| 安藤昇 あんどう のぼる / Noboru Ando | |
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![]() 安藤昇(出典:英語版ウィキペディア「Noboru Ando」掲載画像) | |
![]() 映画『血と掟』(1965年、松竹)より(出典:PR TIMES「安藤昇 生誕100年記念特集」リリース、(C)1965松竹株式会社) | |
| 本名 | 安藤昇 |
| 誕生日 | 1926年5月24日 |
| 死亡日 | 2015年12月16日 |
| 死亡年齢 | 89歳(数え年90) |
| 出身地 | 東京都(東京府豊多摩郡東大久保、現・新宿区) |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 法政大学予科中退 |
| ジャンル | 映画(やくざ映画・実録映画)、テレビドラマ、歌、著述 |
| 活動期間 | 1965年 - 2005年(俳優) |
| デビューアルバム | 1965年 映画『血と掟』(主演デビュー)/歌手デビュー曲『新宿無情』(1965年) |
| 代表作 | 『血と掟』『男の顔は履歴書』『懲役十八年』『網走番外地 吹雪の斗争』『やくざと抗争 実録安藤組』『実録安藤組 襲撃篇』『暴力街』『新仁義なき戦い』『仁義の墓場』『総長の首』 |
| 関連活動 | 作家(自伝・エッセイ多数)、作詞・作曲・歌手、映画企画・プロデュース・監修 |
| その他 | 元・安藤組(株式会社東興業)組長。左頬に大きな刀傷がトレードマーク |
概要[編集]
安藤昇(あんどう のぼる、1926年5月24日 - 2015年12月16日)とは、日本の俳優・作家・歌手であり、戦後の渋谷で愚連隊「安藤組」(株式会社東興業)を率いた元組長である。1964年に組を解散したのち、翌1965年に自伝を原作とした映画『血と掟』で主演デビューし、松竹・東映のやくざ映画・実録映画で「本物」の凄みを持つスターとして活躍した。
詳細[編集]
「本物」がスクリーンに来た[編集]
安藤昇の最大の特徴は、なんといっても経歴そのものである。戦時中は海軍の予科練から伏龍特攻隊に志願し、戦後は大学予科を中退して愚連隊を結成、渋谷を拠点に「安藤組」を率いた。1958年の横井英樹襲撃事件で逮捕・服役し、出所後の1964年に組を解散。その翌年には映画俳優としてデビューするという、日本映画史でもほかに例を見ないルートをたどっている。俳優としての主演・出演作は60本前後にのぼり、晩年まで著述やプロデュースを続けた。
頬の傷というトレードマーク[編集]
安藤の顔を語るうえで欠かせないのが、左頬に走る大きな刀傷である。これは1949年、銀座の並木通りとみゆき通りの交差点付近での喧嘩で短刀によって切られたものとされる。ふつうなら俳優としてはハンディになりかねない傷だが、安藤の場合はむしろ「元やくざが本当にやくざを演じている」という説得力そのものとなった。映画評論家の山口猛は、この傷跡がスクリーンに「死の匂い」をもたらし、やくざ映画という虚構に異化作用を起こしたと分析している。
ヤクザと役者は一文字違い[編集]
安藤自身は、やくざと役者の関係について「やくざ」と「やくしゃ(役者)」はひらがなで一文字しか違わない、という趣旨のことを語っていたとされる。また「やくざは皆、生き延びるために役者でなければならない」という言葉も伝わっている。組織を率いた時代の駆け引きと、カメラの前での芝居をどこか地続きのものとして捉えていた点が、安藤という人物の面白さでもある。
生誕100年[編集]
2026年は安藤の生誕100年にあたり、同年5月にはCS東映チャンネルとCS衛星劇場が共同で「安藤昇 生誕100年記念特集」を放送した。衛星劇場ではデビュー作『血と掟』とその続編『やさぐれの掟』、『逃亡と掟』がテレビ初放送されるなど、没後10年を経ても再評価の動きは続いている。
経歴[編集]
生い立ちと戦争[編集]
1926年(大正15年)5月24日、東京府豊多摩郡東大久保(現在の東京都新宿区)に4人きょうだいの長男として生まれた。少年時代は横浜や満州の学校を転々としたが、素行の問題から退学を重ね、15歳で感化院、18歳で多摩少年院に送られている。
