| Momoe Yamaguchi やまぐち ももえ | |
|---|---|
| 本名 | 三浦百惠(旧姓:山口) |
| 誕生日 | 1959年1月17日 |
| 年齢 | 67歳 |
| 出身地 | 東京都渋谷区生まれ、神奈川県横須賀市育ち |
| 国籍 | 日本 |
| 家族 |
夫:三浦友和(俳優) 長男:三浦祐太朗(歌手) 次男:三浦貴大(俳優) |
| 学歴 | 日出女子学園高等学校 卒業 |
| 職業 | 元歌手・元女優、キルト作家 |
| 肩書 | 元アイドル、「花の中三トリオ」の一人 |
| 活動期間 | 1973年 - 1980年 |
| 代表的な実績 | 「ひと夏の経験」「横須賀ストーリー」「秋桜」「プレイバックPart2」「いい日旅立ち」「さよならの向う側」、NHK紅白歌合戦 紅組トリ(1978年)、『赤い疑惑』ほか赤いシリーズ、映画『伊豆の踊子』『潮騒』『古都』 |
| 受賞 | 東京音楽祭 銅賞(1977年「夢先案内人」)、日本レコード大賞 金賞(1978年「プレイバックPart2」) |
| 事務所 | ホリプロ(ホリプロダクション、1973年 - 1980年) |
| 関連活動 | 花の中三トリオ(森昌子・桜田淳子) |
| 別名 | 三浦百惠(キルト作家名義) |
| あだ名 | 百恵ちゃん |
| その他 | 自叙伝『蒼い時』(1980年、集英社)、キルト作品集『時間(とき)の花束 Bouquet du temps』(2019年、日本ヴォーグ社) |
| リンク | ソニーミュージック 山口百恵 公式ページ |
概要[編集]
山口百恵(やまぐち ももえ、1959年1月17日 - )とは、日本の元歌手・元女優である。1973年に14歳でデビューし、「横須賀ストーリー」「プレイバックPart2」などのヒットで1970年代に最もレコードを売った歌手とされる。人気の絶頂にあった1980年、21歳で三浦友和との結婚を機に芸能界を引退した。武道館でマイクを置いて去ったラストステージは「伝説の引退」として語り継がれている。現在は三浦百惠の名でキルト作家として活動している。
詳細[編集]
「花の中三トリオ」と昭和最大級のアイドル[編集]
1972年末、日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』に出場して準優勝し、20社からスカウトの指名を受けた。翌1973年、ホリプロ(当時ホリプロダクション)所属、CBS・ソニーからデビュー。同じ『スター誕生!』出身で同学年の森昌子、桜田淳子と並べて「花の中三トリオ」と呼ばれ、学年が上がるごとに「花の高一トリオ」「高二トリオ」と呼び名も進級していった。
シングルは31作(引退後の1994年に出た1作を除く)で累計1,142万枚。オリコンの週間シングルチャートでは、1973年6月から1981年3月まで405週連続で100位以内に作品が入り続けた。ブロマイドの売上でも1974年から1980年まで毎年ベスト10入りし、1976年には女性部門1位。ホリプロ社内では一時期、本社ビルが「百恵ビル」と呼ばれたという話まである。
「青い性」から「強い女」へ[編集]
初期の山口百恵を作ったのは作詞・千家和也、作曲・都倉俊一のコンビで、2人の手による楽曲は45曲にのぼる。2枚目の「青い果実」、5枚目の「ひと夏の経験」は、10代の少女が際どい歌詞を歌う「青い性路線」として話題を呼び、ブレイクのきっかけになった。
転機は1976年の「横須賀ストーリー」。夫婦で活動していた作詞家・阿木燿子と作曲家・宇崎竜童(ダウン・タウン・ブギウギ・バンド)を起用したこの曲が、自身最大の66万枚を売り上げてオリコン1位を獲得。以後、阿木・宇崎コンビは「イミテイション・ゴールド」「プレイバックPart2」「絶体絶命」「ロックンロール・ウィドウ」「さよならの向う側」など、アルバム曲を含め計69曲を提供した。受け身の少女から、男に啖呵を切る自立した女性へ。このイメージチェンジで、山口百恵は単なるアイドルを超えた存在になっていく。
