| Tanokin Trio たのきんとりお | |
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![]() 「MasahikoとYoshio Live Tour 2025」沖縄公演(2025年2月)の近藤真彦・野村義男(出典:琉球新報) | |
| 出身地 | 日本 |
| 国籍 | 日本 |
| 職業 | 男性アイドルトリオ(3人組の愛称・ユニット) |
| 活動期間 | 1980年 - 1983年8月28日 |
| 代表的な実績 | 『3年B組金八先生』第1シリーズ(1979年 - 1980年)、『たのきん全力投球!』(1980年 - 1983年)、東宝「たのきん映画」シリーズ(1981年 - 1983年)、メンバー3人がそれぞれデビュー年に日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞 |
| 受賞 | ゴールデン・アロー賞 話題賞(1980年度)、同 20周年記念 スーパーアイドル賞(1982年度) |
| 事務所 | ジャニーズ事務所(当時) |
| 関連活動 | 『3年B組金八先生』(TBS)、『ただいま放課後』(フジテレビ)、『たのきん全力投球!』(TBS) |
| 別名 | 金八トリオ、悪ガキトリオ、新々御三家、スーパースリー(いずれも結成前後の呼び名) |
| あだ名 | たのきん |
| その他 | メンバー:田原俊彦(トシちゃん)、野村義男(ヨッちゃん)、近藤真彦(マッチ) |
概要[編集]
たのきんトリオ(たのきんとりお)とは、1980年から1983年にかけて人気を集めた、ジャニーズ事務所所属の男性アイドル3人組の呼び名である。メンバーは田原俊彦、野村義男、近藤真彦。3人の名字の頭文字「た・の・きん(近)」から名付けられた。『3年B組金八先生』の生徒役から火が付き、80年代アイドル黄金期とジャニーズ復活の起爆剤になった。
詳細[編集]
「た・の・きん」は頭文字の寄せ集め[編集]
グループ名は、田原の「た」、野村の「の」、近藤の「近」を音読みした「きん」をつなげたもの。元ネタは、当時「なみだの操」で大ヒットしていた歌謡グループ・殿さまキングスの略称「とのきん」で、それをもじったとされる。命名したのはジャニー喜多川である。
1980年5月には雑誌での愛称公募も行われ、約2万8,000通のハガキが集まったと報じられた。ところが同年5月11日、東京工芸大学厚木キャンパスでのイベント「放課後青空カーニバル」で「たのきん」「たのきん族」の名が発表されると、ファンからは「かっこ悪い」と戸惑いの声も上がったという。田原本人も自伝で、おっちょこちょいな響きがあってあまり嬉しくなかったと振り返っている。
それ以前は媒体ごとに「金八トリオ」「悪ガキトリオ」「新々御三家」などバラバラに呼ばれていた。『Seventeen』の特集では当初、同じく金八の生徒役だった鶴見辰吾を加えた4人組として紹介されていたこともあるという。
正式な「グループ」ではなかった[編集]
たのきんトリオは、レコード会社と契約した正規のユニットではない。3人はあくまでそれぞれのソロ活動が軸で、「たのきんトリオ」名義のシングルは1枚も出ていない。ジャニー喜多川は、グループとして売るより3人を個別にソロ歌手として育てる方針だったとされる。
3人がそろって録音した曲は、映画『グッドラックLOVE』の挿入歌「ときめきはテレパシー」と、田原のシングル「哀愁でいと」のB面「君に贈る言葉」のわずか2曲とされる。それでもテレビ・映画・コンサートでは常に3人がセットで扱われ、世間的には完全に「ひとつのグループ」として認識されていた。このゆるい関係性こそが、後述する「解散後も3人の距離感が話題になり続ける」理由でもある。
低迷期のジャニーズを救った3人[編集]
