| 株式会社石原プロモーション いしはらプロモーション | |
|---|---|
| 略称 | 石原プロ |
| 国家 | 日本 |
| 種類 | 株式会社 |
| 市場情報 | 非上場 |
| 業種 | 芸能事務所、映画・テレビドラマ制作、版権管理 |
| 本社所在地 | 東京都調布市(解散時) |
| 設立日 | 1963年1月16日 |
| 廃業日 | 2021年1月16日 |
| 廃業年齢 | 58周年(数え年59) |
| 設立者 | 石原裕次郎 |
| 代表者 | 石原まき子(代表取締役会長、解散時) |
| 主要部門 | 俳優マネジメント、映画・テレビドラマの自社制作 |
| 関係する人物 | 石原裕次郎(創業者・初代社長)、渡哲也(2代目社長)、石原まき子(会長)、小林正彦(元専務)、舘ひろし、神田正輝 |
| 代表作品 | 映画『黒部の太陽』(1968年)、ドラマ『大都会』シリーズ(1976年 - 1979年)、『西部警察』シリーズ(1979年 - 1984年) |
| 別名 | 石原軍団(所属俳優の通称) |
概要[編集]
石原プロモーション(いしはらプロモーション、1963年1月16日設立 - 2021年1月16日業務終了)とは、石原裕次郎が設立した日本の芸能事務所兼映画・テレビ制作会社である。通称「石原プロ」。映画『黒部の太陽』、刑事ドラマ『大都会』『西部警察』を自社で作り、所属俳優は「石原軍団」と呼ばれた。裕次郎の遺言に従って2021年に看板を下ろした。
詳細[編集]
スターが自分で映画を作る会社[編集]
石原プロのいちばんの特徴は、ただのタレント事務所ではなく「映画製作会社」を名乗っていたことにある。当時の日本映画界には大手5社が専属俳優の引き抜きや他社出演を制限する「五社協定」があり、日活の看板スターだった裕次郎も自由に作品を選べなかった。そこで裕次郎は1963年1月16日、個人事務所として石原プロを立ち上げ、自分で企画し、自分で資金を集め、自分で主演する道を選んだ。
撮影機材や技術スタッフまで自社で抱えていたのも異色で、のちのテレビドラマでも外注に頼らず現場を回せる体制が「石原プロ流」の大規模アクションを支えた。スター俳優が経営者を兼ねる「スタープロ」は三船プロや勝プロなど同時代にいくつもあったが、半世紀以上存続して、倒産も分裂もせずに自ら幕を引いたのは石原プロくらいだとよく言われる。
「石原軍団」という呼び名[編集]
渡哲也、舘ひろし、神田正輝らの所属俳優は、その結束の強さから「石原軍団」と呼ばれた。上下関係がはっきりしていて、裕次郎を「社長」、渡を「団長」として慕う独特の空気があり、テレビの外でも軍団そろって行動する姿が名物になった。
『西部警察』の劇中で渡が演じた大門圭介の部下たちが「大門軍団」と呼ばれていたこともあって、ドラマの中と外のイメージが重なり、「石原軍団」は事務所の非公式な代名詞として定着した。年末年始の餅つきや新年会、撮影現場で全員が同じ釜の飯を食べるスタイルも、軍団らしさの象徴として語られている。
炊き出しの軍団[編集]
石原軍団の名前を芸能ニュース以外で広めたのが、災害時の炊き出しである。撮影現場でスタッフも俳優も同じ食事をとるという裕次郎以来の方針が下地にあり、ロケ用の大鍋や調理器具をそのまま被災地へ持ち込んだ。1995年の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)では兵庫県芦屋市で渡哲也と弟の渡瀬恒彦らが焼きそばなどをふるまい、渡は移動入浴車「石原裕次郎号」を市に寄贈している。
2011年の東日本大震災では、宮城県石巻市で4月14日から20日までの1週間、カレーや焼きそばを提供した。同じ年には日本橋髙島屋の「大東北展」に「屋上げんき食堂」を出店し、売上金の全額を日本赤十字社を通じて被災地に寄付している。2016年の熊本地震が石原プロとしての最後の炊き出しになり、翌2017年の石原裕次郎記念館の閉館とともに用具も処分され、21年続いた活動に区切りがついた。
歴史[編集]
1963年 - 1960年代:独立と『黒部の太陽』[編集]
1963年1月16日、日活のトップスターだった石原裕次郎が設立。設立当初の事務所は港区虎ノ門にあった。第1作は同年の映画『太平洋ひとりぼっち』で、ヨットで単独太平洋横断を果たした堀江謙一の実話を、市川崑監督で映画化した。以後『城取り』(1965年)、『栄光への挑戦』(1966年)などを製作する。
