石川ひとみ
いしかわ ひとみ / Hitomi Ishikawa
基本情報
本名 山田ひとみ(旧姓:石川)
誕生日 1959年9月20日
年齢 67歳
出身地 愛知県名古屋市西区生まれ、海部郡美和町(現・あま市)育ち
国籍 日本
学歴 名古屋短期大学付属高等学校卒業
ジャンル 歌謡曲、アイドルポップス、童謡・唱歌
活動期間 1978年 - 1987年、1988年 -
デビューアルバム シングル「右向け右」(1978年5月25日)、アルバム『くるみ割り人形』(1978年)
家族 夫:山田直毅(作曲家・編曲家・ギタリスト)
身長 / 体重 ― cm / ― kg
血液型 B型
レーベル キャニオン・レコード(NAVレコード)、テイチクエンタテインメント ほか
事務所 渡辺プロダクション(1978年 - 1987年)
関連活動 NHK人形劇『プリンプリン物語』プリンセス・プリンプリン役(声・歌)、アニメ『昆虫物語 みなしごハッチ』(1989年版)ハッチ役、NHK『レッツゴーヤング』司会
別名 ひっちゃん(愛称)
その他 代表曲「まちぶせ」(1981年、第32回NHK紅白歌合戦出場曲)、著書『いっしょに泳ごうよ』(1993年、集英社)



概要[編集]

石川ひとみ(いしかわ ひとみ、1959年9月20日 - )とは、愛知県出身の歌手・声優である。1978年に渡辺プロダクションからアイドルとしてデビューし、1981年に荒井由実(松任谷由実)作詞作曲の「まちぶせ」をカバーして大ヒット、同年の紅白歌合戦に初出場した。NHK人形劇『プリンプリン物語』でプリンセス・プリンプリンの声と歌を担当したことでも知られる。

詳細[編集]

「最後の1曲」のつもりが代表曲に[編集]

石川ひとみを語るうえで外せないのが「まちぶせ」である。デビューから丸3年、シングルを10枚出しても大きなヒットに恵まれなかった彼女は、上京時に両親と交わした「4年間だけ」という約束の期限が近づいていた。本人はのちに、引退も考えていて、最後の曲になっても悔いのない歌としてこの曲を選んだと語っている。

ところがこの「最後のつもり」の1曲が、発売から2か月以上たってからじわじわ売れ始め、オリコン最高6位、TBS『ザ・ベストテン』では最高3位・9週連続ランクイン、日本テレビ「トップテン」では年間総合10位という大ヒットになった。年末にはNHK紅白歌合戦にも初出場。引退どころか、45年たった今もコンサートの軸になる代表曲になったのだから、人生は分からないものである。

「プリンプリンの声の人」[編集]

1979年から1982年までNHK総合テレビで放送された人形劇『プリンプリン物語』で、主人公プリンセス・プリンプリンの声を担当。セリフだけでなく劇中歌や主題歌も歌った。全656話、平日夕方の15分番組で、当時の子どもたちには「まちぶせの人」より「プリンプリンの人」として記憶されている、という声もある。

つまり石川ひとみは、歌謡曲ファンには「まちぶせ」、人形劇世代には「プリンプリン」という、二つの顔を持つ人である。この二つのイメージが同じ1981年前後に重なっていたことが、彼女の知名度を独特なものにしている。

病気と向き合いながら歌い続ける人[編集]

人気絶頂期を過ぎた1987年、27歳でB型肝炎を発症し入院。これがきっかけで事務所との契約が終わり、一時は芸能界を離れることになった。復帰後は自身の経験を公表し、30年以上にわたって肝炎への偏見をなくすための講演活動を続けている。

さらに2023年には、指定難病のシェーグレン症候群とも長年闘っていることを公表した。それでも60代になった今も、毎年のようにコンサートを開き、新作を出している。「アイドル」から出発しながら、病気とのつきあい方そのものが語られる歌手になった珍しい存在である。

経歴[編集]

生い立ち(1959年 - 1977年)[編集]

1959年9月20日、名古屋市西区に生まれる。生後間もなく伊勢湾台風に遭っており、その影響もあってか子どもの頃は水が苦手で、デビュー前は水着すら持っていなかったという。2歳のときに海部郡美和町(現在のあま市)へ引っ越した。

子どもの頃はかなりのおてんばで、正則小学校ではソフトボール部のエースで4番。美和中学校では軟式テニス部に入っていた。一方でピアノも習っており、小学生のときに「黒猫のタンゴ」のレコードを聴いて歌ったのが音楽に目覚めたきっかけだったとされる。1972年には中部日本放送(CBC)ののど自慢番組『どんぐり音楽会』で準優勝し、これが初めてのテレビ出演になった。

