| 橋本忍 はしもと しのぶ / Shinobu Hashimoto | |
|---|---|
![]() 1974年2月、映画『砂の器』の製作発表にて。左から橋本忍、松本清張、森田健作、島田陽子(出典:デイリースポーツ 2018年7月21日付訃報記事掲載写真) | |
| 誕生日 | 1918年4月18日 |
| 死亡日 | 2018年7月19日 |
| 死亡年齢 | 100歳 |
| 出身地 | 兵庫県神崎郡鶴居村(現・市川町) |
| 国籍 | 日本 |
| 家族 | 妻:松子(1943年結婚)、長男:信吾、長女:綾(葬儀の喪主) |
| 学歴 | 高等小学校卒業、大阪鉄道局教習所(大鉄教習所)卒業 |
| 職業 | 脚本家、映画監督、映画プロデューサー、小説家 |
| 肩書 | 橋本プロダクション代表、日本シナリオ作家協会理事長(1968年 - 1970年) |
| 活動期間 | 1950年 - 2018年 |
| 代表的な実績 | 『羅生門』『生きる』『七人の侍』『張込み』『切腹』『白い巨塔』『日本のいちばん長い日』『日本沈没』『砂の器』『八甲田山』『八つ墓村』、ドラマ・映画『私は貝になりたい』(脚本・監督) |
| 受賞 | ブルーリボン賞脚本賞、毎日映画コンクール脚本賞(『生きる』『砂の器』ほか多数)、キネマ旬報脚本賞、芸術祭賞(ドラマ『私は貝になりたい』)、全米脚本家組合ジャン・ルノワール賞(2013年)、毎日映画コンクール特別賞(2015年) |
| 事務所 | 橋本プロダクション |
| 関連活動 | 伊丹万作の唯一の弟子、黒澤明作品の共同脚本家 |
| あだ名 | 映画界最強の脚本家 |
| その他 | 著書『複眼の映像 私と黒澤明』(2006年) |
概要[編集]
橋本忍(はしもと しのぶ、1918年4月18日 - 2018年7月19日)とは、日本の脚本家・映画監督・映画プロデューサーである。黒澤明と組んだ『羅生門』『生きる』『七人の侍』で世界の映画史に名を刻み、その後も『切腹』『日本のいちばん長い日』『砂の器』『八甲田山』など骨太な名作・大ヒット作を量産した。生涯で90本近い脚本を書き、100歳まで生きた「映画界最強の脚本家」である。
詳細[編集]
黒澤映画を支えた「もう一人の作者」[編集]
橋本忍の名前は、黒澤作品のクレジットで「脚本 黒澤明・橋本忍・小国英雄」のように並ぶ形でよく知られている。黒澤組の共同脚本家には久板栄二郎、植草圭之助、菊島隆三、小国英雄、井手雅人らがいるが、そのなかでも『羅生門』『生きる』『七人の侍』という初期の三大傑作すべてに関わったのが橋本である。
1950年から1970年までに、橋本は黒澤監督作8本の脚本に参加した。『羅生門』『生きる』『七人の侍』のほか、『生きものの記録』『蜘蛛巣城』『隠し砦の三悪人』『悪い奴ほどよく眠る』『どですかでん』がそれにあたる。黒澤作品はジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラ、スティーヴン・スピルバーグらに影響を与えたとされ、『七人の侍』はハリウッドで『荒野の七人』(1960年、2016年に再リメイク)として翻案、『隠し砦の三悪人』は『スター・ウォーズ』の発想源のひとつとルーカス自身が語っている。つまり橋本は、間接的にハリウッド大作の「遠い親戚」の生みの親でもある。
「一つのシーンを複数人で書く」共同脚本方式[編集]
黒澤組の脚本づくりの特徴は、複数の脚本家が同じシーンをそれぞれ別々に書き、いちばん良いものを採用していくやり方にある。橋本は自伝『複眼の映像 私と黒澤明』でこの方式こそが黒澤映画の質を生んだと論じており、書評では「ワンシーンごとの脚本コンクール」にたとえられた。書名の「複眼」は、ひとりの目ではなく複数の目で一本の映画を見るこの方法を指している。
『七人の侍』の場合、発端は1952年12月にさかのぼる。黒澤から新作の脚本を頼まれた橋本は二度ボツを食らい、二度目の企画「日本剣豪列伝」も却下された。そこで黒澤が「金のない武者修行の剣客はどうやって旅をしていたのか」と疑問を持ち、東宝文芸部が調べたところ、道場や寺がない土地では村が野盗よけの用心棒として侍を雇うことがあったと判明する。「百姓が侍を雇う」という骨格はここから生まれた。
