| Toshihiko Tahara たはら としひこ | |
|---|---|
![]() デビュー45周年インタビュー時の田原俊彦(2024年12月。出典:Real Sound) | |
| 本名 | 田原俊彦 |
| 誕生日 | 1961年2月28日 |
| 年齢 | 65歳 |
| 出身地 | 山梨県甲府市(出生は神奈川県横須賀市) |
| 国籍 | 日本 |
| 家族 | 妻(元モデル)、長女(タレントの田原可南子)、次女/姉2人、妹1人 |
| 身長 | 175cm |
| 体重 | 62kg |
| 学歴 | 山梨県立甲府工業高等学校 土木科 卒業 |
| 職業 | 歌手、俳優、タレント |
| 肩書 | 元「たのきんトリオ」、「KING OF IDOL」 |
| 活動期間 | 1979年 - |
| 代表的な実績 | 「哀愁でいと」(1980年)、「ハッとして!Good」(1980年)、「悲しみ2ヤング」(1981年)、「抱きしめてTONIGHT」(1988年)、「ごめんよ涙」(1989年)、オリコンシングルTOP10入り通算38作、NHK紅白歌合戦 7年連続出場(1980年 - 1986年) |
| 受賞 | 第22回日本レコード大賞 最優秀新人賞、第11回日本歌謡大賞 放送音楽新人賞(いずれも1980年) |
| 事務所 | ジェイブレイブ |
| 関連活動 | 『3年B組金八先生』(TBS、1979年 - 1980年)、『教師びんびん物語』(フジテレビ、1988年) |
| 別名 | たのきんトリオ(近藤真彦・野村義男とのユニット的な呼称) |
| あだ名 | トシちゃん |
| その他 | 旧ジャニーズ事務所出身(1994年独立) |
| リンク | 田原俊彦オフィシャルサイト |
概要[編集]
田原俊彦(たはら としひこ、1961年2月28日 - )とは、山梨県甲府市出身の日本の歌手・俳優・タレントである。愛称は「トシちゃん」。『3年B組金八先生』の生徒役から近藤真彦・野村義男と「たのきんトリオ」として大ブレイクし、1980年に「哀愁でいと」で歌手デビュー。1994年の「ビッグ発言」とジャニーズ事務所独立で長い冬の時代を経験したが、60代になった現在も毎年新曲と全国ツアーを続けている。
詳細[編集]
横須賀生まれ、甲府育ち[編集]
生まれは神奈川県横須賀市。父は小学校の教師だったが、田原が6歳のときの1967年6月に病気で亡くなり、一家は母の故郷である山梨県甲府市へ移った。以後は母子家庭で、姉2人・妹1人の4人きょうだいの唯一の男子として育つ。本人は出生地の横須賀ではなく、10代を過ごした甲府を「出身地」として公言している。
学校は地元の中学校から山梨県立甲府工業高等学校の土木科へ進み、卒業後の1979年3月に上京した。アイドルの王道ルートとはかなり違う「工業高校の土木科卒」という経歴は、本人もトークのネタにすることがある。
履歴書を送っても返事なし、直接乗り込んで入所[編集]
ジャニーズ事務所への入所エピソードは、なかなかの行動派ぶりである。1976年に履歴書を送ったものの返事がなく、同年8月、しびれを切らして事務所を直接訪問。社長のジャニー喜多川に直談判して入門を認めさせたとされる。上京後の1979年には、川崎麻世のバックグループ「ピラミッド」の一員としても活動した。
自伝『職業=田原俊彦』(2009年)では、ジャニー喜多川を「人生最大の恩人」と表現し、退所後も一貫して感謝の言葉を口にしている。一方で2019年9月に行われたジャニー喜多川の「お別れの会」には参列しなかった。
『金八先生』と「たのきんトリオ」[編集]
