| 浅丘ルリ子 あさおか るりこ / Ruriko Asaoka | |
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![]() 東京国際映画祭2019『男はつらいよ お帰り 寅さん』登壇時の浅丘ルリ子(出典:Wikimedia Commons) | |
| 本名 | 浅井信子(あさい のぶこ) |
| 誕生日 | 1940年7月2日 |
| 年齢 | 86歳 |
| 出身地 | 満洲国新京市(現・中国吉林省長春市) |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 千代田区立今川中学校卒業、菊華高等学校(現・杉並学院高等学校)中退 |
| ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台、歌謡曲 |
| 活動期間 | 1955年 - |
| デビューアルバム | 1955年 映画『緑はるかに』(日活) |
| 家族 | 元夫・石坂浩二(1971年結婚、2000年離婚) |
| 血液型 | A型 |
| 事務所 | カラント |
| 代表作 | 『緑はるかに』、「渡り鳥」シリーズ、『銀座の恋の物語』、『憎いあンちくしょう』、『執炎』、『夜霧よ今夜も有難う』、『戦争と人間』、『男はつらいよ』シリーズ(リリー)、『2丁目3番地』、『やすらぎの郷』 |
| 関連活動 | 歌手(「夕陽の丘」「愛の化石」ほか)、自伝『私は女優』(日本経済新聞出版社) |
| あだ名 | ルリ子、信ちゃん(美空ひばりからの呼び名) |
| その他 | 紫綬褒章(2002年)、旭日小綬章(2011年)、ブルーリボン賞主演女優賞(1975年度) |
概要[編集]
浅丘ルリ子(あさおか るりこ、1940年7月2日 - )とは、満洲国新京市(現在の長春)生まれの日本の女優である。14歳で日活映画『緑はるかに』のヒロインに抜てきされ、小林旭や石原裕次郎の相手役として日活の看板女優に。のちに『男はつらいよ』のリリー役でシリーズ最多4回のマドンナを務め、映画出演は150本を超える。
詳細[編集]
新京生まれ、バンコクで終戦を迎えた少女[編集]
1940年、満洲国の首都・新京で、4人姉妹の次女として生まれた。本名は浅井信子。父の浅井源治郎は大蔵省の官僚を経て満洲国経済部大臣の秘書官を務めた人物で、1943年春、一家は仕事の都合でタイのバンコクへ移る。自伝『私は女優』には、幼いころ東條英機に頭をなでられた記憶があると書かれている。
1945年の終戦後、一家はバンコク郊外の収容所に抑留された。とはいえ塀や鉄条網はなく、食料も比較的あったという。この収容所では慰安のための劇団がつくられ、幼い信子も舞台に立った。本人はこれを「女優としての原点」と振り返っている。
「紙一重」の引き揚げ[編集]
1946年夏の引き揚げでは、一家が乗る予定だった船に要人が乗ることになり、次の便に回された。ところが先に出た船は沈没。一家は文字どおり紙一重で助かった。著書『咲きつづける』では、もしタイへ行かず満洲に残っていたら「私は中国残留孤児になっていたかもしれません」と語っている。
帰国後は茨城県の大洗港近くの親戚を頼り、千葉県館山の引き揚げ寮を経て、小学3年生のときに東京・神田の借家へ移った。父は戦後、代議士秘書の職に就いたが、暮らしは楽ではなく、母は毛布を染めてコートに仕立てるなど工夫を重ねて家計を支えたという。2025年には、外地からの引き揚げ者の体験を紹介する記事で、赤塚不二夫らと並んで浅丘の体験が取り上げられた。
3000人の中から選ばれた「ルリコ」[編集]
転機は1954年夏。読売新聞で連載されていた北条誠の小説『緑はるかに』(挿絵は中原淳一)が映画化されることになり、ヒロイン「ルリコ」役が一般募集された。千代田区立今川中学校に通っていた信子はこれに応募し、同年11月の面接を経て約3000人の中から選ばれる。中原淳一がメイクをした彼女を見て「この子だ」と推したとされる。