1953年1月から、橋本・黒澤・小国英雄の3人は熱海の旅館にこもって決定稿を書き上げた。クライマックスの決闘シーンを書いていたときには、部屋の空気があまりに張りつめていて、仲居が部屋に入るのをためらったという逸話が残っている。3月に完成した原稿は400字詰めで504枚に達し、冒頭を削って約460枚にしたものの構成は変えなかった。完成した映画は3時間27分。脚本が面白ければ長さは問題ではない、というのが橋本たちの考えだった。
黒澤組を離れてからの「量産と大当たり」[編集]
橋本の真骨頂は、黒澤組以外でもヒットと名作を連発したことにある。1950年代後半から60年代にかけては、今井正の『真昼の暗黒』、野村芳太郎の『張込み』『ゼロの焦点』、成瀬巳喜男の『鰯雲』『コタンの口笛』、小林正樹の『切腹』『上意討ち 拝領妻始末』、山本薩夫の『白い巨塔』、岡本喜八の『日本のいちばん長い日』など、名だたる監督の代表作に脚本を提供した。
特に松本清張作品とは縁が深く、『張込み』『ゼロの焦点』『影の車』『砂の器』と次々に映画化している。1961年の『ゼロの焦点』では、のちの山田洋次が脚本助手を務めており、橋本は山田の師匠筋にあたる。山田が監督した1965年の『霧の旗』も橋本の脚本である。1970年代には『日本沈没』『砂の器』『八甲田山』『八つ墓村』を立て続けにヒットさせ、「ヒットメーカー」の称号をほしいままにした。
作風:「ハッピーエンドはない」[編集]
橋本の脚本は、骨格のしっかりした構成とスリリングな展開で知られる。本人は自作について「ハッピーエンドはない」と語っており、その原点として、幼いころ祖母から聞かされた生野騒動(江戸時代末期に現在の兵庫県で起きた一揆)の話を挙げている。権力や組織に押しつぶされる個人、理不尽な運命にあらがう人間を描いた作品が多いのはこのためだとされる。
脚色の腕も一級品で、原作の一部をふくらませて映画独自の見せ場をつくるのを得意とした。『砂の器』で有名な、ハンセン病を患った父と幼い息子がお遍路姿で旅をする場面は、松本清張の原作では刑事の報告のなかで数行触れられる程度にすぎない。橋本はこれを交響曲「宿命」の演奏と捜査会議の報告に重ねるクライマックスへと大きく作り変え、心情をセリフではなく映像で伝える名場面に仕上げた。
経歴[編集]
1918年 - 1945年:鉄道員から療養所へ[編集]
1918年(大正7年)4月18日、兵庫県神崎郡鶴居村(現在の市川町)に生まれる。家業は小料理屋で、芝居好きの父は自ら興行主となって村に旅回りの一座を呼んでいた。少年時代の橋本もその興行を手伝わされ、芝居小屋に出入りして育った。
家計が苦しかったため、高等小学校を出たあと薬問屋に丁稚奉公に出たが長続きせず、15歳で大阪鉄道局の教習所(大鉄教習所)に入る。卒業後は鉄道員として駅に勤務した。1938年、20歳で召集されるが、入隊直前に粟粒性結核と診断され、療養生活に入る。当時の粟粒性結核は重い病気で、本人は「あと三年以上生きられると思ったことは一度もない」と後年まで語っていたという。
1939年、岡山県の傷痍軍人岡山療養所に入所。ここで同室の患者から映画雑誌を借り、載っていたシナリオを読んで「この程度なら自分でも書ける」と思ったのが脚本家人生の始まりである。どうせ書くなら日本一の監督に見てもらおうと、伊丹万作に見てもらうと宣言して執筆を始めた。療養所では規則を破って無断で抜け出し遊びに行くこともあったという、なかなかの問題児ぶりも伝わっている。
1944年 - 1950年:伊丹万作の唯一の弟子[編集]
療養所を出たあとは軍需工場に勤め、通勤列車のなかで療養所生活を題材にした脚本『山の兵隊』を書き上げた。1944年、これを伊丹万作に送ったところ、伊丹から丁寧な指導の返信が届き、橋本は伊丹の唯一の弟子となる。1943年には妻・松子と結婚し、1944年に長男が生まれている。
