Hideki Saijo
さいじょう ひでき
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デビュー55周年の全シングル配信解禁を伝える記事より(2026年4月。出典:Real Sound)
本名 木本龍雄(きもと たつお)
誕生日 1955年4月13日
死亡日 2018年5月16日
死亡年齢 63歳
出身地 広島県広島市
国籍 日本
家族 3人姉弟の末っ子。妻(2001年結婚)、子ども3人(長女・長男・次男)。長男は歌手・俳優の木本慎之介
血液型 AB型
学歴 山陽高等学校 商業科から明治大学付属中野高等学校 定時制へ転校、卒業
職業 歌手、俳優
肩書 「新御三家」の一人
活動期間 1972年 - 2018年
代表的な実績 「ちぎれた愛」(1973年)、「傷だらけのローラ」(1974年)、「ブルースカイ ブルー」(1978年)、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」(1979年)、「ギャランドゥ」(1983年)、日本人ソロ歌手初のスタジアム・コンサート(1974年)
受賞 日本レコード大賞 歌唱賞(1973年・1974年・1976年)、同 金賞(1978年 - 1983年)、日本歌謡大賞(1979年)
事務所 芸映(1971年 - 1983年)→ アースコーポレーション(1983年 - )
あだ名 ヒデキ
その他 法名は修音院釋秀樹
リンク 公式サイト


概要[編集]

西城秀樹(さいじょう ひでき、1955年4月13日 - 2018年5月16日)とは、広島県広島市出身の日本の歌手・俳優である。郷ひろみ・野口五郎とともに「新御三家」と呼ばれた1970年代の大スターで、「傷だらけのローラ」「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」などのヒットに加え、ハウス食品「バーモントカレー」のCMの「ヒデキ、感激!」でも国民的な人気を得た。2度の脳梗塞の後もステージに立ち続け、2018年に63歳で亡くなった。

詳細[編集]

ドラム少年からロック系アイドルへ[編集]

音楽の原点は広島での少年時代にある。父がジャズギターを弾く家庭で洋楽に囲まれて育ち、ベンチャーズ、ローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、シカゴなどに影響を受けた。小学4年生だった1965年頃、兄と一緒にバンド「ベガーズ」を結成し、子どもながらドラマーとして活動を始めている。

1969年にはバンドを「ジプシー」として組み直し、1971年からはヒデキがリードボーカルに。尾崎紀世彦の「また逢う日まで」を聴いてドラムから歌へ転向したとされる。広島のR&B喫茶でバンド演奏をしていたところを芸能事務所のマネージャーに見いだされ、1971年10月に上京。事務所は芸映、レコード会社は日本ビクターのRCAレーベルに決まった。

「新御三家」の一角[編集]

1972年3月25日、シングル「恋する季節」でデビュー。当時16歳だった。1973年の「情熱の嵐」で初めてオリコン週間ベストテンに入り、続く「ちぎれた愛」で初のオリコン1位(4週連続)を獲得。「愛の十字架」も1位となり、一気にトップアイドルの仲間入りを果たした。

同時期にデビューした郷ひろみ・野口五郎とともに「新御三家」と呼ばれ、ライバルであり戦友でもある関係が長く続いた。3人の中でもヒデキは、ハスキーで力強い声と激しいアクションで「絶唱型」と呼ばれるロック寄りのスタイルを打ち出し、アイドルでありながらロックシンガーとしての顔を持っていた点が特徴とされる。

「ヒデキ、感激!」[編集]

歌以外での代名詞が、ハウス食品「バーモントカレー」のテレビCMである。1973年から1985年まで12年以上にわたって出演し、CM中のセリフ「ヒデキ、感激!」は流行語になった。同社のポテトチップスのCMや、のちに「六甲のおいしい水」のCMにも起用されており、ハウス食品とは長い付き合いだった。

2018年の訃報の際、ハウス食品グループは「お陰もあって今日カレーライスが国民食とまで言われ、愛されるようになった」とコメントし、カレーの普及への貢献に感謝を述べた。2015年の60歳記念コンサートでは、写真入りで「ヒデキカンレキィ〜!」と書かれたグッズが来場者に配られている。

日本のコンサート文化を作った人[編集]

ライブ演出の先駆者としての評価も高い。1974年8月3日、大阪球場で日本のソロ歌手として初めてのスタジアム・ワンマン・コンサートを開催し、大阪球場では1974年から1983年まで10年連続で公演を行った。後楽園球場でも1978年から1981年まで4年連続で開催している。

