| 太田裕美 おおた ひろみ / Hiromi Ohta | |
|---|---|
| 本名 | 福岡弘美(旧姓:太田) |
| 誕生日 | 1955年1月20日 |
| 年齢 | 71歳 |
| 出身地 | 東京都荒川区生まれ、埼玉県春日部市育ち |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 上野学園中学校・上野学園高等学校卒業 |
| ジャンル | 歌謡曲、フォーク、ポップス |
| 活動期間 | 1974年 - |
| デビューアルバム | 1974年 シングル「雨だれ」、1975年 アルバム『まごころ』 |
| 家族 | 夫(音楽ディレクター、1985年結婚) |
| 身長 / 体重 | 154 cm / ― kg |
| 事務所 | 渡辺プロダクション |
| 代表作 | 「木綿のハンカチーフ」「赤いハイヒール」「九月の雨」「しあわせ未満」「最後の一葉」「南風 -SOUTH WIND-」「さらばシベリア鉄道」「君と歩いた青春」 |
| 関連活動 | なごみーず(伊勢正三・大野真澄とのユニット、2004年 - )、ヤング101(1973年 - 1974年) |
| あだ名 | 学園祭の女王、ベスト盤の女王(自称) |
| その他 | 日本レコード大賞新人賞・日本歌謡大賞新人賞(1975年)、NHK紅白歌合戦 5回出場(1976年 - 1980年)、春日部市親善大使 |
| リンク | ソニーミュージック公式 |
概要[編集]
太田裕美(おおた ひろみ、1955年1月20日 - )とは、東京都生まれ、埼玉県春日部市育ちの歌手である。1974年に「雨だれ」でデビューし、松本隆作詞・筒美京平作曲の「木綿のハンカチーフ」で大ブレイクした。ピアノ弾き語りのアイドルとして、歌謡曲とフォークをつないだ存在とされ、松本隆の出世作を歌った人としても知られる。
詳細[編集]
「まごころ弾き語り」でデビュー[編集]
デビュー当時のキャッチフレーズは「まごころ弾き語り」。アイドル的なたたずまいとキュートで舌足らずな歌声に、ピアノの弾き語りというスタイルを組み合わせて売り出された。フォーク寄りの曲調もあいまって、いわゆる「歌謡曲の新人」とは一味違う立ち位置を作った。
この売り出し方には時代背景がある。1973年末に小坂明子の「あなた」が大ヒットし、ピアノを弾きながら歌う女性シンガーへの注目が高まっていた。CBS・ソニーのディレクター白川隆三と宣伝担当の丸山茂雄はこの流れに乗るかたちで、松本隆と筒美京平という新しいコンビに曲を任せた。デビュー曲「雨だれ」は約18万枚を売り、上々のスタートとなった。
「木綿のハンカチーフ」という事件[編集]
太田裕美の名前を一気に全国区にしたのが、1975年12月21日発売の4枚目のシングル「木綿のハンカチーフ」である。もとはアルバム『心が風邪をひいた日』の1曲目として作られた曲で、レコード会社がその完成度にほれ込んでシングルカットが決まった。シングル版は歌詞の一部を変え、ストリングス中心に手直しして録り直されている。
都会へ出た恋人と、故郷に残った女性のすれ違いを、男女の掛け合いで4番まで歌い切る。1人の歌手が男女の台詞を交互に歌い分ける構成は当時の歌謡曲では珍しかった。オリコン週間チャートでは最高2位、累計86.7万枚(オリコン集計)を記録。1位を逃したのは、直後に「およげ!たいやきくん」という怪物シングルが現れたためで、太田にとっては「時期が悪かった」2位ともいえる。
松本隆・筒美京平コンビの「看板歌手」[編集]
「木綿のハンカチーフ」は作詞家・松本隆にとっての出世作でもある。元はっぴいえんどのドラマーだった松本が、ロックの世界から職業作詞家へ本格的に転じる転換点となった。以後しばらく、太田のシングルのほとんどは松本隆作詞、筒美京平作曲、萩田光雄編曲という同じ布陣で作られた。
