| 森光子 もり みつこ / Mitsuko Mori | |
|---|---|
![]() 森光子(2009年7月、国民栄誉賞授与式。出典:Wikimedia Commons) | |
| 本名 | 村上美津(むらかみ みつ) |
| 誕生日 | 1920年5月9日 |
| 死亡日 | 2012年11月10日 |
| 死亡年齢 | 92歳(数え年93) |
| 出身地 | 京都府京都市 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 京都府立第一高等女学校(中退) |
| ジャンル | 舞台、テレビドラマ、映画、司会、歌手 |
| 活動期間 | 1935年 - 2010年 |
| デビューアルバム | 1935年 映画『なりひら小僧 春霞八百八町』 |
| 家族 | 従兄・嵐寛寿郎(俳優) |
| 事務所 | オフィス・モリ(1977年設立) |
| 代表作 | 舞台『放浪記』(1961年 - 2009年、通算2017回)、テレビドラマ『時間ですよ』『天国の父ちゃんこんにちは』『渡る世間は鬼ばかり』、司会『3時のあなた』 |
| 関連活動 | NHK紅白歌合戦紅組司会(3回)、輝く!日本レコード大賞司会 |
| あだ名 | 日本のお母さん |
| その他 | 紫綬褒章(1984年)、勲三等瑞宝章(1992年)、文化功労者(1998年)、文化勲章(2005年)、国民栄誉賞(2009年)、従三位(2012年、没後) |
| リンク | 森光子 公式ウェブサイト |
概要[編集]
森光子(もり みつこ、1920年5月9日 - 2012年11月10日)とは、京都府京都市出身の女優である。菊田一夫作の舞台『放浪記』で林芙美子を48年間演じ続け、単独主演2017回という記録を打ち立てた。テレビでは『時間ですよ』の銭湯のおかみなどで「日本のお母さん」と呼ばれ、2009年に俳優として初めて生前に国民栄誉賞を受けた。
詳細[編集]
遅咲きの大女優[編集]
森光子のキャリアは、ひと言でいえば「とにかく長い」。15歳だった1935年に映画デビューしたが、戦前・戦中の映画界では喜劇や二線級作品の娘役が中心で、スターと呼べる立場ではなかった。戦後は肺結核で約3年間の療養を強いられ、復帰後も大阪のラジオやテレビのバラエティで地道に名前を売る日々が続いた。
転機が訪れたのは38歳の1958年。梅田コマ劇場の舞台でアドリブの歌が評判になり、劇作家・菊田一夫に見いだされて上京する。そして41歳で迎えた1961年の『放浪記』で初めての主役をつかんだ。デビューから26年目の初主演であり、ここから約半世紀にわたる「森光子の時代」が始まる。
『放浪記』と2017回[編集]
『放浪記』は、作家・林芙美子の自伝的小説をもとに菊田一夫が書いた舞台である。貧しさの中で職を転々としながら作家を目指す芙美子を、森は1961年の芸術座初演から2009年まで演じ続けた。上演回数は通算2017回にのぼり、これは国内演劇における単独主演の最多記録として長く破られなかった。
2009年5月9日、89歳の誕生日に2000回目の上演を達成。同年7月には国民栄誉賞を受賞した。翌2010年2月、体調を考慮して5〜6月の公演中止を発表し、これが事実上の『放浪記』の幕引きとなった。森自身は「この役は手放したくない」と語っていたと報じられている。
名物「でんぐり返し」[編集]
『放浪記』最大の見せ場として知られたのが「でんぐり返し」である。作家としての出世作が世に出た喜びを芙美子が全身で表す場面で、初演当初から続けられた。初期は3回転していたとされ、通算では2800回以上披露したと報じられている。
2008年、87歳のときにでんぐり返しを封印し、以後は万歳三唱に切り替えた。封印を発表した会見では「ひと言で申し上げられないほど複雑です」と心境を語った。この体を支えたのが毎日のスクワットで、朝晩75回ずつ続け、2000回上演の直前には1回100回に増やしていたという。
「日本のお母さん」とテレビ[編集]
舞台と並行して、1960年代後半からはテレビドラマの主演女優としても国民的な存在になった。TBSの『天国の父ちゃんこんにちは』『時間ですよ』『銀座わが町』などで、働き者で情に厚い母親・女将を演じ、「日本のお母さん」のイメージが定着した。
