| 高倉健 たかくら けん / Ken Takakura | |
|---|---|
![]() 1966年(国際情報社『映画情報』第31巻1月号より、出典:ウィキメディア・コモンズ、PD) | |
| 本名 | 小田剛一(おだ たけいち/おだ ごういち) |
| 誕生日 | 1931年2月16日 |
| 死亡日 | 2014年11月10日 |
| 死亡年齢 | 83歳(数え年84) |
| 出身地 | 福岡県中間市 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 福岡県立東筑高等学校、明治大学商学部卒業 |
| ジャンル | 映画、テレビドラマ、歌 |
| 活動期間 | 1956年 - 2014年 |
| デビューアルバム | 1956年 映画『電光空手打ち』(主演デビュー) |
| 家族 | 元妻:江利チエミ(歌手・女優、1959年結婚、1971年離婚)、養女:小田貴月 |
| 事務所 | 高倉プロモーション |
| 代表作 | 『人生劇場 飛車角』『日本侠客伝』『網走番外地』『昭和残侠伝』『新幹線大爆破』『八甲田山』『幸福の黄色いハンカチ』『駅 STATION』『南極物語』『ブラック・レイン』『鉄道員(ぽっぽや)』『あなたへ』 |
| 関連活動 | 歌手(『網走番外地』『唐獅子牡丹』) |
| あだ名 | 健さん |
| その他 | 文化勲章(2013年)、文化功労者(2006年)、紫綬褒章(1998年)、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞4回、モントリオール世界映画祭最優秀男優賞(1999年) |
概要[編集]
高倉健(たかくら けん、1931年2月16日 - 2014年11月10日)とは、福岡県中間市出身の俳優である。1960年代に東映任侠映画『網走番外地』『昭和残侠伝』で一時代を築き、1976年のフリー転身後は『八甲田山』『幸福の黄色いハンカチ』『鉄道員(ぽっぽや)』などで「寡黙で不器用だが情に厚い男」を演じ続けた。愛称は「健さん」。2013年に文化勲章を受章した、昭和・平成の日本映画を代表するスターである。
詳細[編集]
炭鉱町の少年から明治大学へ[編集]
高倉健、本名・小田剛一は、1931年2月16日、筑豊炭田の一角にあたる福岡県中間市の裕福な家庭に生まれた。本名の読みは映画関係者の間では「おだ ごういち」で通っていたが、親族は「おだ たけいち」と呼んでいたとされ、晩年は親族に「剛一郎」と名乗ってもいたという。
旧制東筑中学から福岡県立東筑高等学校(商業科)を経て、1949年に明治大学商学部商学科へ進学。当時の目標は俳優ではなく、貿易会社の社長になることだった。大学では父の勧めで相撲部のマネージャーを1年務めている。つまり、のちの銀幕の大スターは、もともと映画とはまったく縁のないビジネス志望の学生だったのである。
マネージャー面接からまさかの俳優デビュー[編集]
俳優になるきっかけは、ほとんど事故のようなものだった。1955年に大学を卒業したものの就職先が決まらず、美空ひばりの所属事務所である新芸プロのマネージャー職の面接を喫茶店で受けていた。その場に偶然居合わせたのが、東映東京撮影所の幹部だったマキノ光雄で、彼の目に留まった小田青年はそのままスカウトされ、「東映ニューフェイス」第2期生として東映に入社することになった。
芸名の「高倉健」は、マキノ光雄の知人が名付けたものである。本人はデビュー作の役名「忍勇作」を芸名にしたいと希望したが、却下されたという。初めてドーランを塗って鏡の前に立ったとき、自分の姿が「情けなくて涙が止まらなかった」と語っている。のちの日本一の映画スターの第一歩は、なんと涙から始まったのだ。
1956年、『電光空手打ち』で主演デビュー。同年の『恐怖の空中殺人』では人気歌手の江利チエミと共演し、これがのちの結婚につながっていく。