1976年の「赤いハイヒール」は、「木綿のハンカチーフ」とは逆に、上京した女性と故郷の恋人を描いた「続編」的な曲で、こちらもオリコン最高2位、48.7万枚のヒットになった。1977年の「九月の雨」はのちにシティポップの原型とも評されるアルバム『こけてぃっしゅ』に収録され、今も人気が高い。松本はのちに松田聖子の作品群で日本を代表する作詞家になるが、その原点の一つが太田裕美の作品群だった。
「学園祭の女王」から再評価の時代へ[編集]
1970年代後半の太田はテレビの歌番組だけでなく、全国の大学祭に引っ張りだこで「学園祭の女王」と呼ばれた。NHK紅白歌合戦には1976年から1980年まで5年連続で出場している。1980年代に入ると、ニューヨーク留学や結婚を経て活動はゆるやかになったが、1990年代末から本格的に再始動した。
2004年からは伊勢正三・大野真澄と組んだユニット「なごみーず」で全国を回り、2017年にはNHK連続テレビ小説『ひよっこ』の劇中歌を担当して話題になった。同年、テレビ番組『名盤ドキュメント』で『心が風邪をひいた日』が取り上げられたのをきっかけにアナログ盤が復刻され、若い世代にも「木綿のハンカチーフ」の歌い手として改めて知られるようになった。
経歴[編集]
生い立ち[編集]
1955年1月20日、東京都荒川区に生まれる。両親はともに愛知県名古屋市の出身で、父は工場と寿司店を営んでいた。3歳のときに埼玉県春日部市へ移り、同市で育った。のちに春日部市の親善大使を務めるなど、地元との縁は今も深い。
小学校ではコーラス部に入り、8歳でピアノを始めた。同じころから曲作りも始めていたという。1967年に上野学園中学校の声楽科へ進み、上野学園高等学校を卒業した。クラシックの基礎を学んだことが、のちの弾き語りスタイルの土台になっている。
スクールメイツとヤング101[編集]
1969年、中学3年生のときに友人の代わりに受けたスクールメイツのオーディションに合格した。動機は「ザ・タイガースのジュリー(沢田研二)に会えるかもしれないから」だったと語られている。渡辺プロダクション系の東京音楽学院に入り、同期には後にキャンディーズとなる伊藤蘭や田中好子がいた。
1973年1月から1974年3月までは、NHK『ステージ101』のレギュラーグループ「ヤング101」のメンバーとして出演した。ここでの同期にはシンガーソングライターの谷山浩子がいる。1973年12月にはNET(現在のテレビ朝日)のオーディション番組で優勝し、渡辺プロダクションと新人養成契約を結んだ。ライブハウス「メイツ」でピアノ弾き語りを始めたのもこの時期である。
1974年 - 1976年:デビューと大ブレイク[編集]
1974年11月1日、シングル「雨だれ/白い季節」でCBS・ソニーからデビュー。宣伝担当の丸山茂雄は太田を原宿のパブ「ペニーレイン」に連れて行き、吉田拓郎らフォークシンガーに引き合わせた。こうした地道な紹介が、アイドルファンだけでなくフォークファンにも支持を広げる下地になった。
1975年には日本レコード大賞新人賞と日本歌謡大賞新人賞を受賞。同年12月の「木綿のハンカチーフ」が大ヒットし、1976年の「赤いハイヒール」「最後の一葉」も続けて上位に入った。1976年の第27回NHK紅白歌合戦に初出場し、「木綿のハンカチーフ」を披露している。このときは放送時間の都合でテンポを上げ、1・3・4番だけを歌った。
1977年 - 1981年:紅白5年連続と作風の広がり[編集]
1977年は「しあわせ未満」「恋愛遊戯」「九月の雨」とヒットが続いた。1978年のアルバム『海が泣いている』はロサンゼルス録音で、松本・筒美コンビが全曲を手がけたアルバムとしてはこれが最後になった。紅白には「九月の雨」「ドール」「南風」などで1980年まで5年連続出場した。
