| 菅原文太 すがわら ぶんた / Bunta Sugawara | |
|---|---|
![]() 講演する菅原文太(2012年11月、出典:デイリースポーツ 2014年12月1日付訃報記事) | |
| 本名 | 菅原文太 |
| 誕生日 | 1933年8月16日 |
| 死亡日 | 2014年11月28日 |
| 死亡年齢 | 81歳(数え年82) |
| 出身地 | 宮城県仙台市 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 宮城県仙台第一高等学校卒業、早稲田大学第二法学部中退 |
| ジャンル | 映画、テレビドラマ、声優、ラジオ |
| 活動期間 | 1956年 - 2012年 |
| デビューアルバム | 1956年 映画『哀愁の街に霧が降る』(東宝) |
| 家族 | 妻:文子、長男:菅原加織(俳優、2001年死去)、娘2人 |
| 代表作 | 『現代やくざ 与太者の掟』『仁義なき戦い』シリーズ『県警対組織暴力』『トラック野郎』シリーズ『太陽を盗んだ男』『獅子の時代』『わたしのグランパ』『千と千尋の神隠し』(声) |
| 関連活動 | 農業(岐阜県・山梨県)、ラジオパーソナリティ、国民運動グループ「いのちの党」代表 |
| その他 | ブルーリボン賞主演男優賞、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞(『太陽を盗んだ男』) |
概要[編集]
菅原文太(すがわら ぶんた、1933年8月16日 - 2014年11月28日)とは、宮城県仙台市出身の俳優である。モデル、新東宝、松竹と回り道を重ね、東映で39歳のときに主演した『仁義なき戦い』の広能昌三役で大ブレイク。続く『トラック野郎』シリーズの一番星桃次郎で国民的スターになった。晩年は俳優業から退き、有機農業と社会的な発言に力を注いだ。
詳細[編集]
遅咲きの「ハンサムタワー」[編集]
菅原文太のキャリアは、とにかく回り道が長い。早稲田大学在学中に劇団四季の1期生として入団し、大学は1955年に中退。1956年に東宝の『哀愁の街に霧が降る』で映画デビューし、翌1957年には岡田眞澄らと日本初の男性専門モデルクラブ「SOSモデルエージェンシー」を立ち上げ、ファッションモデルとして働いた。
1958年に新東宝へ入社すると、長身の若手俳優をまとめた「ハンサムタワーズ」の一人として売り出された。しかし新東宝は1961年に倒産。移った松竹でも約5年間、脇役ばかりで主演作は一本もなかった。のちのスターの姿からは想像しにくいが、30代半ばまでの文太は「背の高い二枚目の一人」にすぎなかったのである。
東映、そして実録路線の顔へ[編集]
転機は1967年、元やくざで俳優の安藤昇の紹介による東映への移籍だった。同年の『網走番外地 吹雪の斗争』で高倉健と初共演し、1969年の『現代やくざ 与太者の掟』で8年ぶりの主演をつかむ。様式美の任侠映画とは違う、現実的な「ワル」を描いたこの「現代やくざ」シリーズは、のちの実録映画の先駆けと評される。
そして1973年、深作欣二監督の『仁義なき戦い』で広島のやくざ・広能昌三を演じ、一気に東映の看板スターへ駆け上がった。このとき39歳。東映は高倉健らの任侠路線から、文太を顔とする実録路線へと舵を切っていく。
硬派から「一番星」へ[編集]
シリアスなやくざ映画の顔になった文太が、180度違う顔を見せたのが1975年に始まる『トラック野郎』シリーズである。デコレーションでギラギラに飾った大型トラック「一番星号」を駆る星桃次郎は、惚れっぽくて喧嘩っ早く、毎回マドンナにふられる三枚目。松竹の『男はつらいよ』に対抗する東映の盆・正月映画として、1979年までに全10作が作られた。
