渡哲也
わたり てつや
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渡哲也(出典:Wikimedia Commons)
本名 渡瀬道彦(わたせ みちひこ)
誕生日 1941年12月28日
死亡日 2020年8月10日
死亡年齢 78歳(数え年80)
出身地 島根県能義郡安来町(現・安来市)生まれ、兵庫県淡路島育ち
国籍 日本
学歴 三田学園中学校・高等学校、青山学院大学経済学部卒業
ジャンル 映画、テレビドラマ、歌謡曲
活動期間 1965年 - 2020年
デビューアルバム 映画『あばれ騎士道』(1965年、日活)
家族 弟:渡瀬恒彦(俳優、2017年没)、妻(一般人、1971年結婚)
事務所 日活(1964年 - 1971年)→ 石原プロモーション(1971年 - 2020年)
代表作 『無頼』シリーズ、『東京流れ者』、『仁義の墓場』、『大都会』シリーズ、『西部警察』シリーズ、「くちなしの花」
関連活動 石原軍団
あだ名 哲(石原裕次郎からの呼び名)、団長、大門
その他 石原プロモーション第2代社長(1987年 - 2011年)。紫綬褒章(2005年)、旭日小綬章(2013年)


概要[編集]

渡哲也(わたり てつや、1941年12月28日 - 2020年8月10日)とは、日本の俳優・歌手である。日活のアクションスターとして『無頼』シリーズや『東京流れ者』で人気を得たのち、石原裕次郎の石原プロモーションに参加。刑事ドラマ『大都会』『西部警察』の主演で「角刈りにサングラス」の大門団長として国民的な知名度を得て、裕次郎の死後は石原プロの2代目社長を24年近く務めた。

詳細[編集]

「裕次郎の後継者」として[編集]

渡の俳優人生は、ほぼそのまま石原裕次郎との関係の歴史でもある。1964年、青山学院大学の学生だった渡は日活撮影所を見学に訪れ、そのままスカウトされた。新人として食堂へ挨拶回りに行った際、ほかの先輩が座ったまま応じるなかで、裕次郎だけが立ち上がって「頑張って下さい」と声をかけたという。渡は後年までこの一件を「運命を変えた出会い」として語り続けた。

裕次郎はその後も渡を自宅に招いて食事を振る舞うなど目をかけ、呼び名も「渡君」から「哲」へと変わっていった。1966年の『嵐を呼ぶ男』、1967年の『陽のあたる坂道』という裕次郎の代表作のリメイクで渡が主演に抜擢されたのは、監督の西河克己によれば裕次郎本人の希望だったとされる。日活は渡を、裕次郎・小林旭・宍戸錠に続くスターとして売り出した。

日活のアウトローから「大門団長」へ[編集]

日活時代の渡は、明るい青春スターとしてスタートしたが、1968年から始まった『無頼』シリーズで「人斬り五郎」こと藤川五郎を演じ、怒りを内に溜め込んだ一匹狼のチンピラ像を確立した。このイメージは全共闘世代の観客に強く支持され、渡は「アウトローの渡」として定着していく。

1970年代後半からは主戦場をテレビに移し、日本テレビ系『大都会』シリーズの黒岩頼介、テレビ朝日系『西部警察』シリーズの大門圭介で、それぞれ"無口で情に厚いボス刑事"を演じた。とくに大門は、角刈り・レイバン風のサングラス・ショットガンという強烈なビジュアルで、昭和の刑事ドラマを象徴するキャラクターとなっている。

石原プロの「社長」[編集]

1971年、日活がロマンポルノ路線へ転換するのに伴って退社した渡は、借金で倒産寸前だった石原プロモーションに入社した。入社の際、手持ちの180万円(映画『さらば掟』の出演料とされる)を「社員のために」と裕次郎に差し出し、裕次郎はその金を受け取らなかったが「意気に感じて」入社を認めたという逸話は、石原プロの"創業神話"の一つとして繰り返し語られてきた。

1987年に裕次郎が亡くなると、渡は2代目社長に就任。舘ひろし、神田正輝らを抱える「石原軍団」のリーダーとして、自社制作ドラマの主演、震災被災地での炊き出し、宝酒造「松竹梅」のCMなど、裕次郎時代のスタイルを守り続けた。社長職は2011年まで務めている。