1980年発売の「南風 -SOUTH WIND-」はキリンビール「キリンオレンジエード」のCMソングに起用された。同年11月21日には大瀧詠一作曲の「さらばシベリア鉄道」を発売。翌1981年には伊勢正三が作詞・作曲した「君と歩いた青春」をシングル化している。のちにユニットを組む伊勢との縁は、このころから続いていたことになる。
1982年 - 1985年:ニューヨーク留学と結婚[編集]
1982年、音楽活動をいったん休んで約8か月間ニューヨークに留学した。帰国後には留学記『ニューヨークなんて怖くない』(1983年)を出版し、同年のエッセイ「八番街西五十一丁目より」は第4回ニッポン放送青春文芸賞の優秀賞を受けている。
1983年以降は担当ディレクターが福岡智彦に替わり、アルバム『Far East』『I do, You do』『TAMATEBAKO』などでテクノポップ寄りのサウンドにも挑戦した。1984年1月20日の誕生日に福岡との交際を公表し、同年8月に婚約を発表。1985年1月26日に結婚した。仲人は、TBSの番組『キンキン・ひろみのシャボン玉こんにちは』で一緒に司会を務めた愛川欽也・うつみ宮土理夫妻である。
1990年代:童謡と本格再始動[編集]
結婚後は家庭を優先し、表立った活動は控えめになった。それでも1992年には童謡アルバム『どんじゃらほい』を発表し、CMソングやナレーションの仕事は続けていた。1994年から2012年までダイエーのCMソングを担当するなど、声の仕事を通じて耳にする機会は多かった。
1996年に音楽活動を本格的に再開し、同年4月からライブ活動を始めた。1998年のミニアルバム『魂のピリオド』では約20年ぶりに松本隆・筒美京平コンビの新曲を歌い、1999年のミニアルバム『CANDY』は松本の作詞家生活30周年を記念したトリビュート作品になった。同年には25周年記念のCD6枚組ボックス『First Quarter』も発売されている。
2000年代:なごみーずと22年ぶりのフルアルバム[編集]
2004年10月、静岡県富士市での伊勢正三とのジョイントコンサートが、のちの「なごみーず」の出発点になった。同年11月の島根県での公演から大野真澄が加わり、3人組のユニットとして全国ツアー「アコースティックナイト」を重ねていく(詳しくは後述)。
同じ2004年にはAYUOと組んだアルバム『RED MOON』を、ニューヨークのジョン・ゾーンのレーベルから発表している。2006年11月22日には、若手ミュージシャンの提供曲を中心にした22年ぶりのオリジナル・フルアルバム『始まりは"まごころ"だった。』を発表した。2001年にはNHK『みんなのうた』で「パパとあなたの影ぼうし」を歌っている。
2010年代:『ひよっこ』と45周年[編集]
2010年には松本隆の作詞家生活40周年記念コンサートに出演。2011年の東日本大震災後には復興支援のチャリティソング「ひとりじゃないの」を配信した。2014年にはデビュー40周年を記念したライブ「音楽と歩いた青春」がテレビで放送され、アルバム『tutumikko』も発表している。
2015年からは庄野真代、渡辺真知子とともにN響団友オーケストラと共演する「オーケストラで歌う青春ポップスコンサート」をスタート。2017年には『ひよっこ』の劇中歌「恋のうた」を歌った。2017年4月にはソニーからオリジナル・アルバム23タイトルの配信が一斉に始まり、「木綿のハンカチーフ」は2020年10月に日本レコード協会のゴールド認定(ダウンロード)を受けている。2019年にはデビュー45周年記念のアナログ盤シングル「ステキのキセキ/桜月夜」と、フルアルバム『ヒロミ☆デラックス』を発表した。
2019年 - 2023年:病気の公表とステージの継続[編集]