少年院在院中に海軍飛行予科練習生(予科練)の試験に合格し、恩赦で退院。三重海軍航空隊を経て予科練に入り、1945年(昭和20年)6月には志願して神奈川県久里浜の伏龍特攻隊に配属された。伏龍は潜水具を着けて海中から上陸用舟艇を攻撃する特攻部隊で、安藤も過酷な訓練を受けたが、配属から約2か月後に終戦を迎え、出撃することなく除隊した。この「一度は死を覚悟した」体験は、のちの安藤の人生観に大きな影響を与えたと多くの評伝で指摘されている。
愚連隊から安藤組へ[編集]
1946年に法政大学予科に入学するが、1947年から1948年ごろに中退。在学中から仲間と愚連隊を結成し、当初は新宿で勢力を広げようとしたが、激戦区だったため渋谷へ移った。
1952年(昭和27年)7月、渋谷区宇田川町に株式会社東興業を設立。マスコミはこれを「安藤組」と呼んだ。業務は不動産売買、興行、警備、用心棒、賭博などで、幹部には大学出身者や中退者が多かったとされる。安藤は背広の着用を推奨し、刺青・指詰め・薬物を禁じるなど、従来の博徒・テキヤとは一線を画す「都会的」な方針をとった。最盛期の規模については300人超、500人超、1000人超など資料によって幅がある。こうしたスタイルは当時の不良青年に人気を呼び、高校生や大学生まで出入りしていたといわれる。
組には「喧嘩の神様」と恐れられた花形敬や、のちに作家となる安部譲二らが名を連ねたことでも知られる。花形は1963年に33歳で死亡し、その生涯は本田靖春のノンフィクション『疵 花形敬とその時代』や映画で繰り返し描かれた。
横井英樹襲撃事件と服役[編集]
1958年(昭和33年)6月11日、安藤組は東洋郵船社長だった実業家・横井英樹の債務トラブルに関わり、銀座の事務所で横井と交渉した。横井が支払いを拒み挑発的な態度をとったことに安藤が激怒し、同日午後に組員が横井を銃撃、横井は重傷を負ったが一命を取り留めた。これが「横井英樹襲撃事件」である。
安藤は指名手配され、知人のもとを転々としながら約35日間逃亡したのち、神奈川県の葉山で逮捕された。花形ら幹部も相次いで逮捕され、安藤は実刑判決を受けて約6年間服役した。トップ不在の間に組員は激減し、縄張りも削られていったとされる。
解散と俳優転身[編集]
1964年に出所した安藤は、抗争で組員が命を落としたことや、その遺族との対話をきっかけに組の解散を決意し、同年12月9日に安藤組を解散した。
翌1965年、自身の手記を原作とする松竹映画『血と掟』(湯浅浪男監督)に本人役で主演。演技経験はなかったが、本人いわく報酬に惹かれて引き受けたという。同作は大ヒットし、その年の松竹配給収入で上位(一説には1位)を記録したとされる。これを受けて松竹と契約金2000万円ともいわれる専属契約を結び、同社系列で『やさぐれの掟』『逃亡と掟』『望郷と掟』などの「掟」シリーズ、加藤泰監督の『男の顔は履歴書』『阿片台地 地獄部隊突撃せよ』などに次々と出演した。
東映時代[編集]
1967年、プロデューサー俊藤浩滋の誘いで東映に移籍し、加藤泰監督の『懲役十八年』で東映初出演を果たす。当時の映画界には各社の専属俳優の引き抜きを禁じる「五社協定」があり、松竹との契約にも自動延長条項があったが、安藤は「そんなこと知るか」の一言で押し通したと伝えられる。東映では50本以上に出演し、高倉健主演の『網走番外地 吹雪の斗争』(1967年)、深作欣二監督の『日本暴力団 組長』(1969年)、『現代やくざ 人斬り与太』(1972年)、『新仁義なき戦い』(1974年)、『仁義の墓場』(1975年)などで存在感を示した。
1972年の『やくざと抗争』、1973年の『やくざと抗争 実録安藤組』『実録安藤組 襲撃篇』では、自らの過去や横井英樹襲撃事件を題材にした作品に主演している。1974年には五社英雄監督の『暴力街』で主演を務めた。
引退とその後[編集]