1975年11月3日には日本人ソロ歌手として初めて日本武道館で単独公演を行い、1985年まで11年連続で武道館に立った。クレーンのゴンドラに乗っての歌唱やヘリコプターを使った演出のほか、球場公演で「火の代わりに明かりを持ってきて」とファンに呼びかけたことが、のちのペンライト文化につながったとされる。コール&レスポンスや紙テープ投げなど、今のアイドルコンサートで当たり前になっている光景の多くの原点に、ヒデキのステージがあると語られることが多い。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1955年4月13日、広島県広島市に生まれる。本名は木本龍雄。3人姉弟の末っ子で、兄とのバンド活動が音楽の入口になった。広島市立の小・中学校を経て、1971年に私立山陽高等学校の商業科に進学したが、同年に芸能界入りのため上京。のちに明治大学付属中野高等学校の定時制に転校し、1976年に卒業した。この定時制には、のちに中森明菜やシブがき隊の本木雅弘・薬丸裕英・布川敏和も在籍している。

1972年 - 1978年:トップアイドルへ[編集]

1972年のデビュー後、「ちぎれた愛」「愛の十字架」の2作連続1位で人気を決定づけた。1974年の「激しい恋」は約58.4万枚を売り上げてオリコン年間8位。同年の「薔薇の鎖」では、マイクスタンドを振り回す「スタンドアクション」を初めて披露し、ヒデキのステージの定番になった。

1974年8月発売の「傷だらけのローラ」はオリコン最高2位、約34万枚のヒットとなり、オリコン100位以内に24週ランクインした。これで第16回日本レコード大賞の歌唱賞を受賞し、前年の「ちぎれた愛」に続く2年連続の受賞となった。演歌以外の歌手としては史上初の快挙とされる。同年末にはNHK紅白歌合戦に初出場した。

俳優としても、1974年にTBSのホームドラマ『寺内貫太郎一家』にレギュラー出演し、同年の映画『愛と誠』では主演を務めた。1975年の『あこがれ共同隊』(TBS)では郷ひろみ・桜田淳子と共演している。1975年5月にはドラマ撮影中に左腕を骨折したが、右手と足だけでマイクスタンドを操ってステージをこなしたという逸話も残る。1976年には「若き獅子たち」で3度目のレコード大賞歌唱賞を受けた。1978年にはオーケストラを従えた「ブルースカイ ブルー」がヒットし、以後1983年まで6年連続で日本レコード大賞の金賞を受賞している。

1979年:「YOUNG MAN」旋風[編集]

1979年2月21日発売の28枚目のシングル「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は、キャリア最大のヒットになった。オリコンでは発売2週目に3位で初登場し、翌週から5週連続1位、年間7位。売上は約180.8万枚とされ、新御三家の全シングルの中で最大のセールスである。TBS『ザ・ベストテン』では9週連続1位となり、1979年4月5日・12日の放送で番組史上唯一の満点(9999点)を記録した。

同年は「勇気があれば」で日本歌謡大賞を受賞したほか、FNS歌謡祭最優秀歌唱賞、日本テレビ音楽祭・全日本歌謡音楽祭のグランプリなど各賞を総なめにした。日本レコード大賞は決選投票の末に大賞をわずかに逃したと伝えられる。翌1980年春の選抜高等学校野球大会では「YOUNG MAN」が入場行進曲に選ばれた。

1980年代:アーティストとしての成熟[編集]

1981年の「リトルガール」で、オリコン史上初のシングル30作ベストテン入りを達成。「セクシーガール」でシングル総売上1,000万枚を突破した。1983年に芸映から独立して個人事務所「アースコーポレーション」を設立し、独立第1弾シングル「ギャランドゥ」をヒットさせた。同年8月6日の大阪球場公演で、10年続いたスタジアム・コンサートに幕を下ろしている。

1980年代半ばにはワム!の「Careless Whisper」をカバーした「抱きしめてジルバ -Careless Whisper-」を発表。1985年にはバリー・マニロウとのデュエット曲「腕の中へ -In Search of Love-」を出し、ジョージ・デュークのプロデュースによる「NEW YORK GIRL」など、洋楽志向の作品を積極的に手がけた。1984年のミュージカル『デュエット』、1986年の主演映画『傷だらけの勲章』など、舞台や映画でも大人の役柄に挑戦した。

