| 石原裕次郎 いしはら ゆうじろう / Yujiro Ishihara | |
|---|---|
![]() レコードの吹き込みを行う石原裕次郎(1957年。出典:Wikimedia Commons) | |
| 本名 | 石原裕次郎 |
| 誕生日 | 1934年12月28日 |
| 死亡日 | 1987年7月17日 |
| 死亡年齢 | 52歳(数え年54) |
| 出身地 | 兵庫県神戸市須磨区(育ちは北海道小樽、神奈川県逗子) |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 慶應義塾大学法学部政治学科 中退 |
| ジャンル | 映画、テレビドラマ、歌謡曲 |
| 活動期間 | 1956年 - 1987年 |
| デビューアルバム | 映画『太陽の季節』(1956年、端役) |
| 家族 |
兄:石原慎太郎(作家・元東京都知事) 妻:石原まき子(元女優・北原三枝) |
| 事務所 | 日活(専属、1956年 - )→ 石原プロモーション(1963年設立) |
| 代表作 |
映画『狂った果実』『嵐を呼ぶ男』『黒部の太陽』 ドラマ『太陽にほえろ!』『西部警察』 楽曲「銀座の恋の物語」「夜霧よ今夜も有難う」「ブランデーグラス」 |
| ファンクラブ | 裕次郎倶楽部(テイチク公式音楽ファンサイト) |
| 関連活動 | 石原プロモーション(石原軍団) |
| あだ名 | 裕ちゃん、タフガイ、ボス |
| その他 | 1981年に解離性大動脈瘤の大手術から生還。1987年7月17日死去(52歳) |
| リンク | テイチクレコード 石原裕次郎 |
概要[編集]
石原裕次郎(いしはら ゆうじろう、1934年12月28日 - 1987年7月17日)とは、昭和を代表する日本の俳優・歌手である。兄・石原慎太郎の『太陽の季節』映画化で1956年にデビューし、日活のドル箱スターとして「タフガイ」の名で一時代を築いた。1963年に石原プロモーションを設立して『黒部の太陽』を製作し、テレビでは『太陽にほえろ!』の「ボス」、『西部警察』の木暮課長として親しまれた。
詳細[編集]
太陽族と「タフガイ」[編集]
1956年、兄・慎太郎が芥川賞を受賞した『太陽の季節』が日活で映画化され、慎太郎の弟だった裕次郎はその縁で端役として出演した。これがプロデューサーの水の江瀧子の目に留まり、同年の『狂った果実』でいきなり主役に抜擢される。湘南の海とヨット、無軌道な若者を描いたこれらの映画は「太陽族」という流行語を生み、長い脚と不良っぽい笑顔の裕次郎はその象徴になった。
以後、『嵐を呼ぶ男』(1957年)などのヒットで日活の看板スターとなり、小林旭・赤木圭一郎・和田浩治らと「ダイヤモンド・ライン」と呼ばれるスター路線の中心に立った。愛称は「タフガイ」「裕ちゃん」。日活の青春映画・アクション映画には約90本出演したとされ、戦後の映画スターとしては別格の存在として語られる。『キネマ旬報』が2000年に選んだ「20世紀の映画スター・男優編」では日本男優の2位に入っている。
「歌う映画スター」[編集]
裕次郎は俳優であると同時に、昭和歌謡を代表するヒット歌手でもあった。『狂った果実』で歌手デビューし、映画の主題歌を自ら歌って当てるのが黄金パターン。「銀座の恋の物語」(約335万枚)、「二人の世界」(約285万枚)、「赤いハンカチ」(約275万枚)などが大ヒットし、2005年時点の集計では発売タイトル2,217点、レコード・CDの総売上は約6,960万枚に達したとされる。
一方で本人は自分を「素人の歌い手」と考えていたとされ、NHK紅白歌合戦には歌手として一度も出場していない(1957年に雪村いづみの応援ゲストとして出演したことはある)。作曲家の浜口庫之助は、裕次郎の歌を「うまくはないが、おいしい歌が歌える」と評したという。
映画会社と闘った製作者[編集]
1963年1月16日、裕次郎は個人事務所として石原プロモーションを設立した。撮影機材や技術スタッフまで自前で抱える「映画製作会社」を名乗り、俳優が自分で映画を作る「スタープロ」の先駆けとなった。第1作は単独太平洋横断を描いた『太平洋ひとりぼっち』(1963年)で、芸術祭賞を受けている。