しかし伊丹は1946年に病死する。1947年、伊丹の一周忌の席で伊丹夫人から、伊丹の助監督だった佐伯清を紹介され、以後は佐伯に師事した。戦後は会社勤めを続けながら脚本を書き、芥川龍之介の短編『藪の中』を原作とした習作『雌雄』を佐伯に託す。この原稿が黒澤明の目に留まり、運命が大きく動き出す。
1950年 - 1960年:『羅生門』で世界デビュー[編集]
黒澤は『雌雄』の映画化を引き受けたものの、長編にするには短すぎると指摘した。そこで橋本は芥川の別の短編『羅生門』の要素を加えて書き直し、黒澤自身も手を入れた。こうして完成した『羅生門』(1950年、大映)は、三船敏郎・京マチ子らの出演でヴェネツィア国際映画祭のグランプリ(金獅子賞)を受賞。会社員の書いた習作が、日本映画を初めて世界に知らしめる作品になったのである。
これを機に橋本は専業の脚本家となり、黒澤組の一員として志村喬主演の『生きる』(1952年)、『七人の侍』(1954年)を共同執筆する。『七人の侍』について本人は「二度とこれ以上の仕事はできないと思った」と振り返っている。並行して本多猪四郎監督の戦争映画『太平洋の鷲』(1953年)、マキノ雅弘監督の『次郎長三国志 第九部 荒神山』(1954年)など、ジャンルを問わず多数の作品を手がけた。
1958年にはTBSの前身であるKRTの芸術祭参加ドラマ『私は貝になりたい』(フランキー堺主演)の脚本を書き、芸術祭賞を受賞。戦犯として裁かれる一兵士の悲劇を描いたこのドラマは大反響を呼び、翌1959年には橋本自身が監督して映画化、これが監督デビュー作となった。黒澤組への参加は1960年の『悪い奴ほどよく眠る』でいったん区切りがつき、用心棒以降の黒澤作品には加わっていない。
1960年 - 1972年:巨匠たちの代表作を連打[編集]
1960年代の橋本は、まさに脂の乗り切った時期である。1962年の『切腹』(小林正樹監督、松竹)では仲代達矢演じる浪人・津雲半四郎が武家社会の欺瞞を暴く物語を描き、武士道を真正面から批判した時代劇として今も海外で高く評価されている。1966年の『白い巨塔』(山本薩夫監督、大映)では田宮二郎が財前五郎を演じ、大学病院の権力闘争を描き切った。
1967年には東宝の『日本のいちばん長い日』(岡本喜八監督)で、ポツダム宣言受諾から玉音放送までの24時間をオールスターキャストで描いた。同年の『上意討ち 拝領妻始末』では三船敏郎と再び組んでいる。1968年から1970年までは日本シナリオ作家協会の理事長も務めた。1970年、黒澤の初カラー作品『どですかでん』で久々に黒澤組に復帰したが、これが黒澤との最後の仕事となった。
1973年 - 1982年:橋本プロダクションの栄光と挫折[編集]
1973年、橋本は自身の製作会社「橋本プロダクション」を設立する。脚本家が自ら映画を製作するという異例の挑戦で、その第1作が1974年の『砂の器』(野村芳太郎監督、松竹)だった。脚本は山田洋次との共同で、上映館は連日満員。毎日映画コンクールの大賞・監督賞・脚本賞・音楽賞、キネマ旬報脚本賞などを総なめにし、原作者の松本清張も自作の映画化作品のなかで最も素晴らしいと絶賛した。
1973年には森谷司郎監督の『日本沈没』(東宝)も大ヒット。1977年には橋本プロ第2作として、明治35年の雪中行軍遭難事件を題材にした『八甲田山』(森谷司郎監督)を製作・脚本で送り出す。高倉健・北大路欣也らが極寒の現地ロケに挑んだこの作品は、配給収入25億円でこの年の日本映画1位を記録した。同年秋に公開された『八つ墓村』(野村芳太郎監督、松竹)も『八甲田山』に迫る興行成績を挙げ、大ヒットとなった。
ところが1982年、橋本プロ第3作であり東宝創立50周年記念作品の一つとして、橋本が原作・脚本・製作・監督を務めた『幻の湖』が公開されると、客足が伸びず公開わずか2週間ほどで打ち切りとなる。この失敗と体調不良も重なり、橋本は事実上第一線から退いた。
1983年 - 2018年:晩年と100歳の現役[編集]