一方で、1980年にはNHK大河ドラマ『獅子の時代』で主演を務め、テレビでも存在感を発揮した。2001年には宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』で釜爺の声を担当し、初めて声優に挑戦。強面のやくざ、ひょうきんなトラック野郎、そして湯屋のボイラー室の六本腕の老人と、世代によって「文太」のイメージがまるで違うのも、この人の面白いところである。
晩年は「農」と「言葉」[編集]
1998年に岐阜県清見村(現・高山市)へ移住し、2009年からは山梨県で耕作放棄地を使った農業を始めた。東日本大震災のあと、2012年に事実上の俳優引退を表明。以後は無農薬有機農業を営みながら、原発政策や特定秘密保護法への反対、平和を訴える発言を続けた。
2014年11月1日の沖縄県知事選で応援演説に立ったのが、最後の公の場となった。同年11月28日、転移性肝がんによる肝不全のため死去。81歳だった。同じ月の11月10日に亡くなった高倉健に続く訃報で、東映の岡田裕介グループ会長は「また一本の矢が折れました」とコメントした。
経歴[編集]
1933年 - 1955年:仙台から早稲田へ[編集]
1933年8月16日、宮城県仙台市に生まれる。父・菅原芳助は河北新報社の記者で、「狭間二郎」の名で洋画家・詩人としても活動していた。4歳から小学4年までは東京で育ち、1943年に父の実家がある宮城県一迫町へ疎開。旧制築館中学校を卒業した。
1949年に宮城県仙台第一高等学校へ入学し、新聞部に所属した。一学年下には、のちの作家・劇作家井上ひさしがいた。二人はのちに親友となる。卒業後は早稲田大学第二法学部へ進んだが、1955年に中退している。この間の1954年、劇団四季の1期生として入団し、端役で舞台に立った。
1956年 - 1966年:モデル、新東宝、松竹[編集]
1956年、東宝『哀愁の街に霧が降る』で映画デビュー。1957年には岡田眞澄らとSOSモデルエージェンシーを設立し、ファッションモデルとして活動した。1958年、新東宝に入社。『白線秘密地帯』(伍東役)で本格的に映画出演を始め、1959年の『海女の化物屋敷』(野々宮刑事役)で映画初主演を果たした。
新東宝時代には労働争議で組合側に立ち、会社側とやり合ったこともある。1961年に新東宝が倒産すると松竹へ移籍。木下惠介監督の『死闘の伝説』(1963年)などに出演したが、約5年の在籍中、主演の機会は回ってこなかった。
1967年 - 1972年:東映移籍と「現代やくざ」[編集]
1967年、安藤昇のすすめで東映へ移籍。同年の『網走番外地 吹雪の斗争』で高倉健と初めて共演した。1969年の『現代やくざ 与太者の掟』(勝又五郎役)が東映での初主演作で、ここから「現代やくざ」シリーズが始まる。1970年には「東映カレンダー」の1月を梅宮辰夫と飾った。
1971年からは『懲役太郎 まむしの兄弟』に始まる「まむしの兄弟」シリーズ、さらに「関東テキヤ一家」シリーズなどで主演を重ね、1972年には東映版『木枯し紋次郎』で紋次郎を演じた。主演スターの地位は固まりつつあったが、決定打はまだだった。
1973年 - 1979年:『仁義なき戦い』と『トラック野郎』[編集]
1973年1月、『仁義なき戦い』が公開される。戦後の広島で起きた抗争を、元組長・美能幸三の手記をもとに作家・飯干晃一が再構成したノンフィクションが原作で、脚本は笠原和夫、監督は深作欣二。手持ちカメラで暴力を生々しく撮ったこの作品は大ヒットし、1974年の『完結篇』まで全5部作が作られた。
深作とは計8作品で組み、1975年の『県警対組織暴力』(久能徳松役)は二人のコンビの集大成と評される。同年には『大脱獄』にも主演し、この時期の活躍でブルーリボン賞主演男優賞を受けた。そして1975年夏、鈴木則文監督の『トラック野郎・御意見無用』が公開され、1979年までに全10作のシリーズとなった。
1979年には東宝・長谷川和彦監督の『太陽を盗んだ男』に出演。原爆を自作した中学教師(沢田研二)を追う山下満州男警部を演じ、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受けた。
