| 大原麗子 おおはら れいこ / Reiko Ohara | |
|---|---|
![]() 大原麗子(『映画情報』1965年4月号。出典:Wikimedia Commons) | |
| 本名 | 飯塚麗子(いいづか れいこ) |
| 誕生日 | 1946年11月13日 |
| 死亡日 | 2009年8月3日 |
| 死亡年齢 | 62歳(数え年64) |
| 出身地 | 東京都文京区 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 東京都立北豊島高等学校卒業 |
| ジャンル | 映画、テレビドラマ、CM、舞台 |
| 活動期間 | 1964年 - 2004年頃(以後は療養) |
| デビューアルバム | 1964年 NHKドラマ『幸福試験』、1965年 映画『孤独の賭け』(東映) |
| 家族 | 元夫・渡瀬恒彦(1973年結婚、1978年離婚)、元夫・森進一(1980年結婚、1984年離婚)、弟 |
| 事務所 | 東映(1965年 - 1971年)→ 渡辺プロダクション → オフィス・アール → ワンポイント |
| 代表作 | サントリーレッドCM「すこし愛して、ながく愛して」、『雑居時代』、『春日局』、『居酒屋兆治』、『おはん』、『男はつらいよ 噂の寅次郎』、『男はつらいよ 寅次郎真実一路』、『チロルの挽歌』 |
| 関連活動 | 大河ドラマ『徳川慶喜』ナレーション |
| あだ名 | 麗子さん |
| その他 | エランドール賞新人賞(1966年度)、山路ふみ子映画賞女優賞(1986年)、第8回日本アカデミー賞優秀助演女優賞(『おはん』)、ビデオリサーチの好感度調査で女性タレント部門1位を通算13回 |
概要[編集]
大原麗子(おおはら れいこ、1946年11月13日 - 2009年8月3日)とは、東京都出身の女優である。東映の任侠・アクション映画でデビューし、ドラマ『雑居時代』で人気を不動のものにした。サントリーレッドのCMで着物姿のまま囁く「すこし愛して、ながく愛して」は昭和CM史に残る名ゼリフ。甘くかすれたハスキーボイスと、少女の透明感と大人の色気を同時にまとう存在感で、昭和を代表するスターの一人となった。
詳細[編集]
ハスキーボイスの「麗子さん」[編集]
大原麗子を語るときに真っ先に出てくるのが「声」である。甘さを残しながら少しかすれた独特のハスキーボイスは、本人の代名詞だった。コラムニストの泉麻人は『雑居時代』を見ていた学生時代、この声に「一発でやられた」と語っている。家庭用ビデオがない時代だったので、放送を音声だけカセットテープに録り、繰り返し聴いていたという。
この声は、のちに明石家さんまや清水ミチコの定番ものまねネタにもなった。NHK大河ドラマ『春日局』の放送中には、さんまが『オレたちひょうきん族』で大原をパロディにしたキャラクターを演じ、お茶の間の笑いを誘った。ものまねされるほど誰もが知る声だったわけである。
東映の不良少女からお茶の間のヒロインへ[編集]
デビュー当初の大原は、今のイメージとはかなり違う。1965年に東映へ入社すると、「夜の青春」シリーズ、「網走番外地」シリーズ、「不良番長」シリーズなど、いわゆる東映の不良性感度路線で、酒場のホステスや不良少女といった役を数多く演じた。映画監督の内藤誠は、10代とは思えないほど堂々としていて、作品の見方も的確だったと回想している。
1971年、東映との契約満了を機に渡辺プロダクションへ移り、活動の中心をテレビに移した。ここから大原は「お茶の間のヒロイン」へと変わっていく。1973年の『雑居時代』、TBSの『時間ですよ』や『前略おふくろ様』第2シリーズなど話題作が続き、1970年代を通じてドラマの顔になった。
「女優」ではなく「俳優」[編集]
大原は「女優」と呼ばれることを嫌い、「『女優』ではなく『俳優』なんです」と語っていたとされる。性別で区切られるのではなく、一人の表現者として扱われたいという意識の表れだった。没後、テレビ東京で放送された追悼番組でも「私は女優ではなく俳優…」という言葉がサブタイトルに使われている。
作品への要求は厳しかった。台本に納得できない点があると、セリフを自分なりに書き換えたり、脚本家や演出家に書き直しを求めたりした。意見が通らずに降板した作品もあったといわれ、その結果「気難しい」と評されて仕事が減った時期もある。それでも本人は、納得できない芝居をするより筋を通すほうを選んだ。