名古屋短期大学付属高等学校(現在の桜花学園高等学校)に進学。高校2年の頃に渡辺プロダクションの新人オーディションに合格し、さらにフジテレビ系のオーディション番組『君こそスターだ!』に出場した。1週目は岩崎宏美の「ドリーム」を歌ったが、なんと歌詞を間違えて収録が止まってしまう。審査員に「歌詞を間違えた出場者は初めて」と言われたものの、それがかえって好感を持たれ、最終的に7週勝ち抜いてチャンピオンになった。

高校卒業後は東京音楽学院名古屋校に通ったが、十二指腸潰瘍や月謝の値上げなどが重なり、約半年でやめている。ただ、ここで課題曲として毎日歌っていたのが、のちの「まちぶせ」だった。

アイドルデビュー(1978年 - 1980年)[編集]

1978年3月、両親を説得して上京し、渡辺プロダクションの寮に入る。同じ頃に寮にいたのが桑江知子や松原みきで、いずれもその後ヒットを出す同世代の歌手である。同年5月25日、キャニオン・レコードのNAVレコードからシングル「右向け右」でデビューした。同じ渡辺プロのキャンディーズが解散コンサートを行ったのはこの年の4月で、ちょうど入れ替わるようなタイミングのデビューだった。

1978年は竹内まりやがデビューした年でもあり、テレビでは山口百恵、桜田淳子、岩崎宏美らがトップを走っていた時代。石川ひとみは清楚で親しみやすい「お嬢さん」系のアイドルとして売り出され、「くるみ割り人形」「あざやかな微笑」「ひとりぼっちのサーカス」と、ほぼ3〜4か月おきにシングルを出していく。

1979年4月には『プリンプリン物語』の放送が始まり、主人公の声を担当。同年6月にはシングル「プリンプリン物語」も発売した。番組自体は人気を集めたが、歌手としての大ヒットにはなかなか届かず、「ハート通信」「ミス・ファイン」「オリーブの栞」「秋が燃える」と作品を重ねる日々が続いた。

「まちぶせ」の大ヒットと紅白(1981年)[編集]

1981年1月の「夢番地一丁目」に続く次のシングルとして、ディレクターは「懐かしきリフレイン」を考えていた。しかしシングルとしてのインパクトが弱いと判断され、打開策として出てきたのが、同じ事務所の先輩・三木聖子が1976年にデビュー曲として出した「まちぶせ」のカバー案だった。作詞作曲は荒井由実(現在の松任谷由実)、編曲は三木版と同じく松任谷正隆。録音の段階で石川本人がシングル化を強く望んだこともあり、社内の反対を押し切る形で発売が決まったとされる。

1981年4月21日に11枚目のシングルとして発売された「まちぶせ」は、すぐには売れなかった。2か月以上たってから順位を上げ始め、8月にようやくオリコンのトップ10入り。最高6位を記録し、石川のシングルでは唯一のトップ10入りとなった。オリコン集計の累計は約39.6万枚とされ、公称では70万枚以上とも言われる。7月に出たアルバム『まちぶせ』も、彼女のオリジナルアルバムで最も売れた作品になった。

この年の大みそか、第32回NHK紅白歌合戦に初出場して「まちぶせ」を歌った。のちに『週刊文春』のコラムでは、この初出場で「プリンプリンの声をやって」と振られた彼女が極度に緊張していた様子が、紅白の「超アガリ」の代表例として回想されている。

人気歌手として(1982年 - 1986年)[編集]

「まちぶせ」のヒットで歌手を続ける決意を固め、1982年には「ひとりじめ」「君は輝いて天使にみえた」などを発表。1983年の「パープル ミステリー」はNHKの『あなたのメロディー』で年間優秀曲に選ばれた。同年は「にわか雨」「恋」も出し、オリジナルアルバム『プライベート』も発売している。

1982年から1986年まではNHKの音楽番組『レッツゴーヤング』で太川陽介とともに司会を担当。毎週のように若手アイドルを迎える立場になった。この頃の芸能界は、松田聖子、河合奈保子、柏原芳恵ら1980年デビュー組や、松本伊代、小泉今日子、中森明菜、堀ちえみら1982年デビュー組が一気に台頭した時代で、デビュー5年目の石川はお姉さん格のポジションにいた。

1984年以降も「メモリー」「アモーレ」「裸足でダンス」「夢回帰線」とシングルを出し続け、1986年の「秘密の森」がキャニオン/NAVレコードでの最後のシングルになった。