1980年 - 1997年:大河ドラマと映画の大作[編集]
1980年、NHK大河ドラマ『獅子の時代』に主演し、会津藩士・平沼銑次を演じた。以後も大河ドラマには、『武田信玄』(1988年、武田信玄の重臣・板垣信方役)、『徳川慶喜』(1998年、徳川斉昭役)、『元禄繚乱』(1999年、細川綱利役)、『利家とまつ』(2002年、前田利昌役)と、計5作品に出演している。
映画では1981年に『青春の門』(伊吹重蔵役)と『炎のごとく』に主演。市川崑監督作品にも出演し、1985年の『ビルマの竪琴』では三角山守備隊隊長を演じた。同じく市川監督の『映画女優』(1987年)では、吉永小百合が演じる田中絹代の相手役として、映画監督溝口健二をモデルにした人物に扮している。テレビでは1981年の『警視庁殺人課』で主演し、『北の国から'92巣立ち』、TBSの『中卒・東大一直線』(1984年)などにも出演した。
1998年 - 2011年:岐阜移住、声優、農業[編集]
1998年、岐阜県清見村へ移住し、農業や講演活動に取り組み始めた。2001年、『千と千尋の神隠し』で釜爺の声を担当。2001年10月には、俳優として活動していた長男・菅原加織が小田急線の踏切事故で亡くなるという悲劇に見舞われた。
2003年にはテレビドラマで活動を再開し、映画『わたしのグランパ』(五代謙三役)が最後の主演映画となった。2005年からはニッポン放送でラジオ番組『菅原文太 日本人の底力』のパーソナリティを務めた。2006年にはスタジオジブリの『ゲド戦記』でハイタカ(ゲド)の声を担当している。2007年にはNHKドラマ『ハゲタカ』に出演した。
2009年、山梨県で耕作放棄地を借りて農業を始め、農業生産法人「竜土自然農園 おひさまの里」を設立した。この頃、膀胱がんの治療も受けていた。
2012年 - 2014年:引退表明、いのちの党、最期[編集]
2011年の東日本大震災に心を痛めた文太は、出演予定だった山田洋次監督の映画『東京家族』を降板。2012年に事実上の俳優引退を表明し、同年12月には国民運動グループ「いのちの党」を結成して代表に就いた。ただし政界への進出は否定している。同年の細田守監督のアニメ映画『おおかみこどもの雨と雪』で農家の老人・韮崎の声を担当し、これが最後の出演作となった。
2014年6月には、体調が万全でない中で、かつての仲間・川谷拓三の追悼座談会に出席した。11月1日、沖縄県知事選で翁長雄志の応援演説に立ち、『仁義なき戦い』のセリフを引用して聴衆を沸かせた。これが最後の公の場となり、その後入院。11月28日、東京都内の病院で転移性肝がんによる肝不全のため死去した。81歳。訃報は12月1日に明らかになり、12月7日に埼玉県内で予定されていた講演は中止された。
主な出演作[編集]
映画[編集]
| 公開年 | 作品 | 配給・監督 | 役名・備考 |
|---|---|---|---|
| 1956年 | 哀愁の街に霧が降る | 東宝 | 映画デビュー作 |
| 1958年 | 白線秘密地帯 | 新東宝 | 伍東 |
| 1959年 | 海女の化物屋敷 | 新東宝・曲谷守平 | 野々宮刑事。映画初主演 |
| 1963年 | 死闘の伝説 | 松竹・木下惠介 | 松竹時代の出演作 |
| 1967年 | 網走番外地 吹雪の斗争 | 東映 | 高倉健と初共演 |
| 1969年 | 現代やくざ 与太者の掟 | 東映 | 勝又五郎。東映初主演 |
| 1971年 | 懲役太郎 まむしの兄弟 | 東映 | 「まむしの兄弟」シリーズ第1作 |
| 1972年 | 木枯し紋次郎 | 東映 | 紋次郎 |
| 1973年 | 仁義なき戦い | 東映・深作欣二 | 広能昌三。以後シリーズ全5部作 |
| 1975年 | 県警対組織暴力 | 東映・深作欣二 | 久能徳松 |
| 1975年 | 大脱獄 | 東映 | 国岩邦造 |