病と隣り合わせの俳優人生[編集]

渡のキャリアは、病との闘いの連続でもあった。1972年の肋膜炎、1974年の大河ドラマ『勝海舟』降板、1991年の直腸がん手術と人工肛門の公表、2015年の急性心筋梗塞など、長期入院や大きな手術を何度も経験している。それでも現場に戻り続けた姿勢が、「寡黙でストイックな男・渡哲也」というパブリックイメージをさらに強固にした。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1941年12月28日、島根県能義郡安来町(現・安来市)に生まれ、兵庫県の淡路島(旧淡路町、現・淡路市)で育った。本名は渡瀬道彦。2歳下の弟が、のちに俳優となる渡瀬恒彦である。終戦後の物資不足のなかで、長男と四男にあたる兄弟を亡くしたとされる。なお、日活入社時に「神戸市生まれの裕次郎と並べたときにイメージが良い」という理由で、淡路島出身を名乗るようになったとも言われている。

淡路町立石屋小学校を経て、三田学園中学校・高等学校に進学し、6年間寮生活を送った。その後青山学院大学経済学部に進み、空手道部に所属。全日本大学空手道選手権大会で優勝するほどの腕前だった。

1964年 - 1971年:日活時代[編集]

大学在学中、日活が浅丘ルリ子主演100本記念映画の相手役となる新人「ミスターX」を募集した際、弟や空手部の仲間が本人に内緒で応募したとされる。一方で本人は日本航空の採用試験を受けて不合格となっており、撮影所の食堂でスカウトされて1964年に日活へ入社した。

1965年3月、宍戸錠とのW主演作『あばれ騎士道』でデビューし、エランドール賞新人賞を受賞。1966年には吉永小百合と共演した『愛と死の記録』でブルーリボン賞新人賞を獲得し、同年には鈴木清順監督の『東京流れ者』に主演した。同名の主題歌もヒットし、スタイリッシュな映像と相まって、現在でもカルト的な人気を持つ一本となっている。

1968年1月から1969年3月にかけて公開された『無頼』シリーズ6作品は、日活時代の代表作とされる。その後も『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』『関東流れ者』などに主演したが、日活の経営悪化とロマンポルノ路線への転換を受けて、1971年7月封切の『関東破門状』を最後に日活を退社した。

1971年 - 1975年:石原プロ入りと病気[編集]

1971年に石原プロモーションへ入社。同年3月に一般女性と結婚している。ところが、ここから病が渡を立て続けに襲う。1972年にはフジテレビの『忍法かげろう斬り』撮影中に高熱で倒れ、肋膜炎と診断されて約2か月入院。番組は第20話で降板し、代役を務めたのは弟の渡瀬恒彦だった。

1974年にはNHK大河ドラマ『勝海舟』に主演したが、高熱が続いて入院し、第9話で途中降板(代役は松方弘樹)。入院は長期に及び、のちに膠原病であったことが判明したとされる。

この時期、東映社長の岡田茂から熱心に移籍を誘われたが、裕次郎への恩義を理由に移籍は断り、映画出演だけを受けた。こうして生まれたのが、1975年2月公開の深作欣二監督『仁義の墓場』である。点滴を打ちながら撮影したとされる鬼気迫る演技は高く評価されたが、撮影後に再び体調を崩し、慢性肺感染症として約5か月入院した。1976年には『やくざの墓場 くちなしの花』でブルーリボン賞主演男優賞と毎日映画コンクール男優演技賞を受賞している。

1976年 - 1987年:『大都会』『西部警察』の時代[編集]

1976年、石原プロ制作の『大都会 闘いの日々』(日本テレビ)で黒岩頼介を演じ、テレビドラマの主演に本格進出。続く『大都会 PARTII』(1977年)では松田優作らと共演し、『大都会 PARTIII』(1978年 - 1979年)では平均視聴率20%を超えた。シリーズを追うごとに爆破、カースタント、銃撃戦の比重が増え、これが次作の下地となる。