その後も1986年の『旅路 村でいちばんの首吊りの木』(神山征二郎監督)などで製作・脚本を手がけたが、作品数は大きく減った。2000年には故郷の市川町に橋本忍記念館が開館している。2006年には病気による延期を経て自伝『複眼の映像 私と黒澤明』を刊行し、黒澤組の内幕を記した貴重な証言として話題になった。
2008年には、自作を中居正広(SMAP)主演でリメイクした映画『私は貝になりたい』(福澤克雄監督)のために脚本をリライト。同年公開の『隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS』(樋口真嗣監督)にも原作脚本としてクレジットされた。2013年には全米脚本家組合からジャン・ルノワール賞を贈られ、2015年には毎日映画コンクール特別賞を受賞している。
2017年9月に気管支拡張症で入院したが同月末に退院し、自宅で療養を続けた。100歳になってもワープロに1日1〜2時間向かい、小説『天武の夢』を執筆していたと報じられている。2018年7月19日午前9時26分、肺炎のため東京都世田谷区の自宅で死去。100歳だった。葬儀は近親者のみで営まれ、長女の綾が喪主を務めた。翌2019年、第91回アカデミー賞授賞式の追悼コーナー「In Memoriam」でもその名が紹介された。
主な作品[編集]
映画脚本(主なもの)[編集]
| 公開年 | 作品名 | 監督 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1950 | 羅生門 | 黒澤明 | 脚本家デビュー作。ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞 |
| 1952 | 生きる | 黒澤明 | 毎日映画コンクール脚本賞 |
| 1953 | 太平洋の鷲 | 本多猪四郎 | 東宝の戦争映画 |
| 1954 | 七人の侍 | 黒澤明 | 黒澤明・小国英雄と共同 |
| 1955 | 生きものの記録 | 黒澤明 | |
| 1956 | 真昼の暗黒 | 今井正 | 冤罪事件を題材にした社会派作品 |
| 1957 | 蜘蛛巣城 | 黒澤明 | 『マクベス』の翻案 |
| 1958 | 張込み | 野村芳太郎 | 松本清張原作 |
| 1958 | 鰯雲 | 成瀬巳喜男 | |
| 1958 | 隠し砦の三悪人 | 黒澤明 | キネマ旬報脚本賞 |
| 1959 | 私は貝になりたい | 橋本忍 | 自ら監督(監督デビュー) |
| 1959 | コタンの口笛 | 成瀬巳喜男 | |
| 1960 | 悪い奴ほどよく眠る | 黒澤明 | |
| 1961 | ゼロの焦点 | 野村芳太郎 | 脚本助手に山田洋次 |
| 1962 | 切腹 | 小林正樹 | 主演は仲代達矢 |
| 1964 | 仇討 | 今井正 | 原作も橋本 |
| 1965 | 霧の旗 | 山田洋次 | 松本清張原作 |
| 1966 | 白い巨塔 | 山本薩夫 | 主演は田宮二郎 |
| 1967 | 上意討ち 拝領妻始末 | 小林正樹 | 主演は三船敏郎 |
| 1967 | 日本のいちばん長い日 | 岡本喜八 | |
| 1969 | 人斬り | 五社英雄 | |
| 1970 | 影の車 | 野村芳太郎 | 松本清張原作 |
| 1970 | どですかでん | 黒澤明 | 黒澤との最後の共作 |
| 1973 | 日本沈没 | 森谷司郎 | 小松左京原作 |
| 1974 | 砂の器 | 野村芳太郎 | 製作も担当。橋本プロ第1作 |
| 1977 | 八甲田山 | 森谷司郎 | 製作も担当。1977年の邦画配給収入1位 |
| 1977 | 八つ墓村 | 野村芳太郎 | 横溝正史原作 |
| 1982 | 幻の湖 | 橋本忍 | 原作・製作・監督も担当 |
| 1986 | 旅路 村でいちばんの首吊りの木 | 神山征二郎 | 製作も担当 |
| 2008 | 私は貝になりたい | 福澤克雄 | 自作をリライト |
テレビドラマ[編集]
| 放送年 | 作品名 | 備考 |
|---|---|---|
