| 哀しき獣 황해(黄海)/The Yellow Sea | |
|---|---|
![]() 主人公グナムを演じたハ・ジョンウ(2016年7月、映画『トンネル 闇に鎖された男』製作発表会にて。撮影:K-POPIT 케이팝잇、出典:ウィキメディア・コモンズ、CC BY 3.0) | |
![]() 監督・脚本のナ・ホンジン(2009年3月、ドーヴィル・アジア映画祭にて。撮影:ENoz、出典:ウィキメディア・コモンズ、CC BY-SA 3.0) | |
| 監督 | ナ・ホンジン |
| 製作 | ポップコーン・フィルム/ウェルメイド |
| 脚本 | ナ・ホンジン |
| 出演 |
ハ・ジョンウ キム・ユンソク チョ・ソンハ クァク・ドウォン(当時はクァク・ビョンギュ名義) イ・チョルミン イム・イェウォン タク・ソンウン |
| 撮影 | イ・ソンジェ |
| 音楽 |
チャン・ヨンギュ イ・ビョンフン |
| ジャンル | 犯罪スリラー、アクション |
| 撮影期間 | 2009年12月 - 2010年11月 |
| 制作会社 | ポップコーン・フィルム、ウェルメイド、ショウボックス、フォックス・インターナショナル・プロダクションズ |
| 配給 |
韓国:ショウボックス、20世紀フォックス 日本:クロックワークス |
| 劇場公開 |
韓国:2010年12月22日 日本:2012年1月7日 |
| 上映時間 |
韓国劇場公開版:156分 ディレクターズカット(国際版・日本公開版):140分 |
| 製作費 | 約100億ウォン(約900万米ドル) |
| 興行収入 |
約1,580万米ドル(全世界) 韓国観客動員:約214万人 |
| 言語 | 韓国語(延辺方言を含む)、中国語 |
| レイティング |
韓国:青少年観覧不可 日本:R15+ |
| 前作 | チェイサー(ナ・ホンジン監督前作) |
| 次作 | 哭声/コクソン(ナ・ホンジン監督次作) |
概要[編集]
哀しき獣(原題:황해〈黄海〉、英題:The Yellow Sea)とは、ナ・ホンジン監督・脚本による2010年公開の韓国映画の犯罪スリラーである。中国・延辺朝鮮族自治州の借金まみれのタクシー運転手が、殺人の依頼を受けて黄海を密航で渡り、韓国で陰謀と追跡劇に呑み込まれていく姿を描く。主演はハ・ジョンウとキム・ユンソク。
詳細[編集]
『チェイサー』コンビ、立場を入れ替えて再集結[編集]
本作は、2008年の長編デビュー作『チェイサー』で韓国映画界を揺るがしたナ・ホンジン監督の長編第2作である。主演は前作と同じハ・ジョンウとキム・ユンソク。ただし前作では元刑事(キム・ユンソク)が殺人犯(ハ・ジョンウ)を追ったのに対し、今回はハ・ジョンウが追われる側の主人公、キム・ユンソクが冷酷な裏社会の男を演じる「立場逆転」のキャスティングとなった。監督は日本向けのインタビューで「あらすじの大枠を作った時点で、2人をキャスティングしたいと思っていた。シナリオはあて書きしたので、電話でオファーをしてすぐに決めた」と語っている。
ハリウッド資本が入った大作[編集]
製作費は約100億ウォン(約900万米ドル)とされ、前作から一気にスケールアップした。製作にはポップコーン・フィルムとウェルメイドに加え、韓国大手のショウボックス、そして20世紀フォックス系のフォックス・インターナショナル・プロダクションズが参加。韓国ではナ・ホンジン作品として初めてハリウッドのメジャースタジオが出資に関わった作品として話題を呼び、配給もショウボックスと20世紀フォックスが共同で担った。撮影は2009年12月から2010年11月まで、ほぼ1年をかけて中国と韓国の両国で行われている。
公開と評価のギャップ[編集]
2010年12月22日に韓国で公開されると、最初の5日間で約105万人を動員して興行ランキング1位に立った。しかし最終的な観客動員は約214万人(集計により約226万人とも)で、損益分岐点とされた約300万人には届かず、前作の約512万人と比べると「期待ほどではなかった」と受け止められた。一方で作品の評価は高く、翌2011年には第64回カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門に選出。ハ・ジョンウは百想芸術大賞とアジア・フィルム・アワードで主演男優賞を獲得し、監督自身もシッチェス・カタロニア国際映画祭で監督賞を受賞した。日本では2012年1月7日、クロックワークスの配給で公開されている。
