森雅之
もり まさゆき / Masayuki Mori
Masayuki_Mori_1955_IMG_20220409_0001.jpg
1955年撮影の肖像写真(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン)
本名 有島行光(ありしま ゆきみつ)
誕生日 1911年1月13日
死亡日 1973年10月7日
死亡年齢 62歳(数え年63)
出身地 北海道札幌郡上白石村(現・札幌市白石区)生まれ、東京育ち
国籍 日本
学歴 旧制成城高等学校卒業、京都帝国大学文学部哲学科(美学美術史専攻)中退
ジャンル 映画、舞台(新劇・新派・東宝現代劇)、テレビドラマ
活動期間 1930年 - 1973年
デビューアルバム 1942年 映画『母の地図』(島津保次郎監督、東宝)
家族 父・有島武郎(小説家)、叔父・有島生馬(画家)、里見弴(小説家)
身長 / 体重 165cm cm / ― kg
事務所 フリー
代表作 『安城家の舞踏会』、『羅生門』、『白痴』、『雨月物語』、『浮雲』、『楊貴妃』、『女が階段を上る時』、『悪い奴ほどよく眠る』、『おとうと』
関連活動 文学座創立メンバー(1937年)、劇団新派への客演
あだ名 「静の森雅之」(「動の三船」との対比)
その他 毎日映画コンクール男優演技賞(『安城家の舞踏会』)、キネマ旬報賞主演男優賞(『浮雲』)、毎日映画コンクール助演男優賞(『おとうと』『悪い奴ほどよく眠る』)


概要[編集]

森雅之(もり まさゆき、1911年1月13日 - 1973年10月7日)とは、昭和の日本映画を代表する俳優である。本名は有島行光で、小説家有島武郎の長男。新劇の舞台から映画に進み、『羅生門』『雨月物語』『浮雲』など世界的名作に主演級で出演した。知的でニヒル、翳りのある二枚目として「戦後の日本映画が生んだ最も知的な二枚目」と評された。

詳細[編集]

有島家の長男という出自[編集]

森雅之の出自は、日本の俳優の中でもかなり特殊である。父は『或る女』『カインの末裔』などで知られる白樺派の小説家有島武郎、母は陸軍大将・男爵神尾光臣の娘の安子。叔父には画家の有島生馬と小説家の里見弴がいるという、文字どおりの文化人一家に生まれた。

ところが家庭環境は穏やかではなかった。母は1916年に27歳の若さで結核のため亡くなり、父・武郎は1923年に人妻の婦人記者と心中して世を去る。行光少年は12歳で両親を失い、3人兄弟そろって叔父の有島生馬に引き取られて育った。森は生涯この叔父を敬愛し、正月の挨拶を欠かさなかったという。

芸名の「森雅之」は1931年、学生劇団テアトル・コメディの第1回公演から名乗ったもので、本名の「有島」は使っていない。一方で後年には「有島武郎の息子であることは誇りに思う」とも語っており、父に対する思いは単純ではなかった。

「静の森雅之」[編集]

森の持ち味は、彫りの深い端正な顔立ちと、どこか影を帯びた知的な雰囲気だった。同時代に黒澤明作品で暴れ回った三船敏郎が「動」なら、森は「静」。目線や沈黙、わずかな間で人物の内面を語る芝居で、二人は対照的なスターとして並び称された。

本人も「間を大事にする演技」を第一に自らに課していたとされる。家柄の良さがにじみ出る演技は「フランス人俳優のようだ」とも評され、女たらしの中年男、没落華族、優柔不断なインテリといった、弱さや狡さを含んだ男を演じると右に出る者がいなかった。

また20代のころから老け役を得意としたのも特徴で、二枚目スターでありながら父親役や権力者役にも抵抗がなかった。『悪い奴ほどよく眠る』の汚職官僚、『おとうと』の父親、晩年の『連合艦隊司令長官 山本五十六』の近衛文麿など、役の幅は非常に広い。

女優を最も輝かせる男優[編集]

森雅之には「女優を最も輝かせる男優」という評価もある。『羅生門』と『雨月物語』の京マチ子、『雨月物語』の田中絹代、『安城家の舞踏会』と『白痴』の原節子、『浮雲』と『女が階段を上る時』の高峰秀子など、昭和の大女優たちの代表作の相手役に、驚くほどの頻度で森が立っている。