1979年10月、局をテレビ朝日に移して『西部警察』がスタート。渡は西部署捜査課の大門圭介部長刑事を演じ、木暮課長役の裕次郎、舘ひろし、寺尾聰、峰竜太、神田正輝らと「大門軍団」を形成した。シリーズは1984年のPART-IIIまで5年にわたって続き、全236話で破壊した車両は4680台、使用した火薬は4.8トンという、いまでも語り草の数字を残している。

1986年には、病気療養中の裕次郎の代役として日本テレビの『太陽にほえろ!』に橘兵庫役で出演し、最終回では裕次郎との共演を果たした。

1987年 - 2011年:2代目社長として[編集]

1987年7月17日に裕次郎が死去すると、同年10月に石原プロの2代目社長に就任。社長として最初の作品となったテレビ朝日の『ゴリラ・警視庁捜査第8班』(1989年)では、撮影中のアクションで腓腹筋を断裂し、全治1か月半の重傷を負った。

1991年6月には直腸がんを公表。約3時間の手術を受け、人工肛門となったことも自ら明らかにした。1997年には定期検診で見つかったポリープの一つが悪性の大腸がんで、内視鏡で切除している。

一方で俳優としては円熟期を迎え、1996年の映画『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』で日本アカデミー賞優秀助演男優賞など各賞を受賞。1997年の『誘拐』では日刊スポーツ映画大賞主演男優賞を受けた。その後も『時雨の記』(1998年、吉永小百合と共演)、『長崎ぶらぶら節』(2000年)などに出演し、2005年の『男たちの大和/YAMATO』が映画での遺作となった。

大河ドラマには、『秀吉』(1996年)の織田信長、『義経』(2005年)の平清盛、『坂の上の雲』(2009年 - 2011年)の東郷平八郎で出演している。2005年に紫綬褒章を受章した。

2011年 - 2020年:社長退任と晩年[編集]

2011年3月28日付で社長を退任(発表は5月11日)。在任期間が初代社長・裕次郎と並んだことや、自身の健康が理由に挙げられた。2013年には旭日小綬章を受章。

2015年6月に急性心筋梗塞で緊急手術を受け、以後は車椅子での生活となった。2016年には肺気腫やぜんそくなどの呼吸器疾患を抱え、酸素吸入器を使って生活していることを明かしている。2017年3月には弟・渡瀬恒彦が胆のうがんで72歳で死去。同年4月には「相談取締役」として石原プロの経営陣に復帰した。

2020年7月、石原プロは裕次郎の33回忌にあたる日に、2021年1月16日付で社名を返上して活動を終える方針を発表した。石原まき子会長が相談した際、渡や舘、神田らは「裕次郎さんは承知してくれるのではないですか」と賛同したと説明されている。

2020年:死去[編集]

2020年8月10日午後6時30分、肺炎のため死去した。78歳だった。本人の「静かに送ってほしい」という強い遺志により家族葬が営まれ、死去の事実は葬儀後の8月14日に石原プロから公表された。お別れの会や偲ぶ会も故人の意向で行われていない。最後の仕事は、同年6月下旬に声を録音した宝酒造「松竹梅」のCMだったとされる。

没後の2021年には、日刊スポーツ映画大賞特別賞、日本アカデミー賞会長特別賞が贈られた。

人物[編集]

  • 日活の新人時代に裕次郎から受けた礼儀を手本とし、自身も後輩や裏方への気配りを欠かさない人物として知られた。『大都会 PARTIII』で共演した苅谷俊介の妻が入院していると聞くと、金の入った封筒をそっと渡したというエピソードがある。
  • 高倉健に共演を申し入れた際、高倉からは「いつか一緒に泥船に乗ろう」と返されたとされる。
  • 『東京流れ者』の鈴木清順監督は、渡の存在を「月」にたとえていたという。
  • 弟の渡瀬恒彦が亡くなった際には、「仕事に対する意欲とか情熱とか責任感みたいなのは十分にあったんですけどね」と声を詰まらせ、病室でもセリフをすべて覚えていた弟について「やり通せなかったことは無念だったと思います」と語った。
  • 2015年の心筋梗塞による入院時には、妻が病室に約1か月泊まり込んで看病したと報じられた。
  • 1995年の阪神・淡路大震災では、石原軍団を率いて兵庫県芦屋市で炊き出しを行い、移動入浴車「石原裕次郎号」を市に寄贈した。前芦屋市長は、炊き出しに長蛇の列ができ、市民が石原軍団の来訪を喜んだと振り返っている。東日本大震災の際も石原プロとして支援活動に参加した。