最大の勝負が、東宝の三船敏郎と組んだ『黒部の太陽』(1968年)だった。俳優の他社作品への出演を縛る「五社協定」がまだ生きていた時代に、二大スターが手を組んで黒部ダム(黒四ダム)建設のトンネル工事を描く大作を自主製作したのである。製作費は3億8千万円、観客動員は約730万人(800万人とする資料もある)という大ヒットになった。
テレビの「ボス」[編集]
映画産業が斜陽になるなか、石原プロは作品の不振で約8億円の負債を抱えた。そこで裕次郎は周囲の説得を受け、1972年に日本テレビ系『太陽にほえろ!』に出演する。役は七曲署捜査第一係長の藤堂俊介、通称「ボス」。当初は乗り気ではなかったとされるが、番組は14年続く大ヒットとなり、テレビの影響力を実感した裕次郎は活動の軸をテレビへ移していった。
石原プロ自社製作の『大都会』シリーズ、そしてテレビ朝日系『西部警察』(1979年 - 1984年)の成功で負債を返済し、会社は再建に成功した。映画スター・裕次郎は、こうして茶の間の「ボス」「課長」として第二の黄金期を迎えた。
経歴[編集]
1934年 - 1955年:生い立ち[編集]
1934年12月28日、兵庫県神戸市須磨区で生まれた(運転免許証などの戸籍上の生年月日は1935年1月3日とされる)。父・石原潔は山下汽船の社員で、転勤に伴い一家は北海道小樽へ移り、裕次郎は小樽の幼稚園・国民学校に通った。のちに神奈川県逗子へ転居し、逗子の海でヨットを覚えている。
逗子中学校ではバスケットボールに熱中したが、ケガで選手の道は断たれた。慶應義塾農業高校から慶應義塾高校へ編入し、慶應義塾大学法学部政治学科へ内部進学。父の急死後は遊びに明け暮れる時期もあったとされ、その日々は兄・慎太郎が小説の題材にもしている。
1956年 - 1962年:日活のスター[編集]
1956年、『太陽の季節』の端役で映画デビューし、同年の『狂った果実』で主演・歌手デビュー。大学は同年に中退した。1957年には『嵐を呼ぶ男』『幕末太陽傳』(川島雄三監督)などに出演し、ブルーリボン賞新人賞を受賞。『俺は待ってるぜ』『錆びたナイフ』『赤い波止場』など、主題歌とセットのヒット作を量産した。
『狂った果実』で共演した北原三枝とは計23本で共演し、日活の看板コンビになった。日活は2大スターの結婚に強く反対したとされるが、2人は1960年1月にアメリカへ婚前旅行に出かけ、4月に婚約を発表、同年に結婚した。北原は結婚を機に女優を引退している。結婚直後にはスキー事故で脚を複雑骨折し、全治8か月の重傷で俳優生命を危ぶまれたこともある。1962年には浅丘ルリ子と共演した『銀座の恋の物語』が公開され、同名主題歌は裕次郎最大のヒット曲になった。
1963年 - 1971年:石原プロ設立と『黒部の太陽』[編集]
1963年1月、石原プロモーションを設立。同年夏にはヨットで日米間のトランスパシフィック・ヨットレースにも参加している。『太平洋ひとりぼっち』(1963年)、『黒部の太陽』(1968年)、『栄光への5000キロ』(1969年)と大作を次々に送り出した。
『黒部の太陽』は熊井啓監督、三船プロダクションとの共同製作。撮影中、トンネル内の出水シーンで撮影用ケーブルが体に絡まって気絶し、大量の水を飲むという大けがを負っている。一方で、『富士山頂』『ある兵士の賭け』『甦える大地』など、興行的に苦戦した作品も多かった。1967年頃には所属歌手・黛ジュンのヒットで経営が潤ったが、70年代初めには多額の負債を抱え、会社は存亡の危機に立たされた。
この危機のさなか、日活時代から裕次郎を慕っていた渡哲也が石原プロに加わる。渡は会社の窮状を知って180万円を差し出したという逸話で知られ、のちに石原プロの屋台骨となる。
1972年 - 1980年:テレビへ[編集]
1972年7月、『太陽にほえろ!』の放送が始まった。裕次郎演じる藤堂係長のもと、萩原健一(マカロニ)、松田優作(ジーパン)、勝野洋(テキサス)ら新人刑事が次々に登場しては殉職していくスタイルが若者に受け、番組は国民的刑事ドラマになった。1973年の映画『反逆の報酬』が最後の主演映画とされる。