| 1958 | 私は貝になりたい | KRT(現・TBS)。芸術祭賞 |
| 1965 - 1966 | 悪の紋章 | 原作も橋本 |
| 1973 - 1974 | 非情のライセンス(第1シリーズ) |
主な著書[編集]
- 『私は貝になりたい』(現代社、1959年/朝日文庫、2008年)
- 『悪の紋章』(朝日新聞社、1963年)
- 『独裁者のラブレター』(講談社、1969年)
- 『映画「八甲田山」の世界』(映人社、1977年)
- 『幻の湖』(集英社、1980年)
- 『戦国鉄砲商人伝』(集英社文庫、1988年)
- 『橋本忍 人とシナリオ』(シナリオ作家協会、1994年)
- 『複眼の映像 私と黒澤明』(文藝春秋、2006年)
人物・エピソード[編集]
カタカナで書く脚本家[編集]
橋本は脚本をカナタイプ(片仮名のタイプライター)で、片仮名だけで打っていた。漢字を使うと字面からイメージが固定されてしまうのを避けるためだったという。晩年もワープロで執筆を続けており、機械で文字を打つスタイルは生涯一貫していた。
また、強い光を浴びるとめまいを起こすという、脚本家としては少々珍しい職業病を抱えていたとされる。腎臓が一つしかない体でもあったといい、若き日に余命数年と覚悟した人が100歳まで生きたことになる。
筋金入りの競輪ファン[編集]
大の競輪好きとしても知られ、テレビの競輪中継にゲストとして出演したり、競輪の論客として発言したりしていた。創作ノートにも「まくる」「仕掛ける」といった競輪用語が登場し、『砂の器』の構成もこうした言葉で設計していたことが、春日太一の取材で明らかになっている。
宮崎駿と組みたかった?[編集]
90代になってからのインタビューでも、2〜3時間しゃべり続けても疲れを見せなかったという。雑誌の売れ行きやどの媒体が売れているかを記者に質問するなど、興行の数字への関心は最後まで衰えなかった。「今誰とでも組めるなら」と問われ、当時いちばん客を呼ぶ監督として宮崎駿の名を挙げたが、スタジオジブリ作品は一本も観たことがなかったというエピソードも伝わっている。
黒澤明との複雑な関係[編集]
『複眼の映像』は、黒澤を神格化する従来の本とは違い、対等なパートナーとして黒澤の強さと弱さの両方を描いたことで注目された。同書には「七人の侍を生み出してしまった」ことへの苦悩もつづられているとされる。野村芳太郎が「黒澤作品のうち『羅生門』『生きる』『七人の侍』はないほうがよかった」「橋本と出会わなければ、黒澤はワイルダーとワイラーを合わせたような監督になっていた」と語ったという話も紹介されている。
三船敏郎が黒澤作品に出なくなった経緯についても、橋本は一つの理由ではなく複数の事情が積み重なった結果だと語っている。ただし、春日太一の取材によれば、橋本の語る話は時期によって内容が変わることが少なくなく、『複眼の映像』の記述の一部にも疑問が呈されている。
評価・影響[編集]
「脚本家の地位」を体現した人[編集]
J-CASTニュースは訃報で橋本を「映画界最強の脚本家」と呼んだ。同業者から最も尊敬される脚本家の一人であり、とりわけ構成力が高く評価されている。一方で、『白い巨塔』や『日本のいちばん長い日』が橋本の脚本であることは一般にはあまり知られていない、という指摘もある。監督の名前で語られがちな日本映画において、「脚本家がいかに映画を作っているか」を示す最大の実例が橋本忍だといえる。
教え子筋にあたる山田洋次は2014年の取材で、橋本が脚本の仕事を「忍耐だけが頼りの仕事だよ」と語っていたと振り返っている。名前の「忍」にかけたような言葉だが、療養所時代から100歳まで書き続けた人生そのものを表すフレーズでもある。
受賞歴[編集]
ブルーリボン賞脚本賞は『羅生門』(1950年)、『真昼の暗黒』(1956年)、『鰯雲』『張込み』(1958年)、『切腹』(1962年)で受賞。毎日映画コンクール脚本賞は『生きる』(1952年)、『真昼の暗黒』(1956年)、『鰯雲』『張込み』『夜の鼓』(1958年)、『黒い画集 あるサラリーマンの証言』(1960年)、『白い巨塔』(1966年)、『砂の器』(1974年)と、実に8回にわたって受賞している。1958年には『隠し砦の三悪人』などでキネマ旬報脚本賞も受けた。
