岩下志麻
いわした しま / Shima Iwashita
Iwashita-Shima-1965-1.jpg
1965年の岩下志麻(出典:Wikimedia Commons)
本名 篠田志麻(旧姓:岩下)
誕生日 1941年1月3日
年齢 85歳
出身地 東京都(東京府東京市京橋区、現・中央区銀座)
国籍 日本
学歴 明星学園高等学校卒業、成城大学文芸学部中退
ジャンル 映画、テレビドラマ
活動期間 1958年 -
デビューアルバム 1958年 NHKドラマ『バス通り裏』(映画デビューは1960年『乾いた湖』)
家族 父・野々村潔(俳優)、母・山岸美代子(元新劇女優)、夫・篠田正浩(映画監督、2025年死去)、弟・岩下亮(元俳優)
身長 / 体重 165cm cm / ― kg
血液型 A型
事務所 グランパパプロダクション
代表作 『秋刀魚の味』『切腹』『五瓣の椿』『心中天網島』『はなれ瞽女おりん』『鬼畜』『悪霊島』『鑓の権三』『極道の妻たち』シリーズ、大河ドラマ『草燃える』『独眼竜政宗』
関連活動 着物ブランド「きもの志麻」デザイナー(1999年 - )、著書『同志として 妻として』(2026年)
あだ名 姐さん、駆けずのお志麻
その他 第1回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞、紫綬褒章(2004年)、旭日小綬章(2012年)


概要[編集]

岩下志麻(いわした しま、1941年1月3日 - )とは、東京都出身の女優である。松竹の看板女優として小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』のヒロインを務め、夫・篠田正浩監督と独立プロ「表現社」を立ち上げて『心中天網島』などを送り出した。1986年からは『極道の妻たち』シリーズの「姐さん」として新たな当たり役を得ている。

詳細[編集]

新劇一家に生まれ、精神科医を目指した少女[編集]

1941年1月3日、東京府東京市京橋区、現在の中央区銀座に生まれた。父は俳優の野々村潔、母は元新劇女優の山岸美代子で、叔母の夫には歌舞伎の4代目河原崎長十郎がいるという、筋金入りの芸能一家である。弟の岩下亮ものちに俳優として活動した。

ただし、本人が最初に目指したのは女優ではなく精神科医だった。ところが16〜17歳の頃に小児リウマチで長期入院を経験し、医師への道を断念している。気分転換のつもりで出演したのがNHKのドラマ『バス通り裏』(1958年)で、これが女優人生の入り口になった。学校は武蔵野市内の小中学校、都立武蔵高校を経て明星学園高校に編入し、成城大学文芸学部に進んだが、仕事が忙しくなった1962年に中退している。

松竹入社と「乾いた湖」の出会い[編集]

映画デビューは1960年、篠田正浩監督の松竹映画『乾いた湖』である。主演オーディションで選ばれたこの作品こそ、のちの夫との出会いの場だった。2026年刊行の著書によれば、撮影の打ち上げでの一言がきっかけで交際が始まったという。同年に松竹へ入社し、以後1976年まで16年間在籍。清楚さと芯の強さを併せ持つ看板女優の一人として、松竹の黄金期後半を支えた。

デビュー間もない頃には小津安二郎の『秋日和』(1960年)にも小さな役で出ている。このとき小津に岩下のことを尋ねられた篠田は「すごく正確な芝居をする子」と答えたと伝えられる。この評価が、2年後の大抜擢につながっていく。

小津安二郎の遺作ヒロインに[編集]

1962年、小津安二郎監督『秋刀魚の味』のヒロインに起用された。笠智衆演じる父と暮らす娘・路子の役で、結果的にこれが小津の遺作となった。小津は次回作『大根と人参』でも岩下をヒロインに想定していたが、1963年の急逝によって企画は幻に終わっている。

