| 渥美清 あつみ きよし / Kiyoshi Atsumi | |
|---|---|
![]() 1967年の渥美清(出典:Wikimedia Commons) | |
| 本名 | 田所康雄(たどころ やすお) |
| 誕生日 | 1928年3月10日 |
| 死亡日 | 1996年8月4日 |
| 死亡年齢 | 68歳(数え年69) |
| 出身地 | 東京都台東区上野(旧・東京市下谷区車坂町) |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 東京・板橋の尋常小学校、高等小学校を経る(中学以降の学歴は諸説あり) |
| ジャンル | 映画、テレビドラマ、舞台、喜劇 |
| 活動期間 | 1946年 - 1996年 |
| デビューアルバム | 1946年 舞台『阿部定一代記』(端役)、1958年 映画『おトラさん大繁盛』 |
| 代表作 | 『男はつらいよ』シリーズ(車寅次郎)、『拝啓天皇陛下様』、『沓掛時次郎 遊侠一匹』、『砂の器』、『八つ墓村』(金田一耕助)、『幸福の黄色いハンカチ』、『学校』 |
| 関連活動 | 俳句(俳号「風天」) |
| あだ名 | 寅さん、風天 |
| その他 | 紫綬褒章(1988年)、国民栄誉賞(1996年、没後) |
概要[編集]
渥美清(あつみ きよし、1928年3月10日 - 1996年8月4日)とは、東京都上野生まれの喜劇役者・俳優である。本名は田所康雄。浅草のストリップ劇場で腕を磨き、NHK『夢であいましょう』で全国区の人気者に。映画『男はつらいよ』で車寅次郎を27年・全48作にわたって演じ、「寅さん」として国民的スターになった。没後に国民栄誉賞を受けている。
詳細[編集]
上野生まれ、板橋育ちの「いたずら坊主」[編集]
1928年(昭和3年)3月10日、東京市下谷区車坂町(現在の台東区上野)に生まれた。父は地方紙の記者、母は元小学校教諭という家庭の次男である。8歳ごろに板橋区志村の方へ移り、少年時代を下町の路地で過ごした。
体が弱く学校を休みがちだった少年・康雄は、家でラジオばかり聴いていた。徳川夢声の朗読や落語、講談を丸ごと覚えてしまい、学校でそれを披露してクラスの人気者になったという。勉強は苦手で、授業中は廊下に立たされている時間の方が長かったという話もある。この「一度聴いたら覚える」記憶力は、後年の撮影所で山田洋次監督を驚かせることになる。
テキ屋の口上から浅草の舞台へ[編集]
戦中から戦後にかけては工員として働きながら、担ぎ屋やテキ屋の手伝いもしていた。のちに寅次郎が見せる「けっこう毛だらけ猫灰だらけ」の啖呵売(たんかばい)は、この時代に間近で見た露天商の口上が下敷きになっているとよく語られる。10代のころには船乗りを志して願書まで出したが、母親の反対で諦めている。
その後、旅回りの演劇一座に入り、1946年に舞台『阿部定一代記』の端役で初舞台を踏んだ。最初の芸名は「渥美悦郎」だったが、司会者の助言で「渥美清」に落ち着いたとされる。1951年には浅草六区のストリップ劇場「百万弗劇場」の専属コメディアンになり、1953年には名門・浅草フランス座へ移籍した。
フランス座の看板、そして結核[編集]
フランス座ではすぐに頭角を現し、先輩・八波むと志の後を継いで二代目の座長格となった。踊り子の幕間に演じるコントで劇場は連日の盛況となり、踊り子や裏方までが舞台袖に集まって渥美の芝居を見ていたという。同じ浅草仲間の関敬六、谷幹一らとは、のちのちまで付き合いが続いた。