大勝負になったのが1968年2月公開の『黒部の太陽』である。関西電力の黒部ダム(黒部川第四発電所)建設で、難工事として知られた大町トンネルの掘削を描いた大作で、監督は熊井啓。三船プロダクションと石原プロの共同製作で、三船敏郎と裕次郎の2大スター共演が実現した。五社協定のもとでスター同士の他社共演は難しく、日活の堀久作社長は当初強く反対したが、三船が関西電力による前売り券100万枚の販売保証を材料に交渉し、裕次郎の出演が認められたとされる。
撮影では、トンネル内の出水シーンのために420トンの水を溜めたタンクを使い、想定以上の水が噴き出して裕次郎ら数人が負傷する事故も起きた。映画は大ヒットし、石原プロの名を一躍高めた。
1970年代前半:倒産寸前の時代[編集]
ところが、ヒットは長く続かなかった。自社で大作の製作費を背負うビジネスは当たり外れが激しく、1960年代後半は所属歌手の黛ジュンの活躍で一時的に潤ったものの、『ある兵士の賭け』(1970年)や『甦える大地』(1971年)などが興行的に失敗。負債は当時の金額で約8億円に膨らみ、会社の存続が危ぶまれた。
1971年、日活がロマンポルノ路線に転換するのに合わせて退社した渡哲也が入社する。渡は裕次郎を慕って倒産寸前の会社に飛び込み、のちに副社長として経営を支える立場になった。1972年の『反逆の報酬』が裕次郎の最後の主演映画となり、1973年の『ゴキブリ刑事』『ザ・ゴキブリ』(渡主演)を最後に、石原プロの映画製作は長い休止期に入る。
1970年代:映画からテレビへ[編集]
転機はテレビだった。1972年、裕次郎は当初断っていた日本テレビ・東宝の刑事ドラマ『太陽にほえろ!』に「ボス」こと藤堂係長役で出演。高視聴率を記録したことで、テレビの影響力を思い知ることになる。
石原プロが本格的に自社制作のテレビドラマに乗り出したのが、1976年の『大都会 闘いの日々』(日本テレビ)だった。倉本聰と石原プロの共同企画による社会派で、評価は高かったが視聴率は伸びず約2クールで終了。続く1977年の『大都会 PARTII』からは銃撃戦やカースタントを前面に出すアクション路線へ転換し、松田優作が徳吉功刑事役で出演するなどして人気番組になった。1978年からの『PARTIII』では平均視聴率20%を超えたとされる。
1979年 - 1984年:『西部警察』の時代[編集]
1979年、石原プロはより好条件を提示したテレビ朝日へ移籍し、『大都会』の設定やスタッフをほぼ引き継いだ『西部警察』をスタートさせた。放送は1979年10月から1984年10月まで、PART-IからPART-IIIまでの5年間。渡が大門圭介、裕次郎が木暮謙三課長を演じ、舘ひろし、寺尾聰、峰竜太、神田正輝、苅谷俊介らが「大門軍団」を形成した。PART-IIからは三浦友和も沖田五郎役で加わっている。
『大都会』『西部警察』の人気で、石原プロは8億円の負債を完済し、逆に約30億円の資産を築くまでに再建した。
1987年 - 2011年:裕次郎の死と渡哲也社長時代[編集]
1987年7月17日、裕次郎が52歳で死去。生前の裕次郎は妻のまき子(元女優の北原三枝)に「俺が死んだら即会社をたたみなさい」と言い残していたが、会社を愛する俳優やスタッフを前に、まき子はその遺言を言い出せなかったという。同年10月、渡が2代目社長に就任し、まき子が代表取締役(のちに会長)となる体制で会社は続いた。
渡体制では、テレビ朝日の『ゴリラ・警視庁捜査第8班』(1989年 - 1990年)、『代表取締役刑事』(1990年 - 1991年)などを制作。1991年には北海道小樽市に石原裕次郎記念館を開館し、同年に本社を調布市布田の「調布シティビル」へ移した(調布市国領町には1973年から本社があった)。2000年には新人発掘オーディションを開催し、応募総数5万2005人の中から徳重聡がグランプリに選ばれて「21世紀の石原裕次郎」として売り出された。
2003年には『西部警察』のリメイク版『西部警察2003』を準備したが、名古屋市でのロケ中に車両が見物客をけがさせる事故が起き、連続ドラマとしての制作は中止に。撮影済みの素材は2004年に2時間スペシャル『西部警察 SPECIAL』として放送された。
2011年 - 2020年:社長空席の時代[編集]
