鶴田浩二
Koji Tsuruta
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映画『本日休診』(1952年、渋谷実監督)での鶴田浩二。出典:ウィキメディア・コモンズ(パブリックドメイン)
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『日本侠客伝 血斗神田祭り』(1966年)予告編より、鶴田浩二(左)と高倉健(右)。出典:ウィキメディア・コモンズ(CC BY 3.0)
本名 小野栄一
誕生日 1924年12月6日
死亡日 1987年6月16日
死亡年齢 62歳(数え年64)
出身地 兵庫県西宮市生まれ(戸籍上は静岡県浜松市)
国籍 日本
学歴 関西大学専門部商科(在学中に学徒出陣)
ジャンル 映画、テレビドラマ、歌謡曲
ポジション 俳優、歌手
活動期間 1948年 - 1986年
デビューアルバム 男の夜曲(1949年)
家族 妻、長女(カーロン愛弓)、三女(鶴田さやか)ほか
代表作 『人生劇場 飛車角』『博奕打ち 総長賭博』『雲ながるる果てに』『男たちの旅路』、歌『傷だらけの人生』
関連活動 戦没者の慰霊・遺骨収集活動
その他 日本レコード大賞大衆賞、日本有線大賞ほか


概要[編集]

鶴田浩二(つるた こうじ、1924年 - 1987年)とは、昭和の日本映画を代表する俳優・歌手である。松竹の甘い二枚目スターとして出発し、東映の任侠映画で高倉健と並ぶ看板となり、歌手としては『傷だらけの人生』を大ヒットさせた。戦中派の哀愁と「筋を通す男」の美学を、銀幕とテレビと歌の三方面で体現した人物だ。

詳細[編集]

生い立ちと海軍航空隊[編集]

本名は小野栄一。1924年12月6日、兵庫県西宮市で生まれ、戸籍上の出身地は静岡県浜松市とされる。両親は結婚を認められずに別れ、母は水商売で生計を立て、幼い彼は目の不自由な祖母のもとで育ったと伝えられている。決して恵まれた家庭環境ではなかったことが、のちに彼が好んで演じた「陰のある男」の原風景になったと語られることも多い。

少年時代に時代劇スター高田浩吉の劇団に入り、芸の世界に足を踏み入れた。その後、関西大学専門部商科に進むが、戦局の悪化で学徒出陣となり海軍へ。海軍の飛行予備学生として航空隊に配属され、終戦時の階級は海軍少尉だった。

「特攻隊員」伝説と検証[編集]

鶴田といえば「特攻隊の生き残り」というイメージが強い。映画会社の宣伝でもこの経歴が強調され、本人も戦友や特攻隊員への強い思いを生涯語り続けた。ところが後年の検証では、実際の配属は大井海軍航空隊の整備科の予備士官で、自ら特攻機に乗る立場ではなく、出撃していく若者たちを地上から見送る側だったとする見方が有力になっている。

本人がこの「特攻隊員」像を積極的に否定しなかったことから、経歴の誇張を指摘する声がある一方で、特攻機を整備して送り出した側として仲間の死を目の当たりにした体験自体は本物であり、彼の戦争観や演技に深い影を落としたのは事実だ、と擁護する見方もある。どちらにせよ、仲間を見送った戦争体験と戦没者への思いが、鶴田という俳優の芯にあったことは間違いない。

松竹デビューと二枚目スター時代[編集]

芸名の「鶴田浩二」は、師匠である高田浩吉から「浩」の字をもらったものだ。戦後の1948年に松竹に入り、最初は大部屋俳優からのスタートだったが、長谷川一夫主演の『遊侠の群れ』で本格的に映画デビューを果たす。

翌1949年には『フランチェスカの鐘』で初主演。端正な顔立ちと甘い声で女性ファンを熱狂させ、同世代の佐田啓二、高橋貞二とともに「青春三羽烏」と呼ばれる人気者になった。同じ1949年には『男の夜曲』でレコードデビューもしているが、本人は後年「無理やり録音させられた」と苦笑交じりに振り返っている。

東宝への移籍と時代劇[編集]