さらにフジテレビのワイドショー『3時のあなた』では1974年から1988年まで月・火曜のメイン司会を務めた。紅白歌合戦の紅組司会も3回担当しており、女優・司会者・歌手と何でもこなす万能型のタレントでもあった。
ジャニーズの「お母さん」[編集]
晩年の森を語るうえで欠かせないのが、ジャニーズ事務所のタレントたちとの交流である。東山紀之とは1986年の紅白歌合戦で審査員を務めた森が声をかけたことが交流の始まりとされ、1994年の舞台『御いのち』で初共演。森は東山のファンを公言し、東山も「自分を最初に認めてくれた人」と振り返っている。
2012年12月の本葬には、近藤真彦、少年隊、SMAP、嵐など、ジャニーズのタレント約70人が参列した。弔辞を読んだ近藤は森を「日本のお母さんでした」「ジャニーズの僕たちのお母さん」と表現している。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
1920年5月9日、京都市に生まれる。本名は村上美津。芸名の「光子」は本名の「美津」に由来し、「森」は女優の森静子と、伯母の旧姓にちなむとされる。母は祇園の芸妓で、森は母の私生児として育った。京都の割烹旅館の娘として紹介されることもある。
7歳のときにNHKのラジオ番組に出演した経験がある。京都府立第一高等女学校を中退。13歳のころに両親が相次いで肺結核で亡くなり、若くして身寄りの少ない境遇になった。時代劇スターの嵐寛寿郎は従兄にあたり、この縁で芸能界に入ることになる。
1935年 - 1940年代:映画女優から慰問歌手へ[編集]
1935年、嵐寛寿郎の「寛プロ」(第二次寛プロ)作品『なりひら小僧 春霞八百八町』で映画デビュー。1937年に寛プロが閉鎖されると、1938年に新興キネマへ移り、娘役として喜劇映画などに出演した。ただし役は脇が多く、本人は歌手を志して映画界を離れる。
1941年、21歳で陸軍の慰問団に参加し、歌手として満洲、中国、南方の戦線を巡回した。のちに『渡る世間は鬼ばかり』で共演する赤木春恵とはこの時期に出会っている。1944年には南京で肺の病を患った。終戦後は進駐軍のキャンプでジャズを歌っていたとされる。
1947年 - 1957年:結核療養と大阪での再起[編集]
1947年、日系二世の米軍属の男性と結婚したが、相手は結婚から約1週間でハワイへ帰国し、森は渡米を選ばず結婚生活は短期間で終わった。1949年秋には肺結核と診断され、京都・山科で約3年間療養。一時は生死の境をさまよったとされる。
1951年に大阪へ戻り、1952年にNHK大阪のラジオ番組『エンタツちょびひげ漫遊記』で仕事に復帰した。1955年には朝日放送と専属契約を結び、ラジオ『漫才学校』にレギュラー出演。1956年のテレビ番組『ダイラケのびっくり捕物帖』では藤田まことの妹・妙を演じ、全国的に名前が知られるようになった。
1958年 - 1960年代:菊田一夫との出会い[編集]
1958年、梅田コマ劇場の舞台に脇役で出ていた際、アドリブの歌唱が評判になり、東宝の重役でもあった劇作家・菊田一夫の目に留まる。菊田の誘いで再び上京し、同年に芸術座『花のれん』で東京の舞台に立った。1959年には元NHKのテレビ演出家・岡本愛彦と結婚している。
1961年10月、芸術座で『放浪記』が初演される。主役の林芙美子に抜擢された森にとって、これが初めての主演作だった。公演は8か月のロングランとなり、芸術祭文部大臣賞などを受賞。一方で仕事最優先の生活となり、1963年に岡本と離婚した。森本人も後年、『放浪記』の大反響が離婚の一因になったことを認めている。以後は生涯独身を通した。
1960年代後半 - 1970年代:テレビの顔に[編集]
1966年から『天国の父ちゃんこんにちは』(TBS)に主演し、テレビドラマの主演女優としての地位を確立する。1970年からは『時間ですよ』(TBS)で東京・五反田の銭湯「松の湯」の女将・松野まつを演じ、大きな当たり役となった。1975年からの『花吹雪はしご一家』では西城秀樹と母子役で共演している。