2011年3月28日の株主総会で、渡は社長を退任。神田正輝と舘ひろしも取締役を辞任して所属俳優に戻り、長年「金庫番」として会社を仕切った専務の小林正彦も退任して業界を引退した。まき子会長は後継者が決まるまで社長の席を空けておく意向を示し、以後、社長は空席のままだった。
渡は2015年に急性心筋梗塞の手術を受け、体調面の不安を抱えるようになる。2017年には小樽の石原裕次郎記念館が閉館。同年4月、渡は「相談取締役」として経営陣に復帰した。2019年には『女性自身』が石原プロの「幕引き」を報じたが、当時の専務・浅野謙治郎は、映画・ドラマ・音楽の版権を多数抱えているため会社自体の解散は簡単ではないと説明していた。
2020年 - 2022年:遺言の実行と解散[編集]
2020年7月17日、裕次郎の命日に、石原プロは2021年1月16日をもって俳優のマネジメント業務を終えると書面で発表した。まき子会長は、高齢で実務が難しくなったことから渡、舘、神田、役員らに相談し、全員の賛同を得て33年越しに裕次郎の遺言を実行すると説明。渡らは「裕次郎さんは承知してくれるのではないですか」と応じたという。同年8月10日、渡が肺炎のため78歳で死去した。
2021年1月16日、創立日と同じ日に調布市の本社で解散式が行われ、看板は裕次郎と渡の遺影に、そして仏前へと供えられた。同年3月31日に公式サイトを閉鎖し、4月30日の株主総会で解散を決議。清算手続きを経て、2022年6月23日に法人格が消滅した。
商号・版権のゆくえ[編集]
2020年の発表で、石原プロは「株式会社石原プロモーション」の商号を2021年1月16日をもって故・石原裕次郎の仏前に返還すると全員一致で決めたとした。つまり「石原プロ」という看板を誰かに譲ったり、別会社が引き継いだりする形はとらず、名前ごと裕次郎に返すという幕引きである。後継の「新・石原プロ」を名乗る会社も作られていない。
一方で、映画・テレビドラマ・音楽の版権や遺品はきちんと受け皿が用意された。2020年7月16日には遺品の管理を担う一般社団法人ISHIHARAが設立され、映像・音楽作品の版権管理は株式会社石原音楽出版社に移管された。2021年4月1日には石原音楽出版社の運営で「石原裕次郎オンライン記念館」が公開され、両法人の代表はまき子の養子である石原邦彦であることが公表された。まき子は解散後、両法人の名誉会長となっている。
元所属者のその後[編集]
舘ひろしと舘プロ[編集]
1983年、渡を慕って志願入社した舘ひろしは、在籍約37年で解散を迎えた。2021年3月に新事務所「舘プロ」を設立し、自身は社長に就かず所属俳優「第1号」として4月から活動を始めている。石原プロ出身の池田努、増本尚らも舘プロに移り、「石原軍団の流れをくむ事務所」として注目された。
舘プロは石原プロの伝統も受け継いでおり、2024年1月の能登半島地震の際には、2月21日から24日まで石川県輪島市や富山県氷見市で炊き出しを実施した。2025年1月には石原プロ恒例だった餅つきを15年ぶりに復活させ、舘は今後の目標に「石原プロでできなかった映画作り」を挙げた。2026年5月にも、裕次郎や渡の思いを継いで映画作りをやり遂げたいと語ったことが報じられている。
神田正輝・徳重聡ほか[編集]
1973年に裕次郎に声をかけられて入社した神田正輝は、取締役も務めた古参で、解散後は事務所に所属しないフリーとして活動している。1997年から総合司会を務めた『朝だ!生です旅サラダ』は、2024年9月28日の放送をもって卒業した。
2000年のオーディション出身の徳重聡は、解散翌日の2021年1月17日から大手事務所のホリ・エージェンシーに所属し、ドラマ『大岡越前』シリーズで徳川吉宗を演じるなど時代劇や刑事ドラマで活動を続けている。そのほか、寺尾聰、峰竜太、苅谷俊介、石原良純らも過去に石原プロに在籍していたことで知られる。
主な製作作品[編集]
映画[編集]
| 年 | タイトル | 備考 |
|---|---|---|
| 1963年 | 太平洋ひとりぼっち | 第1回製作作品、市川崑監督 |
| 1965年 | 城取り | |
| 1966年 | 栄光への挑戦 | |
| 1968年 | 黒部の太陽 | 三船プロと共同製作、熊井啓監督 |
| 1969年 | 栄光への5000キロ | ラリーを題材にした大作 |
| 1970年 | 富士山頂 / ある兵士の賭け / エベレスト大滑降 | |
| 1971年 | 甦える大地 | |