芸名は、役名の「ルリコ」に本名の「浅」、小説のイメージから取った「丘」を組み合わせたもの。1955年公開の『緑はるかに』は、日活にとっても浅丘本人にとっても初のカラー作品となった。映画のヒットで、彼女の髪型をまねた「ルリコカット」が流行。一方で、撮影のために学校を長く休んだことから、PTAと生徒会が花輪を出して一時物議を醸したというエピソードも残る。高校は菊華高等学校(現・杉並学院高等学校)に進んだが、多忙のため中退している。
経歴[編集]
日活アクションの「永遠のヒロイン」[編集]
デビュー後の浅丘は、1958年に日本映画製作者協会新人賞を受賞し、日活の若手看板として量産体制に組み込まれる。とくに有名なのが、小林旭主演の「渡り鳥」シリーズだ。『ギターを持った渡り鳥』『大草原の渡り鳥』などで、各地を流れるヒーローを待つ清純なヒロインを演じ、「流れ者」シリーズ、「銀座旋風児」シリーズとあわせた小林旭の三大アクション・シリーズで相手役を務めた。
その一方で、石原裕次郎とのコンビも日活の黄金カードだった。『銀座の恋の物語』(1962年)、『赤いハンカチ』(1964年)、『夕陽の丘』(1964年)、『夜霧よ今夜も有難う』(1967年)など、ムード・アクションの名作で共演を重ねる。日活には吉永小百合や渡哲也らも続き、スター・システムの最盛期を形づくった。
本人は2025年のテレビ対談で、日活時代には「映画の中でも恋をさせるな、旭とは。」と言われていた一方、裕次郎とは恋愛役をやらされていた、という趣旨の話をしている。
蔵原惟繕との「大人の女優」への脱皮[編集]
清純派のイメージを変えたのが、蔵原惟繕監督との仕事である。『憎いあンちくしょう』(1962年)、『何か面白いことないか』(1963年)、『夜明けのうた』(1965年)は「典子三部作」と呼ばれ、自立した現代女性を演じて新境地を開いた。同監督の『執炎』(1964年)は、浅丘にとって記念すべき映画出演100本目の作品である。さらに三島由紀夫原作の『愛の渇き』(1967年)では、ぐっと陰影のある女性像に挑んだ。
この時期の浅丘は、与えられる役に満足していなかった。1963年に佐久間良子主演の『五番町夕霧楼』を見て強い刺激を受け、自分の役柄への不満をマスコミに訴えたこともある。1964年の契約更改では他社出演を直談判し、自ら企画を持ち込むようにもなった。しかし実際に他社作品(東宝の『日本一の男の中の男』)へ出られるまでには3年かかった。
石原プロ、そしてフリーへ[編集]
1966年に日活との専属契約を解消し、石原裕次郎が率いる石原プロモーションに入社。1972年に同社を離れた。1970年から1973年にかけては、日活の大作『戦争と人間』三部作にも出演している。
1960年代後半からは歌手としても存在感を示し、1964年に裕次郎とのデュエット「夕陽の丘」でレコードデビュー。1969年の「愛の化石」はヒット曲となった。1968年にはゴールデン・アロー賞大賞を受賞しており、映画・歌・グラビアと幅広く活躍した時代だった。
舞台女優としての後半生[編集]
1980年代以降は舞台の比重が大きくなり、とりわけ泉鏡花作品への出演が多い。1989年には帝国劇場で『日本橋』の芸者お孝を演じた。蜷川幸雄演出の『ノートルダム・ド・パリ』『草迷宮』『にごり江』などにも出演し、1999年には『にごり江』で菊田一夫演劇賞を受賞している。
2012年にはパルコ劇場で三谷幸喜演出の『桜の園』に主演。2013年から2014年にかけては、舞台『熱き心で突っ走れ 信長と濃姫』で小林旭、松方弘樹と共演した。小林旭との共演は、1969年の映画『地獄の破門状』以来44年ぶりとされ、往年のファンを喜ばせた。
『男はつらいよ』のリリー[編集]
シリーズ最多、4回のマドンナ[編集]
