宮川一夫
みやがわ かずお / Kazuo Miyagawa
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宮川一夫の肖像写真(出典:ウィキメディア・コモンズ「File:宮川一夫 Kazuo Miyagawa.jpg」、パブリックドメイン)
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市川崑(左)と宮川一夫(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン)
本名 宮川一雄
誕生日 1908年2月25日
死亡日 1999年8月7日
死亡年齢 91歳
出身地 京都府京都市
国籍 日本
家族 長男:宮川一郎
学歴 京都商業学校(現・京都先端科学大学附属高等学校)卒業
職業 撮影監督(映画キャメラマン)
肩書 大阪芸術大学名誉教授
活動期間 1926年 - 1999年(撮影技師としては1935年 - 1990年)
代表的な実績 撮影担当作は130本以上。『無法松の一生』『羅生門』『雨月物語』『山椒大夫』『近松物語』『炎上』『浮草』『おとうと』『用心棒』『東京オリンピック』『はなれ瞽女おりん』『瀬戸内少年野球団』。「銀残し」の考案
受賞 ブルーリボン賞撮影賞、毎日映画コンクール撮影賞、日本アカデミー賞撮影賞、紫綬褒章(1978年)、勲四等旭日小綬章(1983年)、朝日賞(1985年)、ユネスコ・ピカソメダル(1989年)、川喜多賞
関連活動 著書『キャメラマン一代―私の映画人生60年』(1985年)
あだ名 カー坊
その他 2018年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)とジャパン・ソサエティーで大回顧展が開催


概要[編集]

宮川一夫(みやがわ かずお、1908年2月25日 - 1999年8月7日)とは、日本の映画撮影監督である。黒澤明の『羅生門』、溝口健二の『雨月物語』、小津安二郎の『浮草』、市川崑の『東京オリンピック』と、巨匠たちの代表作のカメラを次々に担当した「日本映画最高のキャメラマン」。タブーとされた太陽への直撃撮影や、現像技法「銀残し」の考案など、映像表現の常識を何度も塗り替えた人物である。

詳細[編集]

「監督は誰でも、画は宮川」という存在[編集]

宮川一夫の名前は、映画ファン以外にはあまり知られていないかもしれない。だが、彼が撮った作品のリストを見ると誰もが驚く。黒澤明、溝口健二、小津安二郎、市川崑、稲垣浩、吉村公三郎、増村保造、三隅研次、篠田正浩……と、日本映画史の教科書に載るような監督たちと40人以上も組み、60年以上のキャリアで130本を超える作品の撮影を担当した。

アメリカのニューヨーク近代美術館(MoMA)は宮川を「戦後日本映画でもっとも影響力のあった撮影監督」と紹介し、2018年4月には「Kazuo Miyagawa: Japan's Greatest Cinematographer(日本最高の撮影監督)」と題した回顧展を開催した。監督ではなくキャメラマン個人の名前で特集が組まれるのは異例で、それだけ「宮川の画」が監督の個性とは別のブランドとして認められているということである。

墨絵で鍛えた「見る目」[編集]

宮川の映像感覚の原点としてよく語られるのが、少年時代に習った墨絵(水墨画)である。11〜12歳ごろから墨絵に打ち込み、10代のころには挿絵を描いて売っていたという。本人は後年、「ものの見方を本当に教えてくれたのは墨絵の修業だった」という趣旨のことを語っている。自伝には、墨絵では色が使えないことに不満を持っていたという記述もあり、それが白と黒の階調だけで世界を描くモノクロ映画の表現に生きたとされる。

長男の宮川一郎は、明治生まれの父が暗い時代の空気の中で育ったことや、京都という土地の暗さ・湿気・霧が、白黒映像の感性に影響したのではないかと語っている。実際、宮川のモノクロは単純なハイコントラストではなく、霧がかった灰色の階調を何段階も使い分けるのが持ち味で、『羅生門』のようにあえて白黒を強く出した作品はむしろ例外だった。