主な出演作品[編集]

映画[編集]

公開年 タイトル 備考
1965年 『あばれ騎士道』 デビュー作。宍戸錠とW主演
1966年 『愛と死の記録』 吉永小百合と共演。ブルーリボン賞新人賞
1966年 『東京流れ者』 主演。監督:鈴木清順
1966年 『嵐を呼ぶ男』 主演。裕次郎主演作のリメイク
1967年 『陽のあたる坂道』 主演。同上
1968年 - 1969年 『無頼』シリーズ(全6作) 主演・藤川五郎(人斬り五郎)
1971年 『関東破門状』 日活での最後の作品
1975年 『仁義の墓場』 主演。監督:深作欣二。東映初出演
1975年 『県警対組織暴力』 東映
1976年 『やくざの墓場 くちなしの花』 主演。ブルーリボン賞主演男優賞
1996年 『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』 日本アカデミー賞優秀助演男優賞ほか
1997年 『誘拐』 主演。日刊スポーツ映画大賞主演男優賞
1998年 『時雨の記』 主演。吉永小百合と共演
2000年 『長崎ぶらぶら節』
2005年 『男たちの大和/YAMATO』 映画での遺作

テレビドラマ[編集]

放送年 タイトル 局 役
1972年 『忍法かげろう斬り』 フジテレビ 主演(病気のため第20話で降板)
1974年 『勝海舟』 NHK 勝海舟(第9話で降板)
1976年 『大都会 闘いの日々』 日本テレビ 黒岩頼介
1977年 - 1978年 『大都会 PARTII』 日本テレビ 黒岩頼介
1978年 - 1979年 『大都会 PARTIII』 日本テレビ 黒岩頼介
1979年 - 1984年 『西部警察』シリーズ(PART-I〜III) テレビ朝日 大門圭介
1986年 『太陽にほえろ!』 日本テレビ 橘兵庫
1989年 - 1990年 『ゴリラ・警視庁捜査第8班』 テレビ朝日 主演
1996年 『秀吉』 NHK 織田信長
2005年 『義経』 NHK 平清盛
2009年 - 2011年 『坂の上の雲』 NHK 東郷平八郎

歌手・渡哲也[編集]

俳優業の印象が強いが、渡は昭和を代表する"歌う俳優"の一人でもあった。日活時代から映画主題歌を歌っており、『東京流れ者』の同名主題歌もヒットしている。

最大のヒット曲は、1973年8月21日にポリドールから発売された「くちなしの花」(作詞:水木かおる、作曲:遠藤実)。前作「男の別れ歌」が7000枚ほどしか売れなかったため、初回プレスはわずか3000枚だったとされる。ところが1974年に入ってから有線放送を中心にじわじわと火がつき、1974年の年間シングルチャートで7位、オリコン集計で77万枚超、累計では150万枚ともいわれる大ヒットとなった。全日本有線放送大賞金賞を受賞し、同年の第25回NHK紅白歌合戦に初出場。1993年の第44回紅白でも再び歌唱している。

ヒット前、裕次郎は「この曲が流行ったら銀座を逆立ちしてやる」と冗談を言っていたとされる。コード進行はAm・Dm・E7だけという極めてシンプルな構成で、作曲の遠藤実が持論とした「ピアノを指一本で弾いて作れるメロディー」を体現した曲だと評されている。ちょうどオイルショックでトイレットペーパー騒動が起きていた時期で、渡のケレン味のない歌声が世相に不安を抱える人々の心を落ち着かせた、という見方もある。

この曲は1976年の主演映画『やくざの墓場 くちなしの花』にも使われた。そのほか、カップリング曲などに「みちづれ」がある。

石原軍団と渡哲也[編集]

石原プロの所属俳優たちは、裕次郎の時代から「石原軍団」と呼ばれた。裕次郎の死後、その軍団を束ねたのが渡である。社長就任後も自ら主演ドラマの現場に立ち、アクションで重傷を負いながら撮影を続けるなど、社長というより「現場の長男」に近い存在だった。