本人は後年、海外の映画関係者から今でも小津について質問されることが多いと語っている。小津作品は世界的な再評価が進んでおり、その最後のヒロインという肩書きは、国境を越えて岩下の名前を記憶させる大きな要素になっている。同じ1962年には小林正樹監督の時代劇『切腹』にも出演し、ブルーリボン賞新人賞を受賞した(対象作は『わが恋の旅路』)。

『五瓣の椿』と結婚、そして独立へ[編集]

1964年公開の野村芳太郎監督『五瓣の椿』で、父の仇を次々と討つ娘を演じ、ブルーリボン賞主演女優賞を受賞。清純派から一歩踏み出した、凄みのある役柄で実力を印象づけた。

私生活では1967年3月、京都・大徳寺の塔頭である高桐院で篠田正浩と仏前結婚式を挙げた(資料によっては1966年とするものもある)。結婚から間もなく篠田は松竹を退社し、2人で独立プロダクション「表現社」を設立する。おっとりした性格で知られた岩下が、結婚と起業という大胆な決断を同時に下したことは周囲を驚かせたと報じられている。

表現社と篠田正浩作品[編集]

『心中天網島』の一人二役[編集]

表現社がATG(日本アート・シアター・ギルド)と組んで製作した1969年の『心中天網島』は、近松門左衛門の浄瑠璃を原作にした低予算の白黒映画である。岩下は紙屋治兵衛と心中する遊女・小春と、治兵衛の妻・おさんの二役を演じた。小春は若々しく華やかで、心中へ向かう道行では髪を振り乱し声も荒くなる。一方のおさんは眉を剃りお歯黒を付けた商家の女房らしい造形で、声質や話し方まで小春と正反対に作り分けている。

美術や音楽に前衛芸術家を招いた実験的な作風ながら興行的にも成功し、表現社はその後も『無頼漢』(1970年)、『沈黙 SILENCE』(1971年)などを発表していった。篠田は寺山修司や武満徹といった芸術家を映画に招き入れたことで知られ、岩下はその作品群の中心に立ち続けた。

母となった葛藤と『はなれ瞽女おりん』[編集]

1973年に長女を出産。女優・妻・母の三役をどう両立するかに悩み、約2年間は鬱々とした時期を過ごしたという。篠田監督の『卑弥呼』(1974年)の台本は産後3か月ほどで届き、読み始めると母乳が止まってしまったというエピソードも伝えられている。

転機になったのが1977年の『はなれ瞽女おりん』である。盲目の旅芸人・瞽女を演じるため、撮影期間中は化粧や食事を目をつぶったまま行い、新潟の瞽女の女性たちや盲学校を訪ねて暮らしぶりを学んだ。半年に及ぶ過酷な撮影を経て、第1回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞。本人はこの作品を最も印象深い一本に挙げ、ここで「女優として続けていこう」と心から思えるようになったと語っている。

『鑓の権三』と晩年の篠田作品[編集]

1986年の『鑓の権三』も近松門左衛門の浄瑠璃『鑓の権三重帷子』が原作で、主演は郷ひろみ。岩下は権三と不義の疑いをかけられる人妻・おさゐを演じた。この作品は第36回ベルリン国際映画祭のコンペティション部門に出品され、銀熊賞(芸術貢献賞)を受賞している。郷ひろみは篠田が才能を見出した俳優の一人としても名前が挙がる。

篠田作品ではほかに『瀬戸内少年野球団』(1984年、主演は夏目雅子)、『写楽』(1995年)、そして篠田の監督引退作となった『スパイ・ゾルゲ』(2003年)にも出演した。『スパイ・ゾルゲ』の際には、自ら初監督したメイキング映画も発表している。篠田は渡辺謙、草刈正雄、竹中直人らの才能を見出した監督としても知られ、夫婦で手掛けた作品は20本以上にのぼる。

主な出演作[編集]

映画[編集]