現像所出身という強み[編集]

宮川のキャリアは、撮影部ではなく日活京都撮影所の現像部から始まっている。約3年間、ネガの現像やプリントの調子づけを叩き込まれたこの経験を、宮川は「撮影の土台になった」と振り返っている。撮影が感覚的な技術だとすれば、現像は理屈の技術である、という考え方だった。

この「現像まで分かるキャメラマン」という強みが最大限に発揮されたのが、のちの「銀残し」の考案である。撮った画を最終的にどんな調子に仕上げるかまで自分で設計できたことが、他のキャメラマンにはまねのできない画づくりを支えていた。なお、『羅生門』の撮影までは露出計を使わず、露出をすべて目で判断していたという逸話もある。

職人としてのこだわり[編集]

アメリカの撮影専門誌『American Cinematographer』が1960年に宮川を取材した記事には、当時の撮影現場の細かな様子が記録されている。それによると、宮川は助手が4人いても自分でカメラを操作し、照明もほとんど自分で位置を決めていた。日本家屋のセットは狭く三脚が入らないことが多いため、木製の三角形の台にカメラを据え、座っている役者に合わせて床から約60センチの低い位置から撮ることが多かった。

撮影所の方針でフィルムの使用比率は2対1に抑えられていたため、1カットごとに何度もリハーサルを重ねてから本番に臨んだ。ほかのキャメラマンが脚本の検討に2週間程度しかもらえなかったところ、宮川は4週間をかけ、年に2〜3本しか撮らなかったという。本人は「私は決して満足しない」と語り、過去の作品を見返すこともほとんどなかったとされる。

経歴[編集]

生い立ちと日活時代(1908年 - 1942年)[編集]

1908年(明治41年)、京都府京都市に生まれる。本名は宮川一雄。のちに日本映画を代表する監督となるマキノ雅弘(マキノ正博)とは小学校の同級生だった。京都商業学校を卒業後、1926年に17〜18歳で日活京都の大将軍撮影所に現像部の助手として入社。子ども服店の宣伝写真や撮影所の写真を撮っていた経験もあった。

約3年の現像部勤務ののち、撮影部の欠員をきっかけに撮影部へ移る。撮影助手や特撮の手伝いなどを経験し、稲垣浩監督のドタバタ喜劇で移動撮影やクレーン撮影の腕を磨いたことから、「喜劇のキャメラマン」と呼ばれた時期もあった。1935年、尾崎純監督『お千代傘』で撮影技師として一本立ちする。

1939年にはマキノ正博監督のオペレッタ時代劇『鴛鴦歌合戦』を撮影。翌1940年には稲垣浩監督の『宮本武蔵』三部作を手がけ、稲垣との仕事で頭角を現していく。当時は技術書もなく、先輩の仕事を見て盗むしかない時代で、宮川は外国映画を大量に見て自分なりのスタイルを作り上げた。リー・ガームス、グレッグ・トーランドらハリウッドの撮影監督を手本にしていたという。

大映京都の看板キャメラマンへ(1942年 - 1950年代)[編集]

1942年、戦時の映画会社統合で日活の製作部門が大映に合流し、宮川も大映京都撮影所の所属となる。1943年、稲垣浩監督・阪東妻三郎主演の『無法松の一生』を撮影。人力車の車輪を使った時間経過の表現などで知られる名作で、宮川の代表作の一つとなった。

1950年、黒澤明監督の『羅生門』を撮影。森の中で太陽にカメラを向けるという当時のタブーに挑み、三船敏郎・京マチ子・森雅之らの演技を強烈な光と影で捉えた。同作は翌1951年のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、日本映画が世界に発見されるきっかけとなった。