アジアと世界へ[編集]

海外活動の先駆けは1975年で、「傷だらけのローラ」のフランス語版「LOLA」がフランス・スイス・ベルギーで発売され、カナダではヒットチャート2位を記録した。カナダの歌手ルネ・シマールが来日中に曲を気に入ったことがきっかけだったという。

1988年9月には、ソウル・オリンピックの前夜祭で「傷だらけのローラ」を日本語で歌唱。日本人歌手が韓国の公式の場で日本語の歌を歌ったのはこれが初めてとされる。1987年には香港映画『天使行動』に出演しており、これが唯一の香港映画出演となった。1990年にはクイーン・エリザベス2世号の香港発・日本行きの船上でディナーショーも行っている。

1990年代:ミュージカルと「まる子」[編集]

1989年から1991年にかけて、大阪でミュージカル『坂本龍馬』に主演し、3年続けて上演された。1991年にはフジテレビ系アニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマ「走れ正直者」を担当し、子ども世代にもヒデキの声が届いた。

1992年には時代劇『徳川無頼帳』で初めて時代劇のレギュラーを務め、1993年にはチャリティー公演「STOP AIDS CONCERT」をプロデュース。1994年の第45回紅白歌合戦には10年ぶりに出場し、1994年・1995年と続けて「YOUNG MAN」を歌った。1999年にはレコード会社をポリドールへ移籍している。2000年には日本ジュエリーベストドレッサー賞(男性部門)を受賞した。

2000年代:結婚と1度目の脳梗塞[編集]

2001年6月30日、一般女性と結婚。姉の紹介で知り合った18歳年下の会社員で、のちに3人の子どもに恵まれた。

2003年6月、韓国でのディナーショーの最中に脳梗塞を発症し、軽い言語障害が残った。本人はのちに、発症後に一時は引退も考えたが、子どもの誕生をきっかけに歌い続ける決意をしたと語っている。リハビリを経て復帰し、2004年10月には闘病の経験をつづった著書『あきらめない 脳梗塞からの挑戦』を出版。脳梗塞についての講演も行うようになった。2009年にはNHK連続テレビ小説『つばさ』に出演している。

2011年 - 2018年:2度目の脳梗塞と「ありのまま」のステージ[編集]

2011年12月20日に脳梗塞が再発し、右半身のまひと言語障害が残った。慶應病院への入院後、リハビリ病院で1か月足らずのリハビリを行い、退院直後の2012年1月28日にはチャリティーコンサートに出演。同年2月28日には熊本競輪場で開かれた日本選手権競輪の開会式で国歌を独唱し、9月にはブラジル・サンパウロのコンサートで日系人ファン約4,000人の前でヒット曲10曲を歌った。2012年10月には2冊目の著書『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』を出版している。

リハビリは家族の支えを受けながら、ストレッチやプールでの歩行訓練などを週5日続けたと報じられた。厳しいリハビリの最中も「ファンのためにがんばりたい。YMCAをちゃんと歌いたい!」と口にするのが決まり文句だったという。2017年の報道では、1日2〜3時間のリハビリや鍼治療を続けていると伝えられている。

2015年4月13日の60歳の誕生日には、ヒット曲を全面的に再録音した還暦記念アルバム『心響 -KODOU-』を発売し、8年半ぶりの新曲「蜃気楼」も収録。オリコンのデイリーアルバムランキングで3位に入った。同月の赤坂BLITZでの還暦コンサートには野口五郎がサプライズで登場している。2015年から2016年頃は年に70〜80本のステージに立ち、昭和歌手の合同公演「同窓会コンサート」にも参加した。後遺症を隠さず、「ありのままを見せたい」という姿勢で歌い続けたことが、晩年のヒデキを象徴している。

死去[編集]

最後のステージは2018年4月14日の「同窓会コンサート」で、4月19日には日本歌手協会の歌謡祭を客席から見学する姿が目撃されていた。4月25日に自宅で倒れて意識を失い、約3週間の闘病の末、5月16日23時53分、神奈川県横浜市の病院で急性心不全のため亡くなった。63歳だった。

5月25日の通夜、26日の告別式は東京・青山葬儀所で営まれ、告別式では新御三家の郷ひろみと野口五郎が弔辞を読んだ。出棺の際には集まった約1万人のファンから「ヒデキ!」コールが起こった。同年11月に出版された妻の著書『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』では、公表されていた2回のほかにも脳梗塞を繰り返していたことや、2014年頃に多系統萎縮症の診断を受けていたことなどが明かされた。