2019年には乳がんの治療中であることを公表した。ただしその後もステージには立ち続け、2020年代前半も精力的に活動した。2021年には2020年に亡くなった筒美京平をしのぶ「筒美京平 大感謝祭」と題したソロ公演を東京で開き、同年4月の公式トリビュート公演「筒美京平の世界 in コンサート」にも出演している。
2022年以降はフォーク界の盟友イルカとの「イルカ&太田裕美 ラブリー♡コンサート」を全国で開催。毎年恒例のソロ公演も、2022年の「雨女の挑戦」、2023年の「takashikko 秋冬編」などのタイトルで東京・京都で行った。
2024年:入院と50周年の延期[編集]
2024年に入っても1月には「歌園迎賓館」(庄野真代とのオーケストラ公演)、2月から3月にはイルカとのコンサートに出演していた。しかし同年4月17日、体調を崩して入院加療が必要になったとして、6月1日に予定していた「太田裕美コンサート2024 〜初めてのオールリクエスト大会〜」(EX THEATER ROPPONGI)などへの出演見合わせが発表された。
4月30日には本人のメッセージが公式サイトに掲載され、脳の病気の治療を受けて快方に向かっていること、その年いっぱいは治療と静養に専念することを報告した。11月1日に迎えるデビュー50周年の記念活動は翌年以降に延期するとした。あわせて、SNSで広まっていた「コロナワクチンのせいでがんになった」という投稿について、ワクチンは一度も接種しておらず、新型コロナにかかったこともないと説明し、事実と異なる情報の拡散をやめるよう求めている。
2025年 - 2026年:療養を続けながら[編集]
デビュー記念日の2024年11月1日には、本人のX(旧Twitter)で「本来なら周年コンサートの予定でしたが療養中の為来年以降です」と報告し、治療を続けながら「希望を胸に生きてます」とつづった。2025年1月20日には古希(70歳)を迎えたことを報告し、「頑張って生きてます」と投稿したことが報じられた。
2025年10月末、デビュー51周年を前にしたファンからの祝福に対しても、体調は大きく変わらないとしつつ「生きてるからね 待っててね」と返している。2026年10月時点では、ソロ公演やなごみーずとしてのステージ復帰の公式発表は確認できていない。50周年記念コンサートは「いつか必ず」の形でファンが待ち続けている状態である。
主なシングル[編集]
デビューから1981年までのシングルは以下のとおり。13枚目「振り向けばイエスタディ」までは、ほとんどが松本隆作詞・筒美京平作曲・萩田光雄編曲で制作されている。最高位はオリコン週間チャート(主な資料による)。
| 枚数 | 発売年 | タイトル | 最高位 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 1974年 | 雨だれ | 14位 | デビュー曲。11月1日発売、約18万枚 |
| 2 | 1975年 | たんぽぽ | 33位 | |
| 3 | 1975年 | 夕焼け | 37位 | |
| 4 | 1975年 | 木綿のハンカチーフ | 2位 | 12月21日発売。86.7万枚、第27回紅白歌唱曲 |
| 5 | 1976年 | 赤いハイヒール | 2位 | 6月1日発売。48.7万枚 |
| 6 | 1976年 | 最後の一葉 | 5位 | 30.6万枚 |
| 7 | 1977年 | しあわせ未満 | 4位 | 31.0万枚 |
| 8 | 1977年 | 恋愛遊戯 | 13位 | |
| 9 | 1977年 | 九月の雨 | 7位 | 35.6万枚、同年の紅白で歌唱 |
| 10 | 1977年 | 恋人たちの100の偽り | 27位 | |
| 11 | 1978年 | 失恋魔術師 | 22位 | |
| 12 | 1978年 | ドール | 21位 | 第29回紅白歌唱曲 |