歌と演技の二刀流[編集]
歌手と同じくらい大きかったのが女優としての仕事である。主演映画は13本で、そのうち12本が三浦友和との共演。2人のコンビ作は1本平均200万人を動員し、総額120億円を稼いだとされる。川端康成原作の『伊豆の踊子』、三島由紀夫原作の『潮騒』、谷崎潤一郎原作の『春琴抄』と、文芸作品のリメイクが多いのも特徴だ。
テレビドラマではTBSと大映テレビの「赤いシリーズ」で主演を重ね、出生の秘密や難病、運命の恋といった大映ドラマ特有の濃い設定を、10代とは思えない落ち着いた芝居で演じ切った。自分の主演ドラマ・映画の主題歌を自ら歌うことも多く、歌とドラマが互いの人気を押し上げる構造ができていた。
頂点での引退[編集]
1979年10月、大阪でのリサイタルで「私が好きな人は三浦友和さんです」と交際を公表。1980年3月7日に婚約と芸能界引退を発表した。会見では「我が儘な…生き方を私は選びました」と語り、仕事は全面的に引退すると明言している。
同年10月5日、日本武道館でファイナルコンサートを開催。最後の曲「さよならの向う側」を歌い終えると、白いマイクをステージ中央に置き、振り返らずに去った。この演出は振付師の西条満のアイデアとされる。「本当に…私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」という言葉とともに、芸能活動はわずか7年半で幕を閉じた。以後、本人は一度も芸能界に復帰していない。
経歴[編集]
生い立ち(1959年 - 1972年)[編集]
1959年1月17日、東京都渋谷区の病院で生まれる。幼少期に神奈川県横須賀市へ移り、横須賀市立鶴久保小学校、横須賀市立不入斗中学校に進んだ。のちに中学在学中に芸能界入りし、高校は日出女子学園高等学校を卒業している。
家庭環境は複雑で、自叙伝『蒼い時』では父親との関係について率直に綴っている。母を手伝って人形の服を縫う内職をしていた、という報道もあり。
デビューとブレイク(1973年 - 1975年)[編集]
1972年12月放送の『スター誕生!』で牧葉ユミの「回転木馬」を歌って準優勝。1973年4月に映画『としごろ』に出演し、5月21日に同名のシングル「としごろ」で歌手デビューした。デビュー曲はオリコン37位と期待を下回ったが、2枚目の「青い果実」が9位に入って勢いがつく。
1973年10月にはTBS系『顔で笑って』で初のドラマレギュラー。宇津井健と親子役を演じ、のちの赤いシリーズにつながる縁ができた。1974年は「ひと夏の経験」が44万枚のヒットとなり、同年のNHK紅白歌合戦に初出場。12月には映画『伊豆の踊子』で初主演を果たし、相手役の三浦友和との「ゴールデンコンビ」が誕生した。2人の初共演は江崎グリコ「プリッツ」のCMだった。同年末の「冬の色」で初のオリコン1位を獲得している。
黄金期(1976年 - 1979年)[編集]
1975年10月からの『赤い疑惑』では白血病に冒されるヒロイン・大島幸子を演じ、三浦友和と初めてドラマで共演。平均視聴率23.4%、最高30.9%(関東地区)を記録した。1976年には「横須賀ストーリー」「パールカラーにゆれて」と1位を連発し、『赤い運命』『赤い衝撃』にも主演。