『人生劇場 飛車角』で開いた任侠映画の扉[編集]
デビュー後しばらくは現代劇や青春映画に数多く出演したが、決定的な当たり役にはなかなか恵まれなかった。転機になったのが、1963年の『人生劇場 飛車角』である。主演の鶴田浩二の脇で、若いやくざ・宮川を演じて強い印象を残し、ここから東映は任侠映画路線へと本格的に舵を切っていく。
翌1964年には『日本侠客伝』シリーズがスタート。義理と人情の板挟みに耐え、最後に単身で敵地へ乗り込む主人公像は、そのまま「高倉健」というスターのイメージになった。ここから約10年、高倉は東映任侠映画の看板として走り続けることになる。
東映との決別とフリー転身[編集]
任侠映画ブームは1970年代に入ると陰りを見せ、東映は実録やくざ映画(仁義なき戦いに代表される路線)へと移っていった。高倉は1975年の『新幹線大爆破』、アメリカ映画『ザ・ヤクザ』への出演などで新境地を探り、1976年に東映を退社してフリーとなった。
フリー第1作が佐藤純彌監督の『君よ憤怒の河を渉れ』(1976年)である。この作品はのちに中国で公開されて爆発的な人気を呼び、高倉は中国でも広く知られる日本人俳優となった。そして翌1977年、『八甲田山』と『幸福の黄色いハンカチ』という二本の大作で、高倉は「任侠スター」から「国民的俳優」へと完全に脱皮するのである。
経歴[編集]
東映任侠映画の時代(1964年 - 1975年)[編集]
1960年代半ばの高倉は、3本の看板シリーズを同時に抱えていた。
- 『日本侠客伝』シリーズ(1964年 - ):マキノ雅弘監督らによる任侠映画。義理に生きる男を演じ、任侠路線の基礎を作った。
- 『網走番外地』シリーズ(1965年 - ):石井輝男監督。北海道・網走刑務所を舞台にした脱獄・アクションもの。シリーズは全18作に及んだ。
- 『昭和残侠伝』シリーズ(1965年 - ):花田秀次郎を演じた任侠映画の決定版。池部良との「道行き」の殴り込みシーンは名場面として語り継がれている。
『網走番外地』は当初、会社から予算を削られ、白黒作品として作られた「添え物」扱いの企画だった。ところが高倉は「当てるためなら何でもやる」という意気込みで撮影に臨み、作品は大ヒット。シリーズ化されて東映のドル箱となった。高倉自身が歌った主題歌「網走番外地」も約200万枚を売り上げたが、歌詞の一部が問題視されて一時放送禁止になっている。
学生運動の時代と「健さん」現象[編集]
1960年代後半から70年代初頭、いわゆる70年安保闘争の頃になると、理不尽に耐え抜いた末に一人で斬り込む高倉の姿は、サラリーマンだけでなく学生運動に身を投じる若者からも熱狂的な支持を集めた。深夜興行は満員になり、スクリーンの高倉に客席から掛け声が飛んだという。
こうした観客の反応を目の当たりにした高倉は、のちに「映画というのは怖いメディアだよね」と語っている。自分の演じた役が観る者の生き方にまで影響してしまう、その重さを身をもって知った体験だった。
フリー転身後の黄金期(1976年 - 1990年代)[編集]
フリーとなってからの高倉は、出演作を絞り込み、1本ごとに時間をかけて役に向き合うスタイルへと移っていく。
1977年の『八甲田山』(森谷司郎監督)は、明治時代の雪中行軍遭難事件を描いた大作で、厳冬期の八甲田山中での過酷なロケが話題になった。同年の『幸福の黄色いハンカチ』(山田洋次監督、松竹)では、刑務所帰りの男・島勇作を演じた。この2作で第1回日本アカデミー賞最優秀主演男優賞とブルーリボン賞主演男優賞を受賞している。
1978年には角川映画『野性の証明』で薬師丸ひろ子と共演。1980年の『動乱』(森谷司郎監督)では吉永小百合と夫婦役を演じ、吉永はのちに「役に成り切る高倉健さんのパワーに圧倒された」と振り返っている。1981年の『駅 STATION』(降旗康男監督)、1983年の『南極物語』(蔵原惟繕監督、フジテレビ製作)、『居酒屋兆治』(降旗康男監督、大原麗子共演)など、この時期の作品はいずれも高倉の代表作として知られる。