公開年 作品 監督 備考
1960年 乾いた湖 篠田正浩 映画デビュー
1960年 秋日和 小津安二郎 小さな役
1962年 切腹 小林正樹
1962年 秋刀魚の味 小津安二郎 ヒロイン・路子。小津の遺作
1963年 古都 中村登
1964年 五瓣の椿 野村芳太郎 ブルーリボン賞主演女優賞
1967年 智恵子抄 中村登
1969年 心中天網島 篠田正浩 小春とおさんの二役
1971年 沈黙 SILENCE 篠田正浩
1974年 卑弥呼 篠田正浩
1977年 はなれ瞽女おりん 篠田正浩 日本アカデミー賞最優秀主演女優賞
1978年 鬼畜 野村芳太郎 共演・緒形拳
1981年 悪霊島 篠田正浩 製作・角川春樹
1984年 瀬戸内少年野球団 篠田正浩
1986年 鑓の権三 篠田正浩 ベルリン国際映画祭銀熊賞(作品として)
1986年 極道の妻たち 五社英雄 粟津環役
1993年 新極道の妻たち 覚悟しいや 山下耕作 日刊スポーツ映画大賞主演女優賞
1995年 写楽 篠田正浩
2003年 スパイ・ゾルゲ 篠田正浩 篠田の監督引退作

大河ドラマ[編集]

  • 『草燃える』(1979年)- 北条政子
  • 『独眼竜政宗』(1987年)- 義姫(お東の方)→保春院
  • 『葵 徳川三代』(2000年)- お江

NHKの大河ドラマでは、いずれも物語の要となる「強い女性」を任されている。『草燃える』の北条政子は鎌倉幕府を支えた尼将軍、『独眼竜政宗』の義姫は伊達政宗の母で、息子と激しく対立する役どころだった。『葵 徳川三代』では徳川家康の息子・秀忠の正室であるお江を演じた。また1980年にはNHKの大型ドラマ『額田女王』にも主演している。

その他のテレビドラマ[編集]

  • 『火曜サスペンス劇場』(日本テレビ)各作品
  • 『女たちの大坂城』
  • 『相棒』(テレビ朝日)
  • 『ドクターX〜外科医・大門未知子〜』(テレビ朝日)
  • 『鴨川食堂』(NHK BSプレミアム、2016年)
  • 『七人の秘書』(テレビ朝日)
  • 『まぐだら屋のマリア』(NHK BSP4K、2025年)- 桐江怜子

『極道の妻たち』シリーズ[編集]

清純派が「姐さん」になった日[編集]

1986年、東映の『極道の妻たち』で主演を務めた。原作はジャーナリスト家田荘子が、裏社会で生きる女性たちを取材したルポルタージュである。第1作の監督は五社英雄で、岩下は組長の妻・粟津環を演じた。1986年は男女雇用機会均等法が施行された年でもあり、男社会の中で毅然と生きる姐さんの姿は、当時の女性たちの憧れになったと分析されている。

五社監督は現場で岩下を「姐さん」と呼び、朝になると子分役の俳優たちに挨拶をさせて、自然に役に入れるよう配慮したという。シリーズ2作目以降の監督を務めた中島貞夫は、岩下の衣装へのこだわりが非常に強かったと証言している。着物の着こなしと所作の美しさは、このシリーズの大きな見どころになった。

10作中8作に主演、役名一覧[編集]

シリーズは1986年から1998年までに劇場版10作品が製作され、岩下はそのうち8作品に出演、主演した。作品ごとに別の役を演じているのが特徴で、「同じ姐さん」が続投するわけではない。

  • 『極道の妻たち』(1986年)- 粟津環
  • 『極道の妻たち 最後の戦い』(1990年)- 瀬上芙有
  • 『新極道の妻たち』(1991年)- 藤波加奈江
  • 『新極道の妻たち 覚悟しいや』(1993年)- 野木安積
  • 『新極道の妻たち 惚れたら地獄』(1994年)- 村木芙由
  • 『極道の妻たち 赫い絆』(1995年)- 堂本きわ
  • 『極道の妻たち 危険な賭け』(1996年)- 洲崎香矢
  • 『極道の妻たち 決着』(1998年)- 井出春日

