木下惠介
きのした けいすけ / Keisuke Kinoshita
Keisuke_Kinoshita.jpg
木下惠介(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン)
本名 木下正吉(1972年に「惠介」を本名とした)
誕生日 1912年12月5日
死亡日 1998年12月30日
死亡年齢 86歳
出身地 静岡県浜松市
国籍 日本
家族 弟:木下忠司(作曲家)
学歴 浜松工業学校(現・静岡県立浜松工業高等学校)卒業、オリエンタル写真学校
職業 映画監督
肩書 映画監督、脚本家、テレビドラマ制作者
活動期間 1943年 - 1988年(映画監督として)
代表的な実績 監督作49本。『カルメン故郷に帰る』『二十四の瞳』『野菊の如き君なりき』『喜びも悲しみも幾歳月』『楢山節考』『笛吹川』『永遠の人』、テレビ『木下恵介アワー』
受賞 山中貞雄賞(1943年)、毎日映画コンクール監督賞(『肖像』ほか)、ゴールデングローブ賞外国語映画賞(『二十四の瞳』)、キネマ旬報ベスト・テン第1位(『二十四の瞳』『楢山節考』)、紫綬褒章(1977年)、勲四等旭日小綬章(1984年)、文化功労者(1991年)、エランドール賞特別賞(没後)
事務所 松竹(1933年 - 1964年)、木下恵介プロダクション
関連活動 四騎の会(黒澤明・市川崑・小林正樹と結成)
別名 木下恵介
その他 高峰秀子は木下作品に最多の12本出演


概要[編集]

木下惠介(きのした けいすけ、1912年12月5日 - 1998年12月30日)とは、静岡県浜松市出身の映画監督・脚本家である。松竹大船撮影所の看板監督として、日本初の総天然色映画『カルメン故郷に帰る』や『二十四の瞳』『喜びも悲しみも幾歳月』『楢山節考』を世に送り、テレビでは『木下恵介アワー』で一時代を築いた。「木下恵介」とも表記される。

詳細[編集]

黒澤明と並ぶ「もう一人の巨匠」[編集]

木下惠介は、黒澤明と同じ1943年に監督デビューし、戦後の日本映画を二人で引っ張った監督である。黒澤が男くさい活劇で世界を沸かせたのに対し、木下は喜劇、抒情的なメロドラマ、社会派、実験作と、ジャンルを選ばずに撮りまくった「何でも撮れる人」だった。生涯の監督作は49本。1954年のキネマ旬報ベスト・テンでは『二十四の瞳』が1位、『女の園』が2位に入り、黒澤の『七人の侍』は3位だった。この年の木下は、まさに日本映画のトップに立っていたことになる。

現在は海外での知名度こそ黒澤や小津安二郎、溝口健二に一歩譲るが、国内での大衆的な人気は抜群だった。とくに『二十四の瞳』『喜びも悲しみも幾歳月』は、昭和の日本人が「泣きに行く映画」の代名詞といってよい。

「惠介」と「恵介」、二つの表記[編集]

名前の表記は「木下惠介」と「木下恵介」の二通りがある。本名はもともと「正吉」で、「惠介」は監督名として使っていたものだが、1972年、還暦を機に「惠介」を本名とした。1960年代の監督作品ではクレジットに「恵介」と「惠介」が混在しており、テレビ番組『木下恵介アワー』のように新字体の「恵」で定着した名称も多い。

現在、浜松市の記念館や松竹の生誕記念事業などでは旧字体の「惠介」が使われることが多く、配信サービスやテレビの番組表では「恵介」表記もよく見かける。検索するときはどちらでも引っかかるようにしておくのがコツである。

木下作品の特徴[編集]

木下作品の持ち味は、弱い者や庶民への優しいまなざしと、それを支える大胆な映像実験の両立にある。『カルメン故郷に帰る』では国産カラーフィルムに挑み、『野菊の如き君なりき』では回想シーンを白い楕円形のマスクで囲み、『楢山節考』では全編をセットで撮って歌舞伎の様式を持ち込んだ。『笛吹川』ではモノクロ画面に部分的に色をつける手法を試している。

音楽面では、実弟で作曲家の木下忠司とのコンビが長い。忠司は『わが恋せし乙女』から最後の監督作『父』まで、ほぼすべての作品(『楢山節考』を除く)の音楽を担当した。忠司は後にテレビ時代劇『水戸黄門』の主題歌「ああ人生に涙あり」でも知られる作曲家になる。

「木下学校」の弟子たち[編集]