1970年代後半のジャニーズ事務所は、看板だった郷ひろみの移籍やフォーリーブスの解散で、ヒットを出せるタレントがいない苦しい時期にあった。そこへ副社長のメリー喜多川が取ってきた仕事が、TBSの学園ドラマ『3年B組金八先生』への生徒役出演である。
この1本で3人の運命が一変する。当時は1970年代の「新御三家」になぞらえて、田原は郷ひろみ、近藤は西城秀樹、野村は野口五郎の路線を継ぐ存在とも語られた。たのきんの大ブレイクによって、ジャニーズは一気に男性アイドル界の主役に返り咲くことになる。
経歴[編集]
『3年B組金八先生』からの誕生(1979年〜1980年)[編集]
『3年B組金八先生』第1シリーズは1979年10月から1980年3月までTBSで放送された。武田鉄矢演じる坂本金八が中学3年生のクラスを受け持つ学園ドラマで、のちに30年以上続く国民的シリーズになる。田原は沢村正治役で出演した。
プロデューサーの柳井満によると、当初の生徒役は子役事務所の所属者が中心で、ジャニーズの3人は最初の候補に入っていなかった。ジャニー喜多川から「うちの子も見てくれ」と頼まれ、32人の生徒枠のうち1枠を入れ替える形で3人が加わったという。演技経験の少ない3人の自然体な芝居は、訓練された子役の中でかえって目立ち、ドラマに勢いを与えたと評されている。
放送終了後の人気は異常なほどだった。1980年4月1日に六本木で予定していたファンイベント「金八トリオ・ファンの集い」には約1万人が殺到し、安全上の理由でイベント自体が中止になった。
「ただいま放課後」と人気爆発(1980年)[編集]
1980年5月26日からは、フジテレビ系の学園ドラマ『ただいま放課後』に3人そろって出演した。ロケ地は前述の東京工芸大学厚木キャンパスで、人気の過熱ぶりから当初の予定より放送回数が延長されたという。
同年6月には田原が「哀愁でいと」でソロ歌手デビューし、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。12月には近藤が「スニーカーぶる〜す」で歌手デビューして大ヒットさせ、翌1981年の「ギンギラギンにさりげなく」でやはり最優秀新人賞を獲得した。元週刊誌記者によれば、なかでも田原の人気は突出しており、ファンレターは月に18万通にのぼったという。
『たのきん全力投球!』(1980年〜1983年)[編集]
1980年10月9日、3人の冠バラエティ『たのきん全力投球!』がTBS系で始まった。開始当初は木曜のゴールデンタイムに放送され、1982年に日曜12時の1時間枠へ移動して公開収録形式にリニューアルされている。東急百貨店の一社提供だった。
番組はコント・歌・クイズ・ミニドラマを詰め込んだ構成で、同世代のアイドルが続々と出演した。とりわけ松田聖子はほぼ全てのコントに参加したとされ、河合奈保子、堀ちえみ、日髙のり子、川田あつ子らも登場。松本伊代はこの番組のドラマコーナーでデビューしている。針を付けた電車のおもちゃが線路を一周するまでに物を組み立て、失敗すると大きな風船が割れるゲームなど、ドキドキ系の企画も名物だった。
放送は1983年3月27日まで約2年半続いた。後年、2005年の特番で当時の映像が紹介され、TBSではこの番組名を下敷きにした『ロンロバ!全力投球!』という番組も放送されている。
「たのきん映画」シリーズ(1981年〜1983年)[編集]
人気絶頂の3人を主役にした映画は、東宝が製作・配給の両面で全面提携し、東宝砧撮影所を拠点に作られた。「たのきんスーパーヒットシリーズ」とも呼ばれ、春・夏・冬の興行の目玉になった。主演は作品ごとに近藤か田原が務め、ほかの2人が脇を固めるのが基本スタイルである。全6作の一覧は後述する。
第1弾『青春グラフィティ スニーカーぶる〜す』は、定時制高校に通う3人の友人が、歌・写真・野球とそれぞれの夢を追う青春映画。第2弾『ブルージーンズ メモリー』は横浜を舞台に、船乗りを目指す青年が経営難のホテルを救うためコンサートを企画する物語で、小松政夫、ミヤコ蝶々、宍戸錠らベテラン勢も脇を固めた。