音楽性と評価[編集]

ヒデキの音楽性を語るうえで外せないのが、アイドルの枠組みの中でロックやソウルの要素を持ち込んだ点である。少年時代にドラマーとしてバンドを組み、洋楽のロックを浴びて育った経歴から、ハスキーな高音のシャウトと全身を使ったアクションで歌うスタイルを確立した。「ちぎれた愛」「愛の十字架」「傷だらけのローラ」といった「愛」をテーマにした絶唱型の楽曲は、その歌唱力があってこそ成立したものとされる。

一方で「ブルースカイ ブルー」「ラストシーン」のような叙情的なバラード、「ギャランドゥ」「抱きしめてジルバ」のような都会的なナンバーも歌いこなした。洋楽カバーにも積極的で、ステージやテレビではディープ・パープル「スモーク・オン・ザ・ウォーター」、エルヴィス・プレスリー「好きにならずにいられない」、ロッド・スチュワート「セイリング」なども歌っていた。

「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」は、1978年に渡米した際にヴィレッジ・ピープルの原曲を知ったヒデキ本人がカバーを提案したもの。カバー曲であることなどを理由にスタッフの反対もあったと伝えられるが、1979年1月の大阪での新春コンサートで初披露したところリクエストが殺到し、急きょシングル化された。日本語詞は当時のマネージャーが「あまがいりゅうじ」名義で書き、原曲から離れた青春の応援歌に仕上げられた。

振り付けは長年ヒデキの振り付けを手がけた一の宮はじめによるもので、「Y」「M」「C」「A」を全身で表現する観客参加型のパフォーマンスが大ブームに。ヒデキは「客席と一緒に歌って踊れること」を重視し、「A」の振りは隣の人に腕がぶつからないよう、腕を曲げて揺らす形に変えたという。この振りは原曲側に逆輸入されたともいわれ、現在では運動会や高齢者施設のレクリエーション、リハビリでも使われる定番曲になっている。

人物像[編集]

  • 愛称は「ヒデキ」。コンサートでのファンの「ヒデキ!」コールは、葬儀の出棺時にも再現された。
  • 芸映時代には、事務所主催の新人オーディション「HIDEKIの弟・妹募集オーディション」に名前を冠され、ここから河合奈保子(キャッチコピーは「秀樹の妹」)や石川秀美がデビューした。石川秀美の選考では、ヒデキが強く推したとされる。
  • スポーツ好きで、水泳では2012年に「ベストスイマー」に選ばれている。2002年にはプロ野球オールスターゲームの開会式で国歌を独唱した。
  • 神奈川県川崎市にゆかりがあった縁で、サッカー・川崎フロンターレの市制記念試合(2004年 - 2013年)のハーフタイムショーで「YOUNG MAN」を歌うのが恒例だった。没後の2018年には等身大パネルと過去の映像・音源で「出演」し、2019年からはコロッケが後を継いでいる。
  • 2003年の1度目の脳梗塞は、サウナを使った急激な減量の後に起きたと報じられている。晩年は自身の経験を講演で語り、予防の大切さを訴えた。
  • 2013年には食の旅番組『ぐるっと食の旅 キッチンがゆく』の旅人を務めた。

家族[編集]

2001年に結婚した妻との間に、2002年生まれの長女、2003年生まれの長男、2005年生まれの次男の3人の子どもがいる。最初の脳梗塞の際に一時は引退も考えたが、子どもの誕生がステージに戻る支えになったと本人が語っている。妻は2018年に著書『蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年』を出版し、闘病生活を家族の視点から明かした。

長男の木本慎之介は、高校時代まではプロサッカー選手を目指していたが、ケガで半年ほどプレーできなかった時期に父のライブ映像を見て歌手を志した。2024年から本格的に芸能活動を始め、同年3月から朝倉未来の事務所に所属。2025年には音楽番組『現役歌王JAPAN』で父の「ブルースカイ ブルー」を歌って反響を呼んだ。2026年2月には音楽劇『ReAnimation THE ORIGIN』で初舞台・初主演を務め、ビブラートが父に似ていると話題になった。本人は「父に似ていると言われたい」と語っている。

没後の再評価[編集]

一周忌から七回忌まで[編集]