木下組の助監督からは、多くの才能が巣立った。『人間の條件』の小林正樹、脚本家・監督で高峰秀子の夫となる松山善三、川頭義郎、吉田喜重、そして脚本家の山田太一らである。前衛的な作風で知られる勅使河原宏の名も木下門下として挙げられる。

山田太一は助監督時代を経てテレビの世界に進み、木下がプロデュースする『木下恵介アワー』の『3人家族』で連続ドラマの脚本家として本格的に歩み始めた。木下の現場は、日本映画とテレビドラマの両方に人材を送り出した「学校」だったわけである。

経歴[編集]

1912年 - 1932年:漬物屋の息子、映画にとりつかれる[編集]

1912年12月5日、静岡県浜松市伝馬町で、漬物製造も手がける食料品店「尾張屋」を営む家に生まれた。8人きょうだいの4男である。小学校3年生のころから映画館に通いはじめ、すっかり映画少年になった。

1925年に浜松工業学校の紡織科に入学したが、勉強が合わず映画への夢がふくらむ一方だった。卒業後は上京し、写真館や写真研究所で修業しながらオリエンタル写真学校で学んだ。撮影所に入るには写真の技術を身につけるのが近道だと考えたためとされる。

1933年 - 1942年:撮影助手から助監督へ[編集]

1933年、念願かなって松竹蒲田撮影所に入社。最初は現像部、その後撮影部に移り、撮影技師の助手として働いた。1936年に撮影所が大船へ移転すると、島津保次郎監督の誘いで助監督部に移り、島津の『浅草の灯』や吉村公三郎の『暖流』などの現場を経験した。のちに木下は「島津の顔を見ると緊張した」と振り返っている。

1940年に召集されて中国大陸を転戦したが、1941年に体を壊して野戦病院に入院し、召集解除となって撮影所に戻った。

1943年 - 1945年:デビューと『陸軍』騒動[編集]

1943年、詐欺師コンビが南の島で騒動を起こす喜劇『花咲く港』で監督デビュー。同年デビューの黒澤明(『姿三四郎』)とともに、新人監督に贈られる山中貞雄賞を受賞した。

1944年の『陸軍』は、陸軍省の後援で作られた国策映画だった。ところがラストで、田中絹代演じる母親が出征する息子の隊列をどこまでも追いかけ、涙ながらに見送る長い場面が「軍国の母にふさわしくない」と軍部ににらまれた。木下は次の企画も通らなくなり、辞表を出して浜松に帰ってしまう。撮影所長に慰留されたものの、終戦まで新作を撮ることはなかった。この時期の出来事が、のちに映画『はじまりのみち』の題材になる。

1946年 - 1953年:戦後の快進撃[編集]

戦後第1作は1946年の『大曾根家の朝』。戦時下で軍人の叔父に支配される一家を描き、反軍国主義の姿勢をはっきり打ち出した。1948年には黒澤明が脚本を書いた『肖像』などで毎日映画コンクール監督賞を受賞。島崎藤村原作の『破戒』、原節子主演の喜劇『お嬢さん乾杯!』、阪東妻三郎がワンマン親父を演じた『破れ太鼓』と、作風の振れ幅は年々大きくなっていった。

1951年、日本初の総天然色長編映画『カルメン故郷に帰る』を発表し、日本映画文化賞を受賞。同年は8か月間ヨーロッパに遊学し、パリでは三島由紀夫と親しくなった。1953年の『日本の悲劇』では、戦後の混乱の中で子供のために身を粉にした母が、成長した子供たちに見捨てられていく姿を、ニュース映像を交えた手法で描いた。

1954年 - 1964年:黄金期と松竹退社[編集]

1954年の『二十四の瞳』は国内外で40以上の映画賞を獲得し、木下の名声は頂点に達した。翌1955年には伊藤左千夫『野菊の墓』を原作とする『野菊の如き君なりき』、1957年には『喜びも悲しみも幾歳月』、1958年には『楢山節考』と、名作を立て続けに発表する。

1960年代に入っても『笛吹川』『永遠の人』『香華』など、ひとりの女性や家族の長い年月を描く大作を撮り続けた。しかし、戦争を描く企画『戦場の固き約束』が実現しなかったことなどもあり、1964年の『香華』を最後に、31年間在籍した松竹を退社した。

1964年 - 1979年:テレビへの進出と映画復帰[編集]

