菅井きん
すがい きん / Kin Sugai
Kin_Sugai.jpg
若いころの菅井きん(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン)
本名 佐藤キミ子(さとう きみこ、旧姓:須斎)
誕生日 1926年2月28日
死亡日 2018年8月10日
死亡年齢 92歳(数え年93)
出身地 東京都(東京府東京市牛込区早稲田町、現在の新宿区)
国籍 日本
ジャンル 映画、テレビドラマ、舞台、バラエティ
活動期間 1947年 - 2010年
デビューアルバム 1947年 初舞台、1951年 映画『風にそよぐ葦』
家族 夫:佐藤正之(映画プロデューサー、1996年死去)、長女
身長 / 体重 155cm cm / ― kg
血液型 B型
代表作 『生きる』、『ゴジラ』(1954年)、『必殺』シリーズ(中村せん役)、『太陽にほえろ!』、『お葬式』、『ぼくのおばあちゃん』
関連活動 著書『わき役 ふけ役 いびり役』(1990年)
その他 第8回日本アカデミー賞 最優秀助演女優賞(『お葬式』ほか)、紫綬褒章(1990年)、勲四等宝冠章(1996年)、「世界最高齢の映画主演女優」としてギネス世界記録に認定(2008年)


概要[編集]

菅井きん(すがい きん、1926年2月28日 - 2018年8月10日)とは、東京都出身の女優である。本名は佐藤キミ子。黒澤明の『生きる』をはじめ100本以上の映画に出たが、そのほとんどが脇役。テレビ時代劇『必殺』シリーズで中村主水の姑・中村せんを演じ、「婿殿!」のひと言で日本中に顔を覚えられた。82歳で初主演した『ぼくのおばあちゃん』で「世界最高齢の映画主演女優」としてギネス認定を受けた。

詳細[編集]

「婿殿!」の姑・中村せん[編集]

菅井きんと聞いて多くの人がまず思い浮かべるのが、朝日放送制作・テレビ朝日系の時代劇『必殺』シリーズの中村せんである。初登場は1973年の『必殺仕置人』。藤田まこと演じる同心・中村主水は、裏では金で恨みを晴らす仕置人(のちの仕事人)だが、家では婿養子として妻のりつ(白木万理)と姑のせんに頭が上がらない。そのせんが主水を「婿殿!」と呼びつけてネチネチといびる場面は、殺しの緊張感とのギャップでシリーズ屈指の名物になり、「婿殿」は流行語にもなった。

プロデューサーの仲川利久によれば、男性向けだった第1作『必殺仕掛人』のあと、主婦層にも見てもらおうと家庭の場面を入れることになり、主水を婿養子にして怖い姑と妻を置く設定が生まれた。きつめの顔立ちを見込んで菅井に頼んだところ快く引き受けてくれたという。姑「せん」と妻「りつ」を続けて読むと「戦慄(せんりつ)」になるのは制作側の狙いどおり。途中からは主水をどういじるかを藤田・白木・菅井の3人に任せる場面もあり、中村家のコントの多くは3人のアイデアから生まれたとされる。

菅井自身は、せんが「初めての苗字がある役だった」と語り、いかに憎々しく聞こえるか「婿殿」の言い方を研究したという。シリーズは『必殺仕事人』(1979年)以降も続き、劇場版『必殺! THE HISSATSU』(1984年)から『必殺! 主水死す』(1996年)まで映画でもせんを演じた。20年以上にわたって同じ姑を演じ続けたことになる。

黒澤組から始まった「名脇役」[編集]

映画女優としての出発点は、1951年の東横映画(東映の前身)『風にそよぐ葦』。翌1952年、東宝の黒澤明監督作『生きる』で、市役所に公園づくりを陳情に来る主婦の一人を演じた。主婦役には黒澤映画の常連女優もいたが、まだ26歳の菅井がひときわ目立っていたと評されることが多い。その後も『悪い奴ほどよく眠る』(1960年)、『天国と地獄』(1963年)、『赤ひげ』(1965年)、『どですかでん』(1970年)と黒澤作品に繰り返し呼ばれた。