決め台詞「あんたら、覚悟しいや!」[編集]

シリーズを象徴するのが、男たちを相手に啖呵を切る「あんたら、覚悟しいや!」の一言である。2024年12月放送のNHK BS『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』で『極道の妻たち』が特集された際にも、番組の顔としてこの台詞が紹介された。「覚悟しいや」は1993年の作品タイトル『新極道の妻たち 覚悟しいや』にも使われており、岩下はこの作品で日刊スポーツ映画大賞主演女優賞を受けている。

本人はシリーズが長く愛される理由について、主人公の姐さんが潔く、夫を一途に愛する優しさを持つ女性だったことを挙げている。また作品は劇画タッチなので、初めて見る人にも気軽に楽しんでほしいと語った。

2024年にはBS松竹東急で劇場シリーズ全10作品が6月7日から7月23日にかけて2か月連続で一挙放送され、これに合わせて岩下は五社英雄監督の現場での気配りなど撮影当時を振り返っている。さらに2025年3月には都内でリバイバル上映も行われた。なお前述のNHKの特集では、シリーズで存在感を示したかたせ梨乃の大抜擢にも光が当てられている。

2025年 - 2026年の動き[編集]

『まぐだら屋のマリア』で「久々に挑戦したい役」[編集]

2025年3月29日、NHK BSP4Kでドラマ『まぐだら屋のマリア』(前後編)が放送された。主演は尾野真千子で、岩下はマリアと確執を抱える「まぐだら屋」のオーナー・桐江怜子を演じた。岩下は「深い悲しみと恨みを心に秘めた気性の激しい桐江怜子の役に魅力を感じて」すぐに出演を決めたとコメントしており、久しぶりに挑戦したいと思える役柄だったと述べている。共演は藤原季節、坂東龍汰、中嶋朋子、尾美としのりら。

篠田正浩監督の死去[編集]

放送の直前、2025年3月25日未明に夫の篠田正浩が肺炎のため94歳で亡くなった。約4年間パーキンソン病と闘っていたと報じられている。岩下は3月28日にコメントを発表し、「今はただ、悲しみと喪失の思いで胸がいっぱいです」とつづった。夫婦として58年間人生を共にしたこと、篠田との出会いによって多くの作品でさまざまな役を演じられたことに触れ、「今の私があるのは本当に篠田のおかげ」と感謝を記している。

コメントでは、篠田の「僕たちは映画という魔物に取りつかれて2人で魔物退治をやってきたようなもの」という言葉も引かれた。3月29日に都内で予定されていた『極道の妻たち』リバイバル上映後の舞台あいさつは中止となった。

篠田正浩レトロスペクティブと初の公の場[編集]

2026年3月25日、篠田の一周忌に合わせて「映画監督 篠田正浩 レトロスペクティブ プロジェクト」が公式サイトを開設して始動した。海外ではアメリカのハーバード・フィルム・アーカイブで1960年代の篠田作品を集めた特集「Sixties Shinoda」(3月27日〜4月24日)が組まれ、国内でも5月29日からBunkamuraル・シネマ渋谷宮下を皮切りに、シアター・イメージフォーラム、新文芸坐、シネ・ヌーヴォ、ユーロスペースなど6館で順次上映が行われた。

5月30日には渋谷のBunkamuraル・シネマ渋谷宮下でのトークショーに登壇。夫を亡くしてから公の場に出るのはこれが初めてだった。白いワンピースに花柄のジャケット、シルバーのスニーカーという装いで現れ、85歳とは思えない佇まいがネット上で話題になった。トークでは、夫を亡くして気力を失った時期があったこと、夫婦で手がけた20本以上の作品を見返すうちに気力が戻ってきたことを明かしている。

著書『同志として 妻として』刊行[編集]