松竹退社と同じ1964年、TBS・博報堂とともに木下恵介プロダクションを設立し、テレビドラマの世界に本格進出した。『木下恵介劇場』(のち『木下恵介アワー』)、『木下恵介・人間の歌シリーズ』などを手がけ、お茶の間の人気者になる。1969年には黒澤明・市川崑・小林正樹と「四騎の会」を結成した。

映画では1967年の『なつかしき笛や太鼓』のあと、しばらく間が空き、1976年に東宝で『スリランカの愛と別れ』を発表。1979年には古巣の松竹に戻り、若山富三郎と高峰秀子が通り魔に息子を殺された夫婦を演じる『衝動殺人 息子よ』を撮った。

1980年 - 1998年:晩年[編集]

1980年代は『父よ母よ!』『この子を残して』『新・喜びも悲しみも幾歳月』『父』と、加藤剛らを起用して家族を見つめる作品を撮り、1988年の『父』が最後の監督作となった。一方で、1981年に脚本『女たちの戦場』の映画化が会社の判断で中止になり、1987年には脚本『戦場の固き約束』を出版し中国との合作も企画されたがこれも実現しないなど、戦争を描く念願の企画には恵まれなかった。

1977年に紫綬褒章、1984年に勲四等旭日小綬章を受け、1991年には文化功労者に選ばれた。1998年12月30日、脳梗塞のため東京の自宅で死去。86歳だった。墓所は鎌倉の円覚寺にある。

代表作の解説[編集]

カルメン故郷に帰る(1951年):日本初の総天然色映画[編集]

『カルメン故郷に帰る』は、松竹と富士フイルムが組んで作った国産初の長編カラー劇映画である。高峰秀子演じるおきんは、東京でストリッパー「リリィ・カルメン」として働き、裸踊りを「芸術」と信じて疑わない娘。彼女が同僚を連れて浅間山麓の故郷の村に錦を飾りに帰り、のどかな村に騒動を巻き起こす喜劇だ。

ロケ地は群馬県北軽井沢の浅間山麓で、ほぼ全編を屋外で撮影した。使われたのは富士フイルムの「リバーサル・外式発光」方式で、とにかく明るい光が必要だったため、スタジオでなく外光の下で撮ったのである。カラーが失敗したら撮影自体をなかったことにする約束だったため、同じ場面をまずカラーで、続けてモノクロでも撮り直すという二度手間になった。笠智衆は「どんなメイクをしても顔が奇妙な色に出た」と振り返っている。

初公開時、カラー版は東京・横浜・名古屋・大阪・京都でしか上映できず、ほかの都市は白黒版での公開だった。それでも「総天然色映画」の看板は大当たりし、興行収入は6800万円に達した。翌1952年には続編『カルメン純情す』も作られている。2012年にはデジタル修復版がヴェネツィア国際映画祭のクラシック部門で上映された。

二十四の瞳(1954年)[編集]

壺井栄の小説を原作に、昭和初期に小豆島の分教場へ赴任した新米教師・大石先生と12人の教え子たちが、戦争の時代を生きる姿を描いた作品。大石先生を高峰秀子が演じた。唱歌を効果的に使い、2時間36分をかけて20年近い歳月を描く。

キネマ旬報ベスト・テン1位、ブルーリボン賞作品賞、毎日映画コンクール日本映画大賞に加え、アメリカのゴールデングローブ賞外国語映画賞も受賞した。詳しくは「二十四の瞳」の記事を参照。

喜びも悲しみも幾歳月(1957年)[編集]

1932年の新婚時代から戦後までの約25年間、灯台守の夫婦が日本各地の灯台を転々としながら家族を育てていく年代記。夫の有沢四郎を佐田啓二、妻のきよ子を高峰秀子が演じた。観音埼、石狩、女島、弾埼、御前埼など各地の灯台が登場し、ロケは北の野寒布岬から五島列島、瀬戸内海の男木島・女木島にまで及んだ。

木下忠司が作詞・作曲し、若山彰が歌った主題歌「喜びも悲しみも幾歳月」は大ヒット。映画も大当たりして芸術祭賞を受賞した。1986年には木下自身が時代を移して『新・喜びも悲しみも幾歳月』を撮り、出演した植木等が日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受けた。テレビドラマにも3回なっている。

楢山節考(1958年)[編集]

深沢七郎の小説を初めて映画化した作品で、70歳になった老人を山に捨てる掟のある貧しい村を舞台に、自ら進んで楢山へ向かおうとする母おりん(田中絹代)と、母を背負って山に登る息子・辰平(高橋貞二)を描く。