1977年には「夢先案内人」でオリコン1位を獲り、東京音楽祭で銅賞を受賞。同年にはさだまさし作詞・作曲の「秋桜」をリリースし、嫁ぐ娘が母を想う歌として今も結婚式の定番曲になっている。1978年は「プレイバックPart2」で日本レコード大賞金賞を受賞し、同年の紅白では紅組のトリを務めた。19歳でのトリは10代初で、紅組トリの最年少記録は今も破られていない。同年11月には谷村新司作詞・作曲の「いい日旅立ち」を発売。国鉄(現・JR)の旅行キャンペーンソングとして大ヒットした。
交際宣言・婚約・引退(1979年 - 1980年)[編集]
1979年10月20日、大阪厚生年金会館でのリサイタルで三浦友和との交際を宣言。1980年3月7日には婚約と引退を同時に発表した。引退までの半年間はファイナル企画が続き、主演映画『古都』と、ドラマ『赤い死線』が引退記念作となった。9月には自叙伝『蒼い時』を集英社から刊行し、1か月で100万部、年内に200万部を突破する大ベストセラーになっている。
10月5日の日本武道館ファイナルコンサートはTBSで生中継され、案内役は久米宏が務めた。10月13日の日本テレビ『山口百恵スペシャル ザ・ラスト・ソング』が現役最後のテレビ生出演で、10月15日のホリプロ20周年記念式典で「いい日旅立ち」を歌ったのを最後に、芸能活動から完全に引退した。同年の紅白は、人気アンケートで4位に入りながら引退を理由に辞退している。
結婚と子育て(1980年 - )[編集]
1980年11月19日、東京・赤坂の霊南坂教会で三浦友和と挙式。披露宴は東京プリンスホテル鳳凰の間で開かれ、招待客は1,800人、仲人は赤いシリーズで父親役を演じた宇津井健夫妻が務めた。
1984年に長男・三浦祐太朗、1985年に次男・三浦貴大が誕生。三浦友和は後年、30代で仕事が減り収入が大きく落ちた時期にも、妻は一言も文句を言わなかったと語っている。引退後はインタビューにもテレビにも一切登場せず、家庭に専念する生活を貫いた。
キルト作家として(1980年代後半 - )[編集]
1980年代後半、友人から贈られたベビーキルトをきっかけにパッチワークキルトを始め、のちにキルト作家の鷲沢玲子に師事した。作品は三浦百惠名義で東京ビッグサイトなどで開かれる東京国際キルトフェスティバルや、師の主宰する展示会に出品されてきた。
2019年7月、日本ヴォーグ社から初のキルト作品集『時間(とき)の花束 Bouquet du temps』を刊行。30年分、100点を超える作品から選んだもので、母の着物を使ったキルトや、夫と息子たちのために作った作品も収録された。手芸書としては異例の20万部超を売り上げたと報じられている。
2020年代[編集]
2020年5月29日、引退40周年に合わせて600曲以上がサブスクリプションで解禁された。若い世代がストリーミングで「再発見」し、LINE MUSICの歌謡曲ランキングでは「プレイバックPart2」を筆頭に6曲がランクインしたと報じられた。2021年1月30日にはNHK総合で武道館ファイナルコンサートが地上波初放送され、引退コンサートのDVDが10年7か月ぶりにオリコンDVDランキングのトップ10に返り咲いている。
2022年3月、長男夫婦に第1子が生まれ「おばあちゃん」になった。2024年には東京・神保町シアターで主演映画12本を35mmフィルムで上映する特集「山口百恵映画祭」が開かれ、同年から指揮者・西本智実と長男・三浦祐太朗による山口百恵作品のオーケストラ公演「ノスタルジー」もスタート。2025年7月には東京・名古屋で「山口百恵名曲集2025」として再演された。
2026年9月には、夫の三浦友和がテレビ番組で結婚46年を迎えた妻との自宅での様子に触れ、「お勝手だったら、一緒に」と台所に2人で立つことを明かし、「あうんの呼吸」だと語ったことが報じられた。本人は2026年10月時点でも表舞台に出ておらず、公の場への登場は報じられていない。
人物[編集]
「菩薩」と呼ばれた存在感[編集]