1977年発売の「ブランデーグラス」は当初こそ目立たなかったが、のちに『西部警察』の劇中で歌われて売上を伸ばし、最終的に152万枚のヒットとなった。1978年には舌下潰瘍で入院・手術を受けている(このとき本人には知らされなかったが、舌癌と診断されていた)。1979年10月には『西部警察』がスタート。裕次郎は西部署捜査課長の木暮謙三を演じ、渡哲也が主演の大門圭介、舘ひろしが巽刑事(のちに鳩村刑事)を演じた。
1981年:解離性大動脈瘤からの生還[編集]
1981年、『西部警察』のロケ中に背中に激痛が走り、慶應義塾大学病院に緊急入院。解離性大動脈瘤と診断された。生還率3%ともいわれた大手術を受け、回復して退院した。入院中、病院の屋上からファンに手を振る姿は大きく報じられた。
同年のクリスマスに『太陽にほえろ!』第489話で復帰。『西部警察』PART-II、PART-IIIでは「日本全国縦断ロケ」が行われ、これは裕次郎の闘病・復帰と、全国のファンへの謝恩の意味を込めたものとされている。1982年には劇場アニメ『わが青春のアルカディア』(松本零士原作)でファントム・F・ハーロック一世の声を担当した。
1984年 - 1987年:闘病と死去[編集]
1984年、肝細胞癌が見つかったが、本人には最期まで告知されなかったとされる。『西部警察』は同年10月のPART-III最終回で幕を閉じた。1986年5月頃に再入院し、『太陽にほえろ!』では渡哲也演じる橘兵庫警部が係長代理を務めた。健康な状態での復帰は難しいとして降板を申し出たことから、番組は円満終了が決まる。同年11月14日放送の最終回(第718話)に裕次郎は復帰し、アドリブを交えて命の尊さを語った。これが俳優としての最後の演技とされている。
その後はハワイで静養し、1987年4月に帰国。5月に再入院し、意識不明の状態が続いた。1987年7月17日、52歳で死去。同年発売の「わが人生に悔いなし」、そして死後に発売された「北の旅人」(125万枚)がヒットし、日本レコード大賞特別賞(3度目)、日本アカデミー賞会長特別賞などが贈られた。
没後:石原軍団と石原プロ解散[編集]
裕次郎は生前、「俺が死んだら即会社をたたみなさい」と遺言していたとされるが、まき子夫人はそれを社員に言い出せず、会社は存続した。2代目社長に渡哲也が就き、神田正輝・舘ひろしが取締役に、まき子が会長となる。撮影現場で全員が同じ食事をとるという裕次郎の方針から始まった「炊き出し」は、阪神・淡路大震災や東日本大震災などの被災地支援として続けられ、「石原軍団」の代名詞になった。
2011年には渡・神田・舘らが取締役を退き、一俳優として所属する体制に移行。2020年7月17日、裕次郎の命日に、2021年1月16日をもって芸能事務所の業務を終了すると発表した。同年8月10日に渡哲也が死去(79歳)。2021年1月16日、創立日と同じ日に解散式が行われ、看板は裕次郎と渡の仏前に返された。2021年4月30日の株主総会で解散が決議され、2022年6月に法人格が消滅している。遺品の管理は一般社団法人ISHIHARAが、版権関係は石原音楽出版社が引き継いだ。
2020年代:生誕90年、デビュー70周年[編集]
2022年2月1日には兄・慎太郎が死去した。2024年は生誕90年にあたり、11月21日には『黒部の太陽』が1968年の公開館と同じ有楽町・丸の内ピカデリーで1回限りの上映会として上映された。12月にはBS松竹東急で石原プロ製作映画5作品が5夜連続で放送され、石原プロ作品の一挙放送は史上初とされた。同年12月28日の誕生日には、テイチクが初配信音源を含む約500曲の配信を開始し、YouTubeに「石原裕次郎Music Channel」を開設している。