ところが1954年、重い肺結核にかかり、右肺を切除する大手術を受ける。埼玉県の療養所で約2年間を過ごし、隣のベッドの患者が翌朝には亡くなっているような日々を経験した。右肺を失ったことで、体を張ったドタバタ喜劇は難しくなった。さらに1956年には胃腸を患って入院し、退院後は酒・たばこ・コーヒーを一切断つ節制生活に入った。この挫折が、のちの「しゃべりと間で笑わせる」芸風につながったと見る向きも多い。
テレビの時代と『夢であいましょう』[編集]
療養から復帰した渥美を待っていたのは、始まったばかりのテレビだった。1956年ごろ、日本テレビの『すいれん夫人とバラ娘』で朝丘雪路の助手役としてテレビ初出演。1959年には谷幹一・関敬六と「スリーポケッツ」を結成したが、数か月で抜けている。
転機は1961年から1966年にかけて出演したNHKの『夢であいましょう』と『若い季節』である。永六輔と中村八大が中心になったバラエティ番組『夢であいましょう』では、浅草仕込みのコントで全国の茶の間に顔を知られるようになった。1962年にはフジテレビのドラマ『大番』で演じた「ギューちゃん」が評判となり、テレビの人気者としての地位を固めた。
寅さんとして生き、寅さんとして去る[編集]
1968年、フジテレビで連続ドラマ『男はつらいよ』が始まる。1969年に松竹で映画化されると大ヒットし、以後1995年の第48作『寅次郎紅の花』まで、盆と正月の風物詩として車寅次郎を演じ続けた。
晩年は病と向き合いながらの撮影だったが、本人はそのことをほとんど誰にも明かさなかった。1996年8月4日、転移性肺がんのため東京都内の病院で死去。68歳だった。訃報が公表されたのは家族だけでの密葬を終えた後の8月7日で、日本中が「寅さんが死んだ」と衝撃を受けた。同年9月3日、国民栄誉賞が贈られた。
経歴[編集]
1946年 - 1957年:旅回りと浅草時代[編集]
- 1946年:旅回りの一座で舞台『阿部定一代記』に端役で出演し、初舞台。
- 1951年:浅草六区の「百万弗劇場」専属コメディアンとなる。劇場は間もなく倒産。
- 1953年:浅草フランス座に入り、看板コメディアンとして人気を得る。
- 1954年:肺結核で右肺を切除。埼玉県の療養所で約2年間療養する。
- 1956年:胃腸を患い入院。この頃から酒・たばこ・コーヒーを断つ。
- 1956年 - 1957年ごろ:日本テレビ『すいれん夫人とバラ娘』でテレビ初出演。
1958年 - 1967年:テレビの人気者から映画俳優へ[編集]
1958年、『おトラさん大繁盛』で映画デビュー。1961年の『水溜り』では、のちに寅さんの妹・さくらを演じる倍賞千恵子と初めて共演している。1962年には『あいつばかりが何故もてる』で映画初主演を果たした。
俳優としての評価を決定づけたのが、1963年の松竹映画『拝啓天皇陛下様』(野村芳太郎監督)である。軍隊を「三度の飯が食える天国」と思い込む、純朴で読み書きもおぼつかない兵隊・山田正助を演じ、喜劇の枠を越えた演技力を見せつけた。好評を受けて続編『続・拝啓天皇陛下様』も作られている。
1965年には『ブワナ・トシの歌』(東宝)の撮影で、アフリカ各地を約4か月かけてロケした。この経験ですっかりアフリカに魅せられ、その後もたびたび旅行に出かけている。1966年には東映の『沓掛時次郎 遊侠一匹』で身延の朝吉を演じ、時代劇でも高い評価を得た。東映では『喜劇 急行列車』『喜劇 団体列車』『喜劇・初詣列車』のいわゆる「列車シリーズ」に主演している。舞台に立ったのは1966年5月、新宿コマ劇場のミュージカル『南太平洋』が最後になった。
1968年 - 1995年:車寅次郎の27年[編集]