1979年10月、TBSのドラマ『3年B組金八先生』(第1シリーズ)に、不良っぽい生徒・沢村正治役で出演。同じく生徒役の近藤真彦(マッチ)、野村義男(ヨッちゃん)とともに人気が爆発し、3人の名字の頭文字を取って「たのきんトリオ」と呼ばれるようになった。「た」が田原、「の」が野村、「きん」は近藤の「近」である。
なお当時、田原は年齢を1歳若く公表していた。18歳で中学生役を演じていたわけだが、のちにこの「年齢詐称」が問題となり、歌番組の場で謝罪している。トリオは冠番組を持ち、「たのきんスーパーヒットシリーズ」として映画も次々に制作された。
「哀愁でいと」で歌手デビュー[編集]
1980年6月、トリオの中で最初にソロ歌手としてデビュー。デビュー曲「哀愁でいと(NEW YORK CITY NIGHTS)」はレイフ・ギャレットのカバーで、TBSの『ザ・ベストテン』ではすぐに1位を獲得した。同年の2枚目「ハッとして!Good」でオリコン1位を取り、年末には第22回日本レコード大賞の最優秀新人賞と第11回日本歌謡大賞の放送音楽新人賞をダブル受賞。初出場のNHK紅白歌合戦を含め、デビュー1年目から頂点に立った。
経歴[編集]
トップアイドル時代(1980年〜1986年)[編集]
1981年以降も「恋=Do!」「悲しみ2ヤング」「グッドラックLOVE」、1982年「君に薔薇薔薇…という感じ」「原宿キッス」「NINJIN娘」「誘惑スレスレ」と、2〜3か月おきにヒットを連発した。1982年にはブロマイドの年間売上で男性部門の1位になっている。
デビュー曲「哀愁でいと」から1990年の「ジャングルJungle」まで、オリコンシングルTOP10入りを37作連続で記録し、1992年の「雨が叫んでる」で通算38作に到達した。この記録はのちにサザンオールスターズに破られるまで歴代1位だった。フジテレビ系『夜のヒットスタジオ』には通算158回出演し、『ザ・ベストテン』でも最多出場記録を持つなど、昭和の歌番組の「顔」そのものだった。紅白には1980年から1986年まで7年連続で出場している。
後輩のシブがき隊がデビューした1982年以降も、田原と近藤真彦はランキング上位の常連として並び立ち、ジャニーズの「先輩格」として君臨した。
『教師びんびん物語』と俳優としての黄金期(1987年〜1993年)[編集]
1987年の紅白は落選。1988年は出場者として発表されたものの、本人の希望で辞退を表明した。歌手としては曲がり角かと思われたが、ここで俳優業が大当たりする。1988年、フジテレビ系の月9ドラマ『教師びんびん物語』に主演。熱血小学校教師・徳川龍之介役で、主題歌「抱きしめてTONIGHT」も大ヒットした。続編『教師びんびん物語II』(1989年)の主題歌「ごめんよ涙」はオリコン1位を獲得している。
この「びんびんシリーズ」以降も、『俺たちの時代』(TBS、1989年)、『日本一のカッ飛び男』(フジテレビ、1990年)、『逃亡者』(フジテレビ、1992年)、『愛してるよ!』(テレビ朝日、1993年)などに主演・出演。映画では『課長島耕作』(1992年)で主演を務めた。1991年1月には個人事務所「DOUBLE "T" PROJECT」を設立している。
「ビッグ発言」と独立(1994年)[編集]
1993年10月、32歳で元モデルの女性と結婚。翌1994年2月に長女が誕生し、病院などにマスコミが押し寄せたことから記者会見を開いた。この席での発言が、のちに「ビッグ発言」と呼ばれることになる(詳細は「炎上とバズ」節)。そして同年3月1日、田原はジャニーズ事務所から完全に独立した。
「冬の時代」(1994年〜2000年代)[編集]
独立後は田辺エージェンシーと提携したが、提携解消後は仕事が激減し、1996年には自身の事務所が倒産した。本人の後年の証言によれば、年間40〜50本あったコンサートは数本にまで減り、テレビのレギュラーも失った。苦境は10年以上続き、「もう赤字の連続だった」と振り返っている。