1950年代には松竹を離れて各社の作品に出演し、1958年には東宝の専属となる。とりわけ有名なのが、稲垣浩監督の『宮本武蔵』三部作の第二部・第三部で演じた佐々木小次郎だ。三船敏郎演じる武蔵の宿命のライバルとして、クールで美しい剣士像を作り上げた。

東宝時代には時代劇・現代劇だけでなく、特撮映画『電送人間』(1960年)などにも出演している。ゴジラで知られる東宝特撮の世界に、二枚目スター鶴田浩二がいたというのは今となっては意外なトリビアだろう。

経歴[編集]

1953年の襲撃事件[編集]

人気絶頂期の1953年1月6日夜、大阪市の天王寺近くの旅館で、鶴田は複数の男に襲撃される事件に遭った。報道や後年の記事によると、大阪の劇場での正月公演を終えて宿に戻ったところ、サインを求める女性ファンにまぎれて男たちが部屋に上がり込み、ウイスキー瓶やレンガで殴りかかったとされる。鶴田は頭と手を11針縫うけがを負い、全治10日と報じられた。

事件の背景については、当時の興行をめぐるトラブルや、美空ひばりの興行を取り仕切っていた山口組との関係がこじれたことが原因だと報じられた。その後、鶴田は山口組三代目組長の田岡一雄と和解したとされ、この一件は芸能界と興行界の関係を象徴する出来事として、今もたびたび振り返られている。なお鶴田はけがから回復後、仕事を続けている。

東映移籍と任侠映画の誕生[編集]

1960年、鶴田は東映の岡田茂らの要請を受けて東映に移籍した。仲介役となったのは、のちに任侠映画のプロデューサーとして名を馳せる俊藤浩滋だ。当初は時代劇の大スターたちの陰で苦戦したが、1963年の『人生劇場 飛車角』で一気に流れが変わる。

尾崎士郎の小説を原作とし、沢島忠が監督した同作で、鶴田は義理と人情に生きるやくざ・飛車角を哀愁たっぷりに演じた。飛車角の弟分・宮川を演じたのが若き高倉健、ヒロインのおとよは佐久間良子。この作品が大ヒットしたことで、東映は時代劇から任侠映画へと大きく舵を切ることになり、着流し姿の昔気質のやくざという任侠映画の基本イメージがここで完成したといわれる。

任侠映画の黄金期[編集]

1960年代半ばから後半にかけて、鶴田は『博徒』シリーズ、『日本侠客伝』シリーズ、『博奕打ち』シリーズ、『明治侠客伝 三代目襲名』などに次々と主演し、高倉健と並ぶ東映任侠映画の二大スターとなった。1967年には深作欣二監督の『解散式』にも主演している。

高倉が寡黙で武骨な「静かな怒り」の男を得意としたのに対し、鶴田は板挟みに苦しみ、運命に引き裂かれていく「哀しみの男」を演じさせたら右に出る者がいなかった。哀しみを背負った鶴田の男たちは、高度成長期に取り残されたような思いを抱える観客の心をつかんだ。

戦争映画と戦中派としての顔[編集]

鶴田にとって、戦争映画は特別なジャンルだった。1953年の『雲ながるる果てに』では、特攻隊基地の若い士官たちを描いた物語で、勝利を信じて疑わない大滝中尉を演じた。のちに『あゝ同期の桜』、『人間魚雷 あゝ回天特別攻撃隊』、『あゝ決戦航空隊』(大西瀧治郎役)、東宝の大作『連合艦隊』(伊藤整一役)など、戦争をテーマにした作品に数多く出演している。

一方で、私生活でも戦没者の慰霊に力を注ぎ、慰霊のためのチャリティーショーを続けたほか、遺骨収集にも取り組んだとされる。こうした姿勢から「右翼」と評されることもあったが、娘の証言によれば、本人は右か左かで物事を割り切る考え方はしていなかったという。

実録路線の時代と晩年の映画[編集]

1973年、菅原文太主演・深作欣二監督の『仁義なき戦い』が大ヒットすると、東映は義理人情の様式美を描く任侠映画から、暴力と裏切りをリアルに描く「実録路線」へとシフトする。様式美の象徴だった鶴田の時代は、ここで一つの区切りを迎えた。