B型肝炎の発症と活動休止(1987年 - 1988年)[編集]

1987年7月、初主演となるミュージカル『はだかの王様』の稽古中に強いめまいで倒れ、B型慢性肝炎と診断されて緊急入院した。本人はその約3年前の血液検査で、母子感染によるB型肝炎ウイルスのキャリアであることを知っていた。当時は発病する確率は2割ほどで、3か月に1度の検査を勧められていたが、稽古に追われて検査に行けなかった時期の発症だったという。

ミュージカルは降板し、40日間の入院と約1年の自宅療養を送ることになる。入院中には渡辺プロダクションとの契約が解消され、芸能界からいったん離れた。復帰後のインタビューでは、療養は多くのことを考える時間をくれた、事務所の問題では世間の厳しさを学んだ、と前向きに振り返っている。

復帰と結婚、講演活動(1988年 - 2000年代)[編集]

1988年に活動を再開し、時代劇『新吾十番勝負』にお縫役で出演。1989年から1990年には日本テレビのアニメ『昆虫物語 みなしごハッチ』(リメイク版)で主人公ハッチの声と主題歌を担当し、再び「声の仕事」でも存在感を見せた。

1993年、デビュー当時から交際していた作曲家・編曲家の山田直毅と結婚した。日付は9月20日、つまり自分の誕生日である。挙式はせず、夫婦でベルギーを旅行した。同じ年には闘病の経験をつづった著書『いっしょに泳ごうよ』(集英社)を出版している。

1997年から1999年までは、NHK教育テレビ『母と子のテレビタイム』(日曜版)の司会として、ニャンちゅうと共演。2004年からはテイチクのインペリアルレコードから、沖縄のバンドBEGINが考案した弦楽器「一五一会」を使った『みんなの一五一会』シリーズを出し、唱歌・童謡やフォークソングを歌った。この時期は大きなコンサートより、講演会や家族向けの活動を中心にしていた。

ライブ活動の再始動と40周年(2010年 - 2019年)[編集]

2010年にはNHK BSの『BS日本のうた』に出演。2015年末からは浅草のアミューズ・カフェ・シアターでライブ活動を本格的に再開した。2016年の雑誌インタビューでは、ディナーショーやライブを中心に年3〜4回のペースで歌っていること、肝炎は完治する病気ではないので一生つきあうと語っている。

2018年はデビュー40周年。6月20日にオリジナルアルバム『わたしの毎日』を発売した。オリジナルアルバムとしては1983年の『プライベート』以来、実に35年ぶりである。7月に発売記念ライブ、10月に40周年記念コンサートを開き、2019年2月には東京と名古屋で追加公演も行った。

45周年から現在へ(2020年 - 2026年)[編集]

コロナ禍の2021年には初のライブ配信に挑戦し、同年5月に初のライブDVD『LIVE「わたしの毎日」』、2022年3月には初のBlu-ray『石川ひとみコンサート2021』を出した。

2023年8月、テレビ朝日『徹子の部屋』で、11年前(2012年)から指定難病のシェーグレン症候群と闘っていることを公表。同年はデビュー45周年で、7月19日に記念アルバム『笑顔の花』を発売した。タイトル曲はBEGINの島袋優の作曲で、中田裕二の提供曲や、さだまさし「道化師のソネット」のカバーも入り、本人が作詞に関わった曲も4曲ある。10月1日には東京・新橋のニッショーホールで記念コンサートを開いた。この年はNHK『うたコン』で櫻坂46と共演したことも話題になった。

2024年2月には『NHKのど自慢』(島根県)にゲスト出演し、7月には丸の内のコットンクラブで公演。11月29日には羽田のティアットスカイホールで1978年〜80年代のオリジナル曲だけを歌う公演を行った。2025年5月にはデビュー47周年を記念して、弦楽四重奏を迎えた「石川ひとみ with Strings」をビルボードライブ横浜・大阪で開催し、夫の山田直毅もギターで参加した。同年7月には厚生労働省の「知って、肝炎プロジェクト」スペシャルサポーターとして「世界・日本肝炎デーフォーラム」に登壇している。