1974年にはフジテレビ『3時のあなた』の司会に就任し、1988年まで歴代最長の期間を務めた。1972年から1976年には『輝く!日本レコード大賞』の司会も担当。1977年に個人事務所「オフィス・モリ」を設立して独立し、同年から『ドリフと女優の爆笑劇場』(テレビ朝日)にレギュラー出演してコントにも体当たりで挑んだ。
1980年代 - 1990年代:栄典と幅広い活動[編集]
1984年11月に紫綬褒章を受章。このとき、公表されていた生年が実際より若く設定されていたことや、嵐寛寿郎の従妹であることが報じられ話題になった。1984年には紅白歌合戦で3回目の紅組司会を務め、当時64歳は紅組司会者の最年長記録だった。
1987年から1994年までフジテレビ『加トちゃんケンちゃん光子ちゃん』に出演。1990年からはTBSの橋田壽賀子ドラマ『渡る世間は鬼ばかり』に出演し、2008年の第9シリーズがドラマ作品の遺作となった。1992年に勲三等瑞宝章、1998年に文化功労者。1997年にはスタジオジブリ・宮崎駿監督のアニメ映画『もののけ姫』でヒイさまの声を担当した。
2000年代:文化勲章と2000回[編集]
2005年は芸能生活70周年の年で、3月には芸術座の閉館に伴う最終公演で『放浪記』を上演した。同年、女優としては山田五十鈴に次いで2人目となる文化勲章を受章。新曲「月夜のタンゴ」がオリコン45位に初登場するなど、85歳にして歌手としてもチャートに名を残した。
2008年1月にはシアタークリエで『放浪記』を上演し、でんぐり返しを万歳三唱に変更。2009年5月9日、89歳の誕生日に『放浪記』2000回を達成した。同年5月11日に国民栄誉賞の授与方針が発表され、7月1日に授与された。俳優への生前授与は初めてで、日本人女性としては4人目の受賞者だった。
2010年 - 2012年:最後の舞台と死去[編集]
2010年1月から2月にかけて帝国劇場で『新春 人生革命』に出演し、滝沢秀明と共演した。89歳でワイヤーを使った空中演出を希望したが、体力面を考慮してゴンドラで高さ7メートルまで上昇する演出になったという。これが最後の舞台出演となり、同年2月26日に『放浪記』の公演中止を発表した。
その後は表舞台から離れて療養生活に入り、2012年11月10日、肺炎による心不全のため東京都内の病院で死去した。92歳だった。訃報は密葬後の11月14日に東宝から発表され、12月7日に東京・青山葬儀所で本葬が営まれた。関係者と一般献花者あわせて約2300人が参列し、黒柳徹子が涙ながらに思い出を語った。政府は没後、従三位を追賜している。
『放浪記』[編集]
作品の概要[編集]
『放浪記』は、林芙美子が若き日の貧しい放浪生活を日記体でつづった同名の自伝的小説をもとに、菊田一夫が脚本・演出を手がけた舞台である。カフェーの女給、露天商などを転々としながら詩や小説を書き続け、やがて作家として成功する芙美子の半生を描く。
菊田は生前の芙美子を知る人物で、「お芙美さんは嫌われていたんだ」と口にしていたという。気性が激しく敵も多かった芙美子を、懸命に生きようとする必死さの表れとして全面的に肯定する台本になっている。第2幕のカフェー「寿楽」で、割烹着姿の芙美子がお盆を振り回しながら踊る場面も名場面として知られる。
上演の歩み[編集]
- 1961年10月:芸術座で初演。8か月のロングランとなり、芸術祭文部大臣賞などを受賞。
- 1981年:第三幕「尾道」での森(当時61歳)の舞台映像は、のちの2020年のNHK特番で使われた。
- 2005年3月:芸術座の閉館に伴う最終公演として上演。
- 2008年1月:シアタークリエで上演。でんぐり返しを封印し、万歳三唱に変更。
- 2009年5月9日:帝国劇場で通算2000回を達成。この年の公演で通算2017回に到達。
- 2010年2月:5〜6月公演の中止を発表。
記録とその後[編集]
単独主演2017回は、長く国内演劇の最多記録だった。この記録を2024年5月9日に更新したのが、ジャニーズ出身の堂本光一の主演ミュージカル『Endless SHOCK』である。記録更新の日はちょうど森の誕生日にあたり、堂本は「不思議なことが起きた」と語った。森は『SHOCK』を初演から毎年観劇し、夜公演の前に堂本と食事をするなど、長く応援していたとされる。