1968年10月、フジテレビで連続ドラマ『男はつらいよ』の放送が始まる。脚本は山田洋次と森崎東。最終回で寅次郎が奄美大島でハブにかまれて死ぬという結末には、視聴者からの抗議が殺到した。
この反響を受け、1969年8月27日に松竹が映画版第1作を公開する。社内には「テレビの電気紙芝居を映画にするのか」という反対の声もあったが、山田洋次が城戸四郎社長に直談判して実現にこぎつけたとされる。以後は年2本ペースで新作が公開され、第8作では観客動員148万人、その後は200万人を超える作品も出るほどの人気シリーズになった。
1970年代以降、渥美はほぼ寅さん一本に仕事を絞っていく。それでも『砂の器』(1974年)、『八つ墓村』(1977年)、『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)などの話題作には印象的な役で顔を出している。1988年には紫綬褒章を受章した。1989年の第42作以降は体調への配慮から立ち回りを減らし、甥・満男(吉岡秀隆)の恋の物語に比重が移っていった。
1996年:死去と国民栄誉賞[編集]
1995年12月公開の第48作『寅次郎紅の花』が遺作となった。1996年8月4日に死去。遺言により戒名は付けられず、家族だけで密葬が営まれた。8月13日には松竹大船撮影所の第9ステージで「渥美清さんとお別れする会」が開かれ、2万人以上(資料によっては3万人超)が献花に訪れた。ファンの列は夜遅くまで途切れなかったという。
同年9月3日、橋本内閣は「映画『男はつらいよ』シリーズで人情味あふれる演技を見せ、国民に喜びと潤いを与えた」として国民栄誉賞を贈った。俳優としては長谷川一夫に次いで2人目の受賞である。
『男はつらいよ』と車寅次郎[編集]
どんな役だったのか[編集]
車寅次郎は、東京都葛飾区柴又の団子屋「とらや」(のちに「くるまや」)の跡取りに生まれながら、家を飛び出してテキ屋稼業で全国を渡り歩く男である。旅先や柴又に戻ったときにマドンナに恋をしては振られ、また旅に出る。この「惚れて、振られて、旅に出る」の黄金パターンが、四半世紀以上にわたって繰り返された。
妹・さくらを演じた倍賞千恵子、さくらの夫・博(前田吟)、おいちゃん・おばちゃん、裏の印刷工場のタコ社長といった「柴又ファミリー」との掛け合いは、ほとんど家族のコントのような呼吸だった。マドンナ役には吉永小百合、浅丘ルリ子、桃井かおりをはじめ、各時代を代表する女優が名を連ねた。中でも浅丘ルリ子が演じた旅回りの歌手・リリーは計4作に登場し、寅さんと「対等に渡り合える唯一の女性」として人気が高い。
ギネスに載った「最も長い映画シリーズ」[編集]
映画版は1969年の第1作から1995年の第48作まで、すべて渥美清が主演した。一人の俳優が演じた最も長い映画シリーズとしてギネス世界記録に認定されている。シリーズ累計の観客動員は約8000万人とされる。
渥美の死後も、1997年に第25作を再編集した『寅次郎ハイビスカスの花 特別篇』、2019年には第1作公開50周年を記念した第50作『男はつらいよ お帰り 寅さん』が公開された。いずれも生前の映像を使った「ライブラリ出演」で、50作すべてに寅さんが登場していることになる。2019年には全49作の4Kデジタル修復も行われた。
山田洋次が見た「天才」[編集]
シリーズのほとんどを監督した山田洋次は、渥美を「天才」と評している。台本を2、3回読めばセリフを完全に覚えてしまい、本番でも一字一句間違えなかったという。少年時代にラジオの落語を丸暗記した記憶力が、そのまま撮影所でも生きていたわけである。