最大の特徴は、ラストの現代の実景を除いて全編をセットで撮り、歌舞伎の様式を持ち込んだことだ。幕開きは定式幕と黒子の口上で始まり、背景の布を一瞬で落とす「振落し」などの歌舞伎の舞台転換が使われ、長唄や浄瑠璃が全編に流れる。田中絹代は、歯を石臼に打ちつける場面のために自分の前歯を抜いて撮影に臨んだとされる。

キネマ旬報ベスト・テン1位、毎日映画コンクール日本映画大賞などを獲得し、ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門にも出品された。当時批評家だったフランソワ・トリュフォーが絶賛したと伝えられる。2012年にはデジタル修復版がカンヌ国際映画祭のクラシック部門で上映された。

高峰秀子との仕事[編集]

12本のコンビ作[編集]

木下作品に最も多く出演した俳優が高峰秀子で、その数は12本にのぼる。コンビは1951年の『カルメン故郷に帰る』で始まり、続編『カルメン純情す』、『女の園』『二十四の瞳』『遠い雲』『喜びも悲しみも幾歳月』『風前の灯』『笛吹川』『永遠の人』『二人で歩いた幾春秋』と続いた。

清純派だった高峰に、底抜けに明るいストリッパーを演じさせたのは木下の大胆な配役だった。その後は、二十数年を演じ切る『二十四の瞳』『喜びも悲しみも幾歳月』、18歳から85歳までを演じる『笛吹川』、20歳から49歳までの愛憎を演じる『永遠の人』と、女性の一代記を任せるようになる。『永遠の人』はアメリカのアカデミー賞外国語映画賞にノミネートされた。

最後の映画出演も木下作品[編集]

高峰の最後の映画出演作は、1979年の木下作品『衝動殺人 息子よ』である。降板した八千草薫の代役として出演し、日本アカデミー賞の優秀主演女優賞を受けた。これを最後に女優を引退しており、高峰の映画人生の後半は木下とともにあったといえる。

仲人としての木下[編集]

高峰の夫・松山善三は、木下組の助監督で、『カルメン故郷に帰る』ではシナリオの口述筆記を務めていた。1955年に二人が結婚した際、仲人は作家の川口松太郎・三益愛子夫妻と木下惠介だった。木下が自ら報道各社に連絡して記者会見を開いたため、芸能人の結婚会見の先駆けともいわれる。高峰は後年のテレビ対談で、木下作品には自分のキスシーンやベッドシーンが一度もなかったと語っている。

黒澤明とのライバル関係と四騎の会[編集]

同期デビューの好敵手[編集]

木下と黒澤は、生まれ年が2年違いで、監督デビューは同じ1943年。そろって山中貞雄賞を受賞したところから、二人の「同期」としての歩みが始まった。会社は木下が松竹、黒澤が東宝と別だったが、1948年の木下作品『肖像』の脚本は黒澤が書いている。

1954年には、木下の『二十四の瞳』と黒澤の『七人の侍』が同じ年に公開され、キネマ旬報ベスト・テンでは『二十四の瞳』が1位、『女の園』が2位、『七人の侍』が3位という結果になった。国内の評価では、このとき木下が黒澤を上回っていたのである。

四騎の会[編集]

1969年、木下・黒澤・市川崑・小林正樹の4監督が「四騎の会」を結成した。映画産業が斜陽に入り、大作が撮りにくくなった時代に、巨匠たちが手を組んで映画を作ろうという試みだった。

第1回作品は黒澤明監督の『どですかでん』(1970年)である。4人の共同監督作も構想されたが、実現しなかった。4人で書いた時代劇の脚本『どら平太』は、30年後の2000年に市川崑の監督で映画化されたとされる。

奇しくも黒澤明は1998年9月に、木下はその3か月後の12月に亡くなっている。日本映画の黄金期を支えた二人の巨匠は、同じ年にこの世を去った。

木下恵介アワー(テレビ)[編集]

番組の概要[編集]

『木下恵介アワー』は、TBS系列で1964年10月から1974年9月までの10年間放送された連続ドラマ枠。開始当初は『木下恵介劇場』の名で、1967年の『女と刀』から『木下恵介アワー』に改題した。長く火曜21時台に放送され、1973年秋から水曜22時台へ移っている。木下は自ら脚本・演出を手がけた作品もあるが、主に監修の立場で関わった。

初期は木下の映画を原作とする1か月ほどの短期作品が多かったが、1965年の『喜びも悲しみも幾歳月』以降は半年前後の作品が中心になった。1968年の『おやじ太鼓』途中からカラー放送となっている。1970年からは1時間ドラマ『木下恵介・人間の歌シリーズ』も始まり、一時は週2本の「木下ドラマ」が放送されていた。