特に成瀬巳喜男監督の『浮雲』では、ずるずると関係を続ける身勝手な男・富岡兼吾を演じ、高峰秀子演じるゆき子の情念を受け止めた。森自身の演技も「森の真骨頂」と言われ、この作品でキネマ旬報賞主演男優賞を受けている。

舞台人としての森雅之[編集]

映画スターとしての印象が強いが、森の出発点は新劇の舞台であり、生涯舞台を離れなかった。築地小劇場のエキストラから始まり、文学座の創立に参加、戦後は東京芸術劇場、民衆芸術劇場(第一次民藝)と新劇の中心で活動した。

その後は政治色の強まった新劇界から距離を置き、劇団新派や東宝現代劇にも出演した。どこかの劇団に属することを嫌い、フリーで活動を続けたことも森らしい点である。戦後の新劇界で左翼的な運動が盛んだった時期にも「芝居と政治は無関係」という立場を崩さなかった。

経歴[編集]

少年時代[編集]

1911年1月13日、北海道札幌郡上白石村(現在の札幌市白石区)に生まれる。当時、父・有島武郎は東北帝国大学農科大学(後の北海道大学)で教鞭をとっていた。のちに一家は東京に移り、森は番町小学校に通う。1922年には成城小学校に転校した。

少年時代はスポーツ少年で、4年生ごろから野球に親しみセカンドを守った。中学では硬式テニス部の主将を務め、東京都の中学リーグ戦で優勝している。テニスの腕前はセミプロ級だったとされる。

築地小劇場と演劇への目覚め[編集]

1925年、築地小劇場の舞台を見て感銘を受け、俳優を志すようになる。1930年には築地小劇場の公演『勇敢なる兵卒シュベイクの冒険』にエキストラとして出演した。

1931年に旧制成城高等学校を卒業し、京都帝国大学(現・京都大学)文学部哲学科に入学して美学美術史を専攻するが、のちに中退する。中退の理由については、胸部カリエスによる約4年間の闘病のためとする説と、役者の道を優先したためとする説がある。

同じ1931年、慶應の金杉惇郎や長岡輝子らが結成した学生劇団「テアトル・コメディ」に参加。この第1回公演から「森雅之」の芸名を名乗り、『芝居は誂向き』などで将来を嘱望された。

文学座の創立[編集]

1937年、岸田國士、久保田万太郎、岩田豊雄(獅子文六)の3人を中心に結成された文学座に創立メンバーとして参加する。文学座は創立直前に中心俳優の友田恭助を日中戦争で失い、その妻・田村秋子も参加を断念するという波乱のスタートだったが、森は杉村春子らとともに劇団を支えた。

1940年には杉村春子、三津田健とともに常任委員に就任。1943年には杉村と夫婦役を演じた『田園』がロングランとなり、1944年の『怒濤』では細菌学者の北里柴三郎を演じて絶賛された。『ハムレット』『野鴨』なども文学座時代の舞台である。しかし同年、森は文学座を退座した。

映画デビューと戦後の飛躍[編集]

映画デビューは1942年、文学座が提携した東宝映画『母の地図』(島津保次郎監督)で、31歳という遅めのデビューだった。1945年には黒澤明の『續姿三四郎』『虎の尾を踏む男達』に出演し、黒澤との縁が始まる。

戦後は1945年に戦後初の新劇公演とされる『桜の園』に出演し、東京芸術劇場の結成に参加。1947年には滝沢修、宇野重吉らと民衆芸術劇場を結成し、新劇界をけん引した。しかし1949年、思想的な内紛を理由に退団している。

映画での転機は1947年、松竹の『安城家の舞踏会』(吉村公三郎監督)だった。戦後の華族制度廃止で没落していく安城家の長男・正彦を演じて注目を集め、第2回毎日映画コンクールの男優演技賞を受賞。原節子との共演作としても知られる。

黄金期(1950年代)[編集]

1950年、黒澤明の『羅生門』(大映)で、山中で盗賊に襲われる侍・金沢武弘を演じた。芥川龍之介の『藪の中』を原作に、同じ事件を当事者がそれぞれ食い違う証言で語るこの作品は、1951年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受け、アメリカのアカデミー賞名誉賞も受賞。日本映画が世界に知られるきっかけになった。