経歴[編集]
生い立ちと六本木野獣会[編集]
1946年、東京・小石川の老舗和菓子店の長女として生まれた。家は裕福だったが家庭環境は複雑で、子どもの頃に両親が離婚し、母に引き取られた。弟の政光によれば、姉が女優を志したきっかけは小学6年生の学芸会。主役を演じ、終演後に浴びた拍手が原点だったと、本人は生前に話していたという。
10代の頃は、六本木に集まる若者グループ「六本木野獣会」に出入りしていた。ここで峰岸徹や加賀まりこらと交流し、芸能界とのつながりができた。1962年には映画『夢で逢いましょ』に端役で顔を出している。
1964年 - 1970年:デビューと東映時代[編集]
高校卒業後の1964年、NHKの新人オーディションに合格し、ドラマ『幸福試験』で本格デビュー。翌1965年に東映へ入社し、映画『孤独の賭け』でスクリーンデビューを果たした。同年の『網走番外地』シリーズで高倉健と初共演し、以後、高倉を兄のように慕うことになる。
1966年には『網走番外地 荒野の対決』などで人気が上がり、同年度のエランドール賞新人賞を受賞した。『夜の青春』シリーズ、『不良番長』シリーズ、『三匹の牝蜂』などに出演し、東映のプログラムピクチャーを支える若手女優として活躍した。
1971年 - 1979年:テレビの人気者に[編集]
1971年に渡辺プロダクションへ移籍してからはテレビ中心の活動に切り替えた。1973年10月からの日本テレビ系『雑居時代』で石立鉄男の相手役を務め、ドラマのヒロインとして大ブレイク。1972年度のテレビ大賞優秀タレント賞も受けている。
映画でも、1977年の『獄門島』、1978年の『柳生一族の陰謀』『火の鳥』など大作に出演した。1978年には『男はつらいよ 噂の寅次郎』でマドンナ・早苗を演じた。また1978年には、出演したドラマ『こぎとゆかり』が文化庁芸術祭優秀賞を受賞している。私生活では1973年に渡瀬恒彦と結婚し、1978年に離婚した。
1980年代:CMの顔、そして大河の主役へ[編集]
1970年代後半から始まったサントリーレッドのCMシリーズは約10年続き、大原のパブリックイメージを決定づけた。1980年には森進一と再婚し、1984年に離婚している。
映画では1983年に高倉健主演の『居酒屋兆治』、東陽一監督の主演作『セカンド・ラブ』、1984年に市川崑監督の『おはん』と『男はつらいよ 寅次郎真実一路』に出演。『おはん』で第8回日本アカデミー賞優秀助演女優賞、1986年には『新・喜びも悲しみも幾歳月』で山路ふみ子映画賞女優賞を受けた。そして1989年、NHK大河ドラマ『春日局』の主役に抜擢され、平均視聴率32.4%という大ヒットを記録した。
1990年代:円熟期と休業[編集]
1990年代に入っても、TBSの『源氏物語』(橋田壽賀子脚本)、山田太一脚本のNHKドラマ『チロルの挽歌』(1992年)、NHKの『レイコの歯医者さん』(1996年)など話題作が続いた。『チロルの挽歌』では高倉健の妻役を演じ、ギャラクシー賞奨励賞を受賞している。1996年には舞台『男を金にする女』で初舞台も踏んだ。
1998年には大河ドラマ『徳川慶喜』のナレーションを担当。しかし1999年11月、ギラン・バレー症候群の再発を理由に芸能活動の休止を公表した。
2000年代:療養と死去[編集]
休業後は療養を続けつつ、2003年ごろに一時的に仕事へ戻った。2004年のTBS系『十津川警部シリーズ 東北新幹線「はやて」殺人事件』が、テレビドラマへの最後の出演となった。2008年11月には自宅で転倒して右手首を骨折し、症状の再発が伝えられて再び休業に入った。
それでも本人は復帰をあきらめていなかった。2008年末には「山田太一先生が脚本を書いてくれると嬉しいんだけどな」と語っていたとされ、周囲にも「もう一度きっちり病気を治して仕事に復帰します」と話していたという。2009年8月、62歳で亡くなった(詳細は後述)。
主な出演作[編集]
映画[編集]
| 公開年 | 作品 | 備考 |
|---|---|---|
| 1965年 | 孤独の賭け | 映画デビュー(東映) |
| 1965年 - | 網走番外地シリーズ | 高倉健と初共演 |
| 1960年代後半 | 夜の青春シリーズ | |
| 1968年 - | 不良番長シリーズ | |
| 1970年 | 三匹の牝蜂 | |
| 1977年 | 獄門島 | 市川崑監督の金田一耕助シリーズ |