2026年は「まちぶせ」の発売45周年。4月15日にテイチクから45回転12インチのアナログ盤『まちぶせ〜青春の45回転〜』を発売し、4月19日に東京・大手町三井ホールで記念コンサート「Forever」を開催した(チケットは完売、4月23日に名古屋・DIAMOND HALLで追加公演)。取材の場では1981年当時のパネルと並び、保管していた当時の衣装がいまも着られることが報じられた。7月26日にビルボードライブ大阪、8月2日にビルボードライブ横浜で「まちぶせ」45周年記念のストリングス公演、10月には古舘伊知郎と南野陽子が司会を務めるイベント「昭和101年スーパーソングブックショウ!」に出演。年末の12月13日には原宿のラドンナでライブが予定されている。さらに初のカバーアルバムの発売が予告されており、その記念コンサートが2027年4月18日に日本橋三井ホールで開かれる予定である。

「まちぶせ」について[編集]

「まちぶせ」はもともと、1976年に三木聖子がデビュー曲として出した作品である。作詞作曲は荒井由実で、三木の実体験をもとにユーミンが詞を書いたという話がある。編曲の松任谷正隆は、歌謡曲風の曲調には抵抗があったと振り返りつつ、詞は高く評価していた。

石川ひとみ版は三木版とほぼ同じアレンジで録音されたが、ヒットの規模は大きく上回った。1996年には荒井由実名義でユーミン本人がレゲエ調にセルフカバーし、こちらもオリコン5位のヒットになっている。

その後も多くの歌手がカバーしており、徳永英明(2007年)、JUJU(2016年)、桑田佳祐(2019年)、上白石萌音(2021年)、宮本浩次(2022年)などのバージョンがある。世代を超えて歌い継がれる「昭和の名曲」の一つになったのは、石川版のヒットがあったからこそとも言われる。

2026年発売のアナログ盤には、1981年の石川と2018年の石川が「共演」する「まちぶせ(81-18バージョン)」が収められた。37年の時を超えて自分自身とデュエットするという、長く歌い続けた人ならではの企画である。ストリーミングでも根強く聴かれており、Spotifyでの再生回数は1200万回を超えている。

プリンプリン物語[編集]

『プリンプリン物語』は1979年4月2日から1982年3月19日まで、NHK総合テレビで平日夕方に放送された人形劇である。原作・脚本は石山透、人形美術は友永詔三。15歳のプリンセス・プリンプリンが、まだ見ぬ祖国を探して世界を旅するミュージカル仕立ての冒険物語で、全656話という大長編だった。

声の出演は、プリンプリン役の石川ひとみのほか、ボンボン役の神谷明、ランカー役の滝口順平、カセイジン役の堀絢子、オサゲ役のはせさん治、軍曹役の緒方賢一ら。悪役ランカーをはじめ、強烈なキャラクターと毒のあるギャグで、大人のファンも多い作品として知られる。

オープニング主題歌「ハッピーアドベンチャー」(作詞:石山透、作曲:馬飼野康二)も石川が歌っている。劇中ではプリンプリンが歌う挿入歌も多く、アイドル歌手としてのレコードとは別に「プリンプリンの歌声」が子どもたちの耳に残ることになった。

実はこの番組、NHKの保存体制の事情で初期2年分の映像の多くが失われ、NHKに残っていたのは第1話だけという状態だった。その後、人形美術の友永や関係者、声優の神谷明、一般の視聴者などから録画テープの寄贈が相次ぎ、2019年時点で完全に欠けているのは1話だけというところまで回復した。2017年にはBSプレミアムで再放送され、2024年10月からはEテレで第1話からの放送が始まった。現在はNHKオンデマンドでも配信されている。

主な作品[編集]

主なシングル[編集]

発売日 タイトル 備考
1978年5月25日 右向け右 デビュー曲
1978年9月5日 くるみ割り人形
1979年1月21日 あざやかな微笑
1979年4月21日 ひとりぼっちのサーカス
1979年6月21日 プリンプリン物語 NHK人形劇関連
1979年8月21日 ハート通信
1981年1月21日 夢番地一丁目
1981年4月21日 まちぶせ オリコン最高6位、第32回紅白出場曲
1981年10月5日 三枚の写真
1982年2月21日 ひとりじめ
1982年5月21日 君は輝いて天使にみえた
1983年2月21日 パープル ミステリー 『あなたのメロディー』年間優秀曲
1983年6月21日 にわか雨 編曲:松任谷正隆
1983年9月21日 恋
1985年5月5日 夢回帰線
1986年4月5日 秘密の森 NAVレコード最後のシングル
1989年7月21日 みなしごハッチ アニメ主題歌
1991年2月1日 元気あげるね

主なアルバム[編集]