森の降板後、2015年には仲間由紀恵主演で『放浪記』が復活上演された。仲間は2014年にフジテレビが森の半生をドラマ化した際に森役を演じており、生前の森と親交があったことから白羽の矢が立ったと報じられている。
主な出演作[編集]
舞台[編集]
| 年 | 作品 | 劇場など | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1958年 | 花のれん | 芸術座 | 東京での初舞台 |
| 1960年 | がしんたれ | 芸術座 | |
| 1961年 - 2009年 | 放浪記 | 芸術座、帝国劇場、シアタークリエほか | 林芙美子役、通算2017回 |
| 不明 | がめつい奴 | ||
| 不明 - 2006年 | おもろい女 | 2006年が最後の主演上演 | |
| 1994年 | 御いのち | 東山紀之と初共演 | |
| 2005年 | ツキコの月 そして、タンゴ | ||
| 2007年 | (中村勘三郎との共演公演) | 新橋演舞場 | |
| 2009年 | 晩秋 | 明治座 | |
| 2010年 | 新春 人生革命 | 帝国劇場 | 最後の舞台出演、滝沢秀明と共演 |
テレビドラマ[編集]
| 年 | 作品 | 局 | 役・備考 |
|---|---|---|---|
| 1965年 | 時間ですよ(東芝日曜劇場) | TBS | 単発版。脚本・橋田壽賀子 |
| 1966年 | 新選組血風録 | NET(現テレビ朝日) | 最終回に特別出演 |
| 1966年 - 1978年 | 天国の父ちゃんこんにちは | TBS | 主演 |
| 1970年 - 1990年 | 時間ですよ シリーズ | TBS | 松の湯の女将・松野まつ |
| 1973年 - 1974年 | 銀座わが町 | TBS | |
| 1975年 - 1976年 | 花吹雪はしご一家 | TBS | 西城秀樹と母子役 |
| 1987年 - 1988年 | おんなは一生懸命 | ||
| 1990年 - 2008年 | 渡る世間は鬼ばかり | TBS | 第9シリーズがドラマの遺作 |
| 1990年 | 源義経 | ||
| 1992年 | 華岡青洲の妻 |
映画[編集]
| 年 | 作品 | 備考 |
|---|---|---|
| 1935年 | なりひら小僧 春霞八百八町 | デビュー作 |
| 1963年 | 台所太平記 | |
| 1966年 | 氷点 | 山本薩夫監督 |
| 1967年 | 乱れ雲 | 成瀬巳喜男監督 |
| 1967年 | 悪名一代 | |
| 1987年 | 映画女優 | 市川崑監督 |
| 1997年 | もののけ姫 | ヒイさまの声 |
| 2000年 | 川の流れのように | |
| 2001年 | 千年の恋 ひかる源氏物語 | 清少納言役 |
バラエティ・司会[編集]
- 『3時のあなた』(フジテレビ、1974年 - 1988年)月・火曜メイン司会
- 『輝く!日本レコード大賞』(TBS、1972年 - 1976年)司会
- 『ドリフと女優の爆笑劇場』(テレビ朝日、1977年 - 1989年)レギュラー
- 『加トちゃんケンちゃん光子ちゃん』(フジテレビ、1987年 - 1994年)
- NHK紅白歌合戦 紅組司会:第13回(1962年)、第29回(1978年)、第35回(1984年)
- ゲスト解答者として『クイズダービー』『世界まるごとHOWマッチ』などにも出演
時間ですよ[編集]
銭湯ホームドラマの元祖[編集]
『時間ですよ』は、TBSで放送された銭湯を舞台にしたホームドラマである。原点は1965年7月4日に「東芝日曜劇場」で放送された単発ドラマで、脚本は橋田壽賀子、出演は十七代目中村勘三郎と森光子。この人情劇が好評だったことから、5年後の1970年に連続ドラマ化された。企画段階の仮題は『セントウ開始』だったという。
連続版の第1シリーズは1970年2月から8月まで全30回、第2シリーズは1973年2月から9月まで全30回。演出は久世光彦で、のちにプロデューサーも務めた。1980年代にもリバイバル版が作られ、シリーズは1990年まで続いた。
