| 仲代達矢 なかだい たつや / Tatsuya Nakadai | |
|---|---|
![]() 1965年頃(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン) | |
| 本名 | 仲代元久(なかだい もとひさ) |
| 誕生日 | 1932年12月13日 |
| 死亡日 | 2025年11月8日 |
| 死亡年齢 | 92歳(数え年94) |
| 出身地 | 東京都目黒区 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 東京都立千歳高校(定時制)卒業、俳優座養成所第4期生 |
| ジャンル | 映画、舞台、テレビドラマ |
| 活動期間 | 1952年 - 2025年 |
| デビューアルバム | 1954年 映画『七人の侍』(台詞のない浪人役)、1955年 舞台『幽霊』 |
| 家族 | 妻:宮崎恭子(脚本家・演出家、筆名・隆巴、1996年死去)、弟:仲代圭吾(シャンソン歌手)、養女:仲代奈緒(歌手) |
| 事務所 | 仕事 |
| 代表作 | 『人間の條件』、『用心棒』、『椿三十郎』、『切腹』、『影武者』、『乱』、『鬼龍院花子の生涯』、『二百三高地』 |
| 関連活動 | 無名塾主宰(1975年 - )、能登演劇堂名誉館長 |
| あだ名 | モヤ |
| その他 | 紫綬褒章(1996年)、文化功労者(2007年)、文化勲章(2015年)、日本アカデミー賞協会栄誉賞(2016年)、菊池寛賞(2021年) |
概要[編集]
仲代達矢(なかだい たつや、1932年12月13日 - 2025年11月8日)とは、東京都出身の俳優である。本名は仲代元久。俳優座出身で、小林正樹の『人間の條件』『切腹』、黒澤明の『用心棒』『椿三十郎』『影武者』『乱』などで世界的に知られた。1975年に妻・宮崎恭子と俳優養成所「無名塾」を開き、役所広司らを育てた。2015年に文化勲章を受章。92歳で亡くなる5か月前まで舞台で主演を続けた「生涯現役」の人である。
詳細[編集]
目の俳優[編集]
仲代達矢を語るうえで、まず外せないのが「目」である。大きく見開かれた目は、ときに冷酷な殺気を、ときに狂気を、ときに底なしの悲しみを映した。黒澤明の『用心棒』では三船敏郎の浪人と対決するピストル使いのやくざ、『椿三十郎』では剛直な侍・室戸半兵衛、五社英雄の『鬼龍院花子の生涯』では粗野な侠客・鬼政と、平凡な日常から遠い強烈な人物を数多く演じた。映画評論家の春日太一は、仲代が演じた役の多くが「殺気や狂気」をまとっていたと評している。
一方で、成瀬巳喜男の作品では正反対の芝居を求められた。成瀬は仲代に「静かに演技してね。立ってるだけでいいからね。黒澤君とこでやってるみたいな、ああいう大げさな芝居しないで」と注文したといい、仲代はそれに応えて目線や間だけで感情を伝える芝居を見せた。監督が何を求めても応えられるよう技を磨くのが役者の使命、というのが本人の持論だった。
「舞台屋」と「映画屋」のあいだ[編集]
映画で売れっ子になってからも、仲代の軸足は一貫して舞台にあった。若手時代には大手映画会社5社から専属契約の誘いを受けたが、舞台に立てなくなることを嫌ってすべて断り、フリーの立場を選んだ。そのおかげで、各社が専属スターの貸し借りを制限していた「五社協定」に縛られず、東宝の黒澤作品、松竹の小林作品、東映の五社作品と、会社の垣根を越えて名監督たちの作品に出演できた。市川崑、岡本喜八、山本薩夫からも声がかかっている。
もっとも本人の悩みもあったようで、映画に出れば「舞台屋」、舞台に出れば「映画屋」と呼ばれることを、知人の車の中でこぼしていたという。40歳前後には劇作家・安部公房のスタジオに参加し、即興劇を通じて自分の演技を見つめ直した時期もある。
生涯現役の人[編集]
仲代は晩年まで、毎日の鍛錬を欠かさなかった。俳優座養成所時代から朝のランニングを続け、70歳ごろからは散歩に切り替えた。同じく70歳を機に禁煙し、喉に負担をかけない発声法を取り入れている。セリフは半紙に書き出して家の壁に貼り、それを見ながら覚えるのが習慣だった。