1979年、中島貞夫監督の『総長の首』を最後に俳優業をほぼ休止。以後は不動産事業、執筆、映画の企画・プロデュースに軸足を移した。1988年には花形敬を描いた東映映画『疵』(梶間俊一監督)を手がけ、1990年代後半からはVシネマへの特別出演や企画で再び名前がクレジットされるようになった。2002年には三池崇史監督の『実録・安藤昇侠道伝 烈火』を監修、同年の『実録・安藤組外伝 餓狼の掟』では企画を担当し現代の安藤昇役で出演。2005年の『渋谷物語』(東映ビデオ)への特別出演が最後の映画出演となった。
晩年は腎臓を患って透析を受けていたと報じられ、2015年12月に検査入院。同年12月16日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。89歳だった。
俳優としての特徴[編集]
演技より「存在」[編集]
安藤は芝居の訓練を受けないまま主演デビューしたため、いわゆる技巧派ではなかった。それでも起用され続けたのは、修羅場をくぐった人間だけが持つ凄み、そして意外なほどの色気と品の良さがスクリーンに映ったからだと評される。山口猛の評伝『映画俳優 安藤昇』では、助監督として接した安藤が若いスタッフにまで気を遣う人物だったことも記されている。
実録路線と「本人主演」[編集]
1973年に深作欣二の『仁義なき戦い』が公開され、東映は様式美の任侠映画から生々しい「実録路線」へと大きく舵を切る。安藤の『やくざと抗争 実録安藤組』『実録安藤組 襲撃篇』は、実在の事件を当事者本人が演じるという、実録路線の中でも極めて特殊なポジションの作品だった。本人が本人を演じるため、リアリティの面では他の追随を許さなかったといえる。
監督たちとの関係[編集]
松竹時代には加藤泰、野村芳太郎、マキノ雅弘ら、東映時代には深作欣二、石井輝男、工藤栄一、五社英雄、佐藤純彌、中島貞夫らの作品に出演した。とりわけ五社英雄とは義兄弟と認め合う間柄で、1970年のフジテレビ系時代劇『新・三匹の侍』でも五社の演出のもと主演を務めている。一方、石井輝男監督の『網走番外地 吹雪の斗争』では撮影中に監督と衝突し、無断で現場を離れたとされる。それでも石井はその後も安藤と仕事を続けた。
海外での再評価[編集]
加藤泰監督の『男の顔は履歴書』(1966年)は、戦後の闇市を舞台に医師・雨宮を演じた作品で、近年海外で評価が高まっている。2024年にイギリスのRadiance Filmsからブルーレイが発売され、2025年には北米でも加藤泰作品の2本組として発売された。英国の映画誌『サイト・アンド・サウンド』のレビューは安藤の演技を評価し、英国映画協会(BFI)関連の日本ギャング映画ベスト10選に挙げた評論家もいる。
主な出演作[編集]
松竹時代(1965年 - 1967年)[編集]
- 『血と掟』(1965年) - 安藤昇(本人役)
- 『やさぐれの掟』(1965年) - ヘンリー奥田
- 『逃亡と掟』(1965年) - 南洋一郎(企画・原作、主題歌の作詞・作曲・歌唱も担当)
- 『望郷と掟』(1966年) - 相良俊一
- 『炎と掟』(1966年) - 南条伸
- 『男の顔は履歴書』(1966年、加藤泰監督) - 雨宮修一
- 『阿片台地 地獄部隊突撃せよ』(1966年、加藤泰監督) - 宇留木少尉
- 『男の顔は切り札』(1966年) - 岩上
- 『白昼の惨殺』(1967年) - 時岡敬太
東映ほか(1967年 - 1979年)[編集]
- 『懲役十八年』(1967年、加藤泰監督) - 川田章
- 『日本暗黒史 血の抗争』(1967年) - 河上純一
- 『懲役十八年 仮出獄』(1967年) - 郡司信介
- 『網走番外地 吹雪の斗争』(1967年、石井輝男監督) - 轟
- 『日本暗黒史 情無用』(1968年) - 坂下健一
- 『日本暴力団 組長』(1969年、深作欣二監督) - 大場登
- 『やくざ非情史 刑務所兄弟』(1969年、日活) - 岩本直治
- 『懲役太郎 まむしの兄弟』(1971年) - 早崎雄吉
- 『出所祝い』(1971年、東宝) - 尾関軍次郎
- 『現代やくざ 人斬り与太』(1972年、深作欣二監督) - 矢頭俊介
- 『昭和残侠伝 破れ傘』(1972年) - 寺津力松
- 『やくざと抗争』(1972年) - 爆弾マッチ
- 『やくざと抗争 実録安藤組』(1973年) - 矢頭昇