10代でデビューしながら、歌番組でもインタビューでもほとんど笑わず、どこか翳りのある大人びた表情が印象的だった。その落ち着いた佇まいから「菩薩」とまで形容されることがある。写真家の篠山紀信が数多くのグラビアを撮影したことでも知られ、表紙を飾った雑誌は数えきれない。
一方で、私生活は堅実そのもの。『蒼い時』には「何より、無駄にお金を使うことほど、馬鹿なことはない」という一節があり、子供の頃は小遣いの使い道をノートに記録していたとも報じられている。
夫・三浦友和との関係[編集]
三浦友和とは映画12本と赤いシリーズで共演した「ゴールデンコンビ」で、交際宣言は人気絶頂期の大事件だった。三浦友和は2011年に夫婦の在り方をつづった著書『相性』を出版。2017年には『徹子の部屋』で「(妻には)基本的な強さがある」と語り、結婚以来ケンカをしたことがないと明かしている。
明治安田生命の「理想の有名人夫婦」アンケートでは長年1位の常連で、2012年には7年連続の1位となった。2011年の調査では「理想の母親」にも選ばれている。
2人の息子[編集]
長男の三浦祐太朗はシンガーソングライター・俳優。2017年に母の曲をカバーしたアルバムを出して以降、「山口百恵作品の継承者」として名曲を歌い継いでいる。妻は声優・歌手の牧野由依で、2024年には夫婦そろってももいろクローバーZのファンであることを公表した。
次男の三浦貴大は俳優で、映画『キングダム 大将軍の帰還』などに出演。2017年には極楽とんぼの加藤浩次が、三浦家を訪ねた際に百恵本人に頼み込んで「秋桜」を生で歌ってもらったとテレビで明かし、「生秋桜、素晴らしかったです」と振り返って話題になった。
主な作品[編集]
主なシングル[編集]
| 発売年 | タイトル | 作詞/作曲 | オリコン最高位 |
|---|---|---|---|
| 1973年 | としごろ(デビュー曲) | 千家和也/都倉俊一 | 37位 |
| 1973年 | 青い果実 | 千家和也/都倉俊一 | 9位 |
| 1974年 | ひと夏の経験 | 千家和也/都倉俊一 | 3位 |
| 1974年 | 冬の色 | 千家和也/都倉俊一 | 1位 |
| 1976年 | 横須賀ストーリー | 阿木燿子/宇崎竜童 | 1位 |
| 1977年 | 夢先案内人 | 阿木燿子/宇崎竜童 | 1位 |
| 1977年 | イミテイション・ゴールド | 阿木燿子/宇崎竜童 | 2位 |
| 1977年 | 秋桜 | さだまさし | 3位 |
| 1978年 | プレイバックPart2 | 阿木燿子/宇崎竜童 | 2位 |
| 1978年 | 絶体絶命 | 阿木燿子/宇崎竜童 | 3位 |
| 1978年 | いい日旅立ち | 谷村新司 | 3位 |
| 1980年 | ロックンロール・ウィドウ | 阿木燿子/宇崎竜童 | 3位 |
| 1980年 | さよならの向う側 | 阿木燿子/宇崎竜童 | 4位 |
| 1980年 | 一恵(ラストシングル) | 横須賀恵/谷村新司 | 2位 |
ラストシングル「一恵」の作詞者・横須賀恵は、山口百恵本人のペンネームである。
主な出演映画[編集]
- 『としごろ』(1973年) - デビュー作
- 『伊豆の踊子』(1974年) - 初主演、三浦友和と初共演
- 『潮騒』(1975年)
- 『絶唱』(1975年)
- 『春琴抄』(1976年)
- 『霧の旗』(1977年)
- 『ふりむけば愛』(1978年) - サンフランシスコロケ
- 『ホワイト・ラブ』(1979年)
- 『古都』(1980年) - 引退記念作
このほか『エデンの海』『風立ちぬ』『泥だらけの純情』『炎の舞』『天使を誘惑』などがある。
赤いシリーズ(TBS・大映テレビ)[編集]
- 『赤い迷路』(1974年)