88歳で迎えた2021年秋の俳優生活70周年記念公演『左の腕』では、激しい動きと張りのある声を見せた。足腰は若いころより衰えたと認めつつ、「若い役者の10倍は稽古しないとついていけない。最後は気力」という趣旨の話をしている。2015年に文化勲章を受けたときには「もう少しだけ、やろうと思う」と語ったとされ、その「もう少し」は結局10年続いた。
経歴[編集]
1932年 - 1955年:貧しい少年時代から俳優座へ[編集]
1932年12月13日、東京・目黒に4人兄弟の長男として生まれた。母がつけた愛称は「モヤ」。父はバスの運転手だったが、仲代が8歳のときに結核で亡くなり、一家は苦しい暮らしを強いられた。のちに本人は、通っていた国民学校で家の経済状況を理由に差別的な扱いを受けたと語っている。戦時中は空襲で工業学校を中退し、疎開も経験した。
戦後は学制改革を経て都立千歳高校の定時制に通い、大井競馬場の切符売りやパチンコ店などのアルバイトで家計を支えた。高校3年のとき、俳優座の舞台『女房学校』を見て千田是也の演技に感銘を受け、競馬場の先輩の勧めもあって役者の道を意識するようになる。1952年、俳優座養成所に第4期生として入所。同期には宇津井健、佐藤慶らがいた。
1954年 - 1958年:七人の侍の「歩き方」[編集]
映画への初出演は、養成所在学中の1954年、黒澤明監督の『七人の侍』である。役は台詞のない浪人で、町を歩くだけの一瞬の出番だった。ところが黒澤に「歩き方が変だ」と何度もやり直しを命じられ、わずか1カットの撮影に半日かかった。この経験は本人にとって苦い思い出になった。
1955年、俳優座公演のイプセン『幽霊』でオスワル役に抜擢され、新劇新人演技賞を受賞して一躍注目を集める。この舞台を見た女優・月丘夢路の進言で日活映画『火の鳥』(1956年)に起用され、本格的な映画デビューを果たした。1957年には小林正樹監督の『黒い河』で主役に抜擢され、ここから小林との長い付き合いが始まる。同年、俳優座養成所で知り合った2歳年上の女優・宮崎恭子と結婚した。
1959年 - 1962年:人間の條件、用心棒、切腹[編集]
1959年から1961年にかけて公開された小林正樹監督の『人間の條件』全6部で、主人公の梶を演じた。五味川純平の長編小説を原作に、戦時中の満州で人間らしくあろうともがく男を描いた大作で、上映時間は全部あわせて約9時間半におよぶ。撮影は北海道のサロベツ原野や苫小牧などを満州に見立てて行われた。この作品で仲代は一気にスターの座をつかみ、小林は仲代を「まさに天才」と評した。小林作品への出演は最終的に13本を数える。
同じ時期に黒澤明からも声がかかった。『七人の侍』の苦い経験から『用心棒』(1961年)のオファーを一度は固辞したが、黒澤本人に説得されて出演を決める。首にマフラーを巻き、西部劇さながらにピストルを振り回すやくざ・卯之助は、三船敏郎の桑畑三十郎の強烈な敵役として映画史に残った。翌1962年の『椿三十郎』では三船と再び対決し、ラストの居合の決闘は日本映画屈指の名場面として語り継がれている。
1962年の『切腹』(小林正樹監督)では、大名屋敷に「切腹させてほしい」と現れる浪人・津雲半四郎を演じた。武家社会の建前と非情を告発するこの作品で、ブルーリボン賞とキネマ旬報賞の主演男優賞を受賞。作品は1963年のカンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受けた。同じ時期には成瀬巳喜男の『女が階段を上る時』(1960年)で、高峰秀子演じる銀座のバーのママを黙って支え続けるマネージャー・小松を演じ、原節子らが共演した成瀬作品『娘・妻・母』(1960年)にも出演している。
1963年 - 1979年:名監督たちの時代と無名塾の誕生[編集]