主な作品[編集]

  • 『喜びも悲しみも幾歳月』(1965年) - 映画のテレビドラマ化
  • 『記念樹』『今年の恋』『女と刀』『もがり笛』
  • 『おやじ太鼓』 - 頑固親父が主人公のホームドラマ。続編も作られた
  • 『3人家族』(1968年 - 1969年) - 山田太一脚本。シリーズ最高の平均視聴率を記録。出演した栗原小巻は日本放送作家協会賞を受けた
  • 『兄弟』『あしたからの恋』『二人の世界』『たんとんとん』『太陽の涙』『幸福相談』『おやじ山脈』『思い橋』『炎の旅路』
  • 『わが子は他人』(1974年) - 枠の最終作

再放送で再び人気に[編集]

放送終了から半世紀が経っても、木下恵介アワーは再放送の常連である。東海テレビ、テレビ大阪、チバテレ、TOKYO MXなどで系列外の再放送が行われてきたほか、2022年10月からはtvkの平日午後枠でも放送された。BSでは、BS松竹東急が権利関係で放送できないものを除いて『おやじ太鼓』以降の作品を放送している。

映画『はじまりのみち』[編集]

作品概要[編集]

『はじまりのみち』は、木下惠介の生誕100年を記念して作られ、2013年6月1日に松竹配給で公開された伝記映画。監督・脚本は『クレヨンしんちゃん』の劇場版などで知られるアニメーション監督の原恵一で、本作が初の実写映画だった。上映時間は96分。若き日の木下惠介(正吉)を加瀬亮が演じた。

あらすじと出演者[編集]

物語の舞台は戦争末期。『陸軍』のラストシーンが軟弱だと軍ににらまれ、次回作を撮れなくなった木下は、辞表を出して浜松に帰る。やがて空襲が迫るなか、脳溢血で倒れた母を山あいの親族のもとへ疎開させるため、木下は兄、雇った便利屋とともに、母を乗せたリヤカーを引いて約50キロの山道を越えていく。実話をもとにした物語である。

母・たまを田中裕子、兄・敏三をユースケ・サンタマリア、便利屋を濱田岳が演じ、光石研、濱田マリ、松岡茉優、大杉漣らが出演。宮崎あおいがナレーションを務めた。エンディングでは木下の監督作品の映像が次々と流れ、旅の終わりがそのまま名作群の「はじまり」へつながっていく構成になっている。

浜松の木下惠介記念館[編集]

記念館の歩み[編集]

故郷の浜松市には「木下惠介記念館」がある。2001年7月1日に浜松市内の商業施設内で開館し、2008年に一時休館。2009年12月5日、木下の誕生日に合わせて、1930年に建てられた旧浜松銀行協会の建物(浜松市指定有形文化財)に移ってリニューアルオープンした。展示品には、生前に木下自身が寄贈した資料と、遺族から寄贈された資料が含まれる。浜松駅から徒歩約15分。

毎月の定例上映会[編集]

記念館では毎月第3日曜日に木下作品の定例上映会を開いており、入場料は100円と格安である。2026年は特集「Emotion in Motion——木下映画におけるカメラワークとメロドラマ」として、8月には十七代目中村勘三郎のために書き下ろした『今日もまたかくてありなん』(1959年)、9月には高峰秀子・佐田啓二主演の『遠い雲』(1955年)が上映された。2026年は弟・木下忠司の生誕110年にもあたり、記念館では忠司の記念上映会・講演会も企画されている。

監督作品一覧[編集]