コンサートと解散(1981年〜1983年)[編集]
1981年2月11日には、閉館する日本劇場の「サヨナラ日劇FESTIVAL」に出演。同年3月には「たのきんスーパースリー桜島野外コンサート」が企画されたが、台風1号の接近で中止になっている。4月にはNHKホールで「Young Communication'81」を開催し、その一部はライブ盤『たのきんライブ'81』として発売された。夏には「たのきん3球コンサート」も行われた。
しかし1982年頃からは、3人それぞれのソロ活動が本格化していく。野村はアイドル歌手ではなくギタリストを志望していたため、ソロ歌手化に最も抵抗したとされ、1983年にソロ作『待たせてSorry』を出したあと、ロックバンド「THE GOOD-BYE」を結成した。そして1983年8月28日、大阪スタヂアムでのコンサートをもって、たのきんトリオとしての活動に区切りが付けられた。わずか3年ほどの、駆け抜けるような活動期間だった。
ジャニーズ黄金期の始まり[編集]
後輩たちへのバトン[編集]
たのきんの成功は、ジャニーズ事務所にとって完全な「再起動」になった。1982年には『2年B組仙八先生』出身のシブがき隊(本木雅弘・薬丸裕英・布川敏和)がデビュー。学園ドラマで生徒役として顔を売り、そこからアイドルデビューさせるという「金八方式」は、そのまま後輩に引き継がれた。
続いて1985年に少年隊、1987年に光GENJIがデビューし、ジャニーズは80年代の男性アイドル市場をほぼ独占する。ジャニーズJr.がまず先輩のバックダンサーとして経験を積み、そこからデビューするという育成の流れも、たのきんブームをきっかけに復活したとされる。たのきんのバックで踊っていたグループもファンにチェックされるほどで、田原のバックダンサー「ジャPAニーズ」まで追いかける熱心なファンもいたという。
「花の82年組」との共演時代[編集]
たのきんの3人は、松田聖子ら80年組、そして中森明菜や小泉今日子、早見優らのいわゆる「花の82年組」と同じ時代に、歌番組やバラエティで頻繁に共演した。『たのきん全力投球!』がアイドルの登竜門的な役割を果たしたこともあり、80年代前半の「アイドル全盛期」を象徴する存在として語られることが多い。
1981年4月の集英社『青春音楽グラフィティ』では、3人が「完全に作られたアイドル」と評されている。良くも悪くも、プロダクションが戦略的にスターを作り上げる時代の幕開けを体現した3人だったといえる。
たのきん映画一覧[編集]
| 公開 | タイトル | 主演 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1981年2月11日 | 青春グラフィティ スニーカーぶる〜す | 近藤真彦 | 第1弾。監督:河崎義祐 |
| 1981年7月11日 | ブルージーンズ メモリー | 近藤真彦 | 第2弾。監督:河崎義祐 |
| 1981年12月20日 | グッドラックLOVE | 田原俊彦 | 第3弾。挿入歌「ときめきはテレパシー」は3人の数少ない共同録音曲 |
| 1982年8月7日 | ハイティーン・ブギ | 近藤真彦 | 第4弾 |
| 1982年12月11日 | ウィーン物語 ジェミニ・YとS | 田原俊彦 | 第5弾。同時上映は野村主演『三等高校生』 |
| 1983年8月4日 | 嵐を呼ぶ男 | 近藤真彦 | 第6弾。監督:井上梅次。ドラマーを主人公にしたリメイク作 |
最終作の『嵐を呼ぶ男』は、石原裕次郎主演の名作のリメイク。近藤は2025年10月、北海道・小樽での昭和コンセプト公演で石原裕次郎との縁を「財産ですよね」と語ったと報じられている。
メンバー[編集]
田原俊彦(トシちゃん)[編集]