2025年12月には渋谷の西武渋谷店で「石原裕次郎生誕90周年祭」が開かれ、オープニングで舘ひろしがハワイでの思い出などを語った。映画デビューから70年となる2026年には、6月にテイチクがデビュー70周年記念の2枚組CD「石原裕次郎 オリジナル & カバー ヒットセレクション」を発売。9月24日から29日には東急百貨店たまプラーザ店で、日活との共同主催による特別展「石原裕次郎と日活スターたち」が開かれ、記念の純金カード・純金プレートの予約も受け付けられた。同年5月には、舘ひろしが裕次郎や渡の思いを継いで「映画作りをやり遂げたい」と語ったことを日刊スポーツが報じている。
人物[編集]
- 子どもの頃から芝居より歌が好きだったとされ、好きな歌はディック・ミネの「夜霧のブルース」など。
- レコーディングは、車の中でデモテープを聴いてその日のうちに覚え、ビールを飲みながら、ヘッドホンなしでほぼ一発録りしたという逸話が残る。
- ヨットは兄・慎太郎とともに木製ディンギーから始め、ヨット「コンテッサ」シリーズを所有した。海を愛したスターとして、逗子・湘南のイメージと強く結びついている。
- オーダーメイドの衣装を多数持ち、メルセデス・ベンツ300SLなどの名車を所有した洒落者でもあった。
- 勝新太郎とは互いを「兄弟」と呼び合う仲。1学年下の長嶋茂雄とも親交があり、一緒にアメリカ旅行をしている。
- 舘ひろしは、裕次郎がセリフを覚えてこないこともあり、ブラインドを下ろすシーンでバインダーを見ながらセリフを言っていたと明かしている。また、病後に禁煙を言われていたにもかかわらず、ハワイで舘を連れてトイレのそばで一緒にタバコを吸っていたという。
- 渡哲也とは誕生日が同じ12月28日。
主な作品[編集]
映画[編集]
| 年 | タイトル | 備考 |
|---|---|---|
| 1956年 | 太陽の季節 | 映画デビュー(端役) |
| 1956年 | 狂った果実 | 初主演・歌手デビュー。北原三枝と共演 |
| 1957年 | 俺は待ってるぜ | 主題歌もヒット |
| 1957年 | 幕末太陽傳 | 川島雄三監督。高杉晋作役 |
| 1957年 | 嵐を呼ぶ男 | ドラマー役。代表作の一つ |
| 1958年 | 錆びたナイフ / 赤い波止場 | |
| 1962年 | 銀座の恋の物語 | 浅丘ルリ子と共演 |
| 1963年 | 太平洋ひとりぼっち | 石原プロ第1作。芸術祭賞 |
| 1964年 | 赤いハンカチ | 浅丘ルリ子と共演 |
| 1968年 | 黒部の太陽 | 三船敏郎と共同製作・主演 |
| 1969年 | 栄光への5000キロ | サファリ・ラリーが舞台 |
| 1970年 | ある兵士の賭け / 富士山頂 | 石原プロ製作 |
| 1971年 | 甦える大地 | 渡哲也と共演 |
| 1973年 | 反逆の報酬 | 最後の主演映画とされる |
| 1982年 | わが青春のアルカディア | 声の出演(ファントム・F・ハーロック一世) |
テレビドラマ[編集]
- 『太陽にほえろ!』(日本テレビ、1972年 - 1986年)- 藤堂俊介(ボス)
- 『大都会』シリーズ(日本テレビ、1976年 - 1979年)
- 『西部警察』シリーズ(テレビ朝日、1979年 - 1984年)- 木暮謙三
主なシングル曲[編集]
- 「俺は待ってるぜ」
- 「錆びたナイフ」
- 「嵐を呼ぶ男」
- 「銀座の恋の物語」(牧村旬子とのデュエット、約335万枚)
- 「赤いハンカチ」(約275万枚)
- 「二人の世界」(約285万枚)
- 「夜霧よ今夜も有難う」(1967年、作詞・作曲:浜口庫之助)
- 「恋の町札幌」
- 「ブランデーグラス」(1977年、152万枚。日本レコード大賞ロング・セラー賞)
- 「わが人生に悔いなし」(1987年)
- 「北の旅人」(1987年、125万枚)
『黒部の太陽』という「幻の映画」[編集]
『黒部の太陽』は、関西電力の黒部川第四発電所(黒四ダム)建設の難工事を、木本正次の同名小説をもとに描いた作品。主人公の岩岡剛を裕次郎、関西電力の責任者・北川を三船敏郎が演じた。撮影前は「映画化不可能」と言われたほどの大作で、富山県の現場さながらのトンネル出水シーンでは、裕次郎自身を含む負傷者が出た。