1951年には黒澤がドストエフスキーの長編を戦後の札幌に置き換えた『白痴』に主演し、純真な青年・亀田欽司を演じた。札幌生まれの森が主演に迎えられ、三船敏郎、原節子、久我美子が共演。同年には溝口健二の『武蔵野夫人』にも出演した。

1953年、溝口健二の『雨月物語』で、戦乱の世で一攫千金を夢見て妻を顧みず、美しい亡霊・若狭(京マチ子)に魅入られる陶工・源十郎を演じた。妻・宮木役は田中絹代。この作品はヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受け、森の代表作の一つとなった。同年には成瀬巳喜男の『あにいもうと』で石工の伊之吉も演じている。

1954年には豊田四郎監督の『或る女』で倉地三吉を演じた。原作は父・有島武郎の代表作で、主人公・早月葉子を京マチ子が演じた。息子が父の小説の映画化に出演したわけである。

1955年は森にとって頂点の年だった。成瀬巳喜男の『浮雲』(東宝)で富岡兼吾を、溝口健二の『楊貴妃』で玄宗皇帝を、市川崑の『こころ』(日活、原作は夏目漱石)で「先生」を演じ、『浮雲』で第1回キネマ旬報賞主演男優賞を受賞した。

1960年代[編集]

1960年は充実した年で、成瀬巳喜男の『女が階段を上る時』で高峰秀子演じるバーのママが思いを寄せる銀行支店長・藤崎を、黒澤明が独立プロを立ち上げて作った『悪い奴ほどよく眠る』で汚職にまみれた公団副総裁・岩淵を、市川崑の『おとうと』で娘と息子を見守る父親を演じた。『おとうと』と『悪い奴ほどよく眠る』で毎日映画コンクール助演男優賞を受賞している。

『悪い奴ほどよく眠る』では、三船敏郎演じる西幸一が復讐のため岩淵の娘(香川京子)と結婚するという筋立てで、森は娘思いの父親と冷酷な権力者という二つの顔を持つ男を演じた。

1960年代になると活動の場はテレビにも広がり、1950年代末から数多くのドラマに出演した。舞台では劇団新派に活動の場を移し、三島由紀夫の『鹿鳴館』の影山伯爵、『金色夜叉』の間貫一、『不如帰』の川島武男、『歌行燈』の喜多八などを演じた。敬愛していた新派の名優・花柳章太郎が1965年に亡くなった後も、1967年ごろまで新派で本格的に活動した。

1964年には文学座公演『三人姉妹』に約20年ぶりに出演し、日生劇場の『椿姫』ではアルマン役を務めた。映画では1963年に市川崑の『太平洋ひとりぼっち』、1968年に『連合艦隊司令長官 山本五十六』で近衛文麿を演じている。

晩年と死[編集]

晩年はテレビドラマへの出演が増え、NHK大河ドラマでは『竜馬がゆく』(1968年)で吉田東洋、『樅ノ木は残った』(1970年)で伊達安芸、『新・平家物語』(1972年)で藤原忠実を演じた。1970年には勝新太郎の『座頭市あばれ火祭り』(大映)で、裏社会を牛耳る盲目の「闇公方」という異色の役も演じている。

映画の遺作は1972年の『剣と花』(舛田利雄監督)、舞台の遺作は1973年新春の東宝現代劇『女橋』の父親役とされ、いずれも病を抱えての出演だった。1973年6月には撮影現場でがんの痛みに耐えながら本番をこなし、翌日に緊急入院したという。

1973年10月7日、直腸癌のため東京の慈恵医大付属病院で死去。62歳だった。最後のテレビ出演となったNHKドラマ『コチャバンバ行き』は、亡くなるひと月前の1973年9月8日に放送された。墓所は多磨霊園にある。

主な出演作[編集]

映画[編集]