また、テキ屋の口上「物の始まりが一ならば、国の始まりが大和の国……」といった啖呵売の場面は、渥美が若いころに実際に見聞きした口上を自在に操ったものとされる。脚本に書かれた以上の「本物っぽさ」がそこにはあった。
主な出演作[編集]
映画[編集]
| 公開年 | 作品名 | 役・備考 |
|---|---|---|
| 1958年 | おトラさん大繁盛 | 映画デビュー作 |
| 1961年 | 水溜り | 倍賞千恵子と初共演 |
| 1961年 | 東海一の若親分 | マキノ雅弘監督 |
| 1962年 | あいつばかりが何故もてる | 映画初主演 |
| 1963年 | 拝啓天皇陛下様 | 山田正助役。俳優としての評価を確立 |
| 1964年 | 僕はボディガード | 東宝作品 |
| 1965年 | ブワナ・トシの歌 | アフリカ長期ロケ |
| 1966年 | 沓掛時次郎 遊侠一匹 | 身延の朝吉役(東映) |
| 1967年 | 父子草 | 丸山誠治監督 |
| 1967年 - 1968年 | 喜劇 急行列車/喜劇 団体列車/喜劇・初詣列車 | 東映「列車シリーズ」 |
| 1969年 - 1995年 | 男はつらいよシリーズ(全48作) | 車寅次郎役 |
| 1970年 | 喜劇・男は愛嬌 | 森崎東監督 |
| 1972年 | あゝ声なき友 | 今井正監督。渥美自身が製作に関わった作品 |
| 1974年 | 砂の器 | 映画館の支配人役 |
| 1975年 | 友情 | 宮崎晃監督 |
| 1977年 | 八つ墓村 | 金田一耕助役 |
| 1977年 | 幸福の黄色いハンカチ | 渡辺勝次役 |
| 1986年 | キネマの天地 | 山田洋次監督 |
| 1987年 | 二十四の瞳 | ナレーション |
| 1993年 | 学校 | 八百屋の主人役。寅さん以外では最後の映画出演 |
テレビ[編集]
- 『すいれん夫人とバラ娘』(日本テレビ) - テレビ初出演
- 『夢であいましょう』(NHK、1961年 - 1966年)
- 『若い季節』(NHK)
- 『大番』(フジテレビ、1962年) - ギューちゃん役
- 『男はつらいよ』(フジテレビ、1968年 - 1969年) - 車寅次郎役
- 『田舎刑事 時間よとまれ』(テレビ朝日、1977年) - 「土曜ワイド劇場」の第1回作品。文化庁芸術祭テレビドラマ部門の優秀作品に選ばれた
- 『幾山河は越えたれど 昭和のこころ 古賀政男』(NHK、1979年) - 作曲家・古賀政男役。高い評価を得た
俳人「風天」[編集]
句会に通った寅さん[編集]
晩年の渥美は俳句に打ち込み、「風天(ふうてん)」の俳号で句を詠んだ。もちろん「フーテンの寅」から取った洒落である。特定の結社には属さず、朝日新聞社の週刊誌『アエラ』の句会や、雑誌『話の特集』の句会など、仲間内の「遊俳句会」に顔を出していた。
生前は俳句のことを公に語らなかったため、ファンが知ったのは没後のことである。アエラ句会で詠まれた遺句45句が公表されたのをきっかけに、「寅さんが俳句を?」と話題になった。2008年には森英介の『風天 渥美清のうた』(大空出版)が刊行され、4つの句会の記録から見つかった221句のうち218句が収められた。のちに文藝春秋の文春文庫にも入っている。
代表的な句[編集]
- お遍路が一列に行く虹の中
- 村の子がくれた林檎ひとつ旅いそぐ
- そば食らう歯のない婆や夜の駅
- 初めての煙草覚えし隅田川
- 花冷えや我が内と外に君の居て