『西部警察』で大門軍団の一員だった舘ひろしや神田正輝にとって、渡はドラマの中でも外でも「団長」だった。2020年の石原プロ活動終了の決定にも、渡は役員として関わり、裕次郎の「俺が死んだら即会社をたたみなさい」という言葉を、33年越しに実現する形となった。石原プロの版権管理は、株式会社石原音楽出版社と一般社団法人ISHIHARAに引き継がれている。

没後の再評価・放送[編集]

没後も石原プロ作品は根強い人気があり、CSのファミリー劇場やホームドラマチャンネルで繰り返し放送されている。2024年9月にはホームドラマチャンネルで『大都会 PARTII』の放送と関連特番が組まれ、2026年7月には同チャンネルで『西部警察 PART-II』のアンコール放送、同年8月14日からは『大都会 PARTIII』の放送が始まった。ザテレビジョンは同作を「渡哲也のショットガンが光る」作品として紹介している。

石原プロ作品は長年、テレビ放送やDVD以外での視聴機会が限られてきたことでも知られ、『西部警察』は40周年記念のDVD-BOXシリーズが発売されている。

よくある質問[編集]

Q. 渡哲也は何者?

A. 昭和を代表する俳優・歌手。日活のアクションスターから出発し、『大都会』『西部警察』の主演で知られる。石原裕次郎の死後、石原プロモーションの2代目社長を務めた。

Q. 本名は?

A. 渡瀬道彦(わたせ みちひこ)。弟の渡瀬恒彦は本名の名字をそのまま芸名にしている。

Q. 亡くなったのはいつ?死因は?

A. 2020年8月10日、肺炎のため78歳で死去した。本人の遺志で家族葬が営まれ、死去は8月14日に公表された。お別れの会は開かれていない。

Q. 家族は?

A. 弟は俳優の渡瀬恒彦(2017年死去)。1971年に一般女性と結婚している。また、テニスの錦織圭とは遠い親戚関係にある(錦織の曽祖父と渡の祖母がきょうだい)とされる。

Q. 『西部警察』では何の役?

A. 西部署捜査課の部長刑事・大門圭介。通称「団長」。角刈り、サングラス、ショットガンがトレードマークで、石原裕次郎演じる木暮課長のもと「大門軍団」を率いた。

Q. 代表曲は?

A. 1973年発売の「くちなしの花」。1974年に大ヒットし、同年のNHK紅白歌合戦に初出場した。ほかに「東京流れ者」など。

Q. 『西部警察』『大都会』はどこで見られる?

A. 2026年現在、CSのホームドラマチャンネルやファミリー劇場で放送されることが多く、2026年夏にも『西部警察 PART-II』『大都会 PARTIII』が放送された。『西部警察』は40周年記念DVD-BOXも出ている。動画配信サービスでの扱いは時期によって変わるため、各サービスで確認するのが確実。

Q. 石原プロはどうなった?

A. 2021年1月16日付で社名を返上し、活動を終えた。裕次郎の「俺が死んだら会社をたたみなさい」という遺言を受けたもので、渡も役員としてこの決定に賛同した。

余談[編集]

  • 日活入社のきっかけとなった新人募集には、弟の渡瀬恒彦や空手部の仲間が本人に内緒で応募したとされる。その弟は、のちに病気で降板した兄の代役(『忍法かげろう斬り』)まで務めている。
  • 『勝海舟』降板時の代役は松方弘樹。大河ドラマで主演が途中交代した珍しい例として語られることが多い。
  • 『西部警察』では、多目的装甲車「レディバード」が国会議事堂前を走るシーンや、銀座の中心部でのロケまで行われた。現在では同様の撮影はほぼ不可能とされる。
  • 「くちなしの花」がヒットする前、裕次郎は「流行ったら銀座を逆立ちする」と言っていたとされるが、実際に逆立ちしたという話は伝わっていない。
  • 公称の出身地は淡路島だが、実際の出生地は島根県安来町。日活が裕次郎とのイメージを重ねるために淡路島出身とした、という説がある。

外部リンク[編集]

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