1989年にはアメリカ映画『ブラック・レイン』(リドリー・スコット監督)に出演。マイケル・ダグラスと組む大阪府警の刑事役で、敵役の松田優作にとってはこれが遺作となった。
晩年の名作群(1999年 - 2012年)[編集]
1999年の『鉄道員(ぽっぽや)』(降旗康男監督、浅田次郎原作)では、北海道の廃線間近のローカル線で駅長を務める佐藤乙松を演じた。この作品で4度目の日本アカデミー賞最優秀主演男優賞と、モントリオール世界映画祭最優秀男優賞を受賞している。
その後は『ホタル』(2001年)、チャン・イーモウ監督による日中合作『単騎、千里を走る。』(日本公開2006年)と、寡作ながらも話題作に出演。そして6年ぶりの主演作となった2012年の『あなたへ』(降旗康男監督)が、結果的に生涯最後の映画となった。出演映画は205本にのぼるとされる。
主な出演作[編集]
映画[編集]
| 公開年 | 作品名 | 監督 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1956年 | 電光空手打ち | 津田不二夫 | 主演デビュー作 |
| 1956年 | 恐怖の空中殺人 | 江利チエミと共演 | |
| 1963年 | 人生劇場 飛車角 | 沢島忠 | 任侠路線の出発点 |
| 1964年 - | 日本侠客伝シリーズ | マキノ雅弘ほか | 東映任侠映画 |
| 1965年 - | 網走番外地シリーズ | 石井輝男ほか | 全18作、主題歌も歌唱 |
| 1965年 - | 昭和残侠伝シリーズ | 佐伯清ほか | 花田秀次郎役 |
| 1974年 | ザ・ヤクザ | シドニー・ポラック | アメリカ映画 |
| 1975年 | 新幹線大爆破 | 佐藤純彌 | パニック映画の傑作 |
| 1976年 | 君よ憤怒の河を渉れ | 佐藤純彌 | フリー第1作、中国で大ヒット |
| 1977年 | 八甲田山 | 森谷司郎 | 日本アカデミー賞最優秀主演男優賞(第1回) |
| 1977年 | 幸福の黄色いハンカチ | 山田洋次 | 同上、ブルーリボン賞主演男優賞 |
| 1978年 | 野性の証明 | 佐藤純彌 | 角川映画、薬師丸ひろ子と共演 |
| 1980年 | 遙かなる山の呼び声 | 山田洋次 | 倍賞千恵子と共演 |
| 1980年 | 動乱 | 森谷司郎 | 吉永小百合と共演、日本アカデミー賞最優秀主演男優賞(第4回) |
| 1981年 | 駅 STATION | 降旗康男 | 日本アカデミー賞最優秀主演男優賞(第5回) |
| 1982年 | 海峡 | 森谷司郎 | 青函トンネル建設を描く |
| 1983年 | 南極物語 | 蔵原惟繕 | フジテレビ製作の大ヒット作 |
| 1983年 | 居酒屋兆治 | 降旗康男 | 大原麗子と共演 |
| 1985年 | 夜叉 | 降旗康男 | |
| 1989年 | ブラック・レイン | リドリー・スコット | 松田優作の遺作 |
| 1999年 | 鉄道員(ぽっぽや) | 降旗康男 | 日本アカデミー賞最優秀主演男優賞(第23回)、モントリオール最優秀男優賞 |
| 2001年 | ホタル | 降旗康男 | |
| 2006年 | 単騎、千里を走る。 | チャン・イーモウ | 日中合作(日本公開年) |
| 2012年 | あなたへ | 降旗康男 | 遺作 |
テレビ・CM[編集]
映画俳優としての顔が圧倒的だが、テレビドラマ『これから〜海辺の旅人たち〜』(1993年)、『刑事 蛇に横切られる』(1995年)などにも主演している。CMでは日本生命、レナウン、ネスレ日本「ネスカフェ ゴールドブレンド」などに出演した。とりわけ日本生命のCMでの「自分、不器用ですから」というひとことは、高倉健のパブリックイメージそのものとして広く知られている。
