| 新藤兼人 Kaneto Shindo | |
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新藤兼人(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン) | |
| 本名 | 新藤兼登(しんどう かねと) |
| 誕生日 | 1912年4月22日 |
| 死亡日 | 2012年5月29日 |
| 死亡年齢 | 100歳 |
| 出身地 | 広島県佐伯郡石内村(現・広島市佐伯区) |
| 国籍 | 日本 |
| 家族 | 乙羽信子(妻)、新藤次郎(息子・プロデューサー)、新藤風(孫・映画監督) |
| 学歴 | 石内尋常高等小学校高等科 |
| 職業 | 映画監督、脚本家 |
| 肩書 | 近代映画協会会長 |
| 活動期間 | 1934 - 2012 |
| 代表的な実績 | 『原爆の子』『裸の島』『鬼婆』『藪の中の黒猫』『午後の遺言状』『一枚のハガキ』 |
| 受賞 | モスクワ国際映画祭グランプリ(『裸の島』)、同金賞(『裸の十九才』『生きたい』)、日本アカデミー賞最優秀作品賞・最優秀監督賞(『午後の遺言状』)、文化功労者、文化勲章、菊池寛賞 |
| 事務所 | 近代映画協会 |
| 関連活動 | 独立プロダクション運動 |
| その他 | 監督作48本、脚本作は230本以上 |
概要[編集]
新藤兼人(しんどう かねと、1912年4月22日 - 2012年5月29日)とは、日本の映画監督・脚本家である。溝口健二に師事して脚本を学び、1950年に独立プロ「近代映画協会」を旗揚げした日本インディペンデント映画の草分け。台詞ゼロの『裸の島』で世界を驚かせ、98歳で撮った『一枚のハガキ』を遺作に100歳で世を去った「生涯現役」の象徴的存在だ。
詳細[編集]
没落した豪農の末っ子[編集]
新藤兼人は1912年(明治45年)4月22日、広島県佐伯郡石内村(現在の広島市佐伯区五日市町石内)に生まれた。本名は新藤兼登で、読みは同じ「かねと」である。生家は豪農だったが、父が借金の連帯保証人となったことで没落。4人きょうだいの末っ子だった兼人は、貧しさの中で少年時代を過ごした。
長兄は尾道で警察官となり、長姉は「写真花嫁」としてアメリカへ渡り、次姉は看護師になった。兼人は1927年に石内尋常高等小学校高等科を卒業したのち広島市内の親戚に預けられ、16歳ごろには尾道の長兄宅に居候している。この石内と尾道での日々は、のちに『石内尋常高等小学校 花は散れども』など晩年の作品にそのまま流れ込むことになる。
『盤嶽の一生』で映画に目覚める[編集]
転機は1933年。尾道で山中貞雄監督の時代劇『盤嶽の一生』を観て強烈に感動し、映画の世界を志して京都へ向かった。1934年、22歳で新興キネマに入社するが、最初の仕事は現像部でフィルムを乾かす雑役だった。英語版の資料によると、背が低くて照明部には入れず、現像部に回されたのだという。
現像場で働きながら、使い古しの台本がトイレの落とし紙に使われているのを見つけ、それを持ち帰って勉強したという逸話はあまりにも有名だ。のちに会社の東京移転に伴って美術部へ移り、美術監督の水谷浩に師事。その傍らで脚本を書いては投稿し続け、懸賞で入選しても映画化されない時期が続いた。ようやく1940年、落合吉人の推薦で『南進女性』の脚本家としてデビューを果たす。
溝口健二の「これはシナリオではありません」[編集]
1941年、新藤は溝口健二監督の大作『元禄忠臣蔵』の建築監督として興亜映画に1年間出向する。このとき原寸大の「松の廊下」のセットを建てたことで知られるが、新藤にとってもっと大きかったのは、溝口の内弟子になれたことだった。
意気込んで書き上げたシナリオを溝口に見せたところ、返ってきたのは「これはシナリオではありません、ストーリーです」という一言。新藤は自殺を考えるほど打ちのめされたとされる。そんな彼を支えたのが、スクリプターとして働いていた内妻・久慈孝子だった。孝子の励ましで立ち直った新藤は猛勉強を重ね、1943年ごろ情報局の脚本公募に『強風』が当選。この時、溝口に祇園で御馳走になったのが、生涯でただ一度の「師匠のおごり」だったと伝えられる。
召集、そして「くじ」で拾った命[編集]