「お遍路が一列に行く虹の中」は風天の代表句として最もよく引用される。「村の子がくれた〜」「そば食らう〜」「初めての煙草〜」は山田洋次が選んだ句として紹介されたもの。旅と庶民の暮らしを素朴に切り取った作風は、まさに寅さんの目線そのものだと評される。2026年4月にも秋田魁新報のコラム「北斗星」が「花冷えや我が内と外に君の居て」を取り上げ、寅さんの切ない恋心が表れていると書いている。
人物[編集]
私生活を見せない「寅さん」[編集]
渥美清を語るうえで欠かせないのが、徹底した私生活の秘匿である。「寅さん」のイメージを壊さないため、プライベートをほとんど明かさなかった。長年組んだ山田洋次や、テレビ時代からの付き合いの黒柳徹子でさえ自宅の場所を知らず、山田が初めて渥美の家を訪ねたのは亡くなった後だったという。
芸能人仲間の通夜や葬儀にも原則として出なかった(例外は『男はつらいよ』の撮影監督・高羽哲夫の通夜だけとされる)。共演した柄本明は、渥美について「触られたくないし、触りたくもない」人だったと語っている。本人も「芸人は素性がはっきりしない方がいい」という趣旨の言葉を残しており、「渥美清」と「田所康雄」をきっちり分けて生きた人だった。1969年に結婚したが、家庭について語ることはほとんどなかった。
浅草の芸人の矜持[編集]
黒柳徹子は自叙伝『トットあした』(新潮社)の中で、渥美から聞いた浅草の芸の話を書いている。渥美いわく、客席の観客から家族のことや勤め先を聞き出して、それだけで30分以上も客を引きつけられるのが「腕の立つ」芸人なのだという。黒柳は、その「腕の立つやつ」こそ渥美本人だったと振り返っている。
一方で、フランス座時代のある日、急に客が笑わなくなったことがあったという。原因を探るうちに結核が見つかり、渥美は「健康でないと、客はそれを敏感に察する」と語っていたそうだ。
盟友と、意外なこだわり[編集]
浅草時代からの盟友・関敬六は、渥美が心を開いた数少ない一人である。関には「もし俺が死ぬようなことがあっても、おまえは飛んで来なくていい」と言っていたというエピソードが、没後30年の2026年にデイリー新潮で紹介された。脚本家の早坂暁とは銭湯で知り合って終生の友になり、早坂を「ギョウさん」と呼んで慕った。
大先輩の森繁久彌も心の拠り所だった。森繁は第6作『男はつらいよ 純情篇』に出演しており、長崎・五島列島の福江島を舞台にした2人の丁々発止のやり取りはシリーズ屈指の名場面とされる。また車は持たず、運転もしなかった。浅草仲間の八波むと志を交通事故で亡くしたことが背景にあるといわれる。
2025年 - 2026年の動き[編集]
没後30年の節目[編集]
2026年は渥美清の没後30年にあたり、各地で記念企画が相次いだ。東京・神保町の名画座「神保町シアター」では、3月14日から4月3日まで特集上映「没後30年 俳優・渥美清」を開催。『東海一の若親分』『あいつばかりが何故もてる』『拝啓天皇陛下様』『僕はボディガード』『父子草』『喜劇・男は愛嬌』『あゝ声なき友』『友情』『八つ墓村』に加え、劇場の公式Xで行った人気投票の上位から『寅次郎ハイビスカスの花』『旅と女と寅次郎』『寅次郎サラダ記念日』の3本、計12作品をフィルムで上映した。東宝で主演したラブコメや、渥美が製作に関わった作品など、普段なかなか見られない作品が並んだのが特徴である。
命日の8月前後には雑誌・ネットメディアでも回顧記事が増えた。講談社の「FRIDAYデジタル」は8月15日、フランス座の座長時代から結核による挫折、テレビ版最終回への抗議、山田洋次が社長に直談判した映画化の経緯までをたどる記事を掲載。デイリー新潮は浅草時代からの盟友・関敬六との交流を紹介した。
BSテレ東で全50作を4K放送[編集]