| 1975年 | トラック野郎・御意見無用 | 東映・鈴木則文 | 星桃次郎。シリーズ第1作 |
| 1978年 | トラック野郎・突撃一番星 | 東映・鈴木則文 | 星桃次郎。シリーズ第7作 |
| 1979年 | 太陽を盗んだ男 | 東宝・長谷川和彦 | 山下満州男警部 |
| 1981年 | 青春の門 | 東映 | 伊吹重蔵 |
| 1985年 | ビルマの竪琴 | 東宝・市川崑 | 三角山守備隊隊長 |
| 1987年 | 映画女優 | 東宝・市川崑 | 溝口健二がモデルの映画監督 |
| 2001年 | 千と千尋の神隠し | 東宝・宮崎駿 | 釜爺(声)。初の声優 |
| 2003年 | わたしのグランパ | 東映 | 五代謙三。最後の主演作 |
| 2006年 | ゲド戦記 | 東宝・宮崎吾朗 | ハイタカ(声) |
| 2012年 | おおかみこどもの雨と雪 | 東宝・細田守 | 韮崎(声)。遺作 |
生涯の出演映画は220本以上、主演映画は70本近くにのぼるとされる。
テレビドラマ[編集]
- 1980年 『獅子の時代』(NHK大河ドラマ) - 平沼銑次(主演)
- 1981年 『警視庁殺人課』 - 主演
- 1984年 『中卒・東大一直線』(TBS)
- 1988年 『武田信玄』(NHK大河ドラマ) - 板垣信方
- 1992年 『北の国から'92巣立ち』(フジテレビ)
- 1998年 『徳川慶喜』(NHK大河ドラマ) - 徳川斉昭
- 1999年 『元禄繚乱』(NHK大河ドラマ) - 細川綱利
- 2002年 『利家とまつ』(NHK大河ドラマ) - 前田利昌
- 2007年 『ハゲタカ』(NHK)
- このほか『幸福の黄色いハンカチ』『高原へいらっしゃい』など
ラジオ[編集]
- 2005年 - 『菅原文太 日本人の底力』(ニッポン放送) - パーソナリティ
代表作の解説[編集]
『仁義なき戦い』シリーズ[編集]
1972年、作家の飯干晃一が、元広島やくざの組長・美能幸三が網走刑務所で書いた手記を再構成して週刊誌に連載し、話題を呼んだ。別の企画で飯干を訪ねた脚本家・笠原和夫とプロデューサー・日下部五郎がこの原稿を知ったのが映画化の発端である。美能本人は当初映画化に反対したが、笠原が戦時中の海兵団の後輩だとわかって取材が進んだという。抗争の全体像は複雑すぎたため、物語は発端となった呉の抗争に絞られた。
監督にはプロデューサーの俊藤浩滋が深作欣二を指名した。深作はシナリオを読み、「おもしろい、そのままやらせてもらいます」と快諾したとされる。文太が演じた広能昌三は、組と組、親分と子分の裏切りに翻弄されながら生き延びていく男で、主人公でありながら決して英雄ではない。この「かっこよくなさ」が、それまでの任侠映画のヒーロー像を塗り替えた。
笠原は第4作『頂上作戦』(1974年)で降板し、第5作『完結篇』は高田宏治が脚本を担当した。シリーズはこの5部作でひとつの大きな物語を成している。その後も文太主演の『新仁義なき戦い』シリーズが作られ、東映の実録路線は1970年代の映画界を席巻した。2023年には東映チャンネルで『仁義なき戦い』4Kリマスター版が放送されている。
『トラック野郎』シリーズ[編集]
第1作『トラック野郎・御意見無用』は1975年公開。監督は鈴木則文で、主人公の星桃次郎は11トントラック「一番星号」に全財産をつぎ込む独身のトラック運転手である。相棒は愛川欽也演じる「やもめのジョナサン」こと松下金造で、妻子持ちなのに「やもめ」を名乗るという、とぼけた設定だ。第1作のマドンナは中島ゆたかが演じた東北のドライブインのウェイトレス・洋子で、ライバルとの競争、喧嘩、マドンナへの一目惚れと失恋という、シリーズのお約束がここで確立した。
ヒーローがマドンナに惚れてはふられる旅のコメディという骨組みは、明らかに『男はつらいよ』を意識している。桃次郎が「若くして死んだ兄のいる次男坊」という設定まで寅さんと同じだ。ただ、こちらは工事中の橋をトラックで飛び越えたり、崖沿いを爆走したり、爆発の中を突っ切ったりと、アクションがとにかく派手だった。