公開年 作品名 監督 役名 備考
1942 母の地図 島津保次郎 北野二郎 映画デビュー作(東宝)
1945 續姿三四郎 黒澤明 壇義麿
1945 虎の尾を踏む男達 黒澤明 亀井
1947 安城家の舞踏会 吉村公三郎 安城正彦 毎日映画コンクール男優演技賞(松竹)
1948 わが生涯のかがやける日 吉村公三郎 沼崎敬太
1949 痴人の愛 木村恵吾 熊谷政太郎 原作は谷崎潤一郎
1950 羅生門 黒澤明 金沢武弘 ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞(大映)
1950 火山脈 安達伸生 野口英世
1951 白痴 黒澤明 亀田欽司 主演。舞台は札幌
1951 武蔵野夫人 溝口健二 秋山忠雄
1953 雨月物語 溝口健二 源十郎 ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞
1953 あにいもうと 成瀬巳喜男 伊之吉
1954 或る女 豊田四郎 倉地三吉 原作は父・有島武郎
1955 浮雲 成瀬巳喜男 富岡兼吾 キネマ旬報賞主演男優賞
1955 楊貴妃 溝口健二 玄宗皇帝 共演・京マチ子
1955 こころ 市川崑 先生 原作は夏目漱石(日活)
1957 あらくれ 成瀬巳喜男 浜屋
1957 挽歌 五所平之助
1958 夜の鼓 今井正
1959 コタンの口笛 成瀬巳喜男 畑中イヨン
1960 女が階段を上る時 成瀬巳喜男 藤崎信彦 共演・高峰秀子
1960 悪い奴ほどよく眠る 黒澤明 岩淵 毎日映画コンクール助演男優賞
1960 おとうと 市川崑 父親 毎日映画コンクール助演男優賞
1963 太平洋ひとりぼっち 市川崑
1968 連合艦隊司令長官 山本五十六 丸山誠治 近衛総理
1970 座頭市あばれ火祭り 三隅研次 闇公方 主演・勝新太郎
1972 剣と花 舛田利雄 石津武一郎 映画の遺作

このほか『今日われ恋愛す』『グッドバイ』『破れ太鼓』『善魔』『千羽鶴』『白い悪魔』『女の勲章』『あゝ海軍』など出演作は非常に多い。

テレビドラマ[編集]

年 作品名 役名・備考
1956 勝利者 KRテレビ。テレビ初出演
1958 - 1963 夫婦百景 複数回出演
1962 高瀬舟 庄兵衛(日本テレビ)
1964 若き日の信長 平手政秀
1968 竜馬がゆく 吉田東洋(NHK大河ドラマ)
1970 樅ノ木は残った 伊達安芸(NHK大河ドラマ)
1972 新・平家物語 藤原忠実(NHK大河ドラマ)
1972 赤ひげ 第2話「狂女」(NHK)
1973 コチャバンバ行き NHK。最後のテレビ出演

主な舞台[編集]

時期 作品名 役名・備考
1930 勇敢なる兵卒シュベイクの冒険 築地小劇場、エキストラ
1931 芝居は誂向き テアトル・コメディ
1943 田園 文学座。杉村春子と夫婦役、ロングラン
1944 怒濤 文学座。北里柴三郎役
1945 桜の園 戦後初の新劇公演とされる
新派時代 鹿鳴館 影山伯爵(作・三島由紀夫)
新派時代 金色夜叉 間貫一
新派時代 不如帰 川島武男
1964 三人姉妹 文学座。約20年ぶりの出演
1964 椿姫 日生劇場。アルマン役
1973 女橋 東宝現代劇。父親役、舞台の遺作とされる

人物・エピソード[編集]

素顔は陽気な冗談好き[編集]

スクリーンではニヒルで陰のある男ばかり演じた森だが、素顔はかなり明るい人だったようだ。『浮雲』で富岡と関係を持つ人妻おせいを演じた岡田茉莉子は、2025年の東京国際映画祭で行われた4Kデジタルリマスター版の上映後のトークで、森を「役とは全然違って冗談ばかりおっしゃる方」と振り返った。新人だった岡田を気にかけ、撮影中にいろいろと親切に教えてくれたという。

岡田によれば、成瀬監督はほとんど演技指導をしなかったため、富岡とおせいが視線を交わす場面などは森と岡田が二人で考えて演じたという。大先輩が新人の緊張をほぐしながら芝居を組み立てていたわけで、「女優を輝かせる男優」という評判がうなずける話である。

父・有島武郎への複雑な思い[編集]

12歳で父を心中という形で失ったことは、森にとって大きな傷だった。後年、父の死を知ったときの衝撃を語っている。1948年に太宰治が情死した際、記者から意見を求められて不快に思い、「僕には関係ない」と答えたというエピソードも残る。