1944年4月、新藤は脚本家として一本立ちする前に海軍に召集され、呉の海兵団に入団した。配属されたのは、奈良の天理教本部や宝塚の施設を掃除して回る「掃除部隊」。同じ頃、内妻の孝子は貧しさから十分な栄養をとれないまま結核で亡くなっている。
1945年、宝塚海軍航空隊で故郷・広島への原爆投下を知り、そのまま終戦を迎えた。同期の100名のうち94名が戦死し、生き残ったのは新藤を含む6名だけ。戦地への配属はくじ引きで決まったとされ、この「くじで生き残った」という体験は彼の生涯を貫くテーマとなり、66年後の遺作『一枚のハガキ』で正面から描かれることになる。
経歴[編集]
松竹の脚本家として[編集]
戦後の1945年秋、新藤は『待帆荘』を書き上げ、これがマキノ正博監督の『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化された。同じ1946年には師・溝口のために田中絹代主演の『女性の勝利』の脚本を執筆している。
松竹大船撮影所を拠点とした新藤の名を一気に高めたのが、吉村公三郎監督と組んだ1947年の『安城家の舞踏会』である。没落華族の最後の一夜を描いたこの作品は原節子らが出演し、キネマ旬報ベスト・テン第1位に輝いた。以後「吉村=新藤コンビ」は『わが生涯のかがやける日』などを連打し、新藤は木下惠介監督の『お嬢さん乾杯!』(1949年)の脚本も手がけるなど、松竹の看板脚本家となった。
近代映画協会の設立[編集]
ところが1949年に手がけた作品が興行的に振るわず、会社からコンビ解消を迫られる。これに反発した新藤と吉村は1950年に松竹を退社し、俳優の殿山泰司、絲屋寿雄、山田典吾とともに独立プロダクション「近代映画協会」を結成した(グループ結成は同年3月、会社設立は7月31日)。
設立第1作は大映との提携作品『戦火の果て』。当初は大映と契約して作品を供給する形で経営を回した。新藤自身も1951年、大映からの請負作品『愛妻物語』で39歳にして監督デビューを果たす。亡き内妻・孝子をモデルにした自伝的作品で、主演はのちに生涯の伴侶となる乙羽信子だった。この作品はキネマ旬報ベスト・テン第10位に入っている。
『原爆の子』と独立プロの苦闘[編集]
1952年、新藤は広島の子どもたちの手記を基にした『原爆の子』を企画する。大映が難色を示したため近代映画協会初の自主製作として広島でロケを敢行し、乙羽信子は大映を退社してまでこの作品に参加した。原爆を正面から扱った最初期の日本映画の一つで、1953年のカンヌ国際映画祭に出品。1954年にはチェコのカルロヴィ・ヴァリ国際映画祭で平和賞、1956年には英国アカデミー賞の国連平和賞を受けた。
その後も『縮図』『女の一生』『どぶ』『狼』『銀心中』など社会の底辺に生きる人々を描く作品を撮り続けたが、独立プロの台所は常に火の車だった。1959年、ビキニ環礁の水爆実験で被曝した漁船を描いた『第五福竜丸』が興行的に失敗すると、協会は多額の借金を抱えて解散の瀬戸際に追い込まれる。
『裸の島』の奇跡[編集]
そこで新藤が「解散記念作品」として撮ったのが、1960年の『裸の島』である。製作費はわずか500万円、スタッフは11人。瀬戸内海に浮かぶ三原市の宿禰島(すくねじま)をロケ地に、近くの佐木島を拠点として約48日間の合宿撮影を行った。
出演は乙羽信子と殿山泰司が演じる夫婦と、その2人の息子。水のない小島で、夫婦が隣の島から桶で水を運び、急斜面を天秤棒で担ぎ上げては畑にまく――その単調で過酷な日々を、台詞を一切使わずに映像と林光の音楽だけで描き切った。新藤自身はこの作品を「自然の力に蟻のようにあらがって生きる人間の姿を捉えようとした映像詩」と語っている。
1961年、第2回モスクワ国際映画祭でグランプリを受賞。これが初の海外渡航だった新藤は、世界各国から上映権の申し込みを受け、最終的に60か国以上に売れたとされる。その売却益で累積赤字は一掃され、近代映画協会は解散を免れた。全編地方ロケ・少人数合宿という製作スタイルは、その後の日本のインディペンデント映画のお手本となった。
1960年代:性と業を描く[編集]
