松方弘樹
Hiroki Matsukata
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1962年ごろの松方弘樹(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン/国際情報社)
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東映映画『若君と次男坊』(1961年)のスチル(出典:ウィキメディア・コモンズ、パブリックドメイン/東映)
本名 目黒浩樹(一部報道では目黒弘樹とも表記)
誕生日 1942年7月23日
死亡日 2017年1月21日
死亡年齢 74歳(数え年76)
出身地 東京府東京市王子区赤羽台(現在の東京都北区)
国籍 日本
学歴 明治大学付属中野高等学校(定時制)卒業
ジャンル 映画、テレビドラマ、時代劇、任侠・実録映画、バラエティ
活動期間 1960年 - 2016年
家族 父:近衛十四郎(俳優)、母:水川八重子(女優)、弟:目黒祐樹(俳優)、子:仁科克基、仁科仁美 ほか
血液型 A型
事務所 松プロダクション → バーニングプロダクション(預かり)→ MARE
代表作 『仁義なき戦い』シリーズ、『県警対組織暴力』、『脱獄広島殺人囚』、『修羅の群れ』、『江戸城大乱』、『大江戸捜査網』、『名奉行 遠山の金さん』
関連活動 歌手活動、釣り番組、バラエティ出演
その他 2017年1月21日、脳リンパ腫のため74歳で死去


概要[編集]

松方弘樹(まつかた ひろき、1942年 - 2017年)とは、時代劇スター近衛十四郎の長男として生まれ、東映の時代劇・任侠映画・実録やくざ映画からテレビ時代劇、バラエティまで半世紀以上を駆け抜けた日本の俳優である。銀幕の二枚目、『仁義なき戦い』の狂犬、お茶の間の「金さん」、そして300キロ超のマグロを釣り上げる釣り師という、いくつもの顔を持つ昭和の大スターだ。

詳細[編集]

二世スターとしての出発[編集]

東京府東京市王子区(現在の東京都北区)生まれ。父は戦前から活躍したチャンバラ俳優の近衛十四郎、母は女優の水川八重子という、生粋の映画一家の長男である。2歳下の弟は、のちに俳優となる目黒祐樹だ。

もともとの夢は俳優ではなく歌手だった。作曲家・上原げんとのもとで歌を学んでいたが、同じ門下で一緒にレッスンを受けていた五木ひろしの歌声を聴いて「絶対に追い越せない」と悟り、歌手の道をあきらめたという逸話が残っている。後年の伊吹吾郎の証言では、それでも歌は相当うまく、カラオケで映画音楽をよく歌っていたそうだ。

17歳で主演デビュー[編集]

1960年、明治大学付属中野高等学校(定時制)の3年生在学中に東映へ入社。同年、いきなり主演作『十七歳の逆襲・暴力をぶっ潰せ』でスクリーンデビューを果たした。デビュー時はまだ17歳である。

東映は当時、時代劇の黄金期。同期入社で同学年の北大路欣也とは「二世スターコンビ」として売り出され、父親同士(市川右太衛門と近衛十四郎)が師弟関係にあったこともあり、二人はよきライバルとして比較され続けた。1965年にはNHKの連続ドラマ『人形佐七捕物帳』で主演を務め、テレビでも存在感を示した。

「脇」で磨いた実力[編集]

しかし1960年代半ば、時代劇の観客動員が落ち込むと、東映は一気に任侠映画路線へ舵を切る。若い時代劇スターだった松方は脇に回ることが増え、社内での序列も下がってしまった。「昭和残侠伝」シリーズや『893愚連隊』などに出演しつつ、主役の座から遠ざかった時期である。

この「伸び悩み」の時期に重ねた脇役経験が、のちの実録やくざ映画での怪演につながったと見る評論家は多い。主役でなくとも強烈な爪痕を残す技術は、この下積みのなかで培われたものだ。

晩年まで現役[編集]

70歳を過ぎても映画への情熱は衰えず、地方の市民会館や公会堂を回って映画を上映する「出前映画」の活動に取り組んでいた。2015年には主演映画『柳生十兵衛 世直し旅』で主題歌まで担当している。しかし2016年2月に体調不良で予定していたコンサートと舞台の中止を発表し、それが事実上の最後の活動となった。

経歴[編集]

東映入社から大映へのレンタル移籍[編集]