それでも鶴田は『やくざ戦争 日本の首領』などの実録系大作や、1984年の『修羅の群れ』などに重厚な存在感で出演を続けた。生涯の出演映画は260本近くにのぼるとされ、まさに昭和の映画史そのものを生きた俳優だった。

代表作[編集]

人生劇場 飛車角(1963年)[編集]

任侠映画ブームの起点とされる記念碑的作品。大正時代の深川を舞台に、恩義のために人を斬って服役した飛車角が、出所後に自分の情婦と弟分が結ばれていたことを知る……という三角関係のメロドラマでもある。のちの任侠映画と違って、主人公たちが恋愛で激しく葛藤するのが見どころで、鶴田の憂いを帯びた表情が最大限に生きている。続編『続・飛車角』『人生劇場 飛車角と吉良常』なども作られた。

博奕打ち 総長賭博(1968年)[編集]

山下耕作監督、笠原和夫脚本による任侠映画の最高傑作の一つ。昭和初期、跡目相続をめぐって揺れる博徒一家で、兄弟分への義理と組を守る責任の板挟みになる中井信次郎を鶴田が演じる。共演は若山富三郎、藤純子(現・富司純子)ら。

勧善懲悪の痛快さではなく、誰もが筋を通そうとするほど破滅に向かっていく悲劇性が評価され、作家の三島由紀夫が評論で絶賛したことでも知られる。任侠映画を「娯楽」以上のものとして語らせた一本だ。

男たちの旅路(1976年 - 1982年、NHK)[編集]

山田太一脚本によるNHKの土曜ドラマ。鶴田は警備会社の司令補・吉岡晋太郎を演じた。吉岡は特攻隊の生き残りで、「俺は若い奴が嫌いだ」と言い放つ頑固な中年男。水谷豊演じる杉本陽平、桃井かおり演じる島津悦子、柴俊夫、森田健作らが演じる戦後生まれの部下たちと衝突しながら、互いの価値観をぶつけ合っていく。

第1話で部下に「明日、確実に死ぬと決まった人間たちと暮らしたことがあるか」と問いかける場面は、鶴田自身の戦争体験と重なって語られる名シーンだ。映画スターだった鶴田がテレビドラマでも代表作を得た作品であり、世代間の断絶を真正面から描いたドラマとして今も評価が高い。

雲ながるる果てに(1953年)[編集]

学徒出身の海軍航空兵たちの手記をもとに、家城巳代治監督が特攻隊基地の若者たちの青春と出撃を描いた作品。鶴田はこの作品に強い思い入れを持っていたとされ、のちの「戦中派・鶴田浩二」のイメージを決定づけた一本である。

歌手としての鶴田浩二[編集]

傷だらけの人生[編集]

1970年12月に発売された16枚目のシングル『傷だらけの人生』は、作詞・藤田まさと、作曲・吉田正。語りから始まるこの曲は、任侠映画のイメージとも重なって累計100万枚近いヒットとなり、1971年に日本レコード大賞の大衆賞や日本有線大賞の大賞を受賞した。同名の映画シリーズまで作られている。

制作の裏話も面白い。当時のレコード会社は大スターの扱いに困り、新人ディレクターに担当を任せたとされる。録音では最初のキーがしっくりこず、何度も録り直した末に原曲から半音下げたことがヒットの一因になったとも言われる。鶴田自身はこの歌を演歌でもムード歌謡でもない「情歌」と呼んでいた。

耳に手を当てる歌唱スタイル[編集]

鶴田の歌う姿といえば、マイクに白いハンカチを添え、左手で左耳をふさぐように当てる独特のポーズだ。ものまね芸でも定番になったこのスタイルには諸説ある。元レコード会社関係者は、戦時中に左耳を傷めていたため、リズムを聴き取るための工夫だったと語っている。

ハンカチについては、三女の鶴田さやかが「手汗をかくから」と説明する一方、当時のディレクターは「単なるカッコつけ」と見ていたという。本人も「俺は派手が似合う男だ」と答えたというエピソードが残っており、どちらも本当だったのかもしれない。