『裸の島』で世界的な名声を得た新藤は、1960年代に入ると人間の欲望や業を土着的な世界の中で描く作品に踏み込む。代表格が1964年の『鬼婆』だ。南北朝時代、戦で男手を失った姑(乙羽信子)と嫁(吉村実子)が、落武者を殺して武具を売りさばき生き延びる。千葉県・印旛沼の葦原にプレハブ小屋を建て、スタッフが3か月間泊まり込んで撮影した。般若面をつけた姑のビジュアルは今も海外のホラーファンの間で語り草で、パナマ映画祭でグランプリを受けている。
1968年の『藪の中の黒猫』は平安時代を舞台にした怪談で、野武士に殺された女たちが化け猫となって武士を襲う。中村吉右衛門、乙羽信子、太地喜和子らが出演し、第21回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品された(ただしこの年のカンヌは五月革命の影響で中止となり、賞は出なかった)。
1970年代:社会派からドキュメンタリーまで[編集]
1970年の『裸の十九才』は、実際に起きた連続射殺事件の犯人をモデルに、貧困の中で育った青年の転落を描いた作品で、1971年の第7回モスクワ国際映画祭で金賞を受賞した。1973年には夏目漱石の『こころ』を映画化した『心』を、日本アート・シアター・ギルド(ATG)と組んで発表している。
1975年には、師の生涯をたどるドキュメンタリー『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』を監督。溝口と仕事をした俳優やスタッフに新藤自らインタビューして回り、とりわけ田中絹代に溝口との関係を問う場面は、日本映画史に残る名場面とされる。同作はキネマ旬報ベスト・テン第1位に選ばれた。1977年には津軽三味線奏者・高橋竹山の半生を描いた『竹山ひとり旅』、1979年には家庭内暴力の末に息子を手にかける父を描いた『絞殺』を発表。『絞殺』では乙羽信子がヴェネツィア国際映画祭で主演女優賞を受けた。
1980年代〜90年代:老いと死を見つめる[編集]
1980年代以降の新藤は、自身の老いと重ねるように「老い」「死」「性」を見つめる作品を撮り続けた。1981年の『北斎漫画』、1986年の『落葉樹』、移動演劇隊「桜隊」の原爆被災を描いた1988年の『さくら隊散る』、永井荷風の名作を映画化した1992年の『濹東綺譚』などがこの時期の代表作だ。
1995年の『午後の遺言状』は、乙羽信子と杉村春子のために書かれた作品である。蓼科の山荘を舞台に、老女優(杉村春子)と別荘番の女(乙羽信子)が過ごすひと夏を、ユーモアと死の影を交えて描く。乙羽はこの撮影時すでに病を抱えており、1994年12月に亡くなった。同作は乙羽の遺作となり、第19回日本アカデミー賞で最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀脚本賞・最優秀助演女優賞(乙羽)などを独占。キネマ旬報、毎日映画コンクール、ブルーリボン賞、報知映画賞でも作品賞に輝き、80代の監督による「最高傑作」とまで言われた。
晩年:100歳まで現役[編集]
乙羽を失ったあとも新藤は止まらなかった。1999年の『生きたい』は姥捨て伝説を下敷きに老人介護を描いた作品で、第21回モスクワ国際映画祭で金賞を受賞。同映画祭での3度目の最高賞となった。2000年には盟友・殿山泰司の破天荒な人生を描いた『三文役者』、2004年には大竹しのぶ主演の密室劇『ふくろう』、2008年には自身の恩師と同級生たちを描いた『石内尋常高等小学校 花は散れども』を発表している。
晩年の新藤を支えたのが、孫で映画監督の新藤風である。風は29歳から6年間祖父と同居し、脚本執筆の手伝い、外出や撮影現場への付き添い、日常の世話を引き受けた。晩年の作品のクレジットには「監督健康管理」として風の名前が載っている。
2010年、新藤は『一枚のハガキ』を最後の監督作とすることを表明。同年10月31日にクランクアップし、第23回東京国際映画祭で審査員特別賞を受けた。劇場公開は2011年8月6日。広島に原爆が投下されたのと同じ日付である。2012年4月22日には100歳を迎え、誕生会では「これが最後の言葉です。どうもありがとう。さようなら」と挨拶した。そして同年5月29日、東京都港区の自宅で老衰のため死去した。100歳だった。
遺作『一枚のハガキ』[編集]