松方のキャリアで異色なのが、1969年の大映への「レンタル移籍」である。同年7月、大映の看板スター市川雷蔵が37歳の若さで亡くなり、大映の時代劇スターは勝新太郎ひとりになってしまった。その穴を埋める存在として白羽の矢が立ったのが、東映で脇に回っていた松方だった。移籍は東映の岡田茂のすすめによるものとされる。

大映では、雷蔵の当たり役だった『眠狂四郎』シリーズや『若親分』シリーズの主役を次々と任された。雷蔵の「眠狂四郎」がニヒルで陰のある剣士だったのに対し、松方の演技は若さと生命感にあふれた「陽」のものだったと評されている。1970年の『忍びの衆』では、雷蔵の「忍びの者」シリーズを思わせる忍者役に挑み、躍動感あるアクションを見せた。

大映の終焉と東映復帰[編集]

ところが大映は経営難のまっただ中にあった。1970年春、松方は大映と日活による配給会社ダイニチ映配の設立に反対する発言をしたことで永田雅一社長の怒りを買い、半年間も出演を止められてしまったという。

結局、大映が倒産する直前の1971年3月、『日本やくざ伝 総長への道』で古巣の東映に復帰。ここから東映が新たに打ち出す「実録路線」の中心人物のひとりへと変貌していく。

『仁義なき戦い』での大ブレイク[編集]

1973年、深作欣二監督、菅原文太主演の『仁義なき戦い』が公開され、日本映画史に残る大ヒットとなる。実はこの作品、当初は松方が主役候補に挙がっていたとされる。しかしシリーズ化が決まった段階で、テレビの仕事を抱える松方ではスケジュールを押さえきれないと判断され、主役は菅原文太に決まったという。

松方はシリーズ第1作、第4作『頂上作戦』、第5作『完結篇』に出演し、なんと3作ともまったく別の人物を演じている。しかも毎回、凄惨な死に方をするのがお約束になった。主役でないにもかかわらず、シリーズを語るうえで欠かせない顔になったのはこの「一人三役」の怪演ゆえである。

実録路線のエースとして[編集]

『仁義なき戦い』以降、松方は東映実録路線の看板として次々に主演作を放つ。深作監督の『県警対組織暴力』(1975年)、中島貞夫監督の『脱獄広島殺人囚』(1974年)、『北陸代理戦争』(1977年)、『修羅の群れ』(1984年)などが代表作として挙げられる。梅宮辰夫や渡瀬恒彦らとともに、この時代の東映やくざ映画を支えた顔ぶれのひとりだ。

本人は『仁義なき戦い』をあくまで「脇の仕事」と位置づけ、『脱獄広島殺人囚』『北陸代理戦争』『修羅の群れ』といった主演作のほうを大切に考えていたと伝えられている。1978年には『柳生一族の陰謀』『赤穂城断絶』といった大作時代劇にも出演し、時代劇スターとしての顔も取り戻していった。

テレビ時代劇の顔へ[編集]

1974年にはNHK大河ドラマ『勝海舟』で、病気で降板した渡哲也の代役として主役に抜擢された。急な代役でありながら大河の主役を背負った経験は、テレビ俳優としての評価を大きく高めた。

1979年から1984年にかけてはテレビ東京の『大江戸捜査網』で隠密同心・左文字右京を演じ、シリーズ3代目の主演を務める。そして1988年から1996年まで、テレビ朝日系『名奉行 遠山の金さん』で遠山金四郎を演じ、お茶の間の「金さん」としてすっかり定着した。1991年には映画『江戸城大乱』で日本アカデミー賞主演男優賞などを受賞したと報じられている。

『仁義なき戦い』の三役と役作り[編集]

三作で三人を演じ分ける[編集]

シリーズでの松方の役はそれぞれ以下のとおりである。

  • 『仁義なき戦い』(1973年):山守組若頭・坂井鉄也
  • 『仁義なき戦い 頂上作戦』(1974年):義西会若頭・藤田正一
  • 『仁義なき戦い 完結篇』(1974年):市岡組組長・市岡輝吉

さらに『新仁義なき戦い』(1974年)では難波組幹部・関勝、『その後の仁義なき戦い』(1979年)では竜野組の池永安春を演じており、関連作まで含めると「仁義」の世界で実に多くの男を生きたことになる。

坂井鉄也という傑作[編集]