一方で、有島武郎の息子であることを誇りにしているとも語っており、父の代表作『或る女』の映画化にも出演した。有島記念館の学芸員は、父への愛憎を抱えつつも、森の戦後のスター演技には有島一族の血脈と北海道の大陸的な雰囲気が感じられると評している。

演技観と後輩への言葉[編集]

森は若手俳優に、虚構の世界でありながら観客にリアルだと感じさせることこそ役者冥利だと説いていたという。撮影所では最上級の扱いを受ける大御所だったが、若手時代の森川正太が撮影待ちでいらだっていたところ、年配の俳優に静かに諭されたことがあり、その俳優が森雅之だったという逸話が伝わる。

最晩年の1973年6月には、次男に車で送られた撮影現場で、がんの痛みに耐えて本番をこなした。翌日には直腸癌で緊急入院している。次男は後年、父は自分の仕事への姿勢を見せておきたかったのではないか、と回想している。

趣味と私生活[編集]

趣味はテニス、釣り、カメラ。釣りは30代の療養をきっかけに始めたものだという。大の酒好きで、晩酌にはビールとブランデーを楽しんだ。1948年に大田区に自宅を新築した際には応接室にバーまで作ったが、多忙のためほとんど使う機会がなかったという。動物好きで、とりわけ猫を可愛がった。

私生活では2度結婚している。1939年に文学座の女優・堀越節子と結婚して男児をもうけたが1946年末に離婚し、同年末に元日劇ダンシングチームのダンサーと再婚、生涯連れ添った。プレイボーイとしても知られたが、家庭では妻子思いで、浮気が発覚するたびに妻に謝っていたという話が残る。女優の中島葵は森の娘で、その関係については本人が文章に残している。

交友[編集]

1955年、同じ明治44年(1911年)生まれの作家・田村泰次郎や芸術家・岡本太郎らと「四四の会」を結成したとされる。

評価・影響[編集]

映画史上の位置づけ[編集]

森雅之の出演作は、黒澤明・溝口健二・成瀬巳喜男・市川崑という戦後日本映画を代表する監督たちの代表作と大きく重なっている。『羅生門』と『雨月物語』がヴェネツィアで受賞し、『羅生門』がアカデミー賞名誉賞を受けたことで、森は日本映画が世界に打って出た時代の「顔」の一人となった。

コトバンクに収録された人名辞典でも、二枚目から老け役まで演じ分け、洗練された演技で人間の内面の陰影を表現した俳優として紹介されている。

キネマ旬報のランキング[編集]

没後もその評価は落ちていない。キネマ旬報の1995年「日本映画オールタイム・ベストテン」男優部門では第1位、2000年の「20世紀の映画スター」男優編では日本男優3位(読者選出では5位)、2014年の「オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優」では日本男優2位に選ばれている。三船敏郎と並んで、日本映画史上の最高の男優の一人として扱われ続けている。

再評価の流れ[編集]

2025年には『浮雲』の4Kデジタルリマスター版がカンヌで上映されて評判を呼び、同年秋の第38回東京国際映画祭で国内初上映された。成瀬巳喜男の生誕120年を記念した特集の一本としての上映だったが、富岡を演じた森の芝居にも改めて注目が集まった。

余談[編集]

  • 札幌生まれの森が主演した黒澤明の『白痴』は、ドストエフスキーの原作の舞台を戦後の札幌に置き換えた作品。冒頭に映る当時の札幌駅の駅舎の異国情緒が、ロケ地に選ばれた理由とされる。
  • 『白痴』は当初、前後編あわせて約4時間25分の長さで完成したが、配給の松竹が難色を示して大幅にカットされ、現在見られるのは166分版のみである。
  • 父・有島武郎の小説『或る女』の映画化(1954年)に出演している。父の作品に息子が出演するという珍しい例である。
  • 映画デビューは31歳と遅めだったが、そこから約30年でトップスターの座を築いた。
  • 『雨月物語』では京マチ子、『楊貴妃』でも京マチ子、『羅生門』でも京マチ子と、大映のグランプリ女優とは何度も共演している。
  • 中学時代は硬式テニス部の主将として東京都の中学リーグで優勝しており、テニスの腕前はセミプロ級だったとされる。

外部リンク[編集]

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