| Masahiko Kondo こんどう まさひこ | |
|---|---|
![]() 62歳のバースデーライブで歌う近藤真彦(2026年7月、東京国際フォーラム。出典:デイリースポーツ) | |
| 本名 | 近藤真彦 |
| 誕生日 | 1964年7月19日 |
| 年齢 | 62歳 |
| 出身地 | 神奈川県大和市 |
| 国籍 | 日本 |
| 家族 | 妻(一般女性、1994年結婚)、長男(2007年生まれ) |
| 職業 | 歌手、俳優、レーシングチーム監督、実業家 |
| 肩書 | KONDO Racing 監督、エムケイカンパニー代表、日本レースプロモーション(JRP)取締役会長 |
| 活動期間 | 1979年 - |
| 代表的な実績 | 「スニーカーぶる〜す」(1980年)、「ギンギラギンにさりげなく」(1981年)、「ハイティーン・ブギ」(1982年)、「愚か者」(1987年)、ル・マン24時間レース出場(1994年 - ) |
| 受賞 | 第23回日本レコード大賞 最優秀新人賞(1981年)、第29回日本レコード大賞(1987年「愚か者」)、第52回日本レコード大賞 最優秀歌唱賞(2010年) |
| 事務所 | エムケイカンパニー(2021年 - )/ジャニーズ事務所(1977年頃 - 2021年4月) |
| ファンクラブ | Fanicon内の公式ファンコミュニティ |
| 関連活動 | たのきんトリオ(田原俊彦・野村義男)、KONDO Racing |
| 別名 | MATCHY |
| あだ名 | マッチ |
| その他 | 『3年B組金八先生』(TBS、1979年)で俳優デビュー |
| リンク | 近藤真彦 公式サイト |
概要[編集]
近藤真彦(こんどう まさひこ、1964年7月19日 - )とは、神奈川県大和市出身の日本の歌手・俳優であり、レーシングチーム「KONDO Racing」の監督である。愛称は「マッチ」。『3年B組金八先生』から田原俊彦・野村義男との「たのきんトリオ」で大ブレイクし、「スニーカーぶる〜す」「ギンギラギンにさりげなく」「愚か者」などをヒットさせた。2021年にジャニーズ事務所を退所して独立している。
詳細[編集]
野球少年、スカウトされる[編集]
芸能界入りのきっかけは、13歳の頃に所属していた少年野球チームの集合写真だった。この写真がジャニー喜多川の目に留まり、ジャニーズ事務所にスカウトされたとされる。つまり本人がオーディションに応募したわけではなく、いわば「写真一枚」からキャリアが始まっている。
愛称の「マッチ」は、事務所の先輩・松原秀樹が名付け親とされる。金八先生出演時の短髪がマッチ棒のように見えたから、という説も広く語られている。英字表記の「MATCHY」は、のちに本人のブランドやイベント名にも使われるようになった。
金八先生の「星野清」[編集]
1979年10月、TBSの学園ドラマ『3年B組金八先生』(第1シリーズ)に生徒・星野清役で出演し、俳優デビューした。同じクラスの生徒役だった田原俊彦、野村義男とセットで人気が爆発し、3人の頭文字(田原の「た」、野村の「の」、近藤の「近(きん)」)をとって「たのきんトリオ」と呼ばれるようになる。
面白いのは、たのきんトリオが「グループ」としては一度もCDデビューしていないこと。3人そろっての映画やバラエティはあったが、歌手としてはそれぞれソロデビューしており、あくまで「ユニット的な呼び名」だった。それでも1980年代前半の男性アイドル人気はこの3人が牽引し、後の少年隊やシブがき隊へとつながる「ジャニーズ黄金期」の土台を作った。
「スニーカーぶる〜す」で鮮烈デビュー[編集]