1960年代は黒澤の『天国と地獄』(1963年)、小林の『怪談』(1965年)、『上意討ち 拝領妻始末』(1967年)、岡本喜八の『大菩薩峠』(1966年)、『殺人狂時代』(1967年)など、名監督たちの作品に次々と出演した。イタリアの西部劇『野獣暁に死す』(1968年)にも悪役で出演している。1970年代には山本薩夫監督の『華麗なる一族』(1974年)、『不毛地帯』(1976年、主演)など社会派の大作でも存在感を示した。
テレビでは1972年のNHK大河ドラマ『新・平家物語』で平清盛を演じ、後半では役に合わせて実際に頭を剃った。そして1975年、妻の宮崎恭子とともに若手俳優を育てる私塾「無名塾」を立ち上げる。1979年には「俳優として縛られずに活動したい」として、長年在籍した俳優座を退団した。
1980年 - 1985年:影武者と乱[編集]
1980年、黒澤明の『影武者』で主演を務めた。本来の主演は勝新太郎だったが、撮影開始直後に黒澤と衝突して降板し、急きょ仲代が代役に立った。武田信玄と、その身代わりに仕立てられた盗人の二役を演じ分け、作品はカンヌ国際映画祭でパルム・ドール(最高賞)を受賞した。同じ年には東映の『二百三高地』で乃木希典を演じ、この2作でブルーリボン賞主演男優賞を受けている。
1982年の五社英雄監督『鬼龍院花子の生涯』では、土佐の侠客・鬼龍院政五郎(鬼政)を豪快に演じた。夏目雅子の「なめたらいかんぜよ」の名台詞で知られる作品で、岩下志麻が鬼政の妻を演じている。
1985年の黒澤作品『乱』では、シェイクスピアの『リア王』を戦国時代に置き換えた物語で、3人の息子に国を譲ったことから破滅へ向かう老武将・一文字秀虎を演じた。脚本は当初三船敏郎を想定して書かれていたが、役は仲代に回ってきた。能面を思わせる白い死人のようなメイクと、静止から急に激しく動く能の所作を取り入れた芝居は圧巻である。富士山の裾野に本物の城を建てて燃やした落城シーンでは、燃えさかる城から秀虎がさまよい出る場面をワンテイクで撮り切った。音楽は武満徹が担当し、総製作費は当時の日本映画として最大級だった。
1986年 - 2014年:舞台とテレビ、妻との別れ[編集]
1980年代後半以降は無名塾の舞台を軸にしながら、映画・テレビにも出演を続けた。テレビでは『大地の子』(1995年)、大河ドラマ『秀吉』(1996年、千利休役)、『風林火山』(2007年、武田信虎役)などに出演。舞台ではシェイクスピアの『リチャード三世』で紀伊國屋演劇賞を受け、『ドライビング・ミス・デイジー』では文化庁芸術祭賞大賞を受賞した。
1996年、最大の理解者だった妻・宮崎恭子が膵臓がんのため65歳で亡くなる。仲代は一時、後を追うことまで考えるほど落ち込んだが、妻が遺した「無名塾だけはなくさないで」という言葉を支えに立ち直った。同年に紫綬褒章、2007年に文化功労者となる。晩年は小林政広監督と組み、『春との旅』(2010年)、『日本の悲劇』(2013年)で主演を務めた。
2015年 - 2025年:文化勲章から最後の舞台へ[編集]
2015年に文化勲章を受章。同年には稲塚秀孝監督のドキュメンタリー『仲代達矢「役者」を生きる』が作られ、劇映画『NORIN TEN』にも主演した。2017年の『海辺のリア』(小林政広監督)では、自分をリア王に重ねる認知症の老名優を演じ、クライマックスの独白は鬼気迫ると評された。2020年には86歳で時代劇『帰郷』に主演している。2016年には日本アカデミー賞協会栄誉賞、2018年に東京国際映画祭特別功労賞、2021年に菊池寛賞を受賞した。
2024年1月の能登半島地震では、第二のふるさとと呼んだ能登の被災に心を痛め、能登入りも検討したが、迷惑をかけることを考えて断念したという。被災した能登演劇堂の復旧を記念して2025年5月から6月に上演された『肝っ玉おっ母と子供たち』(ブレヒト作)で、92歳にして主演を務めた。これが最後の舞台となり、その後も次回公演に向けた稽古を始めていた。
2025年11月:死去[編集]