| 1972年 | 反逆の報酬 | 裕次郎最後の主演映画 |
| 1973年 | ゴキブリ刑事 / ザ・ゴキブリ | 渡哲也主演 |
| 2018年 | 終わった人 | 製作委員会に参加 |
テレビドラマ[編集]
| 年 | タイトル | 放送局・備考 |
|---|---|---|
| 1976年 | 大都会 闘いの日々 | 日本テレビ、脚本:倉本聰 |
| 1977年 - 1978年 | 大都会 PARTII | 日本テレビ、松田優作が出演 |
| 1978年 - 1979年 | 大都会 PARTIII | 日本テレビ |
| 1979年 - 1984年 | 西部警察(PART-I - PART-III) | テレビ朝日、全236話 |
| 1989年 - 1990年 | ゴリラ・警視庁捜査第8班 | テレビ朝日 |
| 1990年 - 1991年 | 代表取締役刑事 | テレビ朝日 |
| 2004年 | 西部警察 SPECIAL | テレビ朝日 |
| 2004年 | 弟 | テレビ朝日、裕次郎と兄・石原慎太郎を描く |
| 2015年 | 西部警察 全国キャラバン!!ロケ聖地巡礼 | ロケ地紀行番組(全10話) |
『西部警察』と爆破・カースタント[編集]
石原プロの代名詞といえば、やはり『西部警察』の派手なアクションである。ポニーキャニオンの40周年記念DVD-BOX発売時に紹介された数字によれば、全236話で壊した車両は約4680台(1話平均約20台)、壊した家屋や建物は320軒、使った火薬は4.8トン、ガソリンは1万2000リットル。出演した俳優は延べ1万2000人、ロケ地は4500か所、封鎖した道路は4万か所、飛ばしたヘリコプターは600機、そして書いた始末書は45枚とされる。
車両は日産自動車が全面協力し、日産プリンス自動車販売の特販推進室がカスタムを担当した。スカイラインをベースにした「マシンX」(PART-I第45話から登場)、大門団長専用のガルウイング仕様のフェアレディZ「スーパーZ」(PART-II第15話から)、多目的装甲車「レディバード」などの「スーパーマシン」は、子どもたちの憧れになった。レディバードが国会議事堂前を走るシーンや、銀座の真ん中でパトカーを踏みつぶすシーンは今も語り草だ。
もうひとつの名物が「日本全国縦断ロケ」である。広島、北海道、静岡、名古屋、福岡、山形県酒田、岡山、仙台、鹿児島などを巡り、地元を舞台に大規模な爆破やカーチェイスを繰り広げた。ロケ地には見物客が殺到し、地方都市にとっては一大イベントだった。撮影現場は危険と隣り合わせで、湖での船の爆破シーンでは、消火のためにスタッフが船に乗ったまま撮影したという証言もある。
PART-IIIの最終回では大門が殉職し、5年間のシリーズは幕を閉じた。『西部警察』の数字は、昭和のテレビドラマがどれほど「本物」にこだわったかを示すエピソードとして、今もたびたび紹介されている。
解散後の再評価と関連企画[編集]
石原プロがなくなった後も、作品は放送・上映・ソフトを通じて生き続けている。『黒部の太陽』は裕次郎の「映画館の大きなスクリーンで見てほしい」という意向で長くソフト化されず、事実上の封印作品だったが、2012年にNHK BSプレミアムで短縮版が放送され、2013年3月にポニーキャニオンからBlu-ray・DVDが発売された。2021年3月にもNHK BSプレミアムでノーカット完全版が放送されている。
裕次郎の生誕90年にあたる2024年には、11月21日に『黒部の太陽』が1968年の公開館と同じ有楽町・丸の内ピカデリーで1回限り上映され、12月にはBS松竹東急で石原プロ製作映画5作品が5夜連続で放送された。石原プロ作品の一挙放送は史上初とされる。同年9月にはCSのホームドラマチャンネルで『大都会 PARTII』の放送と関連特番が組まれた。
2025年12月には渋谷の西武渋谷店で「石原裕次郎生誕90周年祭」が開かれ、オープニングに登場した舘ひろしは「渡さんと石原さんのおかげ」と語った。裕次郎の映画デビュー70周年となる2026年には、6月にテイチクから記念CDが発売され、9月には東急百貨店たまプラーザ店で日活との共同主催の特別展「石原裕次郎と日活スターたち」が開かれた。ホームドラマチャンネルでは2026年7月に『西部警察 PART-II』のアンコール放送、8月14日から『大都会 PARTIII』の放送が始まっている。
よくある質問[編集]