1980年12月12日、松本隆作詞・筒美京平作曲の「スニーカーぶる〜す」でソロ歌手デビュー。いきなりオリコン1位を獲得する大ヒットとなり、「デビュー曲でミリオン」とも語られる伝説的なスタートを切った。この曲を主題歌にした主演映画『青春グラフィティ スニーカーぶる〜す』も公開され、以後「たのきんスーパーヒットシリーズ」として映画が続々と作られた。
1981年と1983年にはブロマイドの年間売上で1位を獲得しており、当時の人気ぶりは数字にもはっきり表れている。12月12日のデビュー記念日は今も特別な日で、2026年には全オリジナルアルバムを集めたBOXをこの日に合わせて発売することが発表されている。
経歴[編集]
アイドル全盛期(1981年〜1986年)[編集]
1981年9月、伊達歩(作家・伊集院静の作詞名義)作詞、筒美京平作曲の「ギンギラギンにさりげなく」を発売。派手なのに「さりげなく」という矛盾したタイトルと、軽快なロックンロール調の曲調で代表曲の一つとなり、この曲で第23回日本レコード大賞の最優秀新人賞を受賞した。同年、NHK紅白歌合戦にも初出場している。
その後も「ヨコハマ・チーク」「ブルージーンズ メモリー」「情熱☆熱風☽せれなーで」「ふられてBANZAI」「ハイティーン・ブギ」「ホレたぜ!乾杯」と、ほぼ3か月おきにシングルを連発。「ハイティーン・ブギ」は同名の主演映画も作られた。1980年代半ばには「ケジメなさい」「ヨイショッ!」「夢絆」「大将」など、アイドルソングから一歩踏み出した男くさい路線にも挑戦している。
「愚か者」でレコード大賞(1987年)[編集]
1987年1月1日に発売した「愚か者」は、伊達歩作詞・井上堯之作曲のハードボイルドなバラード。同じ作家陣による曲を萩原健一も「愚か者よ」として歌っており、聴き比べられることも多い。この「愚か者」で第29回日本レコード大賞を受賞し、アイドル出身の男性ソロ歌手として頂点に立った。
翌年以降も「Made In Japan」「アンダルシアに憧れて」などを発表。「アンダルシアに憧れて」はのちに事務所の後輩たちにカバーされ、ジャニーズ内で受け継がれる曲の一つになった。
1989年の騒動[編集]
1989年は私生活をめぐる報道が相次いだ年だった。2月には週刊誌に松田聖子との写真が掲載されたが、決定的な写真ではなく、松田側も密会を否定している。7月には当時交際が報じられていた中森明菜が近藤の自宅で負傷する騒動が起き、大きく報道された。近藤は中森の復帰まで芸能活動を自粛した。
同年12月31日には、中森の復帰会見に近藤が同席する形で記者会見が開かれた。会見場に金屏風が立てられていたことから、婚約会見を想像したマスコミとの温度差が話題となり、「金屏風会見」として今も語られている。2人はその後結婚には至っていない。
30代以降の歌手活動[編集]
1990年代は「デスペラード―ならず者―」「無頼派」「ミッドナイト・シャッフル」などを発表し、1996年には紅白歌合戦に再び出場。2005年にはロクセンチ作の「挑戦者」で復帰シングルを出すなど、レース活動と並行しながらマイペースに歌を続けた。
2010年にはデビュー30周年を迎え、第52回日本レコード大賞で最優秀歌唱賞を受賞。2015年には19年ぶりに紅白歌合戦へ出場し、白組のトリを務めた。1994年から退所する2021年まで、近藤はジャニーズ事務所に所属するタレントの最年長であり、事務所の「長男」と呼ばれる立場だった。
レーサー・監督としての顔[編集]
ドライバー時代[編集]
レースデビューは1984年の富士フレッシュマンレース。単なる芸能人の余技では終わらず、1988年から1993年にかけて全日本F3選手権に参戦した。1994年にはポルシェ962Cでル・マン24時間レースに初出場し、同年、全日本GT選手権のGT1クラスで初優勝を挙げている。1995年のル・マンでは総合10位に入った。