  • 『くるみ割り人形』(1978年)
  • 『まちぶせ』(1981年)- オリジナルアルバム最大のセールス
  • 『プライベート』(1983年)
  • 『HOME MADE-ただいま-』(1999年)
  • 『みんなの一五一会〜唱歌 童謡編』(2004年)ほか一五一会シリーズ
  • 『わたしの毎日』(2018年)- 35年ぶりのオリジナルアルバム
  • 『笑顔の花』(2023年)- デビュー45周年記念
  • 『まちぶせ〜青春の45回転〜』(2026年、12インチアナログ盤)

声の出演・テレビ[編集]

  • 『プリンプリン物語』(1979年 - 1982年、NHK)- プリンセス・プリンプリン役
  • 『レッツゴーヤング』(1982年 - 1986年、NHK)- 司会
  • 『新吾十番勝負』(1988年)- お縫役
  • 『昆虫物語 みなしごハッチ』(1989年 - 1990年、日本テレビ)- ハッチ役
  • 『母と子のテレビタイム』日曜版(1997年 - 1999年、NHK教育)- 司会

映像作品[編集]

  • 『LIVE「わたしの毎日」』(2021年、DVD)
  • 『石川ひとみコンサート2021』(2022年、Blu-ray)
  • 『デビュー45周年記念コンサート「笑顔の花」』(2024年、DVD)
  • 『石川ひとみpremium live80'』(2026年、DVD)

病気との闘い[編集]

石川ひとみは、自分の病気について本人の口から何度も語ってきた歌手である。ここでは本人が公表した範囲でまとめる。

最も知られているのがB型肝炎である。母子感染によるキャリアで、1987年に27歳で発症した。退院後は、病気を理由に握手を拒まれたり、リハビリのために通っていたスイミングスクールで他の保護者から「うつる」とクレームがついたりと、誤解による偏見に苦しんだ。著書のタイトル『いっしょに泳ごうよ』は、こうした経験から付けられたものである。本人は、病気への偏見がかえって奮い立つ力になったと語っている。

以後、エイズや肝炎についての講演活動を20年以上続け、正しい知識を広める側に回った。2016年の時点では定期的に検査を受け、薬なしで安定していると話している。2025年の肝炎デーフォーラムでは、自覚症状が出にくい肝臓だからこそ家族や友人にも検査を勧めてほしいと訴え、スクワットや階段の利用など足腰を鍛える工夫も紹介した。

2023年には、2012年から指定難病のシェーグレン症候群と闘っていることを公表した。全身の倦怠感やドライアイ、口の渇きがあり、水分補給が欠かせないという。2025年の週刊誌のインタビューでは、このほかにも人工股関節の手術を受けたこと、良性の腫瘍が見つかり経過観察していることなどを明かし、「毎日どこかが痛い」状態でも明るく歌い続けている様子が伝えられた。

人物・エピソード[編集]

  • 映画『男はつらいよ』の大ファン。友人のタレント・斉藤ゆう子と、葛飾柴又のロケ地を巡る「柴又ツアー」をしたことがある。
  • 1990年3月、ホテルのラウンジで寅さん役の渥美清に偶然出会い、無地のレポート用紙にサインをもらった。そのサインは今も額に入れて大事にしているという。

・その時、渥美さんに求められブロマイドの裏にサインをあつみさんへと書いた。

  • 健康法は毎朝のスクワットと、1人カラオケでの発声練習。
  • 渡辺プロダクションの先輩には太田裕美やキャンディーズがいた。同じ事務所の先輩の曲(三木聖子の「まちぶせ」)をカバーしてブレイクしたのは、事務所内のつながりがあったからこそである。
  • 夫の山田直毅は、闘病中も支え続けた人物。現在も石川のコンサートでギターを弾いており、公私ともにパートナーである。

余談[編集]

  • デビュー前、紅白の初出場で歌うことになる「まちぶせ」を、音楽学校の課題曲として毎日歌っていた。偶然とはいえ、できすぎた話である。
  • 『君こそスターだ!』の1週目で歌詞を間違えた出場者は、彼女が初めてだったとされる。その失敗で審査員に気に入られ、結果的にチャンピオンになった。
  • 『プリンプリン物語』は初期の映像の多くが失われていたが、関係者や視聴者からの寄贈で、ほぼ全話がそろうまでに回復した。プリンプリンの声をもう一度聞けるのは、ファンの録画のおかげと言える。
  • 2026年の45周年コンサートでは、45年前に着て

いた衣装がいまも着られると報じられ、20歳当時の等身大パネルと並んだ姿が報じられた。

  • 「まちぶせ」のオリコンでのトップ10入りは発売から3か月以上たった8月で、典型的なロングセラー型のヒットだった。

・累計70万枚以上のセールス(一説には80万枚以上共)

外部リンク[編集]

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