あらすじ[編集]
※物語の前半を中心に紹介し、結末には触れない。
中国・吉林省の延辺朝鮮族自治州。朝鮮族のタクシー運転手キム・グナム(ハ・ジョンウ)は、多額の借金を抱え、返済のあてもないまま麻雀などの賭け事に溺れる日々を送っていた。出稼ぎのため韓国へ渡った妻からの連絡は途絶え、借金取りには追い立てられる始末である。
そんなグナムに声をかけたのが、地元の裏社会で密航の手配から何でも請け負うミョン・ジョンハク、通称「ミョンガ」(キム・ユンソク)だった。ミョンガが持ちかけたのは、韓国に渡ってある男を殺してくれば借金を帳消しにしてやる、という話。妻の行方を自分の目で確かめたいという思いもあり、グナムは依頼を引き受け、密航船で黄海を渡る。
ソウルに潜り込んだグナムは、標的となる大学教授キム・スンヒョン(クァク・ドウォン)の行動を下見しながら、決行の日までの限られた時間で妻の消息も探し始める。ところが決行の夜、事態はグナムの計画とはまったく違う方向へ転がり出し、彼は警察からも、正体の見えない男たちからも追われる身となる。やがてバス会社の社長キム・テウォン(チョ・ソンハ)、そしてミョンガまでもが動き出し、グナムは巨大な陰謀の渦の中心に放り込まれていく。
登場人物とキャスト[編集]
- キム・グナム(演:ハ・ジョンウ)
- 延辺のタクシー運転手。借金と音信不通の妻の問題を抱え、殺人の請負を引き受けてしまう。寡黙で不器用だが、追い詰められるほどにしぶとさを見せる。
- ミョン・ジョンハク(ミョンガ)(演:キム・ユンソク)
- 延辺の裏社会の男。犬の売買、密航の斡旋、殺人の仲介まで、金になることなら何でも手がける。キム・ユンソクの説明によれば、咸鏡道にルーツを持つ朝鮮族という設定で、小さなことには無関心だが、手を出されたら容赦しない「大陸的なタフさ」を持つ男として作り込まれた。
- キム・テウォン(演:チョ・ソンハ)
- ソウルのバス会社社長。表向きは成功した実業家だが、事件の裏で重要な役割を担う。
- キム・スンヒョン教授(演:クァク・ドウォン)
- グナムが殺害を依頼される標的の大学教授。日本公開時のクレジットでは「カク・ピョンギュ」と表記されている。
- スンヒョン教授の妻(演:イム・イェウォン)
- ソンナム(演:イ・チョルミン)
- グナムの妻(演:タク・ソンウン)
4つの章で語られる物語[編集]
本作は、章題を掲げた4つのパートで構成されている。第1章「タクシー運転手」では、延辺での主人公の追い詰められた暮らしが描かれる。第2章「殺人者」では、密航して韓国に渡ったグナムが、言葉も通じるはずの「同胞の国」で孤立していく様子が映し出される。第3章「朝鮮族」で物語は一気に複雑さを増し、最終章「黄海」で、すべての糸がひとつの結末へと収束していく。
章題を並べてみると、本作が単なるアクションスリラーではなく、一人の朝鮮族の男が置かれた立場そのものをテーマにしていることが見えてくる。前半はほとんどセリフの少ない「観察」の映画として進み、後半からはカーチェイスと乱闘が連続するノンストップの逃走劇へと様変わりする。この極端な緩急も、本作の大きな特徴として語られることが多い。
制作[編集]
リュックひとつで延辺へ[編集]
脚本の準備段階で、監督はリュックを背負って列車で延辺に向かい、約2か月にわたって現地を歩き回ったという。韓国映画振興委員会(KOFIC)のインタビューでは「全体的な空気や感情のようなものを感じ取ることができた」と振り返っている。タイトルの『黄海』から「黄色っぽい」街並みを想像していたものの、実際の延辺は「街全体が灰色だった」とも語った。現地で最も心に残ったのは人々が食事をする光景で、その記憶は今も鮮明だという。
延辺とチチハル、そして釜山[編集]
物語の主な舞台は延辺だが、制作上の事情から、中国パートの多くは黒竜江省のチチハル(ハルビンから約2時間)で撮影された。韓国パートはソウル、釜山、仁川などで撮影されている。終盤の大規模なカーチェイスは釜山で3日間かけて撮影され、トレーラーが横転する場面のためには平沢で事前テストが行われたとキム・ユンソクが明かしている。CGに頼らず、実際の人と車を使ったアクションも本作の売りのひとつで、アクション指導は『チェイサー』に続いてソウルアクションスクールのユ・サンソプが担当した。
1年間「役から抜けられなかった」主演たち[編集]