1998年には若手育成を目的とした「KONDO MASAHIKO RACING PROJECT」を立ち上げ、監督として全日本F3に参戦。ドライバーとしての活動は2003年に一区切りをつけ、以後は監督業に専念した。
KONDO Racing[編集]
2000年、自身のチーム「KONDO Racing Team」を設立し、フォーミュラ・ニッポン(現スーパーフォーミュラ)への参戦を始めた。チームは日産と縁が深く、SUPER GTではGT-Rで戦っている。2007年にマレーシア・セパンでSUPER GT初優勝、2008年にはフォーミュラ・ニッポンで初優勝を飾った。
その後の主な戦績は以下のとおり。
- 2016年:スーパー耐久 ST-Xクラス チャンピオン
- 2018年:スーパーフォーミュラ チーム部門チャンピオン
- 2020年・2022年:SUPER GT GT300クラス 年間チャンピオン(藤波清斗/ジョアオ・パオロ・デ・オリベイラ組)
2025年には6年ぶりにドイツのニュルブルクリンク24時間レースに挑戦。この時はアップデートパーツの事情からGT-Rではなくフェラーリ296 GT3を使用し(日産の了承済み)、ドライバーは全員外国人という布陣だった。予選2番手から表彰台争いを演じたが、決勝はアクシデントでリタイアしている。近藤は3年計画で「頂点に立ちたい」と語っている。
JRP会長に[編集]
2023年4月、スーパーフォーミュラを主催する日本レースプロモーション(JRP)の取締役会長に就任した。前任は日本人初のF1フルタイムドライバーとして知られる中嶋悟。人気の伸び悩みが指摘されていたシリーズの立て直しに取り組み、2025年のインタビューでは「2026年からはグローバルなレースとして本格的に歩みを進めていきたい」と、海外展開を見据えた「ステージ2」構想を語っている。
16年ぶりのドライバー復帰[編集]
2024年5月、スーパー耐久シリーズ第2戦・富士24時間レースにORC ROOKIE Racingの水素エンジン搭載GRカローラ(ST-Qクラス)で出場。レースへのフル参戦は2008年の十勝24時間以来、約16年ぶりだった。チームメイトはトヨタの豊田章男会長で、近藤は「本当に速い。練習でコンマ数秒負けている」と苦笑しつつ、「楽しくてしょうがない」と還暦目前の現役復帰を満喫していた。日産系チームの監督がトヨタの水素カーに乗る、という異色の組み合わせも話題になった。
2020年の活動自粛とジャニーズ退所[編集]
不倫報道と無期限謹慎(2020年)[編集]
2020年11月、『週刊文春』が、近藤と25歳年下の女性経営者との約5年にわたる交際を報じた。ジャニーズ事務所が本人に確認したところ近藤は事実を認め、本人からの申し入れを受けて11月16日付で無期限の芸能活動自粛が決まった。発表は17日未明だった。
近藤はコメントで「家族、関係者の方々、なにより応援してくださっているファンの皆様を裏切ることになり、大変申し訳なく思っております」と謝罪し、家族とは話し合いを重ねて理解を得たと説明した。事務所側も「家庭を持つ一社会人として軽率」「後輩たちの先輩という立場にふさわしい人間を目指して精進する」との趣旨を公表している。デビュー40周年の記念イヤーのさなかの出来事だった。
退所(2021年4月)[編集]
2021年4月30日付で、40年以上在籍したジャニーズ事務所を退所。本人は話し合いの結果として退所に至ったと説明し、「ジャニーズの名を汚さぬよう仕事を続けさせていただきます」とコメントした。
この退所の仕方には、事務所の後輩からも厳しい声が上がった。テレビ朝日系『サンデーLIVE!!』(2021年5月2日放送)で、東山紀之は後輩やファンへの説明がないことを疑問視し、コメントを「すごく薄っぺらく感じる」と率直に批判した。東山は「退所が正しかったと言えるよう、今後の生き方で示してほしい」とも述べ、近藤に代わる「新しい長男」としての覚悟も口にしている。