第1作の坂井鉄也は、実在した呉の極道がモデルである。松方はモデル本人の写真を手に入れ、関係者に話を聞き、呉弁を体に叩き込んで役に臨んだ。主人公・広能昌三を演じる菅原文太より9歳年下なのに「同年代」という設定だったため、顔にしわを刻もうと冷水と熱湯を張った洗面器に交互に顔を突っ込むという荒技まで試みたという。

坂井の壮絶な最期は、松方本人が考えた死に方を、殺陣師の上野隆三が逆算して振り付けたものだとされる。共演した伊吹吾郎とは「殺され方」について語り合い、死に方こそが役者一人ひとりの持ち味になるという考えを共有していたそうだ。

メイクも小道具も自分で考える[編集]

第4作で肺結核を患う藤田正一を演じた際には、顔色を悪く見せるために黒っぽいドーランを塗り、まつげを白く塗りつぶしたとされる。完結篇の市岡輝吉では歌舞伎の隈取の手法を取り入れ、下まぶたに紅を差した。こうしたメイクや小道具のアイデアは、すべて松方自身から出たものだったという。

三役それぞれで動きも変えており、殺陣師からは「松方弘樹に戻ったらアカン」と釘を刺されていたというエピソードもある。もともと左利きを右利きに矯正していたが、とっさに拳銃を撃つ場面では思わず左手で構えていたという話も残る。

現場での姿[編集]

台本を現場でほとんど見ず、長回しのシーンでもNGをほとんど出さなかったと証言されている。撮影期間中は毎晩のように京都・木屋町で飲み歩いたが、決して乱れることはなかった。伊吹吾郎は「横柄になったり怒鳴ったりすることはなく、芸能界で彼を嫌う人はほとんどいないだろう」という趣旨の言葉で松方の人柄を振り返っている。

テレビ時代劇と「金さん」[編集]

6代目・遠山金四郎[編集]

『名奉行 遠山の金さん』は、初代の中村梅之助から続くテレビ朝日系の「金さん」シリーズのなかで、松方が6代目の金四郎を務めた作品である。前任の高橋英樹らが築いた人気シリーズを引き継ぎ、1988年から1996年まで約8年にわたって放送された。

見どころは何といってもクライマックスのお白洲。もろ肌脱いで桜吹雪の彫り物を見せ、悪党を一喝する場面は、東映やくざ映画で鍛えた凄みと時代劇の華やかさが同居した松方ならではの名場面だ。2009年にはスペシャル『松方弘樹の名奉行金さん2009』でも主演している。

木曜日だけは酒を断つ[編集]

大酒飲みとして知られた松方だが、『遠山の金さん』の撮影中だけは別だった。お白洲の場面には長ゼリフがあるため、その撮影日にあたる木曜日だけは酒を断っていたと伝えられている。豪快さの裏にある職人的なこだわりがうかがえる逸話だ。

息子が継いだ「金さん」[編集]

2021年3月には、息子の仁科克基が舞台『遠山の金さん 天下を揺るがす女』で父の当たり役に挑んだ。幼いころから父の「金さん」を見て育ったという克基は、改めて父の殺陣に圧倒され、その偉大さを痛感したと語っている。

バラエティでの活躍[編集]

『元気が出るテレビ』で開いた新境地[編集]

1985年4月に始まった日本テレビ系『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』への出演は、松方のパブリックイメージを大きく変えた。ビートたけしとともに番組の顔となり、VTRを見ながら甲高い声で笑い、ときに涙を流す姿は、強面のやくざ映画スターとのギャップで視聴者を驚かせた。

演出を担当したテリー伊藤は、追悼の場で当時を振り返っている。大物俳優がバラエティに出るのは初めてで、魅力を引き出せるか不安だったが、本人は丁寧にあいさつし、たけしを立てる姿勢を見せた。たけしもまた松方を敬い、二人の関係が番組の良い空気を作ったという。

新幹線の視線が変わった[編集]

当時京都に住んでいた松方は、収録のたびに新幹線で上京していた。テリー伊藤によれば、任侠映画のころは車内で誰も目を合わせてくれなかったのに、バラエティに出てからは人々が笑顔を向けてくれるようになり、本人はそれを喜んでいたという。また、テリーが番組を離れてからも、収録現場には「夢のような量」の差し入れが届き続けたというから、その気前の良さは筋金入りだ。