撮影はほぼ1年に及び、出演者は長期間ひとつの役を生き続けることになった。キム・ユンソクは撮影中、映画に関係のない人とはほとんど会わず、他作品の試写会への出席も控えたと語っている。役のための髭を1年間伸ばし続け、衣装は下着に至るまですべて中国で購入したもので、体重も約10キロ増やした。真冬の海で泳ぐ場面では撮影後に脱水状態になり「本当に死ぬほどつらかった」と振り返っている。
ハ・ジョンウも「長くキャラクターを生きているうちに麻酔にかかったようになった」と語り、撮影が終わったと聞かされても実感がわかなかったという。公開前のインタビューでは、役の「垢」を落とすために毎日ジョギングをしていると冗談めかして話していた。2人は朝鮮族の方言や麻雀を徹底的に身につけて撮影に臨んだと報じられている。
1か月半の編集と、作り直された140分版[編集]
公開日が先に決まっていたため、韓国公開版の編集期間は約1か月半しか取れなかったとされる。こうして完成した劇場版は156分(157分とする資料もある)の長尺となった。監督はその後あらためて編集をやり直し、約140分のディレクターズカットを作成。この短縮版が2011年のカンヌ国際映画祭で上映され、海外公開や日本公開でも用いられた。監督は当時を振り返り、作品の仕上げに追われて長いあいだ熟睡できなかったと語っている。
キャスティングと役作り[編集]
ハ・ジョンウ――殺人犯から「追われる男」へ[編集]
『チェイサー』で正体不明の殺人犯を演じて一躍注目を浴びたハ・ジョンウは、本作で一転して、追い詰められた末に事件に巻き込まれていく主人公を演じた。上映時間の大半で画面に映り続け、延辺の方言を話し、ソウルや港町を逃げ回る。キム・ユンソクは制作発表会で、ハ・ジョンウについて「自分より30倍は苦労したと思う」と労をねぎらった。
この演技は高く評価され、第47回百想芸術大賞の映画部門最優秀演技賞、第5回アジア・フィルム・アワードの主演男優賞、第31回韓国映画評論家協会賞の主演男優賞を受賞している。画家としても活動するハ・ジョンウは、撮影中に絵を描くことが癒やしになったと語り、セットを題材にした「黄海シリーズ」と呼ぶ作品を約7点描いたという。
キム・ユンソク――出番は3分の1、存在感は倍以上[編集]
キム・ユンソクが演じたミョンガは、出演分量でいえばハ・ジョンウの3分の1ほどにすぎないと本人も認めている。それでも、物語後半で一気に存在感を増すミョンガの迫力は、公開当時から本作の語り草となった。キム・ユンソクは延辺方言の演技について「大事なのは言葉の“形”ではなく言葉の“中身”」と語り、ニュアンスを生かしながら言葉の味わいを残すことを意識したと説明している。また本作を『チェイサー』と比べて「スリラーという服を着た総合ギフトセット」と表現し、スケールとジャンル的な快感の大きさを強調した。
チョ・ソンハとクァク・ドウォン[編集]
バス会社社長キム・テウォンを演じたチョ・ソンハは、本作で第48回大鐘賞の助演男優賞を受賞した。標的となる教授を演じたクァク・ドウォンは、当時まだ一般には無名に近い存在で、日本公開時のクレジットも「カク・ピョンギュ」名義だった。のちにナ・ホンジン監督の『哭声/コクソン』で映画初主演を果たし、韓国映画を代表する俳優の一人となっていく。ナ・ホンジン作品から俳優が大きく飛躍する流れの、ひとつの例といえる。
テーマと演出[編集]
朝鮮族を「ありのまま」に描く[編集]
本作の主人公グナムは、中国に暮らす朝鮮族(中国朝鮮族)である。朝鮮語と中国語の両方を話す彼らの姿を反映し、劇中でも2つの言語が使い分けられている。監督は日本向けのインタビューで「朝鮮族の人々をありのままに描写して、等身大の彼らを表現したつもり」「朝鮮族の人々のことをもっと知ってほしいという肯定的な気持ちでこの映画を作った」と語った。その一方で、彼らを語るには周囲の犯罪にも触れざるを得ず、それが歪めて伝えられることを恐れて口を閉ざしてきた、という複雑な心境も明かしている。
アクションは「心情の道具」[編集]
激しいカーチェイスや格闘シーンで知られる本作だが、監督は「アクションはあくまでキャラクターの心情を表現する道具」と位置づけている。「登場人物の内面やその背景が最も大事。人物や物語を中心に脚本を構成している」という言葉どおり、グナムが走り続ける理由は、借金でも報酬でもなく、妻の消息を知りたいという一点に集約されていく。邦題の『哀しき獣』は、そうした追い詰められた男の姿を言い表したものだといえる。
前作のプレッシャー[編集]