| 1978年 | 柳生一族の陰謀 | |
| 1978年 | 火の鳥 | 市川崑監督 |
| 1978年 | 男はつらいよ 噂の寅次郎 | マドンナ・早苗役 |
| 1983年 | 居酒屋兆治 | 高倉健主演 |
| 1983年 | セカンド・ラブ | 東陽一監督、主演 |
| 1984年 | おはん | 市川崑監督。日本アカデミー賞優秀助演女優賞 |
| 1984年 | 男はつらいよ 寅次郎真実一路 | マドンナ・ふじ子役 |
| 1986年 | 新・喜びも悲しみも幾歳月 | 木下惠介監督。山路ふみ子映画賞女優賞 |
| 1987年 | 紫式部 源氏物語 | 声の出演(アニメ映画) |
| 1992年 | 勝利者たち |
テレビドラマ[編集]
| 放送年 | 作品 | 局 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1964年 - 1965年 | 幸福試験 | NHK | デビュー作 |
| 1968年 | 竜馬がゆく | NHK | 大河ドラマ |
| 1970年 - 1971年 | 時間ですよ | TBS | |
| 1973年 - 1974年 | 雑居時代 | 日本テレビ | 栗山家の次女・夏代役 |
| 1974年 | 勝海舟 | NHK | 大河ドラマ |
| 1976年 | 前略おふくろ様(第2シリーズ) | 日本テレビ | |
| 1980年 | 獅子の時代 | NHK | 大河ドラマ |
| 1989年 | 春日局 | NHK | 大河ドラマ主演 |
| 1991年 - 1992年 | 源氏物語 | TBS | 橋田壽賀子脚本 |
| 1992年 | チロルの挽歌 | NHK | 山田太一脚本、高倉健と共演。ギャラクシー賞奨励賞 |
| 1996年 | レイコの歯医者さん | NHK | 主演 |
| 1998年 | 徳川慶喜 | NHK | 大河ドラマのナレーション |
| 2004年 | 十津川警部シリーズ 東北新幹線「はやて」殺人事件 | TBS | 最後のテレビドラマ出演 |
このほか『気まぐれ天使』『くれない族の反乱』『樋口一葉』『となりの女』『浮浪雲』『山河燃ゆ』『あにき』などに出演。大河ドラマへの出演は『春日局』が5回目だった。
舞台[編集]
- 男を金にする女(1996年、初舞台)
- 品川心中
- お夏狂乱
- 眠り人形
サントリーレッドのCM[編集]
「すこし愛して、ながく愛して」[編集]
大原麗子の名前を聞いて、多くの人がまず思い浮かべるのがサントリーのウイスキー「サントリーレッド」のCMだ。1970年代後半から約10年間シリーズとして放送され(1977年開始とする資料が多い)、和服姿の大原が、帰りの遅い夫や振り向いてくれない恋人を待ちながら、ちょっと拗ねたり甘えたりする。その締めくくりに、カメラに向かってあのハスキーボイスで「すこし愛して、ながーく愛して」と語りかける。
わずか15秒ほどのCMで、恋人に振り回されながらも健気に尽くし、ときには小さな失敗もしてしまう女性の心の機微を演じきった。ウイスキーを高級品ではなく、日常の食卓にある身近な酒として見せる戦略にもぴったりはまり、フレーズは流行語のように広まった。
市川崑の演出と本人のこだわり[編集]
演出を手がけたのは映画監督の市川崑である。弟の政光によれば、市川は大原に好きなように演じさせたため、CMに映っているのはほぼ「素」の大原麗子だという。本人はCMを映画やドラマと同じくらい真剣に捉え、京都ロケに1週間をかけることもあった。
制作に関わった元博報堂のクリエイティブディレクター・禧久均は、大原がシナリオに「ストーリーのヘソ」がないと指摘し、決して妥協しなかったと振り返っている。年を重ねるほどにCMの中の大原は美しくなっていったとも評した。日刊ゲンダイの連載では「サントリーのCMは彼女の本当の意味での代表作」とまで書かれている。
『雑居時代』と『春日局』[編集]
雑居時代(1973年)[編集]
『雑居時代』は1973年10月3日から1974年3月27日まで、日本テレビ系で毎週水曜20時に放送された全26話のホームドラマ。石立鉄男主演の「ユニオン映画」シリーズの一作で、同シリーズ第1作『おひかえあそばせ』のセルフリメイクにあたる。