独立後の再出発[編集]
退所から約2週間後の2021年5月16日、レーシングチームの監督業に復帰。以後、芸能活動のマネジメントはKONDO Racingの運営会社でもあるエムケイカンパニーが担っている。同年9月には文化放送でラジオ番組『近藤真彦 RADIO GARAGE』がスタートした。
歌手としての再出発は2021年11月2日、中野サンプラザでの『Masahiko Kondo Re START 20+21+1×1-2』。昼夜2公演で計4000人を集め、「愚か者」で幕を開けて全35曲を歌った。会場には野村義男も駆けつけ、「同窓会みたいで楽しかった」「何も変わっていない」とコメントしている。
2020年代の活動[編集]
ヨッちゃんとの二人旅[編集]
独立後の近藤を支える相棒が、たのきんトリオの盟友・野村義男である。2021年12月からは『MasahikoとYoshio Live Tour 2021-2022』と題し、Zepp各会場などで全14公演を実施。その後も毎年のように2人のツアーが組まれ、沖縄公演は3年連続で開催された。2025年のインタビューでは、2人で「あと10年くらい」続けようと話していると明かしている。
ちなみに野村は小泉今日子の「学園天国」のカバーで編曲を担当したギタリストでもある。ステージ上のトークは事前の打ち合わせなしで進めるのが2人の流儀だという。
ディナーショーと全国ツアー[編集]
2022年12月には、神戸・長崎・函館・横浜の港町4都市を回る『Harbor Town Dinner Show 2022』を開催。独立後初のディナーショーで、近藤は「ジャニーズにいた時は、どこか甘えがあったかもしれない」「今は120%出さないと120%のお客さんは来てくれない」と語った。2023年1月から3月には全国ツアー2本、計60公演を行っている。
2023年5月には頸椎症性脊髄症の手術を受けたことを公表したが、同年7月19日には59歳のバースデーライブ『RAIN or SHINE -どんなことがあっても…-』を開き、「どこかで絶対に辞めるだろうと思っていた」とデビュー当時を振り返った。2025年10月には昭和をテーマにした全国ツアー『近藤真彦 爆音雷舞集会(笑)~F愛上等伝説~』で小樽に初上陸し、新御三家の楽曲や海援隊「贈る言葉」のカバーも披露した。
還暦と舞台「ギンギラ学園物語」[編集]
2024年7月に60歳の還暦を迎え、同年はACジャパンの難聴啓発キャンペーンにも出演した。ライブのMCでこのCMの再現ネタを披露するのが定番になっている。
2024年12月には東京・明治座で、自身が演出・主演を務める『Thank you very マッチ de SHOW「ギンギラ学園物語」』を上演。第1部は鈴木おさむ書き下ろしのコメディ、第2部はヒット曲のライブという二部構成である。2025年12月30日〜2026年1月4日には再演され、関根勤、小堺一機、松本明子、西村知美、浅香唯、友近らが日替わりゲストで出演した。2026年11月からは3年目の公演が大阪・新歌舞伎座、東京・明治座、愛知・御園座で予定されている。2025年には舞台『ドリームハイ』にも出演した。
韓国で再ブレイク[編集]
2020年代半ばの思わぬ展開が、韓国での「ギンギラギンにさりげなく」ブームである。2024年、韓国MBNの番組『日韓歌王戦』で日本人歌手の住田愛子がこの曲をカバーした動画が1300万回以上再生され、韓国の若い世代にも曲が広まった。近藤自身も2024〜2025年にかけてMBNやフジテレビの日韓共同番組で審査員を務め、日本テレビの『THE MUSIC DAY 2025』では韓国のボーイズグループTWSとのコラボステージを披露している。