黒澤組以外でも、川島雄三の『幕末太陽傳』(1957年)、野村芳太郎の『張込み』(1958年)と『砂の器』(1974年)、成瀬巳喜男の『秋立ちぬ』『女の歴史』、今村昌平の『豚と軍艦』、浦山桐郎の『キューポラのある街』(1962年、吉永小百合主演)、山田洋次の『下町の太陽』(1963年、倍賞千恵子主演)、小林正樹の『怪談』(1965年)、今村昌平の『復讐するは我にあり』(1979年、緒形拳主演)など、昭和の巨匠たちの作品に次々と顔を出している。本人は2003年のインタビューで、出演した100本以上の映画は「ほとんどが脇役」と笑っていた。

若いころから「老け役」[編集]

菅井のもう一つの特徴は、若いころから母親やおばさん、老婆の役ばかり回ってきたことである。『どですかでん』の時点でまだ44歳だったが、演じたのは今日の「おばあさん役」のイメージに近い母親だった。本人いわく、年齢が役に追いついてからはさらにその傾向が強まったという。

共演した三田村邦彦は訃報に際し、菅井が「実年齢より上の役しか来ない」と笑っていたことを明かしている。三田佳子も、老け役を変幻自在に演じる一方、素顔は若々しく明るく行動的だったと振り返った。スクリーンの「意地悪ばあさん」と、実際のおしゃれで気配りの人という落差も、菅井が愛された理由の一つである。

なぜ今も名前が残るのか[編集]

主演作がほぼない女優が、ここまで広く知られている例は珍しい。理由ははっきりしていて、(1) 黒澤明から伊丹十三まで、日本映画史に残る作品にほぼ必ず「あの顔」が映っていること、(2) 『必殺』の「婿殿!」が国民的な決め台詞になったこと、(3) 1980〜90年代にバラエティ番組で体を張り、若い世代にも「面白いおばあちゃん」として知られたこと、の3つが重なったからである。そして82歳での初主演とギネス認定が、長い脇役人生の締めくくりとして大きく報じられた。

経歴[編集]

1926年 - 1940年代:役所勤めから新劇へ[編集]

1926年2月28日、東京府東京市牛込区早稲田町(現在の新宿区)に生まれる。旧姓は須斎。同じ1926年生まれにはマリリン・モンローや俳優の佐田啓二がいると、本人はインタビューで話している。

戦時中の1943年から終戦直後にかけては、文部省総務課や東京帝国大学(現在の東京大学)学生課で事務職員として働いていた。戦後に見た舞台に心を動かされて女優を志すが、父親は「女優は美しい人がなるもの」という考えから猛反対したという。それでも新劇の道に進み、劇作家・久保栄らの東京芸術劇場に入って1947年に初舞台を踏んだ。父は娘の舞台を一度も見ないまま、1971年ごろに亡くなったとされる。

芸名の「菅井きん」は、恩師の久保栄が本名をもじって付けたものである。

1950年代:俳優座と映画デビュー[編集]

東京芸術劇場の解散後は劇団俳優座に移り、1959年まで所属して舞台に立った。1951年、東横映画の『風にそよぐ葦』(石川達三原作)で映画デビュー。劇団の大先輩である千田是也が海軍将校役で共演しており、監督から「肩をポンとたたいて」と指示されたものの、恐れ多くてできなかったという。

1952年に『生きる』、1954年に本多猪四郎監督の『ゴジラ』に出演。『ゴジラ』では国会の公聴会で「ゴジラの存在を公表すべきだ」と訴える婦人代議士・大沢を演じた(資料によっては「小沢」)。上流婦人らしいハイカラな衣装で、端役ながら記憶に残る場面である。1955年には川島雄三の『愛のお荷物』、1957年に『幕末太陽傳』、1958年に『張込み』などに出演し、映画界での足場を固めた。

私生活では、俳優座出身の映画プロデューサー・佐藤正之と結婚。1956年の『女囚と共に』の撮影時には、生後5か月ほどの子どもがいた。

1960年代 - 1970年代:巨匠の常連と『必殺』[編集]

1960年代は年に何本もの映画に出る売れっ子の脇役となる。成瀬巳喜男の『女が階段を上る時』(1960年)、『放浪記』(1962年)、木下恵介の『二人で歩いた幾春秋』(1962年)、川島雄三の『雁の寺』(1962年、若尾文子主演)、黒澤明の『天国と地獄』『赤ひげ』、岡本喜八の『肉弾』(1968年)など、作品の格を問わず起用された。