年 作品名 主な出演者・備考
1943年 花咲く港 小沢栄太郎。監督デビュー作
1943年 生きてゐる孫六 上原謙
1944年 歓呼の街 東野英治郎
1944年 陸軍 田中絹代。ラストシーンが軍部の不興を買う
1946年 大曾根家の朝 杉村春子。戦後第1作
1946年 わが恋せし乙女 原保美。木下忠司の映画音楽デビュー
1947年 結婚 田中絹代
1947年 不死鳥 田中絹代
1948年 女 水戸光子
1948年 肖像 井川邦子。脚本:黒澤明
1948年 破戒 池部良
1949年 お嬢さん乾杯! 佐野周二、原節子
1949年 新釈四谷怪談(前後編) 上原謙
1949年 破れ太鼓 阪東妻三郎
1950年 結婚指輪 田中絹代
1951年 善魔 淡島千景。三國連太郎のデビュー作
1951年 カルメン故郷に帰る 高峰秀子。日本初の総天然色長編映画
1951年 少年期 田村秋子
1951年 海の花火 三國連太郎
1952年 カルメン純情す 高峰秀子
1953年 日本の悲劇 望月優子
1954年 女の園 高峰秀子。キネ旬2位
1954年 二十四の瞳 高峰秀子。キネ旬1位
1955年 遠い雲 高峰秀子
1955年 野菊の如き君なりき 有田紀子
1956年 夕やけ雲 田中晋二
1956年 太陽とバラ 中村嘉葎雄
1957年 喜びも悲しみも幾歳月 佐田啓二、高峰秀子
1957年 風前の灯 高峰秀子
1958年 楢山節考 田中絹代。キネ旬1位
1958年 この天の虹 高橋貞二
1959年 風花 岸惠子
1959年 惜春鳥 津川雅彦
1959年 今日もまたかくてありなん 高橋貞二、十七代目中村勘三郎
1960年 春の夢 岡田茉莉子
1960年 笛吹川 高峰秀子
1961年 永遠の人 高峰秀子。アカデミー賞外国語映画賞ノミネート
1962年 今年の恋 岡田茉莉子
1962年 二人で歩いた幾春秋 高峰秀子
1963年 歌え若人達 松川勉
1963年 死闘の伝説 岩下志麻
1964年 香華 岡田茉莉子。松竹在籍時の最終作
1967年 なつかしき笛や太鼓 夏木陽介
1976年 スリランカの愛と別れ 北大路欣也。東宝作品
1979年 衝動殺人 息子よ 若山富三郎、高峰秀子
1980年 父よ母よ! 加藤剛
1983年 この子を残して 加藤剛
1986年 新・喜びも悲しみも幾歳月 加藤剛、植木等
1988年 父 坂東英二。最後の監督作

※年は浜松市の公式資料に記載の制作年による。

2020年代の上映・配信[編集]

名画座・特集上映[編集]

2022年12月には、東京・池袋の新文芸坐で特集上映「生誕110年 信念の人・木下惠介」が開かれた。49本の監督作から『カルメン故郷に帰る』『日本の悲劇』『二十四の瞳』『喜びも悲しみも幾歳月』『楢山節考』『惜春鳥』『春の夢』『永遠の人』『今年の恋』『死闘の伝説』の10本を厳選し、『カルメン』『楢山』『二十四の瞳』の3本はデジタルリマスター版、残る7本は35ミリフィルムで上映された。2025年4月には、東京・新橋演舞場で行われた松竹の旧作映画の上映企画でも、小津安二郎らと並んで木下惠介の名が挙がっている。

これらのデジタルリマスター版は、2012年の生誕100年記念事業で作られたものが土台になっている。このとき『二十四の瞳』は4Kスキャンでリマスターされ、予告編は橋口亮輔、本木克英、原恵一の3監督がそれぞれ担当した。

配信・放送[編集]

2026年時点では、代表作『二十四の瞳』がU-NEXT、Hulu、FOD、Amazon Prime Videoの松竹系チャンネル「Plus Shochiku」などで見放題配信されており、Amazonなどではレンタル・購入もできる。そのほかの作品も、松竹の旧作を扱うサービスやBS松竹東急での放送で見られることがある。配信状況は変わりやすいので、視聴前に各サービスで確認したい。

テレビドラマでは、先述のとおり『木下恵介アワー』がtvkやBS松竹東急で再放送され、昭和のホームドラマとして新しいファンを獲得している。

余談[編集]

  • 実家が漬物店だったせいで漬物の匂いが大の苦手だった。助監督には、弁当に漬物が入っていないかチェックする役目まであったという逸話がある。
  • パリで親しくなった三島由紀夫の小説『潮騒』は、当初木下が監督する予定だったが、三島の一言で谷口千吉監督に変わったといわれる。
  • 木下忠司が作曲した「喜びも悲しみも幾歳月」は今も人気が高く、木下惠介記念館が行った忠司作品の人気投票でも1位だった。2位は『水戸黄門』の主題歌「ああ人生に涙あり」である。
  • 1951年の『善魔』で、俳優・三國連太郎がデビューした。役名「三國連太郎」がそのまま芸名になったことでも知られる。
  • 『カルメン故郷に帰る』のモノクロ版は長く失われたと思われていたが、木下の死後に16ミリのモノクロ版が見つかった。

外部リンク[編集]

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