監督は前作の大ヒット後の重圧について、「『チェイサー』はとても古典的な映画で、そういう作品には圧倒的な力がある。それを越えるものを作りたいと意気込んでいたけれど、もし前作に劣ってしまったらどうしようという不安はやっぱり大きかった」と率直に語っている。一方KOFICのインタビューでは「『チェイサー』でやったことは二度と繰り返さないと思っていた」とも述べており、同じ手法の再生産ではなく、まったく別の映画を目指したことがうかがえる。
日本のバイオレンス映画からの影響[編集]
監督は日本の暴力映画もかなりの数を観て勉強してきたと明かしている。韓国では日本映画の輸入が制限されていた時代があり、公には観られない作品もあったが、子どもの頃にこっそり観ていたという。「素晴らしいバイオレンス作品が過去にはたくさんある。だからこそ、いまだに世界中の昔の映画から学ぶことは多い」とも語っている。
評価と受賞[編集]
批評[編集]
英語圏の批評サイトRotten Tomatoesでは支持率88%、Metacriticでは70点と、おおむね好意的に迎えられた。米『ロサンゼルス・タイムズ』は、猛烈なアクションの合間に「ロマンチックな哀愁」が流れる作品と評し、英『ガーディアン』もそのエネルギーを称賛した。一方で、『ハリウッド・リポーター』のように「散らかった、盛り上がりに欠ける結末」と批判する声や、2時間半近い長さを「やりすぎ」とする声もあった。複雑なプロットは賛否が分かれるポイントでもある。
主な受賞[編集]
- 第64回カンヌ国際映画祭:「ある視点」部門 出品
- 第47回百想芸術大賞:映画部門 最優秀演技賞(ハ・ジョンウ)
- 第5回アジア・フィルム・アワード:主演男優賞(ハ・ジョンウ)
- 第48回大鐘賞:助演男優賞(チョ・ソンハ)、衣装賞
- 第32回青龍映画賞:照明賞(ファン・スヌク)
- 第31回韓国映画評論家協会賞:主演男優賞(ハ・ジョンウ)
- 第15回富川国際ファンタスティック映画祭:監督賞(ナ・ホンジン)
- 第44回シッチェス・カタロニア国際映画祭:監督賞(ナ・ホンジン)
炎上とバズ[編集]
「朝鮮族のイメージ」をめぐる議論[編集]
中国朝鮮族の男が殺人を請け負うという物語である以上、本作は描き方に慎重さが求められる題材でもあった。監督自身も、朝鮮族を取り巻く犯罪に触れることが歪めて受け取られるのを恐れていたと認めている。後年、マ・ドンソク主演の『犯罪都市』など朝鮮族の犯罪組織が登場する韓国映画が続いたこともあり、韓国映画における朝鮮族の描かれ方は、その後もたびたび議論の的になっている。
「チェイサーを超えたか」論争[編集]
前作『チェイサー』が韓国スリラーの新たな古典と呼ばれたため、本作は公開直後から「前作を超えたか」で評価が割れた。動員では前作の半分以下にとどまったものの、カンヌ選出や海外での高評価を受けて、のちに再評価が進んだ。監督のフィルモグラフィーを語る際には、『チェイサー』『哭声/コクソン』と並ぶ初期3作のひとつとして必ず名前が挙がる作品になっている。
余談[編集]
- 原題の「황해(ファンヘ)」は「黄海」の意。英題も「The Yellow Sea」で、邦題の『哀しき獣』だけが独自のタイトルになっている。
- ハ・ジョンウは2024年7月、デビューから21年目にして初めて自身のInstagramアカウント(@__hajungwoo)を開設。「計画より早かった、インスタ始め」という言葉とともに自撮り写真を投稿して話題になった。プロフィールには「하정우 입니다(ハ・ジョンウです)」とだけ書かれており、絵画作品なども公開している。
- キム・ユンソクが劇中で穿いているズボンは、衣装チームが探し出した年代物だったと本人が明かしている。
- 監督が延辺取材で最も印象に残ったと語る「食事の場面」は、本作の中にも印象的な形で盛り込まれている。
- 『チェイサー』と同じく、撮影はイ・ソンジェ、アクション指導はユ・サンソプと、前作のスタッフが多く続投している。
- 韓国ノワールの系譜では、ポン・ジュノ監督の『殺人の追憶』、パク・チャヌク監督の『オールド・ボーイ』、同じ2010年公開の『アジョシ』などと並べて紹介されることが多い。同じ2010年にはイ・チャンドン監督の『ポエトリー アグネスの詩』も公開されている。
- ナ・ホンジン監督はその後、『哭声/コクソン』(2016年)でファン・ジョンミンらを迎え、さらに10年後の『HOPE』(2026年)でカンヌ国際映画祭コンペティション部門に初選出された。