それでも田原は、コンサートやディナーショーを1年も欠かさず続け、CDも毎年のようにリリースし続けた。1997年には映画『必殺始末人』で主演。2006年からはインターネットラジオ「田原俊彦DOUBLE"T"リラックスタイム」も始めている。テレビから消えても「現場」からは消えなかった、というのがこの時期の田原である。
再ブレイク(2000年代後半〜2010年代)[編集]
復活のきっかけは意外なところから来た。2000年代後半、動画共有サイトで「抱きしめてTONIGHT」を踊る映像が話題になり、再評価の機運が高まったとされる。2009年にはデビュー30周年プロジェクトを始動し、自伝『職業=田原俊彦』を出版した。
決定打になったのが、2011年に始まったTBSのバラエティ『爆報! THE フライデー』(のち『バクホウ』)のスペシャルゲストMC。50歳になっても変わらない「トシちゃん節」と、MCの爆笑問題との掛け合いがウケて、バラエティ番組からのオファーが増えた。2017年6月にはユニバーサルミュージックからシングル「フェミニスト」を発売し、メジャーレーベルへの復帰も果たしている。
音楽・作品[編集]
楽曲のスタイル[編集]
田原の代名詞は、なんといってもダンス。尊敬するアーティストにはマイケル・ジャクソンの名を挙げており、キレのあるターンと、片足をピンと上げる決めポーズは今もステージの定番である。本人によれば、シングルだけで約80曲、アルバム曲を含めると持ち歌は約400曲にのぼる。ツアーのセットリストはその約半分をシングル・ヒット曲で固め、演出は毎回本人が全体を考えているという。
ファンが選ぶ人気曲[編集]
2021年7月に「ねとらぼ」が実施した人気曲投票(3,776票)では、「抱きしめてTONIGHT」が705票で1位。2位はグリコのCMソングだった「悲しみ2ヤング」、3位がデビュー曲「哀愁でいと」で、以下「ラブ・シュプール」「ごめんよ涙」「チャールストンにはまだ早い」「ハッとして!Good」と続いた。トップアイドル期の曲よりも、俳優として再ブレイクした時期の主題歌が1位というのが面白いところである。
2020年代のシングル[編集]
還暦を過ぎても年1枚ペースのシングル発売は止まらず、チャート成績はむしろ上向いている。2024年の「愛だけがあればいい」(ユニバーサルミュージック)はオリコン11位、2025年6月発売の81枚目「LIFE IS A CARNIVAL」は8位を記録し、久々のTOP10入りを果たした。2026年6月には82枚目「ナニコレ最高!!!」を発売し、こちらも10位に入っている。
人物像[編集]
「ストイックなトシちゃん」[編集]
バラエティでの軽口からは想像しにくいが、体型と喉の管理にはかなり気を使っているとされる。65歳になっても現役さながらのダンスパフォーマンスを維持しており、本人は若い頃の自分の映像にライバル心を燃やしている、という趣旨の発言もしている。2024年のインタビューでは「一発ヒット曲が出れば80歳まではやれる」と語り、年齢やキャリアによる「重さ」はいらない、というエンターテイナー観を示した。
音楽の好みと交友関係[編集]
矢沢永吉と浜田省吾の大ファンで、プロデビュー後に他人のコンサートへ足を運んだのは浜田省吾だけだという。サッカーの三浦知良(カズ)とは互いに無名だった頃からの親友として知られ、研ナオコとも非常に仲が良い。
近藤真彦とは若い頃は親しかったが、2021年時点では連絡を取り合っていないと報じられた。2026年8月、近藤は関根勤のYouTubeチャンネルで、当時は事務所の方針で2人を同じ番組に出さない決まりがあったと説明し、「本人たちは何ともないのよ」と不仲説を否定している。