『一枚のハガキ』は、新藤自身の戦争体験をもとにした作品で、彼の映画人生の総決算と言える一本だ。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 公開 | 2011年8月6日(テアトル新宿ほか。広島の八丁座で先行上映) |
| 監督・脚本・原作 | 新藤兼人 |
| 主な出演 | 豊川悦司、大竹しのぶ、六平直政、大杉漣、柄本明、倍賞美津子、津川雅彦 |
| 主な受賞 | 第23回東京国際映画祭 審査員特別賞、第85回キネマ旬報ベスト・テン 日本映画第1位、ブルーリボン賞 監督賞、毎日映画コンクール 日本映画大賞、日本アカデミー賞 優秀監督賞 |
| その他 | 米アカデミー賞外国語映画賞の日本代表作品に選出 |
物語は戦争末期。召集された中年兵100名が、上官の引くくじによって赴任先を割り振られる。フィリピン行きが決まった森川定造(六平直政)は、妻・友子(大竹しのぶ)から届いた1枚のハガキを読んだと妻に伝えてほしい、と戦友の松山啓太(豊川悦司)に託す。戦後、100人中6人の生き残りとなった啓太は、そのハガキを手に友子の家を訪ねる――。
「100人中6人」「くじ引き」「掃除部隊」は、すべて新藤が実際に体験したことだ。撮影時98歳、公開時99歳という年齢で撮られたこの作品は、日本映画史上最高齢監督の作品として話題になった。主人公の啓太が三原市の佐木島出身という設定や、筆影山から撮った瀬戸内の景色が登場するなど、『裸の島』のロケ地へのオマージュも込められている。
監督作品[編集]
新藤の監督作は48本。そのすべてで脚本(共同脚本を含む)を自ら書いている。
| 公開年 | 作品名 | 備考 |
|---|---|---|
| 1951 | 愛妻物語 | 監督デビュー作。主演は乙羽信子。キネマ旬報10位 |
| 1952 | 雪崩 | |
| 1952 | 原爆の子 | 近代映画協会初の自主製作。カンヌ国際映画祭出品 |
| 1953 | 縮図 | |
| 1953 | 女の一生 | |
| 1954 | どぶ | |
| 1955 | 狼 | |
| 1956 | 銀心中 | |
| 1956 | 流離の岸 | |
| 1956 | 女優 | |
| 1957 | 海の野郎ども | |
| 1958 | 悲しみは女だけに | |
| 1959 | 第五福竜丸 | チェコの映画祭で平和賞。興行的には失敗 |
| 1959 | 花嫁さんは世界一 | |
| 1960 | 裸の島 | 台詞なし。モスクワ国際映画祭グランプリ |
| 1962 | 人間 | |
| 1963 | 母 | |
| 1964 | 鬼婆 | パナマ映画祭グランプリ |
| 1965 | 悪党 | |
| 1966 | 本能 | |
| 1967 | 性の起原 | |
| 1968 | 藪の中の黒猫 | カンヌ国際映画祭コンペティション出品 |
| 1968 | 強虫女と弱虫男 | |
| 1969 | かげろう | キネマ旬報4位 |
| 1970 | 触角 | |
| 1970 | 裸の十九才 | モスクワ国際映画祭金賞 |
| 1972 | 鉄輪 | |
| 1972 | 讃歌 | 谷崎潤一郎『春琴抄』が原作 |
| 1973 | 心 | 夏目漱石『こころ』が原作 |
| 1974 | わが道 | |
| 1975 | ある映画監督の生涯 溝口健二の記録 | ドキュメンタリー。キネマ旬報1位 |
| 1977 | 竹山ひとり旅 | |
| 1979 | 絞殺 | 乙羽信子がヴェネツィア国際映画祭主演女優賞 |
| 1981 | 北斎漫画 | |
| 1984 | 地平線 | |
| 1986 | ブラックボード | |
| 1986 | 落葉樹 | |
| 1988 | さくら隊散る | 原爆で全滅した移動演劇隊を描く |
| 1992 | 濹東綺譚 | 永井荷風原作 |
| 1995 | 午後の遺言状 | 日本アカデミー賞最優秀作品賞。乙羽信子の遺作 |
| 1999 | 生きたい | モスクワ国際映画祭金賞 |
| 2000 | 三文役者 | 殿山泰司の生涯を描く |
| 2004 | ふくろう | 主演は大竹しのぶ |
| 2008 | 石内尋常高等小学校 花は散れども | |
| 2011 | 一枚のハガキ | 遺作。東京国際映画祭審査員特別賞 |