一周忌の2019年5月16日には、オールタイム・シングル集『HIDEKI UNFORGETTABLE -HIDEKI SAIJO ALL TIME SINGLES SINCE 1972-』の発売記念イベントが東京・豊洲PITで開かれ、葬儀で司会を務めた徳光和夫と、事務所の後輩でもあった岩崎宏美が登壇。生前のライブ映像によるフィルムコンサートに約1,200人のファンがペンライトを手に集まった。同日にはWOWOWで、1975年のドキュメンタリー映画『ブロウアップ ヒデキ』や2000年のライブ『バイラモス2000』などの特集が放送されている。

『ブロウアップ ヒデキ』は、1975年の全国ツアーに密着した記録映画で、没後は繰り返し上映されている。2018年6月には東名阪のZeppで上映され、2025年4月には東京・東劇で、同年10月には東京・神保町シアターでも、声援・手拍子・ペンライトOKの「応援上映」が行われた。スクリーンのヒデキに向かってファンがコールを送る光景は、生前のコンサートの再現そのものになっている。

2025年:生誕70年[編集]

生誕70年の2025年4月には、CS放送の衛星劇場が「フォーエバー・ヒデキ 西城秀樹 生誕70年」と題した特集を組み、HDリマスター版の香港映画『天使行動』、映画『恋は放課後』『愛と誠』『ブロウアップ ヒデキ』、さらにバラエティ『カックラキン大放送!!』の出演回などを放送した。5月には映画『あゝ決戦航空隊』や、2000年のコンサート映像『Bailamos 2000』も放送されている。

2026年:デビュー55周年[編集]

デビュー55周年の2026年は、近年でも特に動きが多い年になった。誕生日の4月13日、デビュー曲「恋する季節」から1982年の「漂流者たち」までの43曲を収めた『HIDEKI SINGLES Vol.1』が主要配信サービスで解禁され、5月16日の命日には「ギャランドゥ」以降を収めたVol.2も配信開始。これで全78曲のシングルがサブスクリプションで聴けるようになった。

5月20日には、1978年7月22日の後楽園球場公演を収めたBlu-ray/DVD『HIDEKI SAIJO BIG GAME 1978 Stadium Live in Tokyo』が発売された。当時フジテレビで一度だけ放送された映像をデジタルリマスターしたもので、豪華盤には1978年10月の大阪公演の未発表ライブ音源も付いた。7月には『天使行動』が初DVD化され、10月28日には主演映画『おれの行く道』(1975年、田中絹代と共演)が公開から約50年を経て初めてソフト化されている。

8月27日にはNHK総合の『The Covers スペシャル 西城秀樹ナイト!〜デビュー55周年SP〜』が放送され、岩崎宏美が「ブルースカイ ブルー」、Original Loveが「ギャランドゥ」、MAZZELのKAIRYUが「傷だらけのローラ」をカバー。MCはリリー・フランキーと上白石萌歌、語りは堂本光一が務め、SHOW-YAの寺田恵子がロックボーカリストとしてのヒデキの魅力を語った。9月6日にはNHK BSで、秘蔵映像を中心にした『The Covers 西城秀樹ディープ・ナイト!』も放送され、SHOW-YAが「傷だらけのローラ」を披露した。

配信されたシングル78曲は、ファンからのリクエストを受けて9月25日に3枚組2セットのCDとして発売された。配信限定作品のCD化は異例とされる。あわせて9月15日から21日には大阪と東京でフィルムライブ「HIDEKI FESTA 2026 秋」が開かれ、1975年の初の武道館公演や、初公開となる「JUST RUN '84 HIDEKI in Tokyo」の映像などが上映された。

ディスコグラフィ[編集]

主なシングル[編集]