2025年11月8日午前0時25分、肺炎のため東京都内の病院で死去した。92歳。11月11日に無名塾が発表し、「黒澤明監督や小林正樹監督の作品で世界的にも知られ、役者のこだわり、生涯現役を貫いた唯一無二の俳優でした」とコメントした。本人の遺志により葬儀は近親者のみで営まれ、お別れの会も開かれなかった。
通夜に駆けつけた役所広司は「親でもないのに、こんなに怒ってくれる人をありがたいと感じていました。感謝、それしかないです」と語った。女優の常盤貴子は、能登での最後の舞台のカーテンコールで涙が止まらなかったとSNSで振り返っている。訃報後には『切腹』『椿三十郎』『鬼龍院花子の生涯』などを見直す声がSNSに相次ぎ、配信サービスで出演作の視聴が急増したと報じられた。
無名塾[編集]
自宅から始まった私塾[編集]
無名塾は、1975年11月に仲代と妻・宮崎恭子が自宅で始めた俳優養成の私塾である。仲代は当時42歳、俳優座の看板俳優だった。宮崎は結婚を機に女優を引退し、「隆巴(りゅう ともえ)」の筆名で脚本家・演出家として活動しており、無名塾の公演では妻が脚本・演出を、夫が主演を務めるのが基本の形だった。1994年には専用の稽古場が完成している。宮崎の死後は外部の演出家を招いたり、仲代自身が演出を兼ねたりして公演を続けた。
「演劇界の東大」[編集]
入塾は極めて狭き門で、「演劇界の東大」と呼ばれた。役所広司が受けたときは約800人の応募に対して合格は4人だったという。入塾試験には30分間ひたすら笑い続ける課題があったとも伝えられる。塾生は集団生活を送りながら稽古を積み、仲代から教わったのは演技の技術ではなく「生き方」だったと振り返る元塾生もいる。
主な出身者には役所広司、益岡徹、若村麻由美、隆大介、真木よう子、滝藤賢一らがいる。役所広司の芸名は仲代の命名で、役所勤めだった前職にちなみ、役の幅が広がるようにとの願いもこめられている。役所は入塾式に2時間遅刻して初日から叱られ、その後も「一番怒られていたのでは」と思うほど怒られ続けたと語っている。
能登演劇堂[編集]
無名塾は石川県の旧中島町(現・七尾市)で合宿を行っていたことが縁で、町が演劇専用ホール「能登演劇堂」を1995年に建設した。仲代は設計の監修に関わり、初代名誉館長に就任。舞台の奥の扉を開けると外の景色が見える構造が特徴とされ、無名塾はここで多くの公演を行った。仲代は石川県の能登を「第二のふるさと」と呼んでいた。
解散の発表[編集]
仲代の死去から約10か月後の2026年9月8日、無名塾は仲代・宮崎夫妻と歩んできた50年の「看板」を2027年2月末日で下ろすと公式サイトで発表し、事実上の解散として報じられた。発表では、仲代自身がこの問題に「様々な葛藤を抱えていた」としたうえで、「遺してくれた言葉の真意に従いまして」と解散を決めた理由を説明した。生前に決まっていた企画は予定どおり上演するとしており、2026年10月31日から11月3日にかけて能登演劇堂で『わが町』を上演、11月に東京公演、12月から2027年2月にかけては『等伯』の神奈川・近畿公演が予定されている。
主な出演作[編集]
映画[編集]
- 『七人の侍』(1954年、黒澤明監督)- 浪人(台詞なし)
- 『火の鳥』(1956年)
- 『黒い河』(1957年、小林正樹監督)
- 『人間の條件』全6部(1959年 - 1961年、小林正樹監督)- 梶
- 『鍵』(1959年、市川崑監督)
- 『女が階段を上る時』(1960年、成瀬巳喜男監督)- 小松
- 『娘・妻・母』(1960年、成瀬巳喜男監督)
- 『悪い奴ほどよく眠る』(1960年、黒澤明監督)
- 『用心棒』(1961年、黒澤明監督)- 卯之助
- 『永遠の人』(1961年、木下惠介監督)
- 『椿三十郎』(1962年、黒澤明監督)- 室戸半兵衛
- 『切腹』(1962年、小林正樹監督)- 津雲半四郎
- 『天国と地獄』(1963年、黒澤明監督)- 戸倉警部
- 『怪談』(1965年、小林正樹監督)
- 『大菩薩峠』(1966年、岡本喜八監督)- 机竜之助
- 『上意討ち 拝領妻始末』(1967年、小林正樹監督)
- 『殺人狂時代』(1967年、岡本喜八監督)