※テレビ作品『ドキュメント8.6』(1978年)なども手がけている。
脚本家としての新藤兼人[編集]
新藤は監督である以前に、日本映画史屈指の多作な脚本家だった。手がけた脚本は230本以上(資料によっては238本)にのぼり、時代劇、メロドラマ、喜劇、社会派、アクション、怪談と、あらゆるジャンルを書き分けた。脚本を書いた作品を撮った監督には、溝口健二、吉村公三郎、木下惠介、市川崑、鈴木清順、今井正、川島雄三、野村芳太郎らがいる。
| 公開年 | 作品名 | 監督 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1946 | 女性の勝利 | 溝口健二 | 主演は田中絹代 |
| 1947 | 安城家の舞踏会 | 吉村公三郎 | キネマ旬報1位 |
| 1949 | お嬢さん乾杯! | 木下惠介 | |
| 1950 | 長崎の鐘 | 大庭秀雄 | 永井隆の著作が原作 |
| 1958 | 夜の鼓 | 今井正 | |
| 1962 | しとやかな獣 | 川島雄三 | 主演は若尾文子。団地を舞台にしたブラックコメディ |
| 1972 | 軍旗はためく下に | 深作欣二 | |
| 1975 | 昭和枯れすすき | 野村芳太郎 | |
| 1978 | 事件 | 野村芳太郎 | 大竹しのぶが出演 |
| 1987 | 映画女優 | 市川崑 | 吉永小百合が田中絹代を演じる |
| 1987 | ハチ公物語 | 神山征二郎 | ハチ公の実話を映画化 |
| 1996 | 宮澤賢治 その愛 | 神山征二郎 | 宮沢賢治の生涯を描く |
| 2007 | 陸に上った軍艦 | 山本保博 | 新藤自身の軍隊体験が原作・証言出演 |
特筆すべきは、若尾文子主演のブラックコメディ『しとやかな獣』だ。元軍人の父親を中心に、たかりと横領で暮らす一家が団地の一室で繰り広げる狂騒劇で、ほぼ団地の室内だけで物語が進む。川島雄三の切れ味鋭い演出と新藤の毒のある台詞の組み合わせは、今も日本映画屈指の怪作として名高い。
また、市川崑監督の『映画女優』は、新藤の著書を原作に、田中絹代の若き日を吉永小百合が演じたもの。溝口との関係が物語の軸となっており、『ある映画監督の生涯』と合わせて新藤の「溝口健二・田中絹代もの」の一角をなしている。
作風と評価[編集]
新藤作品を貫くテーマは、大きく「貧困」「女性」「性」「戦争と原爆」の4つに整理できる。自らを社会主義者と称していた新藤は、農民や都市の下層に生きる人々を一貫して描き、原爆を告発する作品を生涯にわたって撮り続けた。『原爆の子』『第五福竜丸』『さくら隊散る』、テレビ作品の『ドキュメント8.6』、そして『一枚のハガキ』と、広島出身の映画人として核と戦争に向き合い続けた姿勢は、海外の映画祭でも高く評価された。
一方で『鬼婆』『藪の中の黒猫』に代表される、エロスと怪奇をむき出しにした作品群も新藤の大きな柱だ。これらはヨーロッパや北米で熱心なファンを獲得し、アメリカのクライテリオン・コレクションからは『裸の島』『鬼婆』『藪の中の黒猫』がソフト化されている。カナダでは特に人気が高く、『裸の島』は同国で最も多く上映された日本映画の一つと言われる。
師である溝口健二からは「決してあきらめないこと」を学んだと語っている。溝口の失敗作があったからこそ傑作が生まれた、というのが新藤の溝口観で、その粘り強さは60年近く監督を続けた彼自身の生き方にも重なる。独立プロという不安定な立場で、資金難のたびに起死回生の一本を撮って生き延びてきたキャリアは、日本の自主製作映画の歴史そのものと言ってよい。
私生活と家族[編集]
新藤は生涯で3人の女性と人生を共にしている。
- 久慈孝子:内妻。スクリプターとして新藤を支えたが、戦時中に結核で死去した。デビュー作『愛妻物語』のモデルである。
- 美代:1946年に結婚した妻。1972年、美代からの申し出で正式に離婚した。
- 乙羽信子:宝塚出身の女優。『愛妻物語』で主演して以降、『原爆の子』『裸の島』『鬼婆』『藪の中の黒猫』『絞殺』『午後の遺言状』など新藤作品のほとんどに出演した最大のミューズ。長く公私のパートナーとして歩んだのち1978年に結婚し、1994年に死去した。