- 『実録 私設銀座警察』(1973年) - 池谷三郎
- 『実録安藤組 襲撃篇』(1973年) - 安藤昇
- 『暴力街』(1974年、五社英雄監督) - 江川紘一
- 『安藤組外伝 人斬り舎弟』(1974年) - 安藤昇
- 『新仁義なき戦い』(1974年、深作欣二監督) - 広島の大組織の組長役
- 『仁義の墓場』(1975年、深作欣二監督) - 野津喜三郎
- 『任侠外伝 玄界灘』(1976年、ATG) - 近藤
- 『やくざ残酷秘録・片腕切断』(1976年) - ナレーター
- 『総長の首』(1979年、中島貞夫監督) - 花森庄造
テレビ・Vシネマ・後年の作品[編集]
- 『新・三匹の侍』(1970年、フジテレビ) - 主演
- 『疵』(1988年、梶間俊一監督) - プロデュース
- 『安藤組外伝 掟』(2000年) - 大道寺崇政(特別出演)
- 『実録・安藤組外伝 餓狼の掟』(2002年、梶間俊一監督) - 企画、現代の安藤昇役
- 『実録・安藤昇侠道伝 烈火』(2002年、三池崇史監督) - 監修
- 『渋谷物語』(2005年) - 現在の安藤昇(特別出演)
共演者・映画人との縁[編集]
菅原文太を東映へ[編集]
『血と掟』には、のちに『仁義なき戦い』で大ブレイクする菅原文太も出演している。当時松竹で脇役が続いていた菅原を、安藤が東映のプロデューサーに紹介して移籍につなげたという話が、山口猛の評伝などで紹介されている。もしこの縁がなければ、菅原の東映での大活躍はなかったかもしれない、とまで書かれることもある。
高倉健・梅宮辰夫ら東映スターとの共演[編集]
東映では高倉健、鶴田浩二、若山富三郎、千葉真一、梅宮辰夫、松方弘樹、渡哲也(『仁義の墓場』主演)らと共演した。『昭和残侠伝 破れ傘』では、無名時代に渋谷で流しをしていたころ安藤に声をかけられたという北島三郎とも共演。北島によれば、京都撮影所で再会した安藤は、かつての「ボウズ」ではなく「サブちゃん」と呼んでくれたという。
『男はつらいよ』原案説[編集]
安藤は松竹時代の作品『望郷と掟』で助監督だった山田洋次と知り合い、親しく付き合っていたとされる。のちに安藤は「やくざが市民社会で騒動と笑いを起こす」喜劇の構想を練り、その脚本を山田に依頼しようとしたが、話は流れた。その後フジテレビでドラマ版『男はつらいよ』が始まったことから、安藤は構想を使われたと感じたものの、表沙汰にはしなかったという逸話が伝わる。もちろんこれは安藤側の証言に基づく話で、山田側が認めたものではない。
歌手・作家として[編集]
歌手活動[編集]
1965年、主演映画『やさぐれの掟』の主題歌『新宿無情』でレコードデビュー。同年中に20万枚を超えるヒットになったとされる。1970年の『男の哀歌』以降はキャニオン・レコードから『さすらい彼岸花』(1971年)、『旅笠道中 影を慕いて』(1972年)、『盛り場二十年 安藤昇の世界』(1973年)、『船頭小唄』(1974年)、『男のひとり言』(1977年)などを発表。1976年には『軍歌で綴る太平洋戦史』の企画・構成・ナレーションを担当した。自作映画の主題歌を作詞・作曲することもあった。
著作[編集]
著書は自伝・エッセイ・人生論を中心に数十冊にのぼる。代表的なものに『激動 血ぬられた半生』(1968年、双葉社)、『安藤昇極道一代 やくざと抗争』(1972年、徳間書店)、『安藤流 五輪書』(1995年、双葉社)、『自伝 安藤昇』(2001年、ぶんか社)、『男の覚悟』(2009年、青志社)などがある。また『餓狼一代 実録安藤昇一代記』『無頼 実録安藤組』『餓狼の系譜 実録安藤組』など、安藤組を題材にした漫画も複数刊行された。
語録[編集]
「ヤクザは辞めたが、男を辞めた覚えはない」という言葉がよく知られている。また、人生は「山に見えて実は谷、谷に見えて実は山」だという独特の人生観もたびたび紹介される。
評価と論点[編集]
安藤昇の評価は、見る人の立場によって大きく分かれる。映画ファンや映画人からは、やくざ映画に「本物の匂い」を持ち込んだ唯一無二の俳優として、また菅原文太の移籍や実録路線の流れに関わったキーパーソンとして語られることが多い。お別れの会には梅宮辰夫、北島三郎、岩城滉一、中島貞夫、降旗康男ら約700人が参列した。