Q. 石原プロモーションはどんな会社?
A. 1963年に石原裕次郎が設立した芸能事務所兼映画・テレビ制作会社。『黒部の太陽』『大都会』『西部警察』などを自社で制作し、所属俳優は「石原軍団」と呼ばれた。
Q. 石原プロは今もある?
A. ない。2021年1月16日に業務を終え、同年4月30日の株主総会で解散を決議、2022年6月23日に法人格が消滅した。版権は石原音楽出版社、遺品は一般社団法人ISHIHARAが管理している。
Q. なぜ解散したの?
A. 裕次郎が生前に「俺が死んだら即会社をたたみなさい」と言い残していたため。まき子会長が高齢で実務が難しくなったことを機に、渡哲也・舘ひろし・神田正輝らの賛同を得て、33年越しに遺言を実行したと説明されている。
Q. 歴代社長は?
A. 初代が石原裕次郎(1963年 - 1987年)、2代目が渡哲也(1987年 - 2011年)。2011年以降は社長空席のまま、石原まき子が代表取締役会長として会社を率いた。
Q. 「石原軍団」のメンバーは?
A. 代表的なのは石原裕次郎、渡哲也、舘ひろし、神田正輝、徳重聡ら。過去には寺尾聰、峰竜太、苅谷俊介、石原良純なども所属した。
Q. 元所属俳優は今どこに?
A. 舘ひろしは2021年に舘プロを設立し、池田努らも移籍。神田正輝はフリー、徳重聡はホリ・エージェンシーに所属している。渡哲也は解散前の2020年8月に死去した。
Q. 『西部警察』はどこで見られる?
A. 全236話を収めたDVD-BOXが発売されているほか、CSのホームドラマチャンネルなどで繰り返し放送されている(2026年夏にもPART-IIのアンコール放送があった)。動画配信の状況は時期によって変わるので、各サービスで確認するのが確実。
Q. 『黒部の太陽』は見られる?
A. 2013年からBlu-ray・DVDで見られる。長く「封印作品」だったが、現在はテレビ放送や特別上映も行われている。
余談[編集]
- 1971年に渡哲也が入社した際、手持ちの180万円を「社員のために」と裕次郎に差し出し、裕次郎は受け取らなかったが入社を認めたという逸話がある。石原プロの「創業神話」の一つとして繰り返し語られてきた。
- 設立日の1月16日は、58年後の解散式の日にもそのまま選ばれた。解散の発表日が裕次郎の命日(7月17日)だったのも含め、日付へのこだわりが随所に見える。
- 『西部警察』PART-Iに出演していた寺尾聰は、放送中の1981年に「ルビーの指環」を大ヒットさせた。ドラマの主演俳優が主題歌や挿入歌を歌うのは『大都会 PARTII』以来の石原プロの慣例でもあった。
- 1999年から2001年にかけて、マイカル小樽には「石原プロワールド・西部警察」という関連施設が営業していた。小樽は裕次郎が幼少期を過ごした街でもある。
- 『西部警察』の「始末書45枚」は、DVD-BOXの宣伝でも公式の数字として紹介されるほどの名物エピソードになっている。
外部リンク[編集]
- 舘プロ 公式サイト(元所属・舘ひろしの事務所)