外交官が海外赴任のため自宅を友人の栗山信に格安で貸すと、そこへ外交官の勘当息子で売れないカメラマンの十一(石立)が転がり込み、栗山家の5人姉妹と同居する羽目になる。大原が演じたのは次女の夏代。十一と顔を合わせればケンカばかりなのに、だんだん惹かれ合っていく。ツンとした態度の奥に見え隠れする可愛らしさが当たり、大原の人気を決定づけた。共演には大坂志郎、杉田かおる、冨士眞奈美らがいた。
春日局(1989年)[編集]
1989年の大河ドラマ第27作『春日局』は、橋田壽賀子のオリジナル脚本。明智光秀の家臣・斎藤利三の娘おふくが、徳川家光の乳母となり大奥を取り仕切る「春日局」になるまでを描いた。従来の「烈女」像ではなく、家光と徳川家を支える献身的な女性として描かれ、大原は母性愛にあふれた春日局を演じた。
元日スタートで初回視聴率は14.3%と伸び悩み、さらに昭和天皇の崩御で第2回が1月15日に延期されるという異例の船出だった。しかし回を追うごとに数字を伸ばし、最高39.4%、平均32.4%という大河歴代屈指のヒット作になった。2015年には完全版がDVD化されている。
撮影では、台本になかった「女(おなご)は強うございますから」というセリフを橋田に頼んで加えてもらったという逸話がある。自分の演じる人物の芯を自分で掴みにいく、大原らしいエピソードである。
結婚と私生活[編集]
渡瀬恒彦との結婚[編集]
最初の夫は俳優の渡瀬恒彦。1972年2月に婚約を発表し、1973年9月に結婚した。当時の渡瀬は東映の若手俳優の一人で、すでにスターだった大原との「格差婚」は周囲を驚かせた。渡瀬と組んだ中島貞夫監督は、渡瀬が大原を連れて京都の自宅に現れ、嵯峨のあたりで家を探していると話したので驚いたと振り返っている。
しかし結婚生活は長く続かず、1978年2月に離婚した。渡瀬の親友だった江藤潤によれば、渡瀬は離婚後しばらく大きなショックを受けていたという。
森進一との結婚[編集]
1980年6月、歌手の森進一と再婚した。しかし1984年に離婚。離婚会見で大原が口にした「家庭に男が2人いた」という言葉は大きな話題になった。仕事を続けたい大原と、子どもを望んだ森との間で、家庭観の違いがあったとみる関係者もいる。2度の結婚で子どもはいない。
ちなみに『男はつらいよ』の2本のマドンナ役は、いずれも離婚の直後に撮影されたものだった。私生活の痛みを抱えながらも、スクリーンでは寅さんを惑わせる美しいマドンナとして輝いていたわけである。
交友関係[編集]
美空ひばりには妹のように可愛がられ、互いに「麗子」「お姉さん」と呼び合う仲だった。高倉健とは『網走番外地』での初共演以来、兄と妹のような関係を続けた。大原の遺品には高倉の記事を集めたスクラップがあり、「好きです。尊敬しています」と書き込まれていたと報じられている。高倉は大原の没後、墓参りに訪れていたことも伝えられた。
闘病と死去[編集]
ギラン・バレー症候群の公表[編集]
ギラン・バレー症候群は、末梢神経が障害されて手足に力が入りにくくなる病気である。大原は1999年11月、この病気の再発を理由に芸能活動を休止すると公表した。初めて発症したのは1975年とされる。
その後は療養を続けながら復帰を目指した。2008年11月には自宅で転倒して右手首を骨折し、膝も打撲。このときも病気の再発が伝えられ、再び休業となった。亡くなる前年には取材に「歩くのがやっとなんです」と答えていたという。それでも晩年まで自宅でリハビリを続け、仕事への復帰を口にしていた。
2009年の死去[編集]
2009年8月6日、大原と連絡が取れないことを心配した実弟が警察に相談し、東京都内の自宅で亡くなっているのが見つかった。行政解剖の結果、死因は不整脈による脳内出血、死亡推定日は8月3日とされた。62歳だった。自宅は施錠されており、警察は事件性はないと判断した。
一人暮らしの自宅で亡くなったことから、当時の報道では「孤独死」という言葉が多く使われた。これに対しては、元マネージャーの佐藤嘉余子やテリー伊藤らが異を唱えた。佐藤によれば、大原は亡くなる2年ほど前から「孤独に追い込まれたのではなく、自ら孤高を選んだ」と語っていたという。
お別れの会[編集]
2009年8月23日、東京・青山葬儀所で「お別れの会」が開かれ、関係者約400人が参列した。発起人には森光子や浅丘ルリ子、石井ふく子らが名を連ねた。
会場には元夫の渡瀬恒彦と森進一の姿もあった。森光子は2人の元夫が参列したことを喜び、「お2人を選んだことが間違いではなかった」と語った。浅丘も「一番嬉しかったのは、渡瀬さんと森君が来てくれたこと」とコメントしている。浅丘は弔辞で、大原の長電話に付き合わされた思い出にも触れ、会場を和ませた。戒名は「花香院麗風妙舞大姉」。