1951年の『お遊さま』からは溝口健二と組み、5年ほどの間に8本を撮影。『雨月物語』(1953年)、『祇園囃子』(1953年)、『山椒大夫』(1954年)、『近松物語』(1954年)、溝口初のカラー作品『新・平家物語』(1955年)、溝口の遺作『赤線地帯』(1956年)と、溝口後期の代表作をほぼ一手に引き受けた。

市川崑・小津・黒澤との仕事(1958年 - 1960年代)[編集]

1958年、市川崑監督と初めて組んだ『炎上』(三島由紀夫『金閣寺』の映画化、主演市川雷蔵)で、宮川は初めてシネマスコープ(大映スコープ)の横長画面に挑戦した。市川の希望でモノクロのワイド画面となり、画面の半分を障子や暗闇で埋める大胆な構図が話題を呼んだ。映画研究家ドナルド・リチーは、本作の宮川について「ワイドスクリーンをこれほど見事に使った例はそれ以前にも以後にもほとんどない」と評している。続いて谷崎潤一郎原作の『鍵』(1959年)、『ぼんち』(1960年)、『おとうと』(1960年)、『破戒』(1962年)と、市川作品を立て続けに撮影した。

1959年には、小津安二郎が大映で撮った唯一の作品『浮草』を担当。小津とはこの1本きりの仕事だが、中村鴈治郎・京マチ子・若尾文子が出演した本作は、小津のカラー作品の中でも特に映像美の評価が高い。

1960年の『おとうと』では、大映の現像所と組んで「銀残し」を開発。1961年には東宝に招かれて黒澤明の『用心棒』を撮影した。1965年には市川崑総監督の記録映画『東京オリンピック』で撮影の中心となり、空前の規模の撮影体制を指揮した。

大映時代劇と座頭市(1960年代 - 1970年)[編集]

1960年代の宮川は、大映の娯楽作品でも欠かせない存在だった。勝新太郎と田宮二郎のコンビによる「悪名」シリーズ(1961年 -)、増村保造監督・若尾文子主演の『刺青』(1966年)、三隅研次監督の『女系家族』(1963年)など幅広く担当。勝新太郎の「座頭市」シリーズでは『座頭市千両首』(1964年)以降6本前後を撮影し、素早いパンやズームを取り入れながらも、画面の端正さを崩さなかった。

1970年には岡本喜八監督の『座頭市と用心棒』を撮影。座頭市と三船敏郎の用心棒が激突するという、宮川のキャリアを象徴するような企画だった。この年からフリーの撮影監督となる。

フリー時代と晩年(1970年 - 1999年)[編集]

大映倒産(1971年)前後からはフリーとして活動し、特に篠田正浩監督と深い縁を結んだ。遠藤周作原作の『沈黙 SILENCE』(1971年)、岩下志麻主演の『はなれ瞽女おりん』(1977年)、『悪霊島』(1981年)、『瀬戸内少年野球団』(1984年、夏目雅子主演)、『鑓の権三』(1986年)、『舞姫』(1989年)と篠田作品を多数撮影。『はなれ瞽女おりん』では、近代化で失われつつあった日本の農村や漁村の風景を情感豊かに映し出し、高く評価された。

1980年、黒澤明の『影武者』の撮影準備に入るが、撮影中に体調を崩して入院し、途中降板となった(クレジットには斎藤孝雄・上田正治とともに名を残している)。1985年には自伝『キャメラマン一代―私の映画人生60年』を刊行。1990年の黒木和雄監督『浪人街』の一部撮影が最後の実作となった。晩年は大阪芸術大学でも教え、最晩年には篠田正浩監督の『梟の城』(1999年)に監修の立場で関わったとされる。1999年8月7日、91歳で死去した。

主な作品[編集]