- 『赤い疑惑』(1975年 - 1976年) - 三浦友和とドラマ初共演
- 『赤い運命』(1976年)
- 『赤い衝撃』(1976年 - 1977年)
- 『赤い激流』(1977年) - 第1話に特別出演
- 『赤い絆』(1977年 - 1978年)
- 『赤い死線』(1980年) - 引退記念スペシャル
『赤い疑惑』は1980年代に中国で『血疑』のタイトルで放送され、現地で大ブームを巻き起こした。いまも中国で山口百恵の知名度が高いのはこのドラマの影響が大きいとされる。
著書[編集]
- 『蒼い時』(1980年、集英社) - 自叙伝。1981年に文庫化
- 『時間(とき)の花束 Bouquet du temps』(2019年、日本ヴォーグ社、三浦百惠名義) - キルト作品集
楽曲と作家陣[編集]
宇崎竜童・阿木燿子コンビ[編集]
山口百恵の楽曲を語るうえで欠かせないのが、宇崎竜童・阿木燿子夫妻である。山口百恵本人がダウン・タウン・ブギウギ・バンドの曲を気に入り、2人への依頼を希望したのが始まりとされる。シングルとしては1976年の「横須賀ストーリー」が第1作。横須賀育ちの本人の背景と重なる歌詞で、自身最大のヒットになった。
「プレイバックPart2」の「Part2」には由来がある。最初に書かれたバージョンが不採用となり、2人が一晩で書き直したものが「Part2」として世に出た。没になった最初の版は、のちにベスト盤で「プレイバックPart1」として発表されている。宇崎竜童は2011年のインタビューで、引退後も印税が本人に届いていると語った。
さだまさし・谷村新司という「外部」[編集]
阿木・宇崎コンビと並ぶ代表曲を書いたのが、フォーク界の2人だった。さだまさしの「秋桜」(1977年)は、結婚を控えた娘が母を見つめる歌で、19歳の山口百恵が歌ったことで「娘から母へ」の歌の定番になった。谷村新司の「いい日旅立ち」(1978年)は国鉄のキャンペーンソングとして作られ、2007年にはJR西日本のCMで鬼束ちひろ版が使われたほか、中森明菜や長男・三浦祐太朗もカバーしている。音楽の教科書に載ったこともある。
名作を支えた制作陣[編集]
CBS・ソニーのプロデューサー酒井政利と、ホリプロのディレクター川瀬泰雄が音作りを主導し、中期以降のアレンジの多くは萩田光雄が担当した。アルバムには当時まだヒットのなかった浜田省吾、来生たかお、大瀧詠一らも曲を提供しており、のちに大物となる作家の初期作品が山口百恵のアルバムに眠っている。ロンドンやロサンゼルスでの海外録音も行われた。
伝説の引退[編集]
武道館ファイナルコンサート[編集]
1980年10月5日の日本武道館公演は、TBSで生中継されただけでなく、ビルボード誌が興行規模を報じるほどの注目を集めた。アンコールで歌った「さよならの向う側」の後、「本当に…私のわがまま、許してくれてありがとう。幸せになります」と語り、白いマイクをステージの床に置いて退場した。この「マイクを置く」という行為はその後、引退する歌手たちのラストステージでオマージュされることもある。
公演はのちに『伝説から神話へ 日本武道館さよならコンサート・ライブ』として映像化。2021年1月のNHK総合での地上波初放送は関東地区で世帯視聴率8.6%を記録し、放送直後にDVDが再びランキング上位に浮上した。
「去り際」の美学[編集]
引退後、NHK紅白歌合戦側は2000年の第51回、2005年の第56回などで出演を打診したと報じられているが、本人は応じていない。テレビにも雑誌にも出ず、一度も復帰しないまま40年以上が過ぎたことが、かえって「伝説」を強固にした。2020年には女性向けウェブメディアが選ぶ「去り際がいさぎよかった女性」の一人にも挙げられている。
よくある質問[編集]