一方で、安藤組が賭博や用心棒などを生業とし、横井英樹襲撃事件という銃撃事件を起こした組織であったことは紛れもない事実であり、元組長の自伝や実録映画が暴力の世界を「格好よく」見せてしまうことへの批判的な視点も根強い。安藤本人は組の解散後に堅気として生き、事件についても著書や映画で自らの側から語り続けたが、その語りがあくまで当事者の一方的な視点である点には注意が必要である。
よくある質問[編集]
Q. 安藤昇は何者?[編集]
戦後の渋谷で愚連隊「安藤組」(株式会社東興業)を率いた元組長で、1964年の解散後、1965年に映画『血と掟』で俳優デビューした人物。松竹・東映のやくざ映画を中心に60本前後に出演し、作家・歌手としても活動した。2015年12月16日に89歳で死去。
Q. 安藤組はなぜ解散したの?[編集]
1958年の横井英樹襲撃事件で安藤や幹部が逮捕・服役し、組が弱体化したことに加え、出所後に組員が抗争で命を落としたことや、その遺族との対話がきっかけになったとされる。1964年12月9日に正式に解散した。
Q. 横井英樹襲撃事件ってどんな事件?[編集]
1958年6月11日、債務トラブルをめぐって安藤組の組員が実業家・横井英樹を銃撃し重傷を負わせた事件。安藤は約35日間逃亡したのち葉山で逮捕され、約6年間服役した。事件はのちに安藤主演の『実録安藤組 襲撃篇』(1973年)などで映画化されている。
Q. 頬の傷は本物?[編集]
本物である。1949年に銀座で喧嘩となった際、短刀で左頬を切られたものとされる。映画でも特殊メイクではなく、この傷がそのまま「顔」として生かされた。
Q. 安藤昇の映画はどこで見れる?[編集]
2026年5月には生誕100年を記念してCS東映チャンネルで『懲役十八年』『網走番外地 吹雪の斗争』『やくざと抗争 実録安藤組』『実録安藤組 襲撃篇』など10作品、CS衛星劇場で『血と掟』『やさぐれの掟』『逃亡と掟』の3作品が特集放送された。動画配信サービス(U-NEXT、Amazon Prime Videoなど)での取り扱いは作品・時期により変わるため、各サービスで確認するのが確実。DVDで発売されている作品も多く、『男の顔は履歴書』は海外でブルーレイ化されている。
Q. 『仁義なき戦い』には出ている?[編集]
1973年からの初期5部作には出演していない。深作欣二監督が新たに撮った『新仁義なき戦い』(1974年)で、広島の大組織の組長役を演じている。
Q. 現在は?[編集]
2015年12月16日に肺炎のため89歳で死去しており、2016年2月28日に東京・青山葬儀所でお別れの会が開かれた。2026年は生誕100年にあたり、特集放送などで作品が再び紹介されている。
余談[編集]
- 法政大学時代の同級生には、のちにプロ野球の名監督・名評論家となる関根潤三や根本陸夫がいて、渋谷でつるんでいたという話がある。
- 横井英樹襲撃事件で指名手配された際、のちに作家・作詞家として知られる山口洋子のアパートに一時かくまわれたとされる。
- 安藤組時代には、三船敏郎に酒の席で殴られて殴り返し、その影響で撮影が延期になった、石原裕次郎が安藤組の興行への出演を断ったことで撮影所で騒動になった、といった芸能界がらみの逸話も評伝で紹介されているが、いずれも安藤側の証言を中心とした話である。
- 俳優をやめた理由について、銀座ロケで拳銃の音を口で「バーン、バーン」と言うのが恥ずかしくなった、という逸話が知られる。
- 「防災マスク」の特許を取得したこともあるという、意外な一面も伝えられている。
- 横井英樹はのちに、1982年に大火災を起こしたホテルニュージャパンのオーナーとしても知られることになる。
- 1976年の主演作『安藤昇のわが逃亡とSEXの記録』は、事件後の逃亡生活を題材にした異色作である。
- 『実録・安藤組外伝 餓狼の掟』では、若き日の安藤昇役を渡辺裕之が演じ、本人は現代の安藤として登場するという「本人と役者の共演」が実現している。
- 戒名は「常然院義鑑道昇居士」。お別れの会の祭壇は、安藤が好んだ白い花で飾られた。