息子の新藤次郎は映画プロデューサーで、1980年代半ば以降の新藤作品の多くを製作し、近代映画協会の代表も務めている。次郎の娘、つまり孫の新藤風(1976年生まれ)は映画監督・脚本家で、『LOVE/JUICE』(2000年)、『転がれ!たま子』(2005年)、『島々清しゃ』(2017年)などを監督した。
受賞・栄典[編集]
| 年 | 賞・栄典 | 対象 |
|---|---|---|
| 1954 | カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭 平和賞 | 原爆の子 |
| 1961 | 第2回モスクワ国際映画祭 グランプリ | 裸の島 |
| 1964 | パナマ映画祭 グランプリ | 鬼婆 |
| 1971 | 第7回モスクワ国際映画祭 金賞 | 裸の十九才 |
| 1996 | 第19回日本アカデミー賞 最優秀作品賞・最優秀監督賞・最優秀脚本賞 | 午後の遺言状 |
| 1996 | 川喜多賞 | |
| 1997 | 文化功労者 | |
| 1999 | 第21回モスクワ国際映画祭 金賞 | 生きたい |
| 2002 | 文化勲章 | |
| 2003 | モスクワ国際映画祭 特別賞 | |
| 2003 | 三原市名誉市民 | |
| 2003 | 広島市名誉市民 | |
| 2005 | 谷本清平和賞 | |
| 2010 | 第23回東京国際映画祭 審査員特別賞 | 一枚のハガキ |
| 2011 | 第59回菊池寛賞 | |
| 2012 | キネマ旬報ベスト・テン 日本映画第1位、ブルーリボン賞 監督賞、毎日映画コンクール 日本映画大賞 | 一枚のハガキ |
| 2012 | 従三位(没後追叙) |
このほか広島県名誉県民の称号も受けている。また1996年には、日本映画製作者協会が新人監督を表彰する「新藤兼人賞」が創設された。
没後[編集]
2012年5月29日の死去を受け、山田洋次ら多くの映画人が追悼の言葉を寄せた。葬儀・告別式は6月3日に東京・芝の増上寺で営まれている。遺骨の半分は鎌倉霊園に納められ、残る半分は『裸の島』の舞台である宿禰島に散骨された。そこはすでに乙羽信子の遺骨が撒かれた場所であり、2人は映画の島で再び一緒になったことになる。
没後も新藤作品は各地で上映され続けている。2022年には生誕110年・没後10年を記念して、広島市映像文化ライブラリーが開館40周年企画として「新藤兼人特集」を開催し、『愛妻物語』『原爆の子』『裸の島』から1970年代以降の作品までを上映。隣接する広島市中央図書館では「新藤兼人展」も開かれた。ロケ地の三原市でも市民映画祭で『らくがき黒板』『裸の島』『かげろう』『一枚のハガキ』を上映し、新藤次郎が舞台トークに立っている。2025年7月には横浜の自主上映団体「横浜キネマ倶楽部」が『さくら隊散る』を上映し、新藤次郎の講演も行われた。
余談[編集]
- 映画の道を志すきっかけは山中貞雄監督の『盤嶽の一生』。若くして戦病死した天才監督の一本が、100歳まで生きる巨匠を生んだことになる。
- 脚本の勉強は、トイレの落とし紙として使われていた古い台本を持ち帰って読むことから始まったとされる。
- 『裸の島』を撮った時点では海外に行ったことがなく、1961年のモスクワ行きが初の海外渡航だった。初めての渡航でグランプリを獲り、そのまま世界中に映画を売って会社の借金を返したという、出来すぎた話である。
- 2011年には、新藤のファンだというハリウッド俳優ベニチオ・デル・トロが『裸の島』の舞台・宿禰島を訪れている。
- 映画『パシフィック・リム』には「オニババ」という名の怪獣が登場するが、これは新藤の『鬼婆』から名前を取ったものとされる。
- 80歳を機に、趣味だった麻雀・将棋・野球観戦をすべてやめ、映画づくりに専念したという。
- 2004年の『ふくろう』はほぼワンセットで撮影されている。足腰が弱っていた新藤の身体的事情もあったとされる。
- 2012年2月のブルーリボン賞授賞式では、新人賞の芦田愛菜(当時7歳)とのツーショットが「92歳差」として話題になった。この席で、芦田を起用する作品の構想を語ったとも報じられている。
- 100歳の誕生会での「これが最後の言葉です。どうもありがとう。さようなら」という挨拶は、その約1か月後に本当に最後の言葉となった。