「キツーイ一発」[編集]

雑誌『週刊ポスト』での連載「松方弘樹の突撃対談」から生まれた「キツーイ一発」というフレーズは流行語にもなった。俳優でありながら言葉のセンスでも時代をつかんだ、珍しいタイプのスターだったといえる。

マグロ釣りの名人[編集]

釣り人・松方弘樹[編集]

釣りは父・近衛十四郎ゆずりの趣味で、幼少期から親しんでいた。のちに『松方弘樹・世界を釣る!』などの釣り番組に数多く出演し、大物を釣り上げるたびにニュースになった。盟友の梅宮辰夫とともに釣りに挑む番組もあった。マグロ釣りの師匠は、三崎の伝説的な漁師・山田重太郎だったとされる。

世界の海をめぐるなかで遭難したことも一度ではない。あるときは3日間ほとんど飲まず食わずで漂流し、生還したという話も伝わっている。

数々の記録[編集]

  • 2008年11月、山口県萩市の見島沖周辺で行われた大会で約305キロのクロマグロを釣り上げ、195万円の値がついた。
  • 2009年11月、第12回萩クロマグロトーナメントで体重325キロ、体長2.73メートルのクロマグロを釣り上げ、約437万円の値がついた。
  • 2015年5月、沖縄・石垣島沖で約6時間半におよぶファイトの末、自己最高となる361キロの大物を釣り上げた。

2008年と2009年の萩の大会ではいずれも優勝を果たしており、「芸能界一の釣り師」という称号は伊達ではない。

すしざんまい社長との縁[編集]

2015年の361キロのマグロは、すしざんまいを展開する喜代村の木村清社長が1キロあたり6000円、総額約185万円で買い取り、約1万2000貫の握りずしとして客にふるまわれた。二人は新幹線で偶然隣り合わせたのをきっかけに意気投合し、マグロ談義が止まらなかったという。

実はこの二人、同じ山田重太郎を師と仰ぐ兄弟弟子のような間柄だった。手巻きリール一筋だった木村社長に「これはいいですよ」と電動リールを贈ったのも松方である。マグロが釣れると「社長、釣れましたよ!」と弾んだ声で電話をかけ、木村社長はそのマグロを築地の競りで必ず買っていたという。

築地で「1キロ1000円高」[編集]

松方が釣ったマグロには「釣り人・松方弘樹」の札がつき、相場より1キロあたり1000円ほど高く売れたとされる。釣りの際は民宿に泊まり、地元の人々と親しく交流していたというテレビ局関係者の証言もある。生前は「クジラを釣りたい」と語っていたが、その夢はかなわなかった。

歌手としての顔[編集]

歌手志望だった過去を持つ松方は、俳優になってからもレコードを発表している。1975年公開の『暴動島根刑務所』では挿入歌「おとこ流れ歌」を歌い、公開レコーディングまで行った。1978年にはカバーアルバム『男ごころ 歌う松方弘樹』を、2004年にはシングル『想い出ワルツ/男の世界』を発売している。

最晩年の2015年には、主演映画『柳生十兵衛 世直し旅』の主題歌も担当した(CD化はされていない)。2016年3月から予定していたコンサートは病気のため中止となり、ファンの前で歌う機会は失われてしまった。

私生活[編集]

結婚と家族[編集]

1968年に元モデルの女性と結婚し、長男・長女・次女の3人をもうけたが、1978年に離婚が成立した。翌1979年には女優の仁科亜季子と再婚し、次男の仁科克基、三女の仁科仁美が生まれている。仁科との離婚は1998年から1999年初めにかけて成立したと報じられた。

1987年には、女優の千葉マリアとの間に子どもがいることが報じられ、大きな話題となった。仁科との離婚後は、亡くなるまで元女優の女性と事実婚の関係にあったとされる。「空前絶後のモテ男」と雑誌に書かれるほど、女性関係の華やかさでも知られた人物である。

弟・目黒祐樹との関係[編集]

弟の目黒祐樹とは、およそ30年にわたってほとんど交流がなかったと報じられている。しかし松方が亡くなる3年ほど前に再会して言葉を交わし、以後は連絡を取り合う関係に戻った。入院中の兄を目黒が見舞ったこともある。