クルマ好き[編集]
22歳で最初に買った車は、ジェームズ・ディーンが乗っていたものと同じ銀色のポルシェ。1990年頃には、知人から借りたフェアレディZで富士山麓の脇道を走行中に雪にタイヤを取られて電柱に激突し、割れたフロントガラスから這い出して九死に一生を得たという。持ち主が保険を使いたがらなかったため、修理代500万円を現金で支払ったそうだ。2019年には60歳の前祝いとして、2年前倒しで赤いポルシェを購入している。
私生活[編集]
結婚と家族[編集]
1993年10月に元モデルの女性と結婚。1994年2月に長女が生まれ、その後次女も誕生した。2010年のインタビューでは、10代の子ども2人の学費や光熱費、住宅ローンを抱えて「家族のために働いている」と語っている。後年『ノンストップ!』(フジテレビ、2024年4月)に出演した際には、表舞台から遠ざかっていた時期について「その時、僕はすごい楽しかった」と振り返り、父親として過ごせた時間を「いい経験」と表現した。
長女・田原可南子と義理の息子[編集]
長女はタレント・女優の田原可南子。2011年に「ミスマガジン2011」で別の芸名を使って準グランプリとなり、のちに田原の娘であることが明らかになって話題を集めた。一時はスターダストプロモーションに所属していた。
2024年、可南子は俳優の高良健吾と結婚し、2025年3月に第1子の誕生を発表した。2026年6月のリリースパーティーで田原は、1歳の孫について「まだ2、3回しか会ってない」と明かし、抱っこは「怖い」、孫に「トシちゃん」と呼ばれるのは本当は嫌だが、たぶんそう呼ばれるだろうと笑わせた。娘一家が「幸せそう」で嬉しい、とも語っている。
2020年代の活動[編集]
還暦、TikTok、YouTube[編集]
2021年2月、60歳の誕生日を前にNHK BSプレミアムで「還暦前夜!」と題したスペシャルワンマンライブを開催。同月にはTikTokを開設し、2022年9月には公式YouTubeチャンネル「田原トシちゃんねる!」を開設した。2024年にはBS日テレで新レギュラー番組『ちょい見せ!トシちゃん』がスタートしている。
デビュー45周年ツアー[編集]
2024年は全国19か所・20公演のアニバーサリーツアーを開催。10月27日には10代を過ごした山梨のYCC県民文化ホールで凱旋公演を行い、その模様はWOWOWの12か月連続特集の一環として放送された。かつては客席の「99%が女性」だったが、近年は男性客が増え、広島公演では約4割が男性だったと本人が語っている。
「田原俊彦 大発表会」と50周年に向けて[編集]
2025年2月には都内で「田原俊彦 大発表会」を開き、デビュー50周年へ向けた「ダブルHプロジェクト」(世の中をHappy & Healthyにする)を発表。6月1日に2025年大阪・関西万博の会場で行われる、参加者2,000人以上で各時代のダンスを踊るイベントのスペシャルMCに就任し、EXILEの岩田剛典が映像メッセージを寄せた。さらに「100年後に田原俊彦を残すプロジェクト」の第2弾として、漫画『異世界トシちゃん!〜田原俊彦は転生ではなく先生〜』の連載が『週刊コロコロコミック』で始まった。
2026年[編集]
2026年2月28日に65歳を迎え、「高齢者の仲間入り」を自虐しつつ全国ツアー「Dance with KING of IDOL 2026 〜パーティーはこれからだ!〜」を展開。10月25日の愛知・日本特殊陶業市民会館、10月30日の横須賀芸術劇場、11月7日の高崎芸術劇場など、秋以降もホール公演が続いている。出生地・横須賀での公演が組まれているのもポイントである。