松竹の国民的映画『男はつらいよ』で、浅丘はドサ回りのクラブ歌手・リリー(松岡リリー)を演じた。歴代マドンナの多くが1作限りだったなか、リリーはシリーズ最多の4回登場している。渥美清演じる寅さんと同じ「旅の人」であり、互いに惹かれ合いながらも結ばれない関係は、シリーズの中でも特別な位置を占めている。
| 公開年 | 作品 | 備考 |
|---|---|---|
| 1973年 | 第11作『男はつらいよ 寅次郎忘れな草』 | リリー初登場 |
| 1975年 | 第15作『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』 | ブルーリボン賞主演女優賞、キネマ旬報ベスト・テン主演女優賞などを受賞 |
| 1980年 | 第25作『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』 | 沖縄が舞台。1997年に特別篇も公開 |
| 1995年 | 第48作『男はつらいよ 寅次郎紅の花』 | 渥美清の遺作。毎日映画コンクール田中絹代賞などを受賞 |
| 2019年 | 第50作『男はつらいよ お帰り 寅さん』 | 東京国際映画祭のオープニング作品 |
渥美清への思い[編集]
第48作『寅次郎紅の花』の撮影時、渥美清の体調はすでに思わしくなかった。浅丘は渥美の身を案じ、山田洋次監督に「寅さんとリリーを結婚させてあげて」と懇願したが、それは実現しなかった。結果的にこの作品が渥美の遺作となり、1996年の「寅さんを送る会」では、浅丘がリリーとして弔辞を読んだ。
『お帰り 寅さん』でのリリー[編集]
2019年の第50作『男はつらいよ お帰り 寅さん』でも、浅丘はリリーとして登場。寅さんの甥・満男が、かつて寅さんと縁のあったリリーを訪ねる場面で、年を重ねたリリーが寅さんの思い出を語る。同作は2019年の東京国際映画祭でオープニング作品として上映され、浅丘も登壇した。寅さんの妹・さくらを演じた倍賞千恵子と並び、シリーズを長く支えた顔の一人である。
テレビドラマ[編集]
『2丁目3番地』と石坂浩二[編集]
テレビでの代表作の一つが、1971年の日本テレビのドラマ『2丁目3番地』である。脚本は倉本聰で、この作品での共演をきっかけに、浅丘は俳優の石坂浩二と結婚した。翌1972年には続編的な『3丁目4番地』、日本テレビ開局20周年記念ドラマ『冬物語』にも出演。1970年には放送批評家賞(ギャラクシー賞の前身)を受けている。
その後もフジテレビの『座頭市物語』(1975年)、TBSの『家族熱』(1978年)など話題作に出演。1983年にはギャラクシー賞テレビ大賞優秀個人賞を受賞した。2000年代には『すいか』(2003年、日本テレビ)の大学教授役、『セクシーボイスアンドロボ』(2007年、日本テレビ)の骨董店主役など、短い出番で心に残るセリフを残す役どころでも評価を集めた。2009年にはTBSの『小公女セイラ』(主演・志田未来)にも出演している。
倉本聰との再タッグ『やすらぎの郷』[編集]
2017年、テレビ朝日の昼の帯ドラマ『やすらぎの郷』に出演。脚本は倉本聰で、テレビ界に功績のあった人だけが入れる老人ホームを舞台に、往年の大スターたちが集う群像劇だ。浅丘が演じたのは往年の大女優・白川冴子。世間知らずでどこか浮世離れした大女優という役柄は、本人のスター性とも重なって話題になった。続編『やすらぎの刻〜道』(2019年〜2020年)にも出演している。
主な出演作[編集]
映画[編集]
- 『緑はるかに』(1955年) - デビュー作
- 「渡り鳥」シリーズ(『ギターを持った渡り鳥』『大草原の渡り鳥』ほか)
- 「流れ者」シリーズ、「銀座旋風児」シリーズ
- 『銀座の恋の物語』(1962年)
- 『憎いあンちくしょう』(1962年)
- 『何か面白いことないか』(1963年)
- 『太平洋ひとりぼっち』(1963年)