松の湯の女将・松野まつ[編集]
舞台は東京・五反田の銭湯「松の湯」。森は女将の松野まつを演じ、主人の祥造役は船越英二が務めた。松の湯で働く若者役の堺正章、従業員・浜子役の悠木千帆(のちの樹木希林)らとの掛け合いが人気を呼び、銭湯のおかみ役は森の代名詞の一つになった。
第2シリーズでは天地真理と浅田美代子が出演し、ともにアイドルとして大きく羽ばたいた。天地真理は森の強い推薦で芸能界デビューしたとされる。若手を見いだして後押しする姿勢は、のちのジャニーズとの交流にも通じる森らしさといえる。
2026年のデジタル修復版上映[編集]
2026年5月から、1965年の東芝日曜劇場版『時間ですよ』がデジタル修復版として映画館で上映された。プロデューサー・石井ふく子の100歳を記念した「TBSレトロスペクティブ映画祭 石井ふく子特集」の一本で、東京のMorc阿佐ヶ谷を皮切りに、大阪、京都、名古屋、福岡を巡回。働き者の女主人が切り盛りする銭湯「泉湯」を舞台にした作品で、連続ドラマ版以前の「原点」を、スクリーンで見られる機会となった。
人物・エピソード[編集]
スクワットと体力づくり[編集]
80代でもでんぐり返しを続けられた理由として、よく語られるのがスクワットである。1990年代初めごろから毎日の屈伸運動を日課にしたとされ、朝晩75回ずつ、『放浪記』2000回の直前からは1回100回に増やしていたという。公演中止後の2010年の番組でも「今は100回に減っちゃいましたけどね」と話しており、生涯の習慣だった。
後輩へのまなざし[編集]
森は若手の舞台に弁当を差し入れることで知られた。堂本光一の『SHOCK』には体調を崩した後も弁当を届けていたとされ、2008年1月6日の『SHOCK』500回のカーテンコールには本人が駆けつけている。誕生日にはホテルのフロアを貸し切り、タレントたちに祝ってもらうのが恒例だったという。
近藤真彦は、誕生日に森から送られた手紙やFAXが心の支えだと明かしている。東山紀之とのFAXのやり取りは、没後10年の2022年の特番で初公開された。森が東山の体調を気遣う内容だったと報じられている。
ジャニー喜多川との縁[編集]
ジャニーズ事務所の創業者ジャニー喜多川とは古くからの知り合いで、喜多川の父が森の大ファンだった縁で知り合ったとされる。1996年1月31日と2月1日に行われた、森にとって初めてで唯一のディナーショーは、構成・演出を喜多川が担当した。
2010年5月に『放浪記』が休演になると、喜多川は劇場を閉めるのではなく森に喜んでもらえる形にしたいとして、シアタークリエでジャニーズJr.主体のショー「ジャニーズ銀座」を始めた。楽屋は森が使っていた部屋だったといい、公演は2019年に通算500回を数えた。
遊び心と人柄[編集]
麻雀好きで、東山らと卓を囲んだとされる。1989年4月8日の『クイズダービー』では、解答をめぐる「ホテルにとまれ」という発言が話題になった。バラエティでは志村けんや加藤茶とのコントにも全力で臨み、加藤は没後の特番で森の「笑いへの追求」を語っている。
一方で、親交の深かった奈良岡朋子は本葬に寄せた録音メッセージで、森を「太陽のように周囲を温める人」と評しつつ、「自ら孤独を選ぶような孤高の人だった」とも語った。明るい「日本のお母さん」の顔の裏に、仕事に人生を捧げたストイックな女優の顔があったといえる。
最期の言葉[編集]
森の最期の言葉は「みなさん、一生懸命される仕事を生きてね」だったと伝えられている。戒名は「惠光院放譽花雪逗留大姉」で、「放」の字に『放浪記』が刻まれている。
受賞・栄典[編集]
- 1961年 - 芸術祭文部大臣賞(『放浪記』)
- 1984年 - 紫綬褒章
- 1992年 - 勲三等瑞宝章
- 1998年 - 文化功労者
- 2005年 - 文化勲章(女優では山田五十鈴に次いで2人目)
- 2009年 - 国民栄誉賞(7月1日授与。俳優への生前授与は初)
- 2009年 - 京都市市民栄誉賞
- 2011年 - 京都名誉観光大使
- 2012年 - 従三位(没後、11月10日付)
- ほか東京都名誉都民