評価と没後[編集]
「好感度女王」[編集]
大原はビデオリサーチの好感度調査で、女性タレント部門の1位に通算13回選ばれている。落語家の立川志らくは、寅さんシリーズの歴代マドンナの中で大原が「一番輝いていて美しい」と評した。スタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサーも、主演作『セカンド・ラブ』のファンとして知られる。
1998年には宮崎駿監督から声優としての出演を打診されたが、「私は女優であって、声優ではありません」と断った。宮崎側は条件を上げて再度依頼したが、それでも信念を曲げなかったという。本人はのちに「私の声には、それだけの価値がある」と無邪気に喜んでいたとされる。
没後の追悼番組とドラマ化[編集]
訃報直後の2009年8月10日には、SMAPの冠番組『SMAP×SMAP』が、大原がゲスト出演した回を追悼として再放送した。同年12月にはテレビ東京の特番『もう一度逢いたい!日本人が大好きな 愛と涙の女優伝説』で、遺族の許可を得て自宅が初めて映され、手書きのスクラップブックが公開された。雑誌の切り抜きやメモがびっしり並ぶその中身は、人知れず努力を続けていた姿を伝えた。
2010年10月には同局の『女神のキセキ』で、一周忌を迎えた大原を母が初めて語った。2011年7月には弟・政光の監修によるノンフィクション『大原麗子 炎のように』(前田忠明著)が出版され、2013年3月6日にはこれを原作にしたテレビ東京のドラマスペシャル『女優 麗子~炎のように』が放送された。大原役は内山理名が演じている。
2025年:『スターの臨終』と「アナザーストーリーズ」[編集]
2025年2月、朝日新聞編集委員だった小泉信一の著書『スターの臨終』(新潮社)が刊行され、文春オンラインで大原の章が2回に分けて公開された。最期の状況だけでなく、お別れの会に元夫2人が駆けつけたことなどを挙げ、その人生は「決して孤独なものではなかった」と結論づけている。
2025年11月5日には、NHK BSの『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』で「全身俳優 1992年の大原麗子」が放送された。出演は松嶋菜々子、語りは濱田岳。高倉健と共演した『チロルの挽歌』の舞台裏を軸に、15秒のウイスキーCMで心の機微を演じた俳優が、妥協なく高みを目指した代償としての孤独に迫った。同年12月にはNEWSポストセブンが、金銭的に苦しい時期でも「女優だから信念を曲げたくない」と断り続けた仕事があったことを取り上げている。
2026年:日活作品の特集放送と配信[編集]
2026年6月、CSのアクションチャンネルと日活のコラボ企画「永久保存版!日活アクション特集」で「日活ニューアクション時代のヒロインたち特集」が組まれ、松原智恵子、梶芽衣子らと並んで大原も取り上げられた。6月21日には出演作『大幹部 ケリをつけろ』が放送されている。
配信でも旧作に触れやすくなっており、2026年9月時点でFilmarksの配信情報では『獄門島』『居酒屋兆治』『おはん』『男はつらいよ 噂の寅次郎』『網走番外地』シリーズなど30本近い出演映画がPrime VideoやU-NEXTなどで配信中とされている。没後17年を経ても、名前を検索すれば「すこし愛して、ながく愛して」が真っ先に出てくる。それが大原麗子という俳優の残した最大の遺産だろう。
余談[編集]
- 1986年に自宅を新築した際、高倉健から末尾が「0015(レイコ)」になる電話番号をプレゼントされたという。
- ファンレターは毎週何百通も届いたが、すべてに目を通し、ときには自分で返事を書いた。悩みを打ち明ける手紙に直筆で励ましを返したこともあり、没後、その手紙に救われたという礼状が遺族のもとに届いたという。
- 麻雀が好きで、徹夜で卓を囲むこともあったとされる。
- 晩年は電話魔として知られ、浅丘ルリ子はお別れの会の弔辞で、長電話に付き合わされたことを笑い話として紹介した。
- 弟によれば、将来の夢は監督・脚本から主演まで自分でこなす作品を作ることだったという。
- 東映時代の撮影後は六本木の野獣会の仲間と遊び歩いていたが、現場には遅刻せず、セリフも完璧に入れてきたと内藤誠監督は証言している。