- 『執炎』(1964年) - 出演100本目
- 『赤いハンカチ』(1964年)
- 『夕陽の丘』(1964年)
- 『夜明けのうた』(1965年)
- 『水で書かれた物語』(1965年)
- 『夜霧よ今夜も有難う』(1967年)
- 『愛の渇き』(1967年)
- 『日本一の男の中の男』(1967年、東宝)
- 『戦争と人間』三部作(1970年 - 1973年)
- 『男はつらいよ』シリーズ(1973年 - 2019年)
- 『鹿鳴館』(1986年) - 日本アカデミー賞優秀主演女優賞
- 『博士の愛した数式』(2006年)
- 『寝ずの番』(2006年)
- 『デンデラ』(2011年)
- 『ジーン・ワルツ』(2011年)
テレビドラマ[編集]
- 『どんぐり日記』(1955年)
- 『90日の恋』(1969年、日本テレビ)
- 『2丁目3番地』(1971年、日本テレビ)
- 『3丁目4番地』(1972年、日本テレビ)
- 『冬物語』(1972年、日本テレビ)
- 『座頭市物語』(1975年、フジテレビ)
- 『家族熱』(1978年、TBS)
- 『すいか』(2003年、日本テレビ)
- 『セクシーボイスアンドロボ』(2007年、日本テレビ)
- 『小公女セイラ』(2009年、TBS)
- 『やすらぎの郷』(2017年、テレビ朝日)
- 『やすらぎの刻〜道』(2019年 - 2020年、テレビ朝日)
- 『生きて、ふたたび 保護司・深谷善輔』(2021年)
- 『浅草ラスボスおばあちゃん』(2025年、東海テレビ・フジテレビ系)
舞台[編集]
- 『日本橋』(1989年、帝国劇場)
- 『ノートルダム・ド・パリ』『草迷宮』『にごり江』(蜷川幸雄演出)
- 『天井桟敷の人々』(江守徹演出)
- 『検察側の証人』
- 『濹東綺譚』
- 『姉妹たちの庭で〜モーニングス・アット・セブン〜』(2011年)
- 『桜の園』(2012年、パルコ劇場、三谷幸喜演出)
- 『熱き心で突っ走れ 信長と濃姫』(2013年 - 2014年)
2025年 - 2026年の動き[編集]
85歳で連ドラ出演『浅草ラスボスおばあちゃん』[編集]
2025年7月、フジテレビ系「土ドラ」枠(東海テレビ制作、土曜23時40分)で始まった『浅草ラスボスおばあちゃん』に出演した。全国放送の連続ドラマ初主演となる梅沢富美男が、浅草の下町で何でも屋を始める75歳の日向松子を演じる人情コメディで、浅丘が演じたのは松子の古い友人・水谷竹子。浅草で人気の美人ママとして女手一つでバーを切り盛りする、おしゃれで都会育ちの女性という設定で、口数は少ないが話すと機知と愛らしさがにじむキャラクターだった。
共演の研ナオコ演じる梅子と3人で軽口をたたき合う場面は、テレビ評でも「浅丘ルリ子の特別感を享受できる」と取り上げられた。名言を残す役が多かった近年の浅丘にしては珍しく、ちょっと意地悪で素っ気ない竹子を楽しげに演じている。
小林旭との「昭和」対談[編集]
2025年10月2日には、BS12 トゥエルビの『船越英一郎の昭和再生ファクトリー』に小林旭とそろって出演した。日活の大スターで共演数が最も多い2人とされ、予告では浅丘が「映画の中でも恋をさせるな、旭とは。」と、当時の撮影所の空気を明かした。
これに先立つ2025年1月には、小林旭がテレビ朝日の『徹子の部屋』に13年ぶりに出演し、日活時代の浅丘との関係についても語っている。浅丘自身も2024年4月に同番組に出演し、芸能生活70年を振り返って、石原裕次郎や小林旭との思い出、30年をともに過ごした石坂浩二との結婚生活、急逝した後輩・山本陽子との思い出を語った。
86歳、変わらぬ「大スター」ぶり[編集]
2026年には86歳を迎えた。同年9月ごろには俳優仲間の松井誠がブログで、浅丘を交えた麻雀と、その後の浅丘の招待による食事会の様子を公開。ネットニュースでも「86歳の健在姿」として取り上げられ、「お元気なんですね」「凄くカッコいい」といった声が寄せられた。もともと麻雀は浅丘の大事な趣味で、亡き山本陽子とも麻雀仲間だったことで知られる。
