夏目漱石

夏目漱石
なつめ そうせき
本名 夏目金之助
誕生日 1867年2月9日
死亡日 1916年12月9日
死亡年齢 49歳
出身地 江戸牛込馬場下横町(東京都新宿区)
国籍 日本
学歴 帝国大学文科大学英文科卒
職業 小説家・英文学者・俳人
活動期間 1905年 - 1916年
代表的な実績 『吾輩は猫である』『坊っちゃん』『こゝろ』
関連活動 東京朝日新聞社専属作家/木曜会/東京帝大講師
別名 愚陀仏


概要[編集]

夏目漱石(なつめ そうせき、1867-1916)は、明治・大正を代表する小説家・英文学者。本名は夏目金之助森鷗外と並んで「近代日本文学の二大文豪」と称され、千円札の肖像(1984-2007年)でもおなじみの、まさに国民的作家である。

もともとは英語の先生・英文学者であり、小説を本格的に書き始めたのは38歳になってから。デビュー作『吾輩は猫である』が大ヒットして人生が一変し、わずか10年あまりの作家生活で日本文学の地図を塗り替えてしまったというから恐ろしい。胃が弱く神経も細く、生涯にわたって胃潰瘍と神経衰弱に苦しめられた「繊細すぎる文豪」でもあった。

生い立ちと英文学者時代[編集]

江戸牛込の名主の家に生まれたが、末っ子で里子・養子に出されるなど複雑な幼少期を過ごした。第一高等中学校を経て帝国大学英文科へ。大学予備門時代の同級生に正岡子規がおり、二人は俳句を通じて生涯の親友となる。号「漱石」は、もともと子規が使っていた数多くのペンネームの一つを譲り受けたものらしい(「漱石枕流」の故事に由来する負け惜しみの号)。

卒業後は松山中学(『坊っちゃん』の舞台)、熊本の第五高等学校で英語教師を務めた。松山時代には子規が下宿「愚陀仏庵」に転がり込み、52日間も居候している。家賃を払う漱石のほうが、なぜか居候のような肩身の狭さだったという。

ロンドン留学[編集]

1900年(33歳)、文部省の命でイギリスへ留学。しかし「英文学とは何か」を突き詰めるほど西洋との断絶に苦しみ、下宿に引きこもって本ばかり読む極貧生活となった。「漱石発狂」の噂が文部省に届くほど神経衰弱が悪化したが、この孤独な思索が後の文学観「自己本位」を生んだ。1903年に帰国し、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の後任として第一高等学校・東京帝国大学講師となる。

『吾輩は猫である』と作家デビュー[編集]

神経衰弱を癒すために書いた小説が、1905年に高浜虚子のすすめで俳誌『ホトトギス』へ発表した『吾輩は猫である』。猫の視点から知識人たちを皮肉るこの作品は爆発的に売れ、続いて『坊っちゃん』『草枕』と立て続けに発表。教師の余技だったはずの小説で、漱石は一躍人気作家になってしまった。

朝日新聞専属作家へ[編集]

1907年、漱石は東京帝大講師の職をなげうって東京朝日新聞社に入社。以後は新聞連載小説を専門に書く「職業作家」となった。大学教授の安定を捨てて新聞社に入る決断は当時の人々を驚かせたが、これにより『三四郎』『それから』『門』の前期三部作をはじめ、ほぼ全作品を朝日紙上で連載した。

修善寺の大患と後期三部作[編集]

1910年、胃潰瘍の療養先・伊豆修善寺で大量吐血し一時危篤となる(修善寺の大患)。一度死にかけた経験は作風を深め、『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』の後期三部作では、エゴイズムや孤独、罪の意識といった人間の暗部が掘り下げられた。晩年は「則天去私(私を捨てて天に則る)」の境地を語ったとされる。1916年、『明暗』を連載中に胃潰瘍が再発し死去。享年50(満49)。

門下「木曜会」[編集]

毎週木曜の午後、漱石宅には若い文学者が集まった。これが木曜会で、芥川龍之介・久米正雄・寺田寅彦・小宮豊隆・鈴木三重吉・内田百閒ら、後の文壇・学界を担う面々が漱石を慕って通った。芥川龍之介の出世作『鼻』を激賞して世に送り出したのも漱石である。

余談[編集]

  • 極度の甘党で、ジャムを舐めすぎて妻に止められたという逸話が残る。糖分の取りすぎは弱い胃にも障ったらしい。
  • 神経質ゆえの癇癪持ちで家族には怖い面もあったというが、弟子たちには面倒見がよかった。
  • 1984年から2007年まで千円札の肖像を務めた。文豪の顔が長くお札になった代表例である。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]