1978年の第7作『突撃一番星』は、同年に日本で公開されて大ヒットした『未知との遭遇』によるUFOブームをパロディにしたもので、オープニングでは一番星号が宇宙を飛び、UFOと交信する。マドンナは原田美枝子。シリーズは1979年までに全10作が作られた。公開50周年の2025年には、青島文化教材社から1/32スケールの「一番星号」のプラモデル(税込2万1780円)が発売され、根強い人気を見せている。
『獅子の時代』[編集]
1980年のNHK大河ドラマ『獅子の時代』で、文太は会津藩士・平沼銑次を演じて主演した。幕末から明治にかけての激動を、会津出身の架空の男の目から描いた作品である。東映のスクリーンで暴れていた文太が、日曜夜のお茶の間の主役になったことは、俳優としての幅の広さを示す出来事だった。
『千と千尋の神隠し』の釜爺[編集]
2001年公開の宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』で、文太は油屋のボイラー室で働く六本腕の老人・釜爺の声を担当した。これが初めての声優の仕事である。ぶっきらぼうだが、迷い込んだ千尋をさりげなく助ける釜爺の人柄は、文太の低くしゃがれた声とよく合っていた。若い世代にとっては、「仁義なき戦いの人」より「釜爺の声の人」として知られていることも少なくない。
人物・エピソード[編集]
- 尊敬する人は三船敏郎:三船敏郎を尊敬していたことで知られる。
- 井上ひさしとの友情:仙台一高の一学年後輩だった井上ひさしとは、生涯の親友だった。
- 深作欣二の最期に立ち会う:盟友の深作欣二の臨終に立ち会い、葬儀では弔辞を読んだ。
- 明石家さんまが大ファン:明石家さんまは文太の大ファンであることを公言していた。
- 過去を語らない人:自分の昔話を好まず、回顧談や自伝の依頼には応じなかった。その一方で、映画界の友人や仲間が亡くなった際の追悼コメントの取材は断らなかったという。
- スターでも電車通勤:元東映宣伝部長の福永邦昭は、文太がスターになってからも電車で撮影所に通い、時間に正確だったと証言している。酒は強くなかったが、興味本位で新宿ゴールデン街に通っていたともいう。
- 会社とも喧嘩した:新東宝時代には労働争議で組合側に立ち、東映でも上層部と衝突することがあった。
- 「げんこつおやじの会」:若い女性ばかりを起用する芸能・メディアの風潮を批判して「げんこつおやじの会」を立ち上げたことがある。
- 学校の理事長も:埼玉県の自由の森学園で、1年間理事長を務めた。
- 「立ちションしたいんだよ」:膀胱がんが見つかった際、膀胱の全摘手術を拒み、膀胱鏡による切除と抗がん剤・放射線の併用療法を選んだ。医師・鎌田實の著書によると、理由を問われて「最後まで立ちションしたいんだよ!」と笑って答えたという。結果的に、当初の予想を大きく超える約7年半を生きた。
- 飛行機嫌い:飛行機が苦手で、福岡の太宰府天満宮へ墓参りに行くときは新幹線を使い、京都で一泊してから向かっていたという。
社会的な発言と活動[編集]
晩年の文太は、俳優としてより、社会に向けて発言する人として報道されることが多くなった。2005年の衆議院選挙では亀井静香を応援。農業に取り組むようになってからは、食の安全や命の大切さを講演などで訴えた。東日本大震災のあとには、鎌田實とともに福島の人々を励ましに訪れている。
2012年12月に結成した「いのちの党」は政党ではなく国民運動グループで、原発や特定秘密保護法案への反対を掲げた。文太自身は政界への進出を否定している。2014年11月1日の沖縄県知事選では翁長雄志陣営の応援演説に立ち、『仁義なき戦い』のセリフを引用して話題になった。