また『男はつらいよ』シリーズは、2026年時点でもU-NEXT、Hulu、FODなどの動画配信サービスで見放題配信されている作品がある(配信状況は時期によって変わる)。リリー登場作を含め、若い世代が浅丘の代表作に触れる入り口となっている。
人物[編集]
姉御肌の「躾係」[編集]
後輩への躾が厳しいことで知られる。高橋英樹は浅丘の「教育係」のもとで弟分として可愛がられ、「ヒデキ」と呼ばれていた。その高橋が1時間遅刻した際には楽屋に呼びつけ、「ヒデキ、分かっているわね?」と問い詰めたという。テレビ版『座頭市物語』で勝新太郎が2時間以上遅刻した際にも、演技中に厳しく接し、勝から謝罪を受けたと伝えられている。
交友関係[編集]
大原麗子を実の妹のように可愛がり、松原智恵子、山本陽子、熊谷真美、加賀まりこ、大空真弓らとも親しい。佐久間良子とはデビュー当時からの親友である。美空ひばりとは石原裕次郎のホームパーティーで知り合って大親友となり、ひばりからは本名にちなんで「信ちゃん」と呼ばれていた。2011年に長門裕之が亡くなった際には、津川雅彦とともに長門の家へ駆けつけ、マスコミ対応を引き受けた。
結婚と離婚[編集]
日活時代、小林旭とは公私ともに近い関係にあったことが知られ、本人も20代のころ結婚を考えた相手だったとテレビで語っている。1971年、ドラマ『2丁目3番地』での共演をきっかけに石坂浩二と結婚したが、のちに別居し、2000年に離婚した。
趣味と素顔[編集]
趣味はスワロフスキーのビーズ細工と麻雀。愛煙家としても知られる。若手時代に撮影所近くに家を買い、隣の空き地まで増築したものの、若手俳優たちが夕食をご馳走になりに押しかけてきたため、収入の多くが彼らの食費に消えた、と自嘲気味に語っている。
受賞・栄典[編集]
- 1958年 - 日本映画製作者協会新人賞
- 1968年 - ゴールデン・アロー賞大賞
- 1969年 - ゴールデン・アロー賞グラフ賞
- 1970年 - 放送批評家賞
- 1975年度 - ブルーリボン賞主演女優賞(『寅次郎相合い傘』)
- 1975年度 - キネマ旬報ベスト・テン主演女優賞、毎日映画コンクール女優演技賞
- 1983年 - ギャラクシー賞テレビ大賞優秀個人賞
- 1987年 - 日本アカデミー賞優秀主演女優賞(『鹿鳴館』)
- 1996年 - 毎日映画コンクール田中絹代賞、日刊スポーツ映画大賞主演女優賞(『寅次郎紅の花』)
- 1999年 - 菊田一夫演劇賞(『にごり江』)、名古屋演劇ペンクラブ年間賞(『濹東綺譚』)
- 2002年 - 紫綬褒章
- 2011年 - 旭日小綬章、山路ふみ子映画賞功労賞
- 2012年 - 日本映画批評家大賞ダイヤモンド大賞
2014年に発表された「オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優」では、日本女優部門の4位に選ばれている。
余談[編集]
- 『緑はるかに』は日活初のカラー作品。デビュー作でいきなり「日活初」の看板を背負ったことになる。
- 2008年に山形県東根市の映画祭でトークショーに出たのが、長い女優人生で初めての舞台挨拶だったとされる。150本以上の映画に出ていながら、という意外な事実。
- 妹の同級生には、のちに東宝の看板女優となる星由里子がいた。
- 1964年の「夕陽の丘」は、同名映画で共演した石原裕次郎とのデュエット曲。浅丘のレコードデビュー曲でもある。
- 『男はつらいよ 寅次郎相合い傘』で、浅丘はブルーリボン賞とキネマ旬報ベスト・テンの主演女優賞をダブルで獲得している。
- 2025年10月の小林旭との対談番組のホストは船越英一郎。共演数最多とされる日活の2大スターが、80代になってそろってトーク番組に並んだ。