| 13 | 1978年 | 振り向けばイエスタディ | 51位 | |
| 14 | 1979年 | 青空の翳り | 56位 | |
| 15 | 1979年 | シングル・ガール | 53位 | |
| 16 | 1979年 | ガラスの世代 | 72位 | |
| 17 | 1980年 | 南風 -SOUTH WIND- | 22位 | キリンオレンジエードCMソング、紅白歌唱曲 |
| 18 | 1980年 | 黄昏海岸 | 76位 | |
| 19 | 1980年 | さらばシベリア鉄道 | 70位 | 11月21日発売。作曲:大瀧詠一 |
| 20 | 1981年 | 恋のハーフムーン | 81位 | |
| 21 | 1981年 | 君と歩いた青春 | 80位 | 作詞・作曲:伊勢正三 |
1983年以降も「満月の夜 君んちへ行ったよ」(1983年)などのシングルを出しているが、チャートの上位からは離れた。後年の主な作品には、NHK『みんなのうた』の「パパとあなたの影ぼうし」(2001年)、復興支援の配信曲「ひとりじゃないの」(2011年)、45周年記念の7インチ盤「ステキのキセキ/桜月夜」(2019年)がある。
主なアルバム[編集]
オリジナル・アルバム[編集]
| 発売日 | タイトル | 備考 |
|---|---|---|
| 1975年2月1日 | まごころ | デビューアルバム。四季をテーマにした作品 |
| 1975年6月21日 | 短編集 | |
| 1975年12月5日 | 心が風邪をひいた日 | 「木綿のハンカチーフ」オリジナル版収録。自身最大のセールス |
| 1976年6月21日 | 手作りの画集 | 「赤いハイヒール」収録 |
| 1976年12月5日 | 12ページの詩集 | |
| 1977年7月1日 | こけてぃっしゅ | 松本・筒美が全曲を手がけた初のアルバム。「九月の雨」収録 |
| 1978年2月25日 | 背中あわせのランデブー | |
| 1978年8月1日 | ELEGANCE | |
| 1978年12月5日 | 海が泣いている | ロサンゼルス録音。松本・筒美コンビ最後のアルバム |
| 1979年6月1日 | Feelin' Summer | 「星がたり」収録 |
| 1979年12月5日 | Little Concert | |
| 1980年7月1日 | 思い出を置く 君を置く | |
| 1980年12月21日 | 十二月の旅人 | |
| 1981年8月1日 | ごきげんいかが | |
| 1981年12月21日 | 君と歩いた青春 | |
| 1983年3月21日 | Far East | ニューヨーク留学後の復帰作 |
| 1983年10月1日 | I do, You do | |
| 1984年6月21日 | TAMATEBAKO | テクノポップ路線 |
| 1998年7月1日 | 魂のピリオド | ミニアルバム。約20年ぶりの松本・筒美作品 |
| 1999年4月21日 | 神様のいたずら | ミニアルバム |
| 1999年11月3日 | CANDY | ミニアルバム。松本隆作詞家30周年記念 |
| 2006年11月22日 | 始まりは"まごころ"だった。 | 22年ぶりのオリジナル・フルアルバム |
| 2014年 | tutumikko | 40周年 |
| 2019年11月 | ヒロミ☆デラックス | 45周年記念フルアルバム |
このほか、1985年のライブ盤『Hiromic World / First Live Album』、1992年の童謡アルバム『どんじゃらほい』、2004年のAYUOとの共作『RED MOON』などがある。ベスト盤の数が非常に多く、本人も「ベスト盤の女王」を自称している。
木綿のハンカチーフ[編集]
「詞が長すぎる」問題[編集]