テレビでは、2026年2月にTOKYO MX『5時に夢中!』のエンディングテーマ起用が発表されたほか、『1周回って知らない話』、『鶴瓶のええ歌やなぁ』、『人生、歌がある』、『二畳半レコード』などに出演。新曲リリースやツアーに合わせて北海道『どさんこワイド179』、石川『となりのテレ金ちゃん』、福岡『めんたいワイド』など地方局の情報番組にも精力的に顔を出している。プロ野球の楽天対巨人戦では始球式にも登場した。
作品[編集]
主なシングル[編集]
- 「哀愁でいと(NEW YORK CITY NIGHTS)」(1980年)- デビュー曲。レイフ・ギャレットのカバー
- 「ハッとして!Good」(1980年)- オリコン1位
- 「恋=Do!」(1981年)
- 「悲しみ2ヤング」(1981年)- グリコのCMソング
- 「グッドラックLOVE」(1981年)- 主演映画の主題歌
- 「君に薔薇薔薇…という感じ」(1982年)
- 「原宿キッス」(1982年)- オリコン1位
- 「NINJIN娘」(1982年)
- 「誘惑スレスレ」(1982年)- オリコン1位
- 「ラブ・シュプール」(1982年)- 映画主題歌
- 「ピエロ」(1983年)- オリコン1位
- 「チャールストンにはまだ早い」(1984年)
- 「騎士道」(1984年)- オリコン1位
- 「顔に書いた恋愛小説」(1984年)
- 「華麗な賭け」(1985年)- オリコン1位
- 「It's BAD」(1985年)
- 「抱きしめてTONIGHT」(1988年)- 『教師びんびん物語』主題歌
- 「ごめんよ涙」(1989年)- 『教師びんびん物語II』主題歌。オリコン1位
- 「ジャングルJungle」(1990年)- 37作連続TOP10の最後
- 「雨が叫んでる」(1992年)- 通算38作目のTOP10入り
- 「フェミニスト」(2017年)- メジャー復帰作
- 「愛だけがあればいい」(2024年)
- 「LIFE IS A CARNIVAL」(2025年)- 81枚目。オリコン8位
- 「ナニコレ最高!!!」(2026年)- 82枚目。オリコン10位
主なドラマ[編集]
- 『3年B組金八先生』(TBS、1979年 - 1980年)- 沢村正治 役
- 『教師びんびん物語』(フジテレビ、1988年)- 主演
- 『金太十番勝負!』(フジテレビ、1988年)
- 『教師びんびん物語II』(フジテレビ、1989年)- 主演
- 『俺たちの時代』(TBS、1989年)
- 『日本一のカッ飛び男』(フジテレビ、1990年)
- 『次男次女ひとりっ子物語』(TBS、1991年)
- 『逃亡者』(フジテレビ、1992年)
- 『愛してるよ!』(テレビ朝日、1993年)
- 『半熟卵』(フジテレビ、1994年)
主な映画[編集]
- 『わが青春のイレブン』(1979年)
- 「たのきんスーパーヒットシリーズ」:『青春グラフィティ スニーカーぶる〜す』(1981年)、『ブルージーンズ メモリー』(1981年)、『グッドラックLOVE』(1981年)、『ハイティーン・ブギ』(1982年)、『ウィーン物語 ジェミニ・YとS』(1982年)、『嵐を呼ぶ男』(1983年)
- 『Love Forever』(1983年)
- 『課長島耕作』(1992年)- 主演
- 『必殺始末人』(1997年)- 主演
主なバラエティ・レギュラー[編集]
- 『爆報! THE フライデー』→『バクホウ』(TBS、2011年 - )- スペシャルゲストMC
- 『ちょい見せ!トシちゃん』(BS日テレ、2024年 - )
炎上とバズ[編集]
「ビッグ発言」騒動(1994年)[編集]