1961年2月28日生まれ、山梨県甲府市出身。3人の中で最年長で、リーダー格とされた。1980年6月「哀愁でいと」でデビューし、約10年にわたってシングル約38作連続でオリコントップ10入りを続けた。1982年にはブロマイドの売上で男性芸能人1位にもなっている。1988年にはドラマ『教師びんびん物語』の主題歌「抱きしめてTONIGHT」が大ヒット。
1994年2月、長女誕生時の会見での「俺ぐらいビッグになっちゃうと」という趣旨の発言が「ビッグ発言」として批判を浴び、同年3月にジャニーズ事務所から独立した。その後はテレビ露出が減ったが、ダンスパフォーマンスを売りにしたライブ活動を一貫して続け、毎年ホール規模の全国ツアーを開催。2024年の45周年ツアーでは全国19か所20公演を行っている。
野村義男(ヨッちゃん)[編集]
1964年10月26日生まれ、東京都出身。小学5年生で姉の影響からフォークギターを始め、12歳でジャニー喜多川にスカウトされた。アイドル路線より音楽を志し、1983年にロックバンド「THE GOOD-BYE」を結成してデビュー。同年の日本レコード大賞で最優秀新人賞を受賞したとされる。バンドは1990年に活動休止し、2003年に再始動している。
1990年にジャニーズ事務所を円満に離れ、以降はギタリスト・音楽プロデューサーとして活躍。1998年頃から浜崎あゆみのバックバンドを10年以上務め、世良公則とのユニット「音屋吉右衛門」、宇都宮隆とのユニットなどでも活動した。仮面ライダーの大ファンで、ライダーソングを演奏するバンド「RIDER CHIPS」も結成している。1995年に女優の野坂なつみと結婚した。
近藤真彦(マッチ)[編集]
1964年7月19日生まれ、神奈川県出身。愛称「マッチ」は、金八出演時の短い髪型がマッチ棒を連想させたことに由来する。1980年12月「スニーカーぶる〜す」でデビューし、1981年「ギンギラギンにさりげなく」で日本レコード大賞最優秀新人賞、1987年には「愚か者」で日本レコード大賞を受賞した。
歌手と並行してモータースポーツにのめり込み、1980年代後半からレーシングドライバーとして活動。2000年にレーシングチーム「KONDO Racing」を立ち上げて監督を務め、SUPER GTなどに参戦している。2023年には日本レースプロモーションの会長に就任した。ジャニーズでは長く「長男」的な存在だったが、2020年11月に週刊誌で女性との交際が報じられて活動を自粛し、2021年4月30日に事務所を退所。これでたのきんの3人全員が事務所を離れたことになる。2026年7月には、オリジナル曲全339曲のサブスクリプション配信が解禁された。
解散後の3人と再会の話題[編集]
近藤と野村の「盟友」関係[編集]
解散後も、近藤と野村は一貫して仲が良いことで知られる。野村がジャニーズを離れたあとも2人の共演は続き、近藤の退所後の2021年12月には、約40年のキャリアで初となる2人の全国ツアー「MasahikoとYoshio Live Tour 2021-2022」を開催。初日は近藤の故郷・横浜のKT Zepp Yokohamaで、全14公演を回った。
このツアーは恒例化し、2025年1〜2月には「MasahikoとYoshio Live Tour 2025」を開催。2月23日の沖縄公演では、22曲・2時間超のステージで「ギンギラギンにさりげなく」「ハイウェイスター」などを披露した。中盤には小泉今日子が1989年にカバーした「学園天国」を、当時のアレンジ・演奏を担当した野村のギターで歌うという粋な演出もあった。近藤は2025年10月の小樽公演で、2026年2月に全国4都市を回る「Masahiko と Yoshio Live Tour 2026」の開催も発表している。
2026年7月の近藤のバースデーライブ東京公演には、野村がゲストとして登場した。近藤いわく、オファーは「本当に急に頼んだ。1週間前ぐらいに」というドタバタぶりだったが、野村のギターで「ミッドナイト・シャッフル」などを披露。同じ場で近藤は、パク・ジニョン(J.Y. Park)とのコラボ構想を明かし、若い世代に「ギンギラギンにさりげなく」を届けたいと語っている。