公開年 作品名 監督 備考
1935年 お千代傘 尾崎純 撮影技師デビュー作
1939年 鴛鴦歌合戦 マキノ正博 オペレッタ時代劇の名作
1940年 宮本武蔵(三部作) 稲垣浩 稲垣との仕事で頭角を現す
1943年 無法松の一生 稲垣浩 主演・阪東妻三郎
1950年 羅生門 黒澤明 ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞
1951年 お遊さま 溝口健二 溝口との初仕事
1953年 雨月物語 溝口健二 ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞
1953年 祇園囃子 溝口健二 主演・木暮実千代、若尾文子
1954年 山椒大夫 溝口健二 ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞
1954年 近松物語 溝口健二 主演・長谷川一夫、香川京子
1955年 新・平家物語 溝口健二 溝口初のカラー作品
1956年 赤線地帯 溝口健二 溝口の遺作
1956年 夜の河 吉村公三郎 主演・山本富士子
1958年 炎上 市川崑 宮川初のシネマスコープ作品
1959年 鍵 市川崑 原作・谷崎潤一郎
1959年 浮草 小津安二郎 小津との唯一の作品
1960年 おとうと 市川崑 「銀残し」の初使用作
1961年 用心棒 黒澤明 望遠レンズを多用
1961年 悪名 田中徳三 勝新太郎主演の人気シリーズ第1作
1962年 破戒 市川崑 主演・市川雷蔵
1965年 東京オリンピック 市川崑 記録映画。撮影の中心を担う
1966年 刺青 増村保造 主演・若尾文子
1970年 座頭市と用心棒 岡本喜八 勝新太郎と三船敏郎の共演
1971年 沈黙 SILENCE 篠田正浩 原作・遠藤周作
1977年 はなれ瞽女おりん 篠田正浩 主演・岩下志麻
1980年 影武者 黒澤明 病気のため途中降板
1984年 瀬戸内少年野球団 篠田正浩 主演・夏目雅子
1989年 舞姫 篠田正浩 撮影監督として最後の長編
1990年 浪人街 黒木和雄 一部を担当

代表作の撮影技法[編集]

『羅生門』:太陽を撮った男[編集]

『羅生門』の撮影は、宮川の名を世界に知らしめた伝説として今も語り継がれている。当時、カメラを太陽に向けることは「レンズで太陽光が集まってフィルムが焼ける」としてタブー視されていた。宮川はあえて太陽を画面に入れ、木漏れ日の光そのものをモンタージュの素材として撮影した。口づけの場面では、穴を掘ってカメラを低い位置に据え、男女の背後に太陽を置くという大胆なアングルを用いた。

照明も型破りだった。光の届かない森の中には大型のライトを持ち込めないため、8枚の大きな鏡を使って木漏れ日を中継し、役者に当てる「鏡の照明」を考案した。レフ板よりも鋭いコントラストが出るためである。さらに、役者の数メートル上に野球のネットを張って木の葉を乗せ、長い竹竿で葉を動かして、顔に落ちる葉の影で登場人物の心の揺れを表現した。

フィルムは当時一般的だったコダックではなく、コントラストが強く出すぎる傾向のあった国産の富士フイルムをあえて選んだ。森の中で刻々と変わる光に対応するため、それまで勘に頼っていた露出を測るべく、進駐軍から露出計を入手したという。三船敏郎演じる多襄丸が真砂に駆け寄る場面では、カメラと三船をロープでつなぎ、等距離を保ったまま回り込んで疾走感を出した。羅生門に降る豪雨は消防車3台・ホース5本で降らせ、曇り空でも雨筋が見えるよう水に墨汁を混ぜた。試写を見た黒澤明は「百点だよ。キャメラは百点!百点以上だ!」と絶賛したという。

溝口健二との「絵巻物」[編集]

溝口健二との仕事では、宮川は溝口の得意とするワンシーン・ワンカットの長回しを、横方向へ流れるパンや移動撮影で支えた。奥行きのある構図から、絵巻物を広げるように横へ物語を展開していくスタイルへの変化は、宮川との仕事の中で生まれたものとされる。『雨月物語』の霧の湖を舟が進む場面などは、その代表的な名場面として知られる。