1994年2月、長女の誕生をめぐってマスコミが殺到したため、田原は妻子を守る目的で記者会見を開いた。半年近く結婚・出産を極秘にしてきたことに触れ、「何事も隠密にやりたかったけど、僕ぐらいビッグになっちゃうとそうはいきません」と冗談めかして語った。本人はエンタメとして受け答えしたつもりだったが、この「ビッグ」の部分だけがテレビなどで切り取られて繰り返し流され、「何様のつもりだ」と猛バッシングを浴びた。
当初の報道は比較的冷静だったものの、翌月のジャニーズ退所とあいまって「ビッグ」の一言だけが独り歩きした、という見方もある。後年、本人は『婦人公論』(2014年)で半年ほどマスコミと接触しなかったことが記者側の不満を高めたと分析し、『anan』(1996年)では「発言は事実なので、コントロールできなかった自分が悪い」としてマスコミのせいにはしない姿勢を示した。一方で、家族を守るためにマスコミに媚びなかったことは「すっきりした」とも語っている。
2025年のラジオ出演をめぐる騒動[編集]
2025年6月15日、TBSラジオ『爆笑問題の日曜サンデー』にゲスト出演した際、アシスタントの山本恵里伽アナウンサーに下ネタを交えた返答をしたり手に触れたりした言動が、セクハラだとして批判を集めた。TBSラジオは6月20日、田原の言動を不適切だったと判断したことを明らかにした。爆笑問題の太田光も6月22日の放送で謝罪し、これまで田原の言動を「ネタの1つ」として楽しんでいた部分があったと認めている。
田原は6月22日、81枚目のシングル「LIFE IS A CARNIVAL」のリリースパーティーの取材会で「お騒がせしてどうもすいませんでした」と頭を下げ、「昭和のおやじギャグみたいな感じ」で調子に乗りすぎた、今の時代にそぐわなかったと釈明した。ただ、同じ場で「スタジオも超楽しかった」「僕としては通常運転」といった言葉も出たため、反省が足りないとの批判も報じられた。翌23日にはNHKが、24日放送の『うたコン』への田原の出演がなくなったと発表。理由の詳細は示されなかったが、一連の騒動を受けたものと報じられ、ネット上では「過剰反応では」という声と「当然」という声に分かれた。
楽天の始球式と「65歳のアイドル」[編集]
2026年には、65歳でプロ野球楽天対巨人戦の始球式に登場し、スポーツ紙が「トシちゃんは今日もスター」と取り上げた。騒動後も新曲がTOP10入りし、ツアーも続くなど、良くも悪くも話題に事欠かないのがトシちゃんである。
余談[編集]
- 「たのきんトリオ」の名付けは3人の名字(田原・野村・近藤)の頭文字から。トリオの中でソロ歌手デビューが一番早かったのが田原で、近藤・野村がそれに続いた。
- 1988年の紅白は一度は出場者として発表されたにもかかわらず、本人の希望で辞退を表明。翌1989年は「ごめんよ涙」がオリコン1位のヒットになったが、紅白には出場していない。
- 2025年に孫が生まれる直前の会見では、性別を聞かれて「教えないよ!」と即答。孫に「トシちゃん」と呼ばれたいかと聞かれ、そのときは「トシちゃんでいいんじゃない」と答えていたが、2026年には「本当は嫌」と微妙に変化している。
- 2026年6月の会見で、記者から「お孫さんもそろそろ足を上げるのでは」と自身の決めポーズにかけた質問をされると、「何つまんないこと言ってんの?」と切り返した。
- 2025年には、ひとり親家庭に抽選でリユースパソコンを贈る「トシちゃんサンタ団」の企画も発表しており、サッカーJリーグの横浜FCが「チーフサンタ」を務めるとされる。
- ステージでの定番の第一声は「元気ですか〜!」。撮影現場でもカメラマンの注文に応えながらこの掛け声を発してスタッフを笑わせるという。