田原との「不仲説」[編集]
一方で田原は、1990年代後半以降、近藤・野村との共演がほぼなくなった。2012年11月の『SMAP×SMAP』でジャニーズのOBが集結した際にも、田原だけは出演しなかった。こうしたことから、ファンの間では長く「田原と近藤は不仲なのでは」という説がささやかれてきた。
これに本人が答えたのが2026年8月末。関根勤のYouTubeチャンネルに川崎麻世とともに出演した近藤は、川崎から噂を振られると、当時は事務所の方針で2人を同じ番組に出さないようにしていたことが噂の原因だと説明し、不仲を否定した。ネットでは「たのきんの共演が見たい」という声が上がった一方、週刊誌は、田原は今もダンス主体の全国ツアーを続け、近藤はレース監督業やディナーショーが中心、野村はギタリストとして確立しているとして、3人そろっての再結成は簡単ではないという関係者の見方を伝えている。2026年10月時点で、3人での共演や再結成が正式に発表されたという報道はない。
炎上とバズ[編集]
田原の「ビッグ発言」(1994年)[編集]
1994年2月、長女誕生に際して病院で行われた取材で、田原が「(騒ぎにしたくなかったが)俺ぐらいビッグになっちゃうと」という趣旨の発言をしたことが、傲慢だとして大きく報じられた。本人は冗談のつもりだったとされるが、これを機にメディア露出が急減し、同年3月の独立につながったと語られることが多い。
近藤の活動自粛と退所(2020〜2021年)[編集]
2020年11月、近藤と女性の関係を週刊誌が報じ、近藤は無期限の活動自粛に入った。2021年4月30日にジャニーズ事務所を退所し、同年末から野村とのツアーで本格的に活動を再開している。
田原の不適切言動と謝罪(2025年)[編集]
2025年6月15日、TBSラジオ『爆笑問題の日曜サンデー』に出演した田原が、女性アナウンサーへの下品な返答や体に触れる言動をしたとして、リスナーから批判を受けた。田原は6月22日のシングル「LIFE IS A CARNIVAL」のリリースパーティーで「お騒がせしてどうもすいませんでした」と頭を下げ、「昭和のおやじギャグみたいな感じで」調子に乗りすぎたと謝罪した。同じ年の7月、近藤はこの件を問われ「この歳でも、自分たちの気持ちもすべてアップデートしていくしかない」とコメントしている。
余談[編集]
- 3人は『3年B組金八先生』の第2シリーズ(1980年12月放送の回)やスペシャル版(1982年、1984年)にも出演しており、解散後も「金八の生徒」として登場したことがある。
- 第1シリーズには、のちにジャニーズ事務所の社長となる藤島ジュリー景子も生徒役で出演していたことが知られている。
- 野村は300本を超えるギターを所有するコレクターとして有名で、2016年時点の「いちばんのお宝」は1959年製のギブソン・レスポール・スタンダードだという。「ギターを弾こう! 空気を弾くな!」をモットーに「エアギター撲滅委員会」の会長を自称している。
- 野村はウクレレ奏者としても活動し、2018年からサザンオールスターズの関口和之の呼びかけで結成された「1933ウクレレオールスターズ」に参加。コロナ禍に自作したウクレレを高木ブーにプレゼントしたという。
- 『たのきん全力投球!』は1984年頃、ハワイ・ホノルルの日系向けテレビ局でも放送されていたとされる。
- 近藤は2025年7月のバースデーライブで、西城秀樹・野口五郎・郷ひろみの「新御三家」の楽曲を歌った。たのきん時代に「新御三家の後継」になぞらえられたことを思うと、なかなか味わい深い選曲である。
- 近藤はインタビューで、自身の長いキャリアを支えたのは「ポップ過ぎないマイナー調」の楽曲だと分析している。