代表作の解説[編集]
『網走番外地』(1965年)[編集]
石井輝男監督による脱獄アクション。網走刑務所に収監された主人公・橘真一が、手錠でつながれた囚人と雪原を逃げる場面が見どころだ。前述の通り、予算を削られたモノクロの小品として始まりながら、口コミで火がついてシリーズ全18作のドル箱になった。高倉の歌う主題歌も含め、「網走」という地名を全国区にした一本である。
『昭和残侠伝』シリーズ[編集]
高倉演じる花田秀次郎が、耐えに耐えた末、池部良演じる風間重吉と二人で敵の組へ殴り込むというのがお約束の流れ。高倉が歌う主題歌「唐獅子牡丹」が流れる中、雪の夜道を二人で歩いていく「道行き」は、東映任侠映画の様式美の頂点とされる。1970年の『昭和残侠伝 死んで貰います』はシリーズ屈指の名作として名高い。
『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)[編集]
山田洋次監督が、それまでの「やくざの健さん」とはまったく違う顔を引き出した作品。刑期を終えた島勇作が、北海道を旅する若者2人(武田鉄矢、桃井かおり)と出会い、妻(倍賞千恵子)の待つ夕張へ向かうロードムービーである。「まだ自分を待っていてくれるなら、黄色いハンカチを掲げてほしい」と手紙に書いた男が、ラストで目にする光景は日本映画屈指の名場面だ。2024年には4Kデジタル修復版が日本映画専門チャンネルでテレビ初放送された。
『南極物語』(1983年)[編集]
南極観測隊に置き去りにされた樺太犬タロとジロの実話をもとにした大作。フジテレビが製作した。公開当時、日本映画の興行記録を塗り替える大ヒットとなり、テレビ局製作映画の時代を切り開いた作品としても知られる。
『鉄道員(ぽっぽや)』(1999年)[編集]
浅田次郎の直木賞受賞作を降旗康男監督が映画化。妻と娘を亡くしてもなお駅を守り続けた老駅長・佐藤乙松を、高倉は抑えに抑えた演技で体現した。共演の小林稔侍は大部屋俳優時代から高倉に世話になった後輩で、この作品で日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞している。2025年3月には4Kデジタルリマスター版が放送された。
『あなたへ』(2012年)[編集]
亡き妻(田中裕子)の遺言に従い、富山から妻の故郷・長崎の海まで車で旅する刑務所の指導技官・倉島英二を演じた。降旗康男監督と組んだ20作目にあたり、高倉にとって最後の映画となった。この作品で報知映画賞主演男優賞などを受賞したが、日本アカデミー賞の優秀主演男優賞は辞退している。
人物・エピソード[編集]
「健さん」という生き方[編集]
高倉健は、スクリーンの外でも「寡黙でストイックな男」として知られた。共演者はもちろん、若手俳優やスタッフに対しても、わざわざ立ち上がって丁寧に挨拶をしたという話は数多く残っている。
「俳優は肉体労働」が信条で、筋力トレーニングを欠かさなかった。酒は飲まず、かつては1日80本ともいわれるヘビースモーカーだったが、30年以上前に禁煙している。本番は基本的に1テイクしか撮らせなかったともいわれ、1回目の芝居に気持ちのすべてを込めるという姿勢を貫いた。一方で、若い頃は遅刻が多かったと本人が認めているのはちょっと意外な一面である。
映画人との縁[編集]
- 千葉真一は高倉を「永遠の師匠」と公言していた。
- 小林稔侍は大部屋時代に高倉に目をかけられたことを恩に感じており、のちに『鉄道員』『あなたへ』などで共演した。
- 黒澤明からは『乱』への出演を打診されたが、断っている。
- 『ブラック・レイン』ではハリウッドのスタッフとも仕事をし、その後ハリウッド版『GODZILLA』への出演話もあったが、実現しなかったとされる。