楽譜が読めない努力家[編集]

意外なことに、鶴田は楽譜が読めなかったとされる。そのぶん録音の前には深夜まで練習を繰り返し、歌を身体に叩き込んでから本番に臨んだという。自らを第一に「俳優」と位置づけていた彼は、歌も芝居の延長として、一曲ごとにひとつの人生を演じるように歌っていたのだ。

その他の代表曲には『赤と黒のブルース』『好きだった』、台詞入りの『同期の桜』などがある。

人物・交友[編集]

高倉健との関係[編集]

任侠映画で人気を二分した鶴田と高倉健は、ライバルであると同時に兄貴分・弟分の関係でもあった。高倉は年上の鶴田を兄貴分として慕っていたとされる。一方で、役者としての仕事には厳しく、リハーサルや現場での準備を怠る後輩については、高倉であっても苦言を呈していたという証言もある。

先輩には辛口、後輩には優しく[編集]

撮影所では大御所の俳優と口をきかないなど、気難しい一面を語られることもある鶴田だが、若手には面倒見がよく、梅宮辰夫や松方弘樹らをかわいがったという。任侠映画の現場で育った後輩たちにとって、鶴田は厳しくも頼れる兄貴分だった。

三島由紀夫との交流[編集]

三島由紀夫とは対談で意気投合した仲として知られる。しかし1970年に三島が自決すると、鶴田は「このやり方は違う」と言って部屋に閉じこもり、葬儀にも参列しなかったと伝えられている。戦争で多くの若者の死を見てきた戦中派として、思うところがあったのだろう。

NHKとの確執[編集]

『傷だらけの人生』が大ヒットしながら、NHK紅白歌合戦には出場していない。NHKに紅白出場を断られた際に激怒し、しばらくNHKへの出演を拒否したと伝えられている。それでものちに『男たちの旅路』でNHKドラマの代表作を残したのだから、人生とは面白い。

晩年と死去[編集]

1985年、鶴田は肺がんと診断された。本人には本当の病名が伏せられていたとされる。病をおして出演した1986年のNHKドラマ『シャツの店』(山田太一脚本)が遺作となった。

1987年6月16日、新宿区の慶應義塾大学病院で死去。62歳だった。葬儀では、棺の中の鶴田に旧海軍の第二種軍装が着せられ、棺は旭日旗で包まれたという。弔辞を読んだのは、『男たちの旅路』で警備会社の社長役として共演した俳優の池部良だった。墓所は鎌倉霊園にあり、高野山奥の院にも墓碑がある。最期まで「海軍の男」として送られた。

家族[編集]

妻との間に3人の娘がいる。長女のカーロン愛弓は、2000年に新潮社から手記『父・鶴田浩二』を出版し、映画スターであるがゆえの父と娘の葛藤や、美空ひばり、岸惠子、三島由紀夫らとの交遊、家族しか知らない父の素顔をつづった。

三女の鶴田さやかは1960年生まれの女優・歌手で、1977年にドラマで芸能界デビューしている。刑務所への慰問公演で『傷だらけの人生』をリクエストされることが多く、受刑者たちが静かに涙を流すのを見てきたという。また、歌舞伎俳優の二代目尾上右近は鶴田の孫にあたる。

余談[編集]

  • 『傷だらけの人生』の冒頭の語りは、昭和を知らない世代にも知られる名フレーズで、ものまねやパロディの定番になっている。
  • 東宝時代には特撮映画『電送人間』にも出演しており、任侠映画のイメージしか知らない人が見ると驚くこと請け合いだ。
  • 映画監督の中島貞夫とは『あゝ同期の桜』で特攻隊の描き方をめぐって対立し、その後8年近く口をきかなかったといわれる。のちに和解し、酒を酌み交わしたというエピソードが残っている。
  • 『傷だらけの人生』は、レコード会社が大スターの扱いに困って新人ディレクターに押しつけた企画から生まれたとされる。結果的に代表曲になったのだから、何が当たるかわからない。
  • 葬儀で旧海軍の軍装をまとって送られたのは、生涯「戦友」への思いを抱き続けた彼らしい最期だった。

外部リンク[編集]

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