宮川は『羅生門』や『雨月物語』のような霧がかった場面でも、フィルターをあまり使わず自然な調子で撮ったとされる。溝口は撮影現場で役者にも撮影部にも容赦のない厳しさで知られたが、宮川はその要求に応え続け、5年間で8本というハイペースで組んだ。

「銀残し」の誕生[編集]

1960年の市川崑監督作『おとうと』で宮川が考案したのが「銀残し」である。カラーフィルムの現像では通常、画像を形づくった銀を漂白して取り除くが、この工程の一部を省いて銀をフィルムに残すことで、彩度が落ち、黒が沈んだ独特の渋い色調になる。市川崑は、大正時代の空気を「モノクロでもカラーでもない映像」で表現したかったと語っており、宮川は大映の現像所と協力してこの要望を実現した。

『おとうと』はキネマ旬報ベスト・テン第1位に選ばれ、カンヌ国際映画祭ではフランス映画高等技術委員会賞を受賞。宮川も毎日映画コンクールなどで撮影賞を受賞した。銀残しは英語では「ブリーチ・バイパス」と呼ばれ、のちに世界中の映画で使われる技法となった。MoMAも宮川を「銀残しの発明者」として紹介している。

『用心棒』と望遠レンズ[編集]

『用心棒』は、大映所属の宮川を東宝が招いて撮影した作品である。撮影助手は斎藤孝雄、セカンド助手はのちに名キャメラマンとなる木村大作だった。黒澤は複数のカメラで同時に撮るマルチカム方式を採用し、宮川がメインカメラ、斎藤がサブカメラを担当した。

殺陣の迫力とスピードを出すため、250〜500ミリの望遠レンズが多用された。黒澤は斎藤に「宮川が撮った分だけで映画はできるから、お前は好きなようにやれ」と言ったとされ、完成版には斎藤の撮影分も多く使われている。本作はのちにセルジオ・レオーネ監督の『荒野の用心棒』の元ネタにもなった。

『東京オリンピック』の巨大撮影隊[編集]

1965年の記録映画『東京オリンピック』で、宮川は撮影部チーフの一人として撮影全体を主導した。使用カメラは103台、レンズ232本、撮影フィルムは40万フィート、スタッフは総勢556名という空前の規模である。マラソンでは伴走車1台にハイスピードカメラ2台と通常カメラ2台を載せ、女子バレーボール決勝には約30台のカメラを配置した。市川崑が用意した1600ミリの超望遠レンズも多用され、新たな露出計やファインダーが必要になったという。

競技の記録よりも選手の心情に迫った作風は「芸術か記録か」という大論争を巻き起こしたが、観客動員は学校動員を含めて約2350万人ともいわれ、配給収入は12億円を超えて当時の日本記録となった。

人物・エピソード[編集]

  • 撮影所の仲間からは「カー坊」の愛称で親しまれた。
  • 監督と撮影監督の関係について「夫婦のようなもの」というのが持論だった。一方で、映画づくりは個人の表現ではなくチームの仕事だと考え、自分で監督をしたいとは一度も思わなかったという。
  • 長男の一郎によると、監督の想定を裏切るのが好きで、指示をあまり聞かない反骨的な性格だった。チャンバラ映画でローラースケートに乗って撮影しようとしたこともあるという。
  • 長年撮影助手を務めた宮島正弘によれば、小津安二郎の『浮草』に見られる俯瞰ショットや豪雨の場面、赤の効果的な使い方は、小津作品としては異例のものだが、宮川は監督に強く主張するのではなく、自然とそう撮っていたという。
  • 女優の顔づくりにも関わり、若尾文子の眉を自ら描いたことがある。モノクロ撮影では抹茶の粉を陰影づけに使ったこともあったという。
  • 勝新太郎は、大映撮影所で挨拶に行くべき人物の一人として宮川を挙げていた。『影武者』では勝の主演をイメージして撮影プランを練っていたため、入院中に勝の降板を知り、ひどく残念がったとされる。
  • 気難しく激しい性格で知られた黒澤明とは対照的に、宮川は謙虚で朗らかな人柄だったと伝えられている。
  • 山中貞雄監督に憧れていたが、一緒に仕事をする機会はなかった。