この作品が「幻の映画」と呼ばれたのは、裕次郎の「映画は大きなスクリーンで見てほしい」という意思により、ノーカット版が長くビデオ・DVD化されなかったためである。1968年の公開以降、特別上映を除いて一般には見られない時期が続いた。没後25年の2012年、「裕次郎の夢~全国縦断チャリティ上映会~」として44年ぶりにスクリーンで上映され、収益は東日本大震災の義援金に充てられた。2013年3月20日には、ついにBlu-ray・DVDが発売されている。
現在は配信でも見られるようになり、生誕90年の2024年には丸の内ピカデリーでの上映会やBS松竹東急での放送が行われた。
石原軍団と俳優たち[編集]
石原プロに所属・関係した俳優たちは「石原軍団」と呼ばれた。中心にいたのが、裕次郎を兄のように慕った渡哲也である。渡は『太陽にほえろ!』で裕次郎の代役を務め、最終回でも共演した。裕次郎の没後は2代目社長として会社を率い、2020年に亡くなった。
舘ひろしは『西部警察』で裕次郎・渡と共演した。撮影現場では渡を優先していたため当初は裕次郎と距離があったが、正月にハワイで2人きりで話したことをきっかけに、非常にかわいがられるようになったと語っている。石原プロ解散後は舘プロを設立し、2024年の能登半島地震では石原軍団の伝統である炊き出しを行った。2025年1月には、石原プロ恒例だった餅つきを15年ぶりに復活させ、今後の目標に「石原プロでできなかった映画作り」を挙げている。
神田正輝は『太陽にほえろ!』でドック刑事(西條昭)を演じ、石原プロでは取締役も務めた。2017年の石原裕次郎記念館の閉館セレモニーでは、舘とともに来場者に酒を振る舞っている。松田優作は石原プロの所属ではないが、『太陽にほえろ!』でジーパン刑事を演じ、裕次郎のボスのもとで殉職シーンを演じて一躍スターになった。
ほかに寺尾聰、徳重聡、石原良純(甥)なども石原プロに所属した。2016年には「21世紀の石原裕次郎を探せ!」以来16年ぶりとなる新人オーディションが開かれ、神田穣がグランプリに選ばれている。
家族[編集]
- 父:石原潔(山下汽船社員)
- 母:石原光子
- 兄:石原慎太郎(作家・元東京都知事、2022年死去)。甥に政治家の石原伸晃、タレントの石原良純らがいる。
- 妻:石原まき子(旧芸名:北原三枝、1933年生まれ)。日劇ダンシングチームを経て松竹、日活に所属した人気女優で、裕次郎とは23本で共演。結婚後は引退し、石原プロを裏方として支えた。裕次郎の没後は代表取締役、のちに会長を務め、解散後は一般社団法人ISHIHARA、石原音楽出版社の名誉会長となっている。2024年には『黒部の太陽』などの特集放送に寄せて直筆の手紙を公開し、映画製作を裕次郎にとっての「青春」だったと振り返った。
裕次郎夫妻に子どもはいない。まき子は甥を養子に迎え、ISHIHARAや石原音楽出版社の代表を務めている。
石原裕次郎記念館[編集]
1991年7月22日、裕次郎が少年時代を過ごした北海道小樽市の小樽港マリーナ隣に「石原裕次郎記念館」が開館した。愛用のヨットや車、衣装、映画のセット再現などが展示され、全国から多くのファンが訪れる観光名所になった。
しかし来館者の減少と建物の老朽化を理由に、2017年8月31日、開館26年で閉館した。閉館セレモニーにはまき子夫人、舘ひろし、神田正輝、徳重聡らが出席し、来場者に振る舞い酒が出された。展示品はその後「全国縦断石原裕次郎遺品展」として各地を巡回。2021年4月1日には、石原プロの公式サイト閉鎖と入れ替わる形で「石原裕次郎オンライン記念館」が開設され、石原音楽出版社が運営している。
命日と法要[編集]
裕次郎がアジサイを好んだことから、7月17日の命日は「あじさい忌」と呼ばれる。墓所は横浜市鶴見区の總持寺で、戒名は「陽光院天真寛裕大居士」。
法要は毎回大規模で、7回忌には3万8000人、13回忌には20万人以上、2009年の23回忌には約12万人が参列したとされる。2019年の33回忌をもって「弔い上げ」とされ、大規模な法要には区切りがついた。翌2020年の命日には、石原プロの業務終了が発表されている。
よくある質問[編集]