二人はNHKの『ファミリーヒストリー』で父母や先祖について語り合う予定だったが、松方の体調不良で収録が延期され、最終的に目黒がひとりで出演した。兄弟共演は「幻」に終わったのである。目黒は兄の死後、「まだ居そうな気がする。電話したら出るんじゃないか」と語り、何事にも全力で、心に正直に生きた兄をうらやましいと冗談めかして偲んだ。

酒と気前の良さ[編集]

若いころは大変な酒豪で、飲み比べでは横綱・千代の富士にも負けなかったが、唯一勝てなかったのはプロレスラーの天龍源一郎だったという話がある。一方で、60歳で酒をきっぱりやめ、釣りに打ち込むようになったとも伝えられている。

気前の良さを物語る話も数多い。プロデュースした映画の打ち上げでスタッフを温泉に連れて行って豪遊し、手元にほとんどお金が残らなかった、飲み屋で居合わせた関係者に挨拶されると店にいた全員分を支払って黙って帰った、といった証言が残っている。

闘病と死去[編集]

2016年2月、脳腫瘍の疑いがあるとして、3月からのコンサートと6月からの舞台の出演中止を発表した。その後、医師から脳リンパ腫と確定診断される。脳リンパ腫は症例が少ない悪性腫瘍で、治療中には脳梗塞も併発した。元気なころ約70キロあった体重は、約55キロまで落ちたと報じられている。所属事務所は完全復帰を目指して治療に専念すると説明していた。

2017年1月21日午前11時26分、東京都内の病院で死去。74歳だった。訃報は23日に明らかになり、葬儀は本人の生前の意思を尊重して近親者のみで営まれた。千葉真一は「本物を伝えられる数少ない俳優」とその死を惜しみ、北大路欣也は仕事への情熱と、夢や冒険に向かって進み続ける姿を敬愛していたとコメントした。大和田伸也は、穏やかで優しく、周囲に自分から声をかける人柄だったと振り返っている。

晩年の松方は、ラジオ特番や自伝の取材に応じ、日本映画と時代劇の継承を強く訴えていた。2015年の週刊文春の取材では、予算不足で撮影時間が取れず、俳優がNGを出さなければそれでOKになってしまう現場の現状を嘆いている。こうした言葉は没後、春日太一による『不屈 松方弘樹 時代劇への遺言』、伊藤彰彦との共著『無冠の男 松方弘樹伝』(講談社)として書籍にまとめられた。

評価・影響[編集]

松方弘樹の最大の魅力は、その「振り幅」にある。白塗りの二枚目時代劇スターとして出発し、京都府の撮影所で任侠映画の脇を固め、実録やくざ映画では狂気をはらんだ男を演じ、テレビでは勧善懲悪の「金さん」になり、バラエティでは大笑いして泣く。これほど異なるイメージを、どれも本気で成立させた俳優はそう多くない。

『仁義なき戦い』の三役に象徴されるように、主役でなくても作品の記憶に残る芝居ができるのが松方の真骨頂だった。メイクや死に様まで自分で考え抜く職人気質と、現場を明るくする人懐っこさ。その両方を兼ね備えていたからこそ、共演者やスタッフから慕われ続けたのだろう。日本映画の撮影所システムが崩れていくなかで、最後まで「映画俳優」であり続けた、昭和スターの最後の世代のひとりといえる。

余談[編集]

  • 父・近衛十四郎とはスコッチウイスキーのCMで親子共演したことがある。
  • 北大路欣也とは東映の同期で、父親同士も師弟関係という不思議な縁。北大路は訃報に際し「別れを告げたくない」という思いを語った。
  • 大和田伸也が『水戸黄門』で東映京都の現場に入った際、松方が口利きしてくれたおかげでスムーズに撮影できたと感謝している。大和田の初監督作『恐竜を掘ろう』では松方が主演を務めた。
  • 361キロのマグロは約1万2000貫のすしになった。1貫ずつ食べたとしても、ひとりで食べきるには1日10貫で3年以上かかる計算だ。
  • 弟の目黒祐樹は20歳のころ兄の家に居候し、飲み屋に連れて行ってもらって酒の飲み方の良い面も悪い面も教わったと語っている。
  • 『仁義なき戦い』の主役候補だったという話は、もし実現していれば日本映画史が少し違うものになっていたかもしれない、ファンの間で語り草の「もしも」である。

外部リンク[編集]

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