評価・影響[編集]

国内での評価[編集]

宮川はブルーリボン賞撮影賞、毎日映画コンクール撮影賞(複数回)、日本映画技術賞(複数回)、NHK映画賞、日本アカデミー賞撮影賞などを受賞し、1978年に紫綬褒章、1983年に勲四等旭日小綬章を受けた。1985年には朝日賞、川喜多賞も受賞している。キャメラマンが映画界の外からもこれほど顕彰されるのは珍しく、撮影という仕事の地位そのものを押し上げた人物といえる。

宮川自身は、昔のキャメラマンは単なる技術者と見なされ、「声も心も要らない」とされていたと振り返っている。技術がどれだけ変わっても、映像をつくるのは機械ではなく人間の心だ、というのが持論で、若い世代には基礎を徹底的に身につけるよう説いた。

海外での評価[編集]

『羅生門』『雨月物語』『山椒大夫』がヴェネツィア国際映画祭で相次いで受賞したことで、宮川の映像は海外の映画人に強烈な印象を与えた。1989年にはユネスコからピカソメダルを授与されている。アメリカでは1981年にジャパン・ソサエティーで初の回顧上映が行われ、2018年にはMoMA、ジャパン・ソサエティー、フィルム・フォーラムの3会場で、約30年間の代表作27本を上映する大規模な回顧展が開かれた。

『雨月物語』はジャン=リュック・ゴダールらヌーヴェルヴァーグの映画人に影響を与えたことで知られ、英国映画協会の『Sight & Sound』誌の「史上最高の映画」にも選ばれている。こうした作品の評価には、宮川の映像の力が大きく寄与している。

銀残しの遺産[編集]

宮川が生んだ銀残しは、色を抑えた硬質な映像を求める作品で世界的に使われるようになり、現在ではデジタル撮影の色調補正でも「銀残し風」の仕上げが定番の一つになっている。日本映画の一技術者の工夫が、半世紀以上にわたって世界の映像表現の語彙になっている例は他にほとんどない。

後進への影響[編集]

『用心棒』で宮川の助手を務めた斎藤孝雄は、のちに黒澤作品の撮影を長く担当し、セカンド助手だった木村大作も日本を代表するキャメラマンとなった。宮川の撮影現場は、日本映画の撮影技術を次の世代へつなぐ学校のような役割も果たしていた。大映時代の盟友である市川雷蔵、勝新太郎、中村玉緒らが活躍した大映京都の時代劇の画づくりにも、宮川の美学が色濃く残っている。

余談[編集]

  • 小学校の同級生がのちの名監督マキノ雅弘で、デビュー間もない時期にマキノ正博名義の『鴛鴦歌合戦』を撮影している。幼なじみが撮影所でも組んでいたことになる。
  • 写真を始めたきっかけは、子どもを描こうとしてもじっとしていてくれないので、「それならカメラで撮ろう」と思ったからだという。
  • 尊敬するハリウッドの撮影監督は、のちにジェームズ・ウォン・ハウに落ち着いた。ハウの作風の方が日本人の感覚に近いと感じたためとされる。
  • カラーよりモノクロの方が好きだと公言していた。理由は「ほとんどの人は色を創造的に使っていないから」。
  • 横長のワイド画面でも、日本のセットは狭いため、実際には昔ながらの「3対4」の画面を意識して構図を組んでいたという。
  • 日本では上映用プリントが50本程度で済んだため、オリジナルネガから直接焼くことができ、それが画質の良さにもつながったと分析されている。
  • 『用心棒』の編集中、何も写っていないように見えるコマがあり驚いて映写したところ、きちんと写っていたというエピソードがある。

外部リンク[編集]

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