- 『華麗なる一族』(1974年、山本薩夫監督)
- 『不毛地帯』(1976年、山本薩夫監督)- 壹岐正
- 『影武者』(1980年、黒澤明監督)- 武田信玄/影武者
- 『二百三高地』(1980年)- 乃木希典
- 『鬼龍院花子の生涯』(1982年、五社英雄監督)- 鬼龍院政五郎
- 『乱』(1985年、黒澤明監督)- 一文字秀虎
- 『春との旅』(2010年、小林政広監督)
- 『日本の悲劇』(2013年、小林政広監督)
- 『海辺のリア』(2017年、小林政広監督)
- 『帰郷』(2020年)
テレビドラマ[編集]
- 『新・平家物語』(1972年、NHK大河ドラマ)- 平清盛
- 『砂の器』(1977年)
- 『大地の子』(1995年、NHK)
- 『秀吉』(1996年、NHK大河ドラマ)- 千利休
- 『風林火山』(2007年、NHK大河ドラマ)- 武田信虎
主な舞台[編集]
- 『幽霊』(1955年、俳優座)- オスワル
- 『どん底』- サーチン
- 『リチャード三世』
- 『ドライビング・ミス・デイジー』
- 『左の腕』(2021年、俳優生活70周年記念)
- 『いのちぼうにふろう物語』(能登演劇堂ほか。妻・隆巴の脚本による作品)
- 『肝っ玉おっ母と子供たち』(2025年、能登演劇堂)
人物[編集]
妻・宮崎恭子[編集]
妻の宮崎恭子(1931年 - 1996年)は俳優座で将来を嘱望された女優だったが、1957年の結婚を機に引退し、夫の才能を信じて支える側に回った。のちに隆巴の名でテレビドラマ『樅の木は残った』や映画『いのちぼうにふろう』の脚本を書き、無名塾では『どん底』『リチャード三世』などを演出している。夫婦仲は非常によく、大きな喧嘩をしたことがなかったという。仲代は妻と同じ墓に入りたいとの思いから10年以上も遺骨を手元に置き、亡くなる前に富士山を望む霊園に埋葬したと報じられている。
同時代のスターたちとの交友[編集]
三船敏郎、萬屋錦之介、勝新太郎とは酒を飲みながら演技論を戦わせ、ケンカになったこともあると語っている。丹波哲郎は「ケンカが強いのは仲代」と証言した。『影武者』の降板騒動のあと勝新太郎とは疎遠になったが、1996年の妻の葬儀に勝が弔問に訪れ、2人は抱き合ったという。勝の死後には、あの世の酒盛りに自分の席も空けておいてほしいと話した。加山雄三とは盟友といえる仲で、岡本喜八監督とは家族ぐるみの付き合いだった。
素顔[編集]
スクリーンの殺気とは裏腹に、素顔は豪快でよく笑い、よくしゃべるイタズラ好きだった。岡本喜八の娘で女優の岡本真実は子どものころ仲代を「目玉のお兄ちゃん」と呼んでいたといい、『乱』の撮影現場では仲代が彼女のヘルメットに落書きしたという。読売ジャイアンツのファンとしても知られ、2017年には東京ドームで始球式を務めた。
余談[編集]
- 『七人の侍』で黒澤明に歩き方を何度もダメ出しされた若者が、26年後に黒澤作品の主演としてカンヌの最高賞を手にしたことになる。
- ジャン・ギャバンの大ファンで、『大いなる幻影』は10回観たという。のちにギャバン主演作のリメイクである1986年の映画『道』で、ギャバンの役を自ら演じた。
- 大河ドラマ『新・平家物語』の平清盛役では、出家の場面に合わせて本当に剃髪した。
- NHK大河ドラマ『八代将軍吉宗』(1995年)の題字は仲代の筆によるもの。
- 1992年にフランス政府から芸術文化勲章シュヴァリエを、2016年には米国の映画芸術科学アカデミーの会員にも招かれている。
- 死後の2026年3月7日にはNHK Eテレで『ETV特集 仲代達矢が歩んだ役者道』が放送され、栗原小巻、益岡徹、若村麻由美らが出演した。稲塚秀孝監督は250時間を超える映像素材をもとに追悼ドキュメンタリーを制作中で、一周忌に合わせた公開を目指していると報じられた。
- 自叙伝に『遺し書き』(2001年)がある。また、春日太一による聞き書き『仲代達矢が語る日本映画黄金時代』は、撮影所時代の証言集として映画ファンに読み継がれている。