2026年6月27日、ソウル・龍山区のブルースクエア・ウリWONバンキングホールで、自身初の韓国公演『近藤真彦 ~Oh マッチします2026! Special in Seoul』を開催。翌日には豪華客船でのファンミーティングも行われた。この訪韓では、2PMやNiziUを手がけたJ.Y. Parkと対面。J.Y. Parkは子どもの頃から近藤の大ファンだったと明かし、「本当に本当にお会いしたかったです。JYPへようこそ」と歓迎、「ギンギラギンにさりげなく」を自分のスタイルでリメイクしたいと申し出た。
339曲サブスク解禁(2026年)[編集]
62歳の誕生日である2026年7月19日、オリジナル作品全339曲のサブスクリプション配信が解禁された。7月22日には東京国際フォーラムで『BIRTHDAY LIVE 2026』を開き、約5000人を前に全24曲を歌唱。約1週間前に急遽依頼したという野村義男がゲストギタリストとして参加した。
この場で、全オリジナルアルバムを収めたコンプリートBOX『宝 THE COMPLETE ALBUM COLLECTION』を同年12月12日に発売することも発表。1981年のデビューアルバム『Thank 愛 You』など、アナログ盤のみだった作品の初CD化を含む。さらに8月28日〜11月15日の全国ツアー(全16公演)、12月のディナーショー『Matchy Guy Night(まちがいない!)2026』も控えており、本人は「レース、歌、海外活動を今より充実させたい」と意欲を見せている。
人物像[編集]
- 自称「日本一の雨男」。
- 趣味は自転車、ミニカー収集。メダカ好きとしても知られる。
- 持久系スポーツにも本気で、2009年に佐渡国際トライアスロン、2010年に宮古島トライアスロンを完走。2013年には伊豆トレイルジャーニーも完走し、2015年にはトライアスロン世界選手権の日本代表に選ばれたことを紅白出場時に語っている。
- 2004年、和歌山県白浜町の海で溺れていた男児を救助したことが報じられた。
- 10代の頃のヒット曲は歌詞が幼いと認めつつも、ファンが当時を思い出せるよう、アレンジを変えずに歌い続けることにこだわっている。
- 小樽公演では、昭和のスター石原裕次郎と美空ひばりを「財産ですよね」と表現。1983年に映画『嵐を呼ぶ男』のリメイクで主演した縁から、日活の撮影所で石原にあいさつしたエピソードを明かしている。
私生活[編集]
1994年6月11日に一般女性と入籍し、1995年2月に結婚披露宴を行った。2007年には第1子となる長男が誕生している。妻は一般人のため、名前などは公表されていない。
2020年の不倫報道の際には、家族と話し合い、謝罪して理解を得たと本人がコメントしている。
ディスコグラフィ[編集]
主なシングル[編集]
| 発売日 | タイトル | 備考 |
|---|---|---|
| 1980年12月12日 | スニーカーぶる〜す | デビュー曲。作詞:松本隆/作曲:筒美京平 |
| 1981年3月12日 | ヨコハマ・チーク | |
| 1981年6月12日 | ブルージーンズ メモリー | |
| 1981年9月30日 | ギンギラギンにさりげなく | 日本レコード大賞最優秀新人賞 |
| 1982年1月7日 | 情熱☆熱風☽せれなーで | |
| 1982年3月31日 | ふられてBANZAI | |
| 1982年6月30日 | ハイティーン・ブギ | 同名映画の主題歌 |
| 1983年4月27日 | 真夏の一秒 | |
| 1983年7月15日 | ためいきロ・カ・ビ・リー | |
| 1984年6月6日 | ケジメなさい | |
| 1985年2月13日 | ヨイショッ! | |
| 1985年6月5日 | 夢絆 | |
| 1987年1月1日 | 愚か者 | 日本レコード大賞。作詞:伊達歩/作曲:井上堯之 |