- 降旗康男監督とは『駅 STATION』から『あなたへ』まで20本の映画で組んだ、生涯の盟友だった。
好きなもの[編集]
世界でいちばん好きな場所はハワイだったという。また、晩年を支えた小田貴月によれば、ある時期には10日ほどカロリーメイトとコーヒーだけで過ごし、電話で「お腹が空いたんだけど」と伝えてきたこともあったという。銀幕のイメージとのギャップがなんとも人間くさい。
受賞歴・栄典[編集]
- 日本アカデミー賞最優秀主演男優賞 - 4回
- 第1回(1978年):『幸福の黄色いハンカチ』『八甲田山』
- 第4回(1981年):『動乱』ほか
- 第5回(1982年):『駅 STATION』
- 第23回(2000年):『鉄道員(ぽっぽや)』
- ブルーリボン賞主演男優賞 - 2回
- モントリオール世界映画祭最優秀男優賞(1999年、『鉄道員(ぽっぽや)』)
- 紫綬褒章(1998年)
- 文化功労者(2006年)
- 第37回報知映画賞主演男優賞(2012年、『あなたへ』)
- 第25回日刊スポーツ映画大賞・石原裕次郎賞 主演男優賞(2012年)
- 第60回菊池寛賞(2012年)
- 文化勲章(2013年)
賞を固辞したことでも知られ、2002年には『ホタル』での日本アカデミー賞ノミネートを、2013年には『あなたへ』での優秀主演男優賞を辞退している。没後の2014年には日本レコード大賞特別栄誉賞が贈られることになったが、事務所の意向で辞退した。
家族[編集]
江利チエミとの結婚と離婚[編集]
1959年2月16日、高倉の28歳の誕生日に、歌手・女優の江利チエミと結婚した。二人の縁は、1956年の映画『恐怖の空中殺人』での共演である。当時の江利は人気絶頂の歌手で、美空ひばり、雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれたスターだった。
1962年に江利が妊娠したものの、重い妊娠中毒症のため出産はかなわず、二人は子どもに恵まれなかった。その後、江利の親族をめぐるトラブルがあったとされ、1971年9月3日、江利側からの申し入れで離婚した。江利は1982年2月13日に45歳の若さで急死している。高倉はその後、再婚することはなかった。
養女・小田貴月[編集]
晩年の高倉を支えたのが、のちに養女となった小田貴月である。小田は海外のホテルを紹介するテレビ番組のディレクターやライターとして働いていた人物で、1996年、香港のレストランで取材中に、客として来店した高倉と居合わせたのが出会いだった。当時、高倉66歳、小田33歳。
翌1997年に小田は仕事を辞めて高倉と暮らし始め、一部の関係者以外にはほとんど知られないまま、17年間にわたって高倉の生活を支えた。のちに養女となり、最期を看取っている。現在は高倉プロモーションの代表を務める。
高倉は亡くなる約2年前、小田に「僕のこと、書き残してね」と頼んだという。小田はその言葉に応えるように、『高倉健、その愛。』『高倉健、最後の季節。』(2023年、文藝春秋)、『高倉健の美学 今に生きる201の言葉』(文藝春秋)などを著している。『高倉健、最後の季節。』のカバーには、小田が撮影した病床の高倉の写真が使われた。
晩年と死去[編集]
数年前に前立腺がんの手術を受けて寛解していたが、定期検査で悪性リンパ腫が見つかり、療養を続けていた。2014年11月10日午前3時49分、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去。83歳だった。
死去は8日後の11月18日に事務所から発表され、日本中に衝撃が走った。翌19日には全国4か所に設けられた献花台に約4,200人のファンが詰めかけた。東映には「スクリーンでもう一度健さんを見たい」という声が殺到し、同年12月6日から丸の内TOEIで追悼上映会が開かれた。東宝も有楽町のスバル座で追悼特集上映を行い、北九州市の小倉昭和館では『新幹線大爆破』が追悼上映された。