国際的にも、2013年に全米脚本家組合からジャン・ルノワール賞を受賞した。没後の2019年には第91回アカデミー賞の追悼映像で紹介され、海外でも「Rashomon」「Seven Samurai」「Harakiri」の脚本家として記憶されている。
海外への影響[編集]
黒澤との共作群は世界中の映画人の教科書となった。『七人の侍』の「戦えない人々がプロを雇って集団で敵に立ち向かう」構図は『荒野の七人』をはじめ数えきれない作品に受け継がれ、『羅生門』の「同じ事件を複数の証言で描く」手法は「羅生門効果」という言葉まで生んだ。アメリカの映画監督アントワーン・フークアは雑誌の追悼文で、橋本と黒澤の共作を「正義と犠牲の物語」と評している。
評伝『鬼の筆』による再評価[編集]
2023年11月、映画史・時代劇研究家の春日太一が評伝『鬼の筆 戦後最大の脚本家・橋本忍の栄光と挫折』(文藝春秋、480ページ)を刊行した。企画から約12年をかけ、生前の橋本へのインタビュー(計9回・約20時間)、没後に見つかった創作ノート、遺族から託された膨大な資料、関係者への取材をもとにした決定版評伝で、発売から1か月足らずで3刷に達した。
春日は人生と作品の境界をあいまいにしたまま生きた橋本を「全身脚本家」と表現している。当初は春日の取材依頼を断っていた橋本だったが、雑誌『新潮45』での連載という形で取材が実現した経緯もある。春日によれば、想定外の質問はすべて拒否されるため、取材は「細い崖っぷちを歩くよう」だったという。
炎上とバズ[編集]
『私は貝になりたい』原案をめぐる争い[編集]
ドラマ『私は貝になりたい』の主人公が残す遺書の内容が、元戦犯の加藤哲太郎の手記に似ていたことから、加藤は自分を原案者としてクレジットするよう求めた。橋本はこれを拒否し、加藤は刑事告訴にまで踏み切ったが、起訴には至らなかった。作品の知名度が高いだけに、今でもこの作品を語る際にたびたび触れられる話題である。
『幻の湖』のカルト化[編集]
1982年の『幻の湖』は、琵琶湖西岸の雄琴を舞台に、愛犬を殺された女性・道子(南條玲子)が犯人を追って復讐する物語である。上映時間は164分。犯人を刺すのではなく、なぜかマラソンで勝負して勝ってから殺そうとする展開、唐突に登場するCIA諜報員、本筋とかみ合わない戦国時代パートなど、重厚な映像と混沌とした内容のギャップが大きく、早々に打ち切られた。
ところがその奇妙さゆえに後年はカルト映画として語られるようになり、「巨匠が撮った怪作」として映画ファンの話のネタになっている。橋本自身の創作ノートは「テーマが何なのかよくわからない」という告白から始まっているといい、春日太一はこの作品を橋本の「挫折」の始まりと位置づけている。
余談[編集]
- 脚本家を志した理由の一つは、戦前の映画界では脚本家の地位が高く、報酬もそれに見合っていたからだとされる。
- 『幻の湖』のマラソンシーンのため、主演の南條玲子は1980年から1982年まで東海大学のトラックで元オリンピックコーチの指導を受けた。セットは黒澤作品の美術を手がけた村木与四郎が建てている。
- 『八甲田山』では東宝の宣伝部に対し「製作に3年かかった」ことを前面に出すよう創作ノートで指示していたとされる。
- 『七人の侍』のクライマックスを書いていた熱海の旅館では、3人の放つ緊張感のせいで仲居が部屋に入れなかったという。
- 『羅生門』の原型となった習作のタイトルは『雌雄』。黒澤に「短い」と言われて芥川の別の短編を継ぎ足した結果、あの題名になった。
- 故郷の市川町には2000年に橋本忍記念館が開館しており、ゆかりの資料が展示されている。
- 生まれが1918年、デビューが1950年、最後の脚本リライトが2008年と、活動期間はおよそ60年。同時代を生きた小津安二郎や溝口健二、脚本家出身の監督新藤兼人らと並び、日本映画の黄金期を作った一人である。
