鈴木清順

鈴木清順
すずき せいじゅん
本名 鈴木清太郎
誕生日 1923年5月24日
死亡日 2017年2月13日
死亡年齢 93歳
出身地 東京府(日本橋)
国籍 日本
家族 弟・鈴木健二(元NHKアナウンサー)
学歴 旧制弘前高等学校卒業
職業 映画監督、俳優
活動期間 1956年 - 2005年
代表的な実績 『殺しの烙印』、大正浪漫三部作
受賞 キネマ旬報ベスト・テン第1位ほか


概要[編集]

鈴木清順(すずき せいじゅん、1923年5月24日 - 2017年2月13日)は、「清順美学」という言葉まで生んだ日本映画きっての異端児にして巨匠である。本名・鈴木清太郎。日活の専属監督として量産プログラムピクチャーを撮りながら、突然画面を真っ赤に塗ったり、時間と空間をバラバラにつないだりする独特の様式美で観客と会社を翻弄した。ついには「作品が難解すぎる」と日活をクビになり、約10年も映画を撮れなかったという、波乱に富んだキャリアの持ち主らしい。

生い立ち[編集]

1923年、東京・日本橋の呉服屋の長男として生まれる。関東大震災に被災後、本所亀沢町(現・墨田区)へ移った。東京府立第三商業学校を出て旧制弘前高等学校へ進み、柔道部に入部。1943年に学徒出陣で応召し、陸軍二等兵としてフィリピン・台湾を転戦、陸軍少尉で終戦を迎えた。

復員後、弘前高校に復学して1948年卒業。東京大学経済学部を受験するが失敗し、誘われて鎌倉アカデミアの映画科に入る。同年、松竹大船撮影所の戦後第一回助監督試験に合格。合格者は1500人中わずか8人だったというから、相当な狭き門だった。

日活と清順美学[編集]

1954年、西河克己の勧めで日活に移籍。野口博志に師事し、1956年に監督デビューした。当初は与えられた企画を量産する職人監督だったが、次第に過剰な色彩、唐突な様式、ナンセンスな笑いを盛り込みはじめ、小林旭・高橋英樹・宍戸錠ら当時の日活スターの主演作で「清順美学」と呼ばれる映像世界をつくり上げていく。

その極北が、1967年の宍戸錠主演『殺しの烙印』である。殺し屋ランキングや米の匂いフェチといった奇想に満ちたこの作品は、一般映画としてだけでなくカルト映画としても世界的に高い評価を得た。だが、あまりに前衛的な作風が日活経営陣の不興を買い、翌1968年に契約を解除されてしまう。これに映画ファンや評論家が猛反発し、「鈴木清順問題共闘会議」が結成される一大騒動に発展した。以後、約10年間、清順は映画を撮れない空白期に入る。

大正浪漫三部作と復活[編集]

1977年の『悲愁物語』で映画に復帰。そして1980年の『ツィゴイネルワイゼン』で完全復活を果たす。原田芳雄主演のこの幻想譚はキネマ旬報ベスト・テン第1位に輝き、続く『陽炎座』、1991年の『夢二』とあわせて「大正浪漫三部作」と呼ばれる、清順美学の集大成となった。脚本は田中陽造らが支えている。

晩年も衰えず、2001年『ピストルオペラ』、2005年『オペレッタ狸御殿』とアバンギャルドな作品を発表。その自由奔放な作風は、国内外の数多くの映画監督に影響を与えた。2017年2月13日、死去。弟は「気くばり」で知られた元NHKアナウンサーの鈴木健二である。

余談[編集]

  • 監督業のかたわら、味のある風貌を買われて俳優としても多くの映画・ドラマに出演した。
  • 日活時代の脚本チーム「具流八郎」は、清順を中心に田中陽造大和屋竺ら俊英が集まった集団で、『殺しの烙印』もその共同脚本である。
  • 「ストーリーがわからない」と言われ続けたが、本人はどこ吹く風。わからなさごと作品にしてしまうのが清順流だった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]