2017年3月18日には、鎌倉市の光明寺に墓碑が建立された。墓碑の高さは高倉の身長と同じ180cmだという。
評価・影響[編集]
高倉健は、東映任侠映画の時代には「耐える男」、フリー転身後には「不器用で寡黙だが、誰よりも情に厚い男」という人物像を体現し、半世紀以上にわたって日本人の理想の男性像の一つであり続けた。同じ時代に日活の石原裕次郎がモダンで明るいスター像を代表したとすれば、高倉はその対極にある「沈黙」と「我慢」のスターだったといえる。
その影響は国境を越えた。『君よ憤怒の河を渉れ』は中国で多くの観客の記憶に残り、のちには中国のチャン・イーモウ監督が高倉を主演に迎えて『単騎、千里を走る。』を撮っている。後輩俳優にも敬愛者は多く、千葉真一、小林稔侍らが公然と師と仰いだ。
2016年には日比遊一監督のドキュメンタリー映画『健さん』が公開され、国内外の映画人が高倉について語った。同年には東京ステーションギャラリーで追悼特別展「高倉健」も開かれている。
2020年代の動向[編集]
没後10年(2024年)[編集]
没後10年にあたる2024年は、各所で大規模な特集が組まれた。
- 「没後10年 高倉健特集 銀幕での再会」:2024年11月7日〜22日、東映最後の直営館だった丸の内TOEIで開催。『花と嵐とギャング』『網走番外地 北海篇』『日本侠客伝 花と龍』『山口組三代目』など10作品が初デジタル上映となり、全19作がかかった。
- 日本映画専門チャンネル「没後10年 高倉健劇場」:2024年11月から7か月連続で特集。『幸福の黄色いハンカチ』4Kデジタル修復版(テレビ初放送)、『海峡』4Kデジタルリマスター版、CM28本を集めたCM集、特別番組『没後10年「高倉健に、なる。」〜映画俳優 205本の人生〜』などが放送された。命日の11月10日にも『幸福の黄色いハンカチ』が放送された。
- 没後10年展「高倉健に、なる。」:東京・読売新聞ビル内のよみうりギャラリーで開催(入場無料)。
2025年:丸の内TOEI閉館と『新幹線大爆破』リブート[編集]
2025年1月には『ブラック・レイン』のデジタルリマスター版が、全国4館で1週間限定の「ファイナル上映」として公開された。
同年4月23日には、高倉主演の1975年作『新幹線大爆破』を樋口真嗣監督・草彅剛主演でリブートしたNetflix映画『新幹線大爆破』が独占配信され、日本のNetflix映画ランキングで3週連続1位、非英語映画のグローバルランキングで2位を記録するヒットになった。草彅は撮影にあたり、高倉が現場で残した教えを受け継いだと語っている。この動きに合わせて1975年版も5月9日から全国で2週間リバイバル上映され、7月5日には公開50周年記念の特別上映も行われた。
そして2025年7月27日、高倉の主演作が数多く封切られてきた丸の内TOEIが、64年10か月の歴史に幕を下ろした。閉館に寄せて吉永小百合は、1980年に『動乱』の舞台挨拶でこの劇場に立った思い出を語っている。
余談[編集]
- 結婚式の日取りは1959年2月16日、つまり高倉自身の誕生日だった。
- 本人は芸名を、デビュー作の役名「忍勇作」にしたかったらしい。もし通っていたら「忍勇作の網走番外地」になっていたかもしれない。
- 俳優になる前に受けていたのは、美空ひばりの所属事務所のマネージャー職の面接だった。人生、何が起こるかわからない。
- 『網走番外地』の主題歌は約200万枚のヒットとなったが、一時は放送禁止になった。
- 鎌倉・光明寺の墓碑の高さ180cmは、高倉の身長と同じに作られている。
- 撮影現場では椅子に座らず、立ったまま出番を待っていたという話が、共演者の証言として語り継がれている。
- 『ブラック・レイン』で共演した松田優作は、公開後間もなく亡くなり、同作が遺作となった。