年 タイトル 備考
1972年 恋する季節 デビュー曲
1973年 情熱の嵐 初のオリコン週間ベストテン入り
1973年 ちぎれた愛 初のオリコン1位(4週連続)。日本レコード大賞歌唱賞
1973年 愛の十字架 オリコン1位
1974年 薔薇の鎖 マイクスタンドアクションを初披露
1974年 激しい恋 約58.4万枚、オリコン年間8位
1974年 傷だらけのローラ オリコン2位。日本レコード大賞歌唱賞。仏語版「LOLA」も
1976年 若き獅子たち 日本レコード大賞歌唱賞
1976年 ラストシーン
1977年 ブーメラン ストリート
1978年 ブーツをぬいで朝食を
1978年 ブルースカイ ブルー 日本レコード大賞金賞
1979年 YOUNG MAN (Y.M.C.A.) 約180.8万枚。オリコン5週連続1位。ザ・ベストテン満点
1979年 勇気があれば 日本歌謡大賞
1980年 サンタマリアの祈り
1981年 リトルガール オリコン史上初のシングル30作ベストテン入り
1981年 セクシーガール シングル総売上1,000万枚突破
1982年 聖・少女
1983年 ギャランドゥ 独立後第1弾
1985年 腕の中へ -In Search of Love- バリー・マニロウとのデュエット
1980年代 抱きしめてジルバ -Careless Whisper- ワム!のカバー
1991年 走れ正直者 アニメ『ちびまる子ちゃん』エンディングテーマ
2000年 Bailamos 80枚目のシングル

主なアルバム・映像[編集]

  • 『心響 -KODOU-』(2015年)- 還暦記念のセルフカバーアルバム。新曲「蜃気楼」を収録
  • 『HIDEKI UNFORGETTABLE -HIDEKI SAIJO ALL TIME SINGLES SINCE 1972-』(2019年)- 一周忌に発売されたシングル集
  • 『HIDEKI SAIJO BIG GAME 1978 Stadium Live in Tokyo』(2026年)- 1978年の後楽園球場公演
  • 『HIDEKI SINGLES Vol.1』『HIDEKI SINGLES Vol.2』(2026年配信、同年CD化)- 全78シングル

主な出演[編集]

テレビドラマ[編集]

  • 『寺内貫太郎一家』(1974年、TBS)
  • 『あこがれ共同隊』(1975年、TBS)- 郷ひろみ・桜田淳子と共演
  • 『徳川無頼帳』(1992年)- 初の時代劇レギュラー
  • 『つばさ』(2009年、NHK連続テレビ小説)

映画[編集]

  • 『恋は放課後』(1973年)
  • 『ひとつぶの涙』(1973年)
  • 『愛と誠』(1974年)- 主演
  • 『あゝ決戦航空隊』(1974年)
  • 『おれの行く道』(1975年)- 主演。田中絹代と共演
  • 『ブロウアップ ヒデキ』(1975年)- ドキュメンタリー
  • 『傷だらけの勲章』(1986年)- 主演
  • 『天使行動』(1987年、香港映画)

舞台[編集]

  • 『デュエット』(1984年)
  • 『坂本龍馬』(1989年 - 1991年)
  • 『ラヴ』(1994年)
  • 『D・LIVE』(1996年)

著書[編集]

  • 『あきらめない 脳梗塞からの挑戦』(2004年、リベロ)
  • 『ありのままに 「三度目の人生」を生きる』(2012年、廣済堂出版)

炎上とバズ[編集]

「YOUNG MAN」カバーへの社内の反対[編集]

「YOUNG MAN」は、原曲がヴィレッジ・ピープルの曲で、そのイメージも含めて当初スタッフから強い反対があったと伝えられる。結果的にはコンサートでの反応の大きさが決め手となって発売され、キャリア最大のヒットになった。

没後のサブスク解禁とCD化[編集]

2026年に全シングルが配信解禁されると、配信で聴き始めた層を含めてCD化を望む声が相次ぎ、同年9月に配信限定作品としては異例のCD化が実現した。

余談[編集]

  • 「YOUNG MAN」の曲中の手拍子は、ファンクラブ会員をスタジオに招いて録音したもので、曲の最後にもファン50人の掛け声と歌声が入っている。
  • 「YOUNG MAN」は急な発売だったため、ヒデキ本人が日本ビクターの工場を訪れ、ミカン箱の上に乗って歌って従業員を激励したとされる。
  • 「YOUNG MAN」のジャケット写真は、ロサンゼルスのセンチュリーシティで撮影された。
  • 「傷だらけのローラ」は「激しい恋」より先に録音されていたが、曲調から「秋の勝負曲」として後に回されたという。激しいアクションを伴うため、脳梗塞の後は歌唱を控えていた。
  • 1974年の初出場の紅白では、番組史上初めてCO2ボンベを使って上下からスモークを出す演出を行ったとされる。紅白には通算18回出場した。
  • 「ギャランドゥ」は発売直前に歌詞が変更されたため、発売2週間前にNHKで披露された旧歌詞版が「幻の1曲」になっている。

外部リンク[編集]

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