2026年7月29日、講談社から著書『同志として 妻として 「運命の人」篠田正浩と歩いた道』(四六判264ページ)が刊行された。篠田との日々を語り下ろした一冊で、1960年の出会いから2025年までを全26章で時系列にたどる。「出会いの日」「高桐院」「奇跡の名作」「卑弥呼、衆を惑わす」「瀬戸内の少年たち」「『少年時代』の一本道」「スパイ・ゾルゲが見た日本」「理想の夫婦」「最高の笑顔で」といった章があり、2人が互いを「戦友」「同志」として信頼し合った関係が描かれている。

「演技がうまい昭和の女性俳優」2位[編集]

オールアバウトが2026年9月に全国の10〜70代300人を対象に行ったインターネット調査「演技がうまいと思う昭和の女性俳優」ランキングでは、吉永小百合に次ぐ2位に入った(2025年の同種調査でも2位)。回答者からは「お姫様の役から、極道の妻という役柄まで幅広く活躍していて、そのたびに演技がすごいと思っていました」といった声が寄せられている。

人物[編集]

「駆けずのお志麻」の素顔[編集]

スクリーンでの凄みとは裏腹に、本人は自分の性格を「おしとやかでのんびりした」ものだと語っており、「駆けずのお志麻」というあだ名もあった。趣味は一人旅と陶芸。プロ野球は阪神タイガースのファンだが、かつては王貞治のファンを公言していた。

健康法は屈伸、ストレッチ、竹踏み、太極拳。体重は20年間変わっていないといい、白髪染めも使っていないという。

徹底した役作り[編集]

役作りの徹底ぶりは有名で、野村芳太郎監督の『鬼畜』(1978年)では、子どもたちを虐待する女を演じるため、撮影中は子役とほとんど口をきかず睨みつけていた。子役の一人が本気で怯えるほどだったとされる。『はなれ瞽女おりん』で目を閉じて生活したエピソードと並び、「役に入る」ことへの執念を物語る逸話である。

着物デザイナーとしての顔[編集]

『極道の妻たち』をはじめ着物姿の役が多かったこともあり、1999年には着物ブランド「きもの志麻」を発表して着物デザイナーとしてもデビューした。著書には『鏡の向こう側に』『岩下志麻のきもの語り』『美しく、狂おしく 岩下志麻の女優道』などがある。

受賞・受章歴[編集]

  • 1962年 - ブルーリボン賞新人賞(『わが恋の旅路』)
  • 1965年 - ブルーリボン賞主演女優賞(『五瓣の椿』)
  • 1978年 - 第1回日本アカデミー賞最優秀主演女優賞(『はなれ瞽女おりん』)
  • 1991年 - 日本ジュエリーベストドレッサー賞 50代部門
  • 1993年 - 日刊スポーツ映画大賞主演女優賞(『新極道の妻たち 覚悟しいや』)
  • 2000年 - 『キネマ旬報』「20世紀の映画スター・女優編」日本女優10位
  • 2004年 - 紫綬褒章
  • 2007年 - 日本ジュエリーベストドレッサー賞 60代以上部門
  • 2012年 - 旭日小綬章

余談[編集]

  • 日本メナード化粧品のCMには長年出演しており、2000年には専属契約28年が当時の世界最長記録としてギネス認定された。のちに山本海苔店と契約する山本陽子が42年で記録を塗り替えている。
  • 霊感が強いとされ、『悪霊島』(1981年)の撮影中、製作者の角川春樹に「背後に黒い悪魔が見える」と何度も話していたという話がある。
  • 1963年には婦人誌の取材で北鎌倉の小津安二郎宅を訪ね、独身の小津に「どうして結婚しないのか」と率直に尋ねたという。
  • 同じ頃、小津が新年の業界パーティーで泥酔した際に小津を自宅まで送り届けるよう頼まれたのは、その場にいた篠田正浩だったとされる。岩下が篠田と結婚するのはその4年後である。
  • 結婚式は京都・大徳寺の塔頭・高桐院での仏前式。2026年の著書でも「高桐院」が1章として取り上げられている。
  • デビューから60年以上で、映画出演は120本以上にのぼるとされる。

外部リンク[編集]

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