テレビにも活躍の場を広げ、1969年にはNHK大河ドラマ『一の糸』に出演。1973年からは日本テレビの刑事ドラマ『太陽にほえろ!』で、松田優作演じるジーパン刑事こと柴田純の母・たきを演じた。同じ1973年に『必殺仕置人』で中村せん役が始まり、ここから「姑・母・老婆」役の第一人者というポジションが決定的になる。

映画では『砂の器』(1974年)、熊井啓の『サンダカン八番娼館 望郷』(1974年)、『八甲田山』(1977年)、『復讐するは我にあり』(1979年)などに出演。夫の佐藤正之は『砂の器』『八甲田山』の製作に関わっている。

1980年代:『お葬式』で日本アカデミー賞[編集]

1984年、伊丹十三の監督デビュー作『お葬式』で、喪主となる妻(宮本信子)の母・雨宮きく江を演じた。脚本を読んですぐ「ぜひやらせてください」と返事をしたといい、クセの強い役ばかりだった菅井にとって、ごく普通の主婦は長年演じたかった役だった。映画は大ヒットし、菅井は報知映画賞の最優秀助演女優賞、ヨコハマ映画祭の助演女優賞、そして第8回日本アカデミー賞の最優秀助演女優賞(『お葬式』と『必殺! THE HISSATSU』)を受賞した。

同じ1984年には劇場版『必殺! THE HISSATSU』(松竹配給)も公開され、以後『必殺! ブラウン館の怪物たち』(1985年)、『必殺! III 裏か表か』(1986年)、『必殺4 恨みはらします』(1987年)と、映画でも「婿殿!」を連発した。

1980年代からはバラエティ番組やワイドショーにも積極的に出演し、ビートたけし主演のドラマ『刑事ヨロシク』(1982年)や『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』でたけしと共演して茶の間を沸かせた。1988年には木下恵介の『父』、1990年には伊丹十三の『あげまん』に出演。1990年に紫綬褒章を受章し、同年に自伝的な著書『わき役 ふけ役 いびり役 女優一筋四十五年』を出版した。

1990年代 - 2000年代:バラエティの人気者に[編集]

1990年代はドラマ『七人の女弁護士』(1991年 - 1997年)、『天下を獲った男 豊臣秀吉』(1993年、大政所役)、『家なき子』(1994年)などに出演。『タモリのボキャブラ天国』ではスカイダイビングに挑戦し、ベテラン女優が空を飛ぶ姿が話題を呼んだ。1996年には勲四等宝冠章を受章したが、同じ年に夫の佐藤正之を亡くしている。

1996年の『必殺! 主水死す』を最後に、映画での中村せん役は一区切りとなった。その後も熊井啓の『深い河』(1995年)、大林宣彦の『理由』(2004年)、『黄色い涙』(2007年、嵐主演)などに出演。テレビでは2000年の『トリック』第1シリーズで霊能力者・霧島澄子を演じ、阿部寛らと共演した。NHKの連続テレビ小説『あぐり』『瞳』、大河ドラマ『いのち』『功名が辻』にも出ている。2008年にはテレビ朝日のドラマ版『めぞん一刻』で、主人公・五代の祖母ゆかりを演じた。

2008年 - 2010年:82歳の初主演と引退[編集]

2008年12月6日公開の『ぼくのおばあちゃん』(榊英雄監督)で、82歳にして映画初主演を果たした。この作品で「世界最高齢の映画主演女優」としてギネス世界記録に認定されている(詳しくは後述)。

2010年は、小林政広監督の『春との旅』(仲代達矢主演)、『瞬 またたき』に出演し、NHK大河ドラマ『龍馬伝』(福山雅治主演)では武市半平太の祖母・武市智を演じた。これがテレビドラマへの最後の出演となった。同じ2010年、84歳のときに転倒して大腿骨を骨折し、自力で歩けなくなったことから、事実上の引退となった。

2014年 - 2018年:晩年と死去[編集]