没後の企画・顕彰[編集]
財団と「森光子の奨励賞」[編集]
没後の2013年、一般財団法人「森光子芸能文化振興財団」が設立された。2015年には「森光子の奨励賞」が創設され、地方で伝統芸能や舞台文化を守り続ける団体・個人を毎年表彰している。
受賞者は福島県檜枝岐村の村芝居「花駒座」(2022年)、本城ゆり現代舞踊研究所(2022年)、佐渡人形芝居保存会(2023年)、岐阜県の美濃歌舞伎博物館相生座館長(2024年)、函館悦山会(2025年)など。2026年も3月に埼玉県の小鹿野歌舞伎保存会、5月に紫光窯・紫の会、9月に朗読赤十字奉仕団と、相次いで贈呈された。華やかな舞台に立ち続けた森の名が、地方の芸能を支える賞として生きている。
生誕100年(2020年)[編集]
2020年は生誕100年にあたり、NHK BSプレミアムで特番『森光子生誕100年〜放浪記 永遠のメッセージ〜』が8月28日に放送された。岡本健一と上白石萌音が生前の森の舞台映像と合成する形で「共演」し、岡本は1981年の第三幕「尾道」の映像に合わせて芙美子の初恋の相手・香取恭助を演じた。収録は帝国劇場のブルーバックの前で行われた。
番組には黒柳徹子、東山紀之、堂本光一らが出演して思い出を語り、翌日深夜には2000回公演を収めた『放浪記 奇跡の2000回』も再放送された。同年11月から12月には、財団の企画で写真展「森光子 百歳の放浪記」が長野県諏訪市と石川県山中温泉で同時開催された。
没後10年(2022年)と十三回忌(2024年)[編集]
没後10年にあたる2022年3月6日、BSフジで特番『私しか知らない森光子〜豪華スター涙と笑いの初告白〜』が放送された。東山紀之は帝国劇場の舞台に『放浪記』ラストシーンの文机を置き、森が愛した真紅のバラを飾って追悼。21歳で『3時のあなた』に出演した秘蔵映像も紹介され、東山は50歳でニュース番組のキャスターを引き受けた際、『3時のあなた』での森の姿勢が影響したと語った。
同番組では、NHKドラマで森が演じた主人公の若い頃を演じた縁を持つ米倉涼子が、森から譲られたダイヤのピアスと真珠のネックレスを身に着けて思い出を語った。2024年5月9日には、京都の阿弥陀寺帰白院で十三回忌法要が営まれ、財団関係者や生前の知人が参列した。
炎上とバズ[編集]
年齢の「サバ読み」[編集]
1984年の紫綬褒章受章時、それまで公表されていた生年が実際より若く設定されていたことが報じられ、話題になった。1959年の結婚時にも実年齢より3歳若く公表していたとされる。当時の芸能界では珍しくなかった慣行で、大きな批判に発展したわけではない。
2023年の会見での質問[編集]
2023年9月、ジャニー喜多川による性加害問題をめぐるジャニーズ事務所の会見で、新社長に就いた東山紀之に対し、森の遺産を受け取ったのではないかという噂について質問が出たと報じられた。東山は即座に否定し、遺産を相続したことも、そうした話をしたこともないと説明。森は子どもがいなかったため若手をかわいがってくれた、「本当の母のような存在」だったと語った。ネット上では、会見の主題と関係のない質問だとして質問者を批判する声が多かったと伝えられている。
余談[編集]
- 『放浪記』の2000回達成も、堂本光一による記録更新も、どちらも5月9日(森の誕生日)だった。堂本側はスタッフのカレンダーの誤りが修正された結果、偶然そうなったと説明している。
- 紅白歌合戦の紅組司会を64歳で務めた記録は長く最年長だったが、のちに黒柳徹子が更新した。
- 『放浪記』休演の穴を埋める形で始まった「ジャニーズ銀座」は、のちにKing & Princeなども主演し「若手の登竜門」と呼ばれた。
- 85歳で出した新曲「月夜のタンゴ」がオリコン45位に初登場している。
- 2021年7月1日には、Googleのトップページのロゴ(Google Doodle)で取り上げられたとされる。7月1日は国民栄誉賞の授与日である。
- 1960年代末から2000年代まで、味噌メーカーのCMに長く起用されていた。
- 本葬で上映された映像には、美空ひばりと共演したドラマ『大奥』の場面や、森繁久彌との2ショットも含まれていた。