| 1988年4月8日 | Made In Japan | |
| 1989年11月10日 | アンダルシアに憧れて | |
| 1991年7月19日 | デスペラード―ならず者― | |
| 1996年2月21日 | ミッドナイト・シャッフル | |
| 2005年12月14日 | 挑戦者 | 作詞・作曲:ロクセンチ |
| 2010年2月22日 | ざんばら | デビュー30周年 |
| 2015年12月9日 | 大人の流儀 | デビュー35周年 |
| 2017年12月3日 | 軌跡 |
主なアルバム・BOX[編集]
- 『Thank 愛 You』(1981年):デビューアルバム。2026年のBOXで初CD化
- 『宝 THE COMPLETE ALBUM COLLECTION』(2026年12月12日発売予定):全オリジナルアルバムを収録
主な出演作[編集]
- 『3年B組金八先生』(TBS、1979年 - 1980年):星野清役
- 映画「たのきんスーパーヒットシリーズ」:『青春グラフィティ スニーカーぶる〜す』(1981年)、『ハイティーン・ブギ』(1982年)、『嵐を呼ぶ男』(1983年)など
- 岡部警部シリーズ(2006年 - 2009年)
- 『近藤真彦 RADIO GARAGE』(文化放送、2021年 - )
- 舞台『Thank you very マッチ de SHOW「ギンギラ学園物語」』(明治座ほか、2024年 - )
- 舞台『ドリームハイ』(2025年)
炎上とバズ[編集]
不倫報道と退所をめぐる批判[編集]
2020年の不倫報道と翌年の退所は、デビュー40周年の節目だったこともあって大きく報じられた。退所時のコメントに対しては、東山紀之がテレビで「すごく薄っぺらく感じる」と苦言を呈し、事務所の先輩後輩関係の中で「長男」と呼ばれた立場だっただけに注目が集まった。
性加害問題への発言[編集]
2023年、ジャニー喜多川による性加害問題が社会問題化した際、近藤は9月19日に神奈川県警大磯署の一日署長を務めた場で報道陣から問われ、「いつかはそういう話をさせてもらう時期が来るかと思っていますが、きょうのところは」と述べるにとどめた。2025年12月に毎日放送の『ごぶごぶ』(浜田雅功司会)にゲスト出演して合宿所時代の思い出を語った際には、この問題に触れなかったとして一部メディアから批判的に取り上げられている。
「ギンギラギン」韓国でバズる[編集]
一方で明るい話題としては、2024年以降の韓国での「ギンギラギンにさりげなく」ブームがある。カバー動画が1300万回超再生され、J.Y. Parkが「大ファン」と公言してリメイクを提案するなど、40年以上前の曲が海を越えて再発見される形になった。本人も「韓国でもう一回バズりたい」と、さらなる海外展開に意欲を見せている。
余談[編集]
- デビュー前の1980年、近藤が出演したCMでバックダンサーを務めたのが、のちにシブがき隊となる薬丸裕英と、少年隊の東山紀之だったとされる。
- 「ギンギラギンにさりげなく」と「愚か者」の作詞者「伊達歩」は、直木賞作家・伊集院静の作詞家としての名義である。
- 「アンダルシアに憧れて」は後輩の東山紀之・赤坂晃・堂本光一・今井翼による「アンダルシアユニット」がカバーしている。
- 1985年の「ヨイショッ!」から、レコード会社がRVCからCBS・ソニー(現Sony Music系)に移籍した。
- 石垣島公演(2026年5月)では場内アナウンスを地元の高校生が担当し、アンコールでは島民60人がステージに上がった。本人は「今日が最初で最後の石垣島コンサートになると思います」と語った。
- 「ギンギラ学園物語」の再演には、同じ1980年代アイドル出身の浅香唯や西村知美も日替わりゲストとして名を連ねた。