2014年、一部の女性週刊誌が「認知症で要介護」などと報じたが、同年10月に車いす姿で取材に応じた菅井は「腹が立ちました」と真っ向から否定した。車いすで外出し、レストランで肉料理を楽しみ、たばこも1日5本ほど吸っていると明かす一方、仕事への復帰については「もう女優じゃないです」と寂しそうに語った。なお、映画『トリック劇場版 ラストステージ』(2014年)には写真のみで登場している。

2018年8月10日午後2時ごろ、心不全のため東京都内で死去した。92歳。家族にみとられての最期で、亡くなる前日までふだんどおりの生活を送り、好きなたばこも楽しんでいたと報じられた。訃報は同年8月23日に公表され、葬儀は近親者のみで営まれた。戒名は「藝凛院慈雲公錦大姉」。芸能界を離れて時間がたっていることなどから、しのぶ会は開かれなかった。

『ぼくのおばあちゃん』とギネス記録[編集]

『ぼくのおばあちゃん』は、なかむらみつるの絵本的な原作をもとに、榊英雄が監督・脚本を手がけた123分の人間ドラマである。住宅メーカーのトップ営業マン・智宏(岡本健一)が、仕事に追われて家族を顧みない日々の中で、幼いころ自分を育ててくれた祖母(菅井きん)との思い出をたどり、家族の絆を取り戻していく。撮影は2007年10月に愛媛県大洲市で行われ、阿部サダヲ、柳葉敏郎、寺島進、船越英一郎らが共演。この作品が遺作となった深浦加奈子も八百屋のおかみ役で出演している。

公開初日の2008年12月6日、東京・新宿のテアトル新宿での舞台あいさつでは、孫役の岡本健一に手を引かれて登壇。寺島進から「恋する乙女」のようだとからかわれて会場が笑いに包まれた。初主演について菅井は、うれしいというよりも心配だったと明かしつつ「私なりに頑張りました」と語った。この時点で、まもなく曾孫が生まれる「ひいおばあちゃん」予備軍だったことも明かしている。

この作品で菅井は「世界最高齢の映画主演女優」としてギネスに認定された。黒澤明や成瀬巳喜男の映画で半世紀以上脇を固めてきた女優の、初めての、そして唯一の主演映画である。監督の榊英雄は訃報に際し、撮影で悩んでいたときに励まされたことや、食事会でステーキをぺろりと平らげて「映画監督は体力よ!」と言われた思い出を明かしている。

主な出演作[編集]

映画[編集]

公開年 作品 役名 備考
1951年 風にそよぐ葦 映画デビュー、東横映画
1952年 生きる 陳情の主婦 黒澤明監督
1954年 ゴジラ 大沢婦人代議士 本多猪四郎監督
1955年 愛のお荷物 野党の婦人議員 川島雄三監督
1956年 女囚と共に 斎藤刑務官
1957年 幕末太陽傳 やり手・おくま 川島雄三監督
1958年 張込み 下岡満子 野村芳太郎監督
1960年 悪い奴ほどよく眠る 和田の妻 黒澤明監督
1960年 女が階段を上る時 下着屋の勝子 成瀬巳喜男監督
1961年 豚と軍艦 ふみ 今村昌平監督
1962年 キューポラのある街 美代 浦山桐郎監督
1963年 天国と地獄 麻薬患者 黒澤明監督
1963年 下町の太陽 のぶ江 山田洋次監督
1965年 怪談 村の女 小林正樹監督
1965年 赤ひげ 長次の母 黒澤明監督
1968年 肉弾 軍曹のおかみさん 岡本喜八監督
1970年 どですかでん おくにさん 黒澤明監督
1974年 砂の器 山下妙 野村芳太郎監督
1974年 サンダカン八番娼館 望郷 ペナンから帰った女 熊井啓監督
1977年 八甲田山 斉藤伍長の伯母
1979年 復讐するは我にあり 被告の母 今村昌平監督
1984年 お葬式 雨宮きく江 伊丹十三監督。日本アカデミー賞最優秀助演女優賞
1984年 必殺! THE HISSATSU 中村せん 以後『必殺』劇場版に出演
1987年 ハチ公物語 旅館の女将
1988年 父 日暮マツ 木下恵介監督
1990年 あげまん 養母 伊丹十三監督
1995年 深い河 塚田の妻 熊井啓監督
1996年 必殺! 主水死す 中村せん
2004年 理由 片倉あえ子 大林宣彦監督
2007年 黄色い涙 阿部よね
2008年 ぼくのおばあちゃん 村田みさお 82歳で初主演。ギネス認定
2010年 春との旅 金本恵子 小林政広監督
2010年 瞬 またたき 老婦人

