。寡黙で現場では多くを語らない人だったとされ、役者たちの証言でも「何も言われなかった」という話が多い。
評価と海外での再評価[編集]
国内での評価[編集]
国内では生前から評価が高く、キネマ旬報ベスト・ワンを2回(『妻よ薔薇のやうに』『浮雲』)獲得している。ただ、黒澤や小津のような「わかりやすい作家性」や国際映画祭での受賞に恵まれなかったため、死後しばらくは一般の知名度が下がっていた。
没後の「発見」[編集]
国際的な評価が本格化したのは没後である。1980年代前半のロカルノ国際映画祭での特集上映が大きなきっかけとなり、その後1988年の香港国際映画祭、1998年のサン・セバスティアン国際映画祭でも回顧上映が組まれた。2005年には生誕100年としてハーバード・フィルム・アーカイブなどでも特集が開かれている。
海外の映画作家からの敬意も厚く、ジャン=ピエール・リモザン、レオス・カラックス、ダニエル・シュミット、エドワード・ヤンらが成瀬への傾倒を語ってきた。現代の日本でも、是枝裕和、濱口竜介、三宅唱らに影響を与えた監督として名前が挙がる。
2020年代の再評価:生誕120年と4K修復[編集]
2025年:『浮雲』4K版がカンヌへ[編集]
2025年は成瀬の生誕120年にあたり、世界規模で再評価の波が来た。最大のトピックは、東宝の関連会社TOHOアーカイブによる『浮雲』の4Kデジタルリマスター版で、2025年5月のカンヌ国際映画祭「カンヌ・クラシックス」部門で上映されて絶賛を浴びた。フランスではカルロッタ・フィルムズの配給で『Nuages flottants』の題でリバイバル公開されている。
日本では同年11月1日、第38回東京国際映画祭の「生誕120年 成瀬巳喜男特集」で4K版『浮雲』がジャパンプレミア上映され、おせい役の岡田茉莉子が登壇。成瀬からはほとんど演技指導がなかったこと、見送りの場面でのドアの閉め方を褒められたのが初めての「お褒めの言葉」だったことなどを語った。同特集では4K版の『めし』『銀座化粧』も上映された。
2026年:4K版の放送と新たな修復[編集]
2026年に入ると、日本映画専門チャンネルで4K版の『浮雲』(1月)、『めし』(2月)、『銀座化粧』(3月)が順にテレビ初放送された。『浮雲』は同年8月31日にも再放送されている(いずれも放送は2Kダウンコンバート)。
さらに2026年10月、『女が階段を上る時』と遺作『乱れ雲』の4Kデジタルリマスター版が完成し、第39回東京国際映画祭(10月26日 - 11月4日)の「日本映画クラシックス」部門で世界初上映されることが発表された。上映はTOHOシネマズ シャンテで、『女が階段を上る時』が10月30日、『乱れ雲』が11月3日の予定。音声も細かく修復され、成瀬の演出が「音」の設計にまで及んでいたことが分かったという。東宝の公式YouTubeチャンネル「東宝クラシックス」では、両作の4K版劇場予告編も公開された。
北米での大規模特集[編集]
海外でも上映が相次いでいる。2025年7月から12月にはカリフォルニア大学バークレー校の映画館で大規模な特集が組まれた。カナダでは国際交流基金トロント日本文化センターが、2025年10月から2026年3月にかけてモントリオール、トロント、エドモントン、バンクーバー、ウィニペグを巡る35ミリ回顧上映ツアーを実施。
ロサンゼルスでは、アメリカン・シネマテークが2026年2月21日から8月1日まで28作品を35ミリで上映する回顧特集を開催した。『妻よ薔薇のやうに』はジョージ・イーストマン博物館所蔵のナイトレート・プリントで上映されるという、なかなかマニアックな企画も含まれていた。
配信状況[編集]
2026年9月時点で、オリジナル版『浮雲』はU-NEXTで見放題配信、Amazon Prime VideoやLeminoなどでレンタル配信されている。『晩菊』もU-NEXTで見放題、Amazonなどでレンタル可能。ただし4Kデジタルリマスター版の『浮雲』は配信されていない。配信状況は変わりやすいので、視聴前に各サービスで確認したい。
余談[編集]
- 成瀬のあだ名「ヤルセナキオ」は、本名の「ナルセミキオ」と「やるせない」をかけたもの。作風を一言で言い表したあだ名として今も語られる。
- 『妻よ薔薇のやうに』(英題『Kimiko』)は、アメリカで一般公開された最初の日本映画とされる。ただし現地での評判はあまり良くなかったという。
- 『雪崩』(1937年)の助監督は若き日の黒澤明。のちの「世界のクロサワ」も、成瀬の現場で修業していたことになる。
- 『歌行燈』(1943年)の林の中の光の表現は、撮影の中井朝一を介して、黒澤の『羅生門』を先取りしていたと指摘されている。
- 『あにいもうと』(1953年)は大映作品で、主演は京マチ子。東宝のイメージが強い成瀬だが、他社でも撮っていた。
- 『放浪記』の舞台版で主演した森光子は、2009年までに2000回を超える上演を重ねた。同じ林芙美子を、映画では高峰秀子、舞台では森光子が演じていたことになる。
- 戦後の成瀬作品には、街頭を練り歩くチンドン屋がたびたび登場する。戦後の街の空気を伝える小道具として、成瀬映画の「印」のひとつに数えられている。