Q. 山口百恵は何者?
A. 1973年から1980年まで活動した歌手・女優。「横須賀ストーリー」「秋桜」「プレイバックPart2」「いい日旅立ち」などで1970年代に最もレコードを売った歌手とされ、赤いシリーズや映画『伊豆の踊子』で女優としても大成功した。1980年に21歳で三浦友和と結婚して引退した、昭和を代表するアイドルである。
Q. 現在は何してる?
A. 芸能界には復帰しておらず、三浦百惠の名前でキルト作家として活動している。2019年にはキルト作品集『時間(とき)の花束』を出版した。2026年9月には夫の三浦友和がテレビで、台所に2人で立つ仲睦まじい日常を明かしている。
Q. 本名は?
A. 結婚後の本名は三浦百惠(みうら ももえ)。旧姓が山口で、芸名の山口百恵は本名由来である。キルト作品は「百惠」と旧字体の表記で発表している。
Q. 年齢は?
A. 1959年1月17日生まれで、2026年10月時点で67歳。引退した1980年は21歳だった。
Q. 家族は?
A. 夫は俳優の三浦友和(1980年11月19日結婚)。長男は歌手・俳優の三浦祐太朗、次男は俳優の三浦貴大で、ともに芸能界で活躍している。2022年には長男夫婦に第1子が誕生した。
Q. 代表曲は?
A. 「ひと夏の経験」「横須賀ストーリー」「夢先案内人」「イミテイション・ゴールド」「秋桜」「プレイバックPart2」「いい日旅立ち」「さよならの向う側」など。オリコン1位は「冬の色」「横須賀ストーリー」「パールカラーにゆれて」「夢先案内人」の4曲。
Q. どこで聴ける・見られる?
A. 2020年5月29日から、600曲以上の音源が主要なサブスクリプション音楽配信サービスで配信されている。ドラマ・映画はDVDなどのパッケージのほか、TBSチャンネルでの再放送や名画座での特集上映などで見る機会がある。配信プラットフォームでの取り扱いは時期によって変わるため、各サービスで確認が必要。
Q. 引退後、芸能界に復帰したことはある?
A. ない。紅白歌合戦などから出演依頼があったと報じられているが、一度も表舞台には戻っていない。長男の三浦祐太朗が母の楽曲をカバーするコンサートを各地で開いており、楽曲は息子の歌声を通して生き続けている。
炎上とバズ[編集]
サブスク解禁で若者にバズる[編集]
2020年の音源解禁は大きな話題になった。昭和を知らない世代が「プレイバックPart2」や「ロックンロール・ウィドウ」の攻めた歌詞と低く太い歌声を「かっこいい」と再評価し、歌謡曲チャートでは松田聖子を上回るランクイン数を記録したと報じられた。
紅白「ポルシェ」問題[編集]
「プレイバックPart2」の歌詞には「真っ赤なポルシェ」という一節がある。NHKは番組内での商品名の使用を避ける方針から、初めてNHKの番組で歌った際は一般名詞の「車」に替えて歌われた。一方、1978年の紅白歌合戦でトリとして歌った際には原詞のまま歌われ、当時ちょっとした話題になった。
余談[編集]
- 『赤い疑惑』のパリロケでは、ピエール・カルダンが衣装を全面協力し、JALの訓練用モックアップで機内シーンが撮影されたとされる。
- ラストシングル「一恵」の作詞者「横須賀恵」は本人のペンネーム。育った街・横須賀と自分の名前を組み合わせたものとみられる。
- 武道館ファイナルで使われたマイクは、のちに三浦友和から、彼が心酔していた渡哲也に贈られたと報じられている。渡哲也は生前、夫婦の在り方を有吉弘行によく話していたという。
- 1978年の紅白で紅組トリを務めたのは19歳のとき。紅組トリの最年少記録として、2026年時点でも破られていない。
- 引退時、ホリプロの記念式典で最後に歌ったのは「さよならの向う側」ではなく「いい日旅立ち」だった。
- 『スター誕生!』で歌ったのは牧葉ユミの「回転木馬」。準優勝ながら20社からの指名を集めた。