テレビドラマ[編集]

  • 1969年『一の糸』(よし) - NHK大河ドラマ
  • 1971年『時間ですよ』
  • 1973年 - 『太陽にほえろ!』(柴田たき) - ジーパン刑事の母。第39話では別役で出演
  • 1973年 - 1990年代『必殺』シリーズ(中村せん) - 『必殺仕置人』から主水シリーズに出演
  • 1975年『水戸黄門』第6部(雑賀常)
  • 1977年『松本清張シリーズ・棲息分布』(根本安雄の母) - NHK
  • 1982年『刑事ヨロシク』
  • 1985年『うちの子にかぎって…』(荒牧先生)
  • 1989年『八百八町夢日記』(おかな)
  • 1991年 - 1997年『七人の女弁護士』(綾小路桜子)
  • 1993年『天下を獲った男 豊臣秀吉』(大政所)
  • 1994年『家なき子』第1シリーズ(田畑光江)
  • 2000年『トリック』第1シリーズ(霧島澄子)
  • 2004年『御宿かわせみ 第二章』(およね) - NHK
  • 2008年『めぞん一刻』(五代ゆかり) - テレビ朝日
  • 2010年『龍馬伝』(武市智) - NHK大河ドラマ。最後のテレビドラマ出演
  • そのほか連続テレビ小説『あぐり』『瞳』、大河ドラマ『いのち』『功名が辻』など

バラエティ[編集]

  • 『タモリのボキャブラ天国』『タモリのスーパーボキャブラ天国』
  • 『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』
  • 『ウッチャンナンチャンのやるならやらねば!』『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』
  • 『とんねるずのみなさんのおかげです』
  • 『マジカル頭脳パワー!!』『平成教育委員会』『世界・ふしぎ発見!』
  • 『行列のできる法律相談所』『午後は○○おもいッきりテレビ』『鉄矢のとんからりん』

受賞歴[編集]

  • 1984年 第9回報知映画賞 最優秀助演女優賞(『お葬式』)
  • 1985年 第6回ヨコハマ映画祭 助演女優賞(『お葬式』)
  • 1985年 第8回日本アカデミー賞 最優秀助演女優賞(『お葬式』『必殺! THE HISSATSU』)
  • 1990年 紫綬褒章
  • 1996年 勲四等宝冠章
  • 2008年 ギネス世界記録「世界最高齢の映画主演女優」(『ぼくのおばあちゃん』)

人物・エピソード[編集]

名監督たちとの思い出[編集]

2003年に雑誌のインタビューで語った撮影現場の話は、昭和映画の貴重な証言になっている。

  • 黒澤明:「黒澤組は恐ろしい所だから気をつけろ」と先輩に脅されて臨んだ『生きる』の現場。黒澤は男性の俳優やスタッフには厳しかったが、女性や子どもには優しかったという。雨の場面では赤ん坊を背負ったまま濡れる予定が、監督が赤ん坊をかわいそうがって、菅井一人がずぶ濡れになった。昼休みのお茶の席では「作家だって原稿を何度も書き直す。NGを恥ずかしがることはない」という趣旨の言葉をかけられたという。
  • 幻の『七人の侍』:『生きる』の撮影中、黒澤から「次の作品で君の役を書いておいた」と告げられ、周囲にうらやましがられた。その次回作が『七人の侍』だったが、病気で出演できず大いに悔しがった。のちにこっそり完成作を見に行くと、その役は川で倒れて背中に槍が刺さる女性だったと笑って明かしている。
  • 『どですかでん』の黒澤:狭いセットの四方にカメラレールを敷いた撮影で照明係が足りなくなると、黒澤監督みずから照明の手伝いを始めたという。本人いわく「意外とマメな人」。
  • 木下恵介:「役者は小道具の一つ」と公言しながら、照明テストでは俳優をセットに立たせず、スタッフが代わりに立ってくれた。『父』では鹿児島弁に苦戦し、監督に叱られた。
  • 成瀬巳喜男:とても静かな人だったが、絵コンテを絶対にスクリプターに見せなかったという。逆に黒澤明は絵コンテを役者全員に配っていた。
  • 川島雄三:『幕末太陽傳』の入浴シーンでは、当時チーフ助監督だった今村昌平から相談を受け、水着にかつらという姿で湯船に入った。本人も「相当おかしい」と振り返っている。
  • 伊丹十三:演技指導はきっちりしていたが、もともと役に合う俳優を選んで型にはめない監督だった、と黒澤と比べて評している。