2026年4月4日からは、テレビ東京系のBSテレ東で、毎週土曜18時45分から『男はつらいよ』全50作を4Kデジタル修復版で放送する「土曜は寅さん!4Kでらっくす」が始まった。2月にはシリーズの魅力を多角的に掘り下げるミニ番組『寅さんと50年』のアンコール放送も行われている。2025年5月にも同番組の「寅さんと浪曲」の回が放送され、全作の浪曲化に取り組む浪曲師・玉川太福が浅草を舞台に登場した。
柴又と各地のイベント[編集]
松竹の公式サイトによると、2026年は柴又の「葛飾柴又寅さん記念館」で恋をテーマにした企画展「アイラブユーできるか?展」(2月14日 - 3月22日)や「旅と遊びと寅次郎」(8月31日まで)が開かれた。5月1日には池袋の新文芸坐で『男はつらいよ 柴又慕情』が上映され、山田洋次監督が登壇。6月20日には名古屋市で第50作『お帰り 寅さん』のシネマコンサートも行われた。
第1作の公開日にちなんだ8月27日には、葛飾区のMOVIX亀有で「『男はつらいよ』ファン感謝祭 2026」を開催。第17作『寅次郎夕焼け小焼け』の4Kデジタル修復版を上映し、山田洋次監督、劇団ひとり、三平役の北山雅康がトークを行った。さらに10月31日・11月1日には「寅さんサミット2026」が予定されている。干支デザイン「午年の寅さん」やTシャツ、限定100枚の純金カードなどのグッズ展開も続いている。
2025年の「Go!Go!寅さん」[編集]
2025年は第1作公開から56年目にあたり、松竹は「Go!Go!寅さん」プロジェクトを年末まで展開した。2月には寅さん好きの著名人10人の応援コメントが発表され、宮藤官九郎、錦織一清(少年隊)、出川哲朗、小林幸子、立川志らく、山崎貴、三浦知良らが名を連ねた。宮藤官九郎は第50作をきっかけにシリーズに触れたと明かし、第47作に出演した小林幸子は撮影の思い出を語っている。
2025年10月には黒柳徹子の自叙伝『トットあした』の一部が週刊文春系の文春オンラインに掲載され、浅草の芸人論や療養所時代の話など、渥美の素顔があらためて注目された。同年4月には、ダイヤモンド・オンラインが小泉信一『スターの臨終』(新潮新書)から、渥美が「板橋の職業安定所の脇のドブに頭を突っ込んでいるような死に方をしたい」と語っていたというエピソードを紹介している。
受賞・栄典[編集]
- 1977年:『田舎刑事 時間よとまれ』が文化庁芸術祭テレビドラマ部門 優秀作品
- 1988年:紫綬褒章
- 1996年9月3日:国民栄誉賞(没後。俳優では長谷川一夫に次ぐ2人目)
- 2000年:『キネマ旬報』「20世紀の映画スター」男優編で日本男優9位(読者選出では4位)。「マネーメイキング・スター」日本編では1位
余談[編集]
- 映画『おったまげ人魚物語』(1962年)では、右肺がないため海に飛び込むことができず、渥美のキャリアで唯一ともいわれる代役シーンがあったとされる。
- 女優・新珠三千代の熱烈なファンを公言しており、1969年に結婚した際には「新珠三千代さんごめんなさい」という迷コメントを残した。
- 種田山頭火や尾崎放哉を演じる企画が持ち上がったこともあったが、実現しなかった。山頭火の企画はのちにフランキー堺の主演で作られている。
- 喜劇役者・藤山寛美を高く評価していて、客席から舞台を見ることもあった。寛美は舞台上で「横丁のトラ公」と渥美に触れるアドリブを入れていたという。
- 1991年、浅草の常盤座が閉館する際の関敬六劇団の千秋楽に、予告なしでフィナーレに登場し観客に手を振った。浅草への愛着がうかがえるエピソードである。
- 1965年の『ブワナ・トシの歌』のロケ以来アフリカに惚れ込み、何度も旅行に出かけた。寅さんほどではないにせよ、本人もなかなかの「旅の人」だった。