Q. 石原裕次郎は何者?
A. 昭和を代表する映画スター・歌手。1956年に日活でデビューして「タフガイ」と呼ばれ、1963年に石原プロモーションを設立。テレビでは『太陽にほえろ!』のボス、『西部警察』の木暮課長として知られる。
Q. 死因は?いつ亡くなった?
A. 1987年7月17日に52歳で死去した。1984年に肝細胞癌が見つかっており、1987年5月に再入院したのち亡くなった。それ以前の1981年には解離性大動脈瘤の大手術から生還している。
Q. 本名は?
A. 本名も石原裕次郎。愛称は「裕ちゃん」「タフガイ」、ドラマの役から「ボス」とも呼ばれた。
Q. 家族は?石原慎太郎との関係は?
A. 作家で元東京都知事の石原慎太郎は2歳上の実兄。妻は元女優の北原三枝(石原まき子)で、1960年に結婚した。子どもはいない。
Q. 代表作・代表曲は?
A. 映画なら『狂った果実』『嵐を呼ぶ男』『銀座の恋の物語』『黒部の太陽』、ドラマなら『太陽にほえろ!』『西部警察』。曲では「銀座の恋の物語」「夜霧よ今夜も有難う」「ブランデーグラス」「北の旅人」などが有名。
Q. 石原プロモーションは今もある?
A. ない。2021年1月16日に芸能事務所としての業務を終え、同年4月に解散を決議、2022年6月に法人格が消滅した。舘ひろしは舘プロを設立して独立している。
Q. 石原裕次郎記念館はどこにある?
A. 北海道小樽市にあったが、2017年8月31日に閉館した。現在は「石原裕次郎オンライン記念館」がある。
Q. どこで見れる・聴ける?
A. 楽曲は2024年12月から、初配信音源を含む約500曲が各種音楽配信サービスで順次配信されている。テイチク公式のYouTube「石原裕次郎Music Channel」もある。『黒部の太陽』はU-NEXTなどで配信されているほか、Blu-ray・DVDも出ている。『西部警察』は全236話のDVD-BOXなどで見られる。配信状況は時期によって変わるので各サービスで確認を。
Q. 2026年は何かある?
A. 2026年は映画デビュー70周年。テイチクの記念CD発売、東急百貨店たまプラーザ店での特別展「石原裕次郎と日活スターたち」(9月)などの企画が行われた。
炎上とバズ[編集]
太陽族映画と社会現象[編集]
デビュー当時の『太陽の季節』『狂った果実』は、若者の享楽的な生き方を描いたことで「太陽族映画」として社会問題化し、批判も浴びた。一方で、裕次郎の髪型(慎太郎刈り)やファッションは若者の間で大流行し、彼の存在そのものが社会現象として語られた。
『西部警察』の破壊スケール[編集]
『西部警察』は、カーアクションと爆破の派手さで今も語り草になっている。番組の公称では、壊した車両は約4,680台、壊した家屋・建物は320軒、使用火薬は4.8トンにのぼったとされる。地方ロケでは地元企業とのタイアップも多用された。
「最年長1位」[編集]
1987年、52歳でオリコンのシングルチャート1位を獲得し、当時の最年長記録となった(のちに小田和正が更新)。デュエット曲28曲という記録も、当時の日本記録だったとされる。
余談[編集]
- 生年月日は公式には1934年12月28日だが、運転免許証などの戸籍上は1935年1月3日とされる。
- 1980年、東京・成城の自宅敷地から古墳時代の土器が見つかり、話題になったことがある。
- 渡哲也とは誕生日が同じ12月28日。石原プロの創立日(1月16日)は、のちに解散式の日にも選ばれた。
- 『西部警察』の全国縦断ロケは、闘病から復帰した裕次郎が全国のファンに恩返しをする意味もあったとされる。
- 1957年にLPレコードを発売しており、日本の歌謡曲歌手として最初期のLPの一つとされる(諸説ある)。
- 『黒部の太陽』の2012年の上映会は全国約140か所で予定され、収益は東日本大震災の義援金になった。