女優としての姿勢[編集]

  • 40歳ごろまでは「うまい役者になろう」と努力していたが、そこから「自然に振る舞うのが一番」と考えが変わったという。
  • 先輩の沢村貞子と整形の話になった際、鼻を高くしたいと思ったこともあると打ち明けると、沢村に真顔で止められた。理由は「シワ一本ギャラのもと」。以来、鏡を見るたびにこの言葉を唱えていたという。
  • 『サンダカン八番娼館 望郷』で共演した田中絹代は、衣装にしわが寄らないよう休憩中も座らず、血管を浮き上がらせるために腕に輪ゴムを巻いていたという。菅井はその徹底したプロ意識に感心していた。原節子については、スターとして距離はあったが、メイク室で話すと気さくで、とにかく美しかったと語っている。
  • 1956年の『女囚と共に』の撮影は、子どもを産んで5か月ほどのころ。2、3日の予定が延びに延び、監督に直訴して一晩だけ帰宅を許され、新幹線もない時代に夜行列車で東京と現場を往復したという。
  • 俳優人生を振り返って「才能だけでは決まらない、チャンスとそれをどう生かすか」という趣旨の言葉を残している。

素顔[編集]

  • 素顔は上品で周囲に気を配る人で、『必殺』の現場では「お母さん」と呼ばれて慕われていた。芸能リポーターの城下尊之も「下世話なことをしゃべりながらも上品」と評している。
  • 料理は大の苦手と公言していた。
  • 大の愛煙家で、晩年も1日数本のたばこを楽しんでいた。
  • 肉料理が好きで、亡くなる直前まで肉をよく食べていたと伝えられる。
  • 『必殺』のせん役が板につきすぎて、娘の縁談に差し障るのではと心配し、降板を申し出たことがある。娘が無事に結婚したため、申し出は撤回されたという。

家族[編集]

夫は映画プロデューサーの佐藤正之。劇団俳優座の出身で、『砂の器』『八甲田山』などの製作に携わった。佐藤との間に一女をもうけ、佐藤は1996年に亡くなっている。その後は娘夫婦の家族と暮らし、2008年の時点で孫は女の子ばかりだったという。2014年ごろには曾孫もいた。2018年の葬儀では娘婿が喪主を務めた。

炎上とバズ[編集]

  • 「婿殿!」の流行:『必殺』シリーズのせんの決め台詞「婿殿!」は流行語となり、2018年の訃報でもニュース番組でこの場面が繰り返し流された。
  • スカイダイビング:『タモリのボキャブラ天国』でのスカイダイビング挑戦は、高齢女優が体を張る姿として話題を呼び、バラエティでの人気を決定づけた。
  • エリザベス女王に扮したCM:2009年、資生堂の男性化粧品「ウーノ フォグバー」のCMでエリザベス女王に扮し、80代の大胆なコスプレとして注目された。
  • 認知症報道への反論:2014年5月に女性週刊誌が「認知症で要介護」と報じた件について、同年10月に本人が取材で否定。「弱い者いじめだと思って」と怒りを語った。

余談[編集]

  • 姑「せん」と妻「りつ」の名前は、合わせると「戦慄」になるように付けられた。
  • 1967年の『007は二度死ぬ』にも誘われたが、裸で海に潜る海女の役だったため断ったという。
  • 『ゴジラ』(1954年)の婦人代議士の役名は、資料によって「大沢」と「小沢」の2説がある。
  • 『トリック』の霊能力者・霧島澄子役は、2010年の劇場版でも映像で登場し、2014年の『トリック劇場版 ラストステージ』では「スンガイ=キン」という名前で写真のみの出演を果たした。
  • 女優を反対した父は「女優は美しい人がなるもの」と考えていたが、娘はその「美人女優」とは真逆の道で60年以上活躍することになった。

外部リンク[編集]

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