死後、喪主を務めた妻・文子は「小さな種を蒔いて去りました」とコメントし、その種として無農薬有機農業を広めることと、日本が再び戦争をしないことへの願いを挙げた。共演者の吉永小百合も、近年の文太の社会的な発言が心に響いていたと語っている。
家族[編集]
妻・文子[編集]
妻の文子は、文太のマネージャーも務めた。『週刊文春』は二人を早稲田大学時代からの「同志」と紹介している。文太の死後は喪主を務め、山梨県北杜市の農業法人の役員として、夫の遺志を継いで有機農業に取り組んでいると報じられている。2026年に出版された東映宣伝部の舞台裏をまとめた本『実録!東映三角マーク宣伝部』(立東舎)にも、文子がコメントを寄せた。
長男・菅原加織[編集]
長男の菅原加織は、高校在学中に俳優デビューした。2002年の大河ドラマ『利家とまつ』で父と共演する予定だったが、2001年10月、小田急線の踏切で電車にはねられ、31歳で亡くなった。告別式で文太は報道陣に口を開かなかったと伝えられている。加織の遺骨は、知人の紹介で福岡県の太宰府天満宮祖霊殿の納骨堂に納められ、文太は多いときで年に数回墓参りに訪れていた。
そのほか[編集]
ほかに娘が2人いる。また死後、生前に交流のあった人物の証言で、双子の女児を里子として迎えていたことも明らかになった。
死去[編集]
2014年11月28日、東京都内の病院で、転移性肝がんによる肝不全のため死去した。満81歳。晩年は福岡市内に住んでいたとされ、11月30日、長男の眠る太宰府天満宮の祖霊殿で、7人による神道式の家族葬が営まれた。訃報は葬儀を終えた12月1日に公表された。
この年の11月10日には、東映の任侠映画の看板だった高倉健が83歳で亡くなっており、わずか18日の間に、東映の任侠・実録路線を代表する二人が相次いで世を去ったことになる。東映の岡田裕介グループ会長は「また一本の矢が折れました」とコメントし、東映として「折れない三本目の矢」になる決意を示した。千葉真一、松方弘樹、梅宮辰夫、愛川欽也らも追悼の言葉を寄せている。
受賞歴[編集]
- 1975年度 ブルーリボン賞 主演男優賞(『県警対組織暴力』ほか)
- 1980年 第3回日本アカデミー賞 最優秀助演男優賞(『太陽を盗んだ男』)
評価・影響[編集]
文太の最大の功績は、東映の任侠映画を「実録路線」へと塗り替えたことにある。高倉健が着流しで耐えに耐えて最後に斬り込む、様式美のヒーローだったとすれば、文太の広能昌三は、裏切りと打算が渦巻く戦後社会でもがく生身の男だった。この二人の対照は、東映という会社の二つの時代をそのまま映している。
『トラック野郎』シリーズは、デコレーショントラックの文化を全国に広めた作品としても語られる。特撮監督の樋口真嗣らも、このシリーズのファンとして知られる。また、漫画『ONE PIECE』の海軍大将「赤犬」は、『仁義なき戦い』の頃の文太がモデルとされている。
没後も作品は繰り返し見直されている。2023年の生誕90年には、東映チャンネルで「生誕90年記念 菅原文太主演作特集」が組まれ、『仁義なき戦い』『県警対組織暴力』の4Kリマスター版や、初主演作『海女の化物屋敷』などが放送された。2025年には鎌田實の著書『うまいように死ぬ』で闘病の様子が紹介され、2026年にも『トラック野郎』の裏話を扱う記事や、東映宣伝部の証言集が出版されるなど、話題は尽きない。
余談[編集]
- 『仁義なき戦い』で大ブレイクしたのは39歳のとき。デビューから17年かかった、典型的な遅咲きのスターである。
- 映画初主演作は、なんと怪奇映画『海女の化物屋敷』(1959年)だった。
- 『トラック野郎』の主人公・桃次郎は、『男はつらいよ』の寅さんと同じく「兄を若くして亡くした次男坊」という設定。
- 『おおかみこどもの雨と雪』で演じた役名は「韮崎」。奇しくも、文太が農業を始めた山梨県の地名と同じである。
- 2013年にはCMではるな愛と親子役を演じた。
- 長男の遺骨が太宰府天満宮に納められた理由について、菅原道真と同じ「菅原」姓だからかどうかはわかっていない。