「木綿のハンカチーフ」の歌詞は、当時のシングル曲としてはかなり長い。筒美京平は松本隆の詞を見て「長すぎる」と感じ、短くするよう連絡しようとした。ところが松本も、担当ディレクターの白川隆三もまったくつかまらない。
実は松本は、筒美から「曲が付けにくい」と電話が来ることを見越して、締め切り当日まで連絡がつかない場所に身を隠していたとされる。結局、筒美は詞をそのまま使って作曲するしかなくなったが、作業は順調に進み、本人も自信を持って曲を提出したという。名曲誕生の裏には、作詞家の「逃げ切り」作戦があったわけである。
歌詞のモデルと盗作論争[編集]
松本は歌詞の背景として、白川の出身地である福岡県田川市で炭鉱が閉山し、人々が都会へ出ていった話を参考にしたと語っている。白川に「地方の人にはうけない」と指摘されたこともあり、白川自身をモデルの一人にしたとも述べている。「木綿」という古風な言葉をあえて選んだことも、ヒットの要因に挙げている。
一方で、男女の対話で展開する構成がボブ・ディランの「スペイン革のブーツ」(1964年)に似ているという指摘もあり、評論家の伊藤強らから批判を受けた。松本は影響を受けたこと自体は認めつつ、「影響とパクリは違う」と反論している。
本人の複雑な思い[編集]
太田本人は、長いあいだ「木綿のハンカチーフ」のイメージに複雑な思いを抱いていたとされる。何をしても「木綿の人」と言われ続けることへの葛藤があった。しかし1990年代の活動再開後、ファンがこの曲にどれだけ強い思い入れを持っているかを知り、考えが変わったという。
音楽評論家の平山雄一は、耐える女性を描いた歌詞と、「言いたいことをはっきり言う」太田の性格とのギャップが、かえって客観的な歌唱を生んだと分析している。旅立ちの場面でファルセットを使うなど、太田の声を生かすメロディの工夫も指摘されている。
世代を超えるカバー[編集]
カバーの数は膨大で、1970年代のチェリッシュや石川ひとみから、桑田佳祐(1997年のライブ)、椎名林檎(2002年)、綾瀬はるか(2010年)、宮本浩次(2020年)、上白石萌音(2021年)まで幅広い。山形弁に訳した朝倉さや版(2014年)のような変わり種もある。発売から半世紀たった今も、新しい歌い手が次々に取り上げる「歌い継がれる曲」になっている。
なごみーず[編集]
結成のいきさつ[編集]
「なごみーず」は、太田裕美・伊勢正三・大野真澄の3人によるアコースティック・ユニットである。伊勢はかぐや姫や風で「22才の別れ」「なごり雪」などを書いたシンガーソングライター、大野はガロのメンバーとして「学生街の喫茶店」で知られる。いずれも1970年代のフォーク・ブームを代表する顔ぶれである。
始まりは2004年10月22日、静岡県富士市で行われた伊勢と太田のジョイントコンサートだった。同年11月19日の島根県での公演から大野が加わり、計画的というよりも自然発生的に3人組になった。
名付け親は太田[編集]
当初はユニット名がなく、3人の名前を並べて表記していた。あるステージで太田がその場で「なごみーず」と命名し、そのまま定着した。ほかの候補には「ピンク唐揚げ」「喜び組」もあったとされる。3人の「なごやかさ」がそのまま名前になった格好である。
コンサートは「アコースティックナイト」と題して全国で行われ、2007年12月2日には100回記念のライブ・アルバム『アコースティックナイト』を会場・通販限定で発売。2010年5月に150回を数え、その後も200回を超える公演を重ねている。3人の共作「僕らはちっぽけな夢をほどきながら」のほか、それぞれの代表曲を互いに歌い合うのが名物である。2024年以降は太田の療養により、3人そろってのステージは途絶えている。
出演番組・CM[編集]
テレビ・ラジオ[編集]
- 『ステージ101』(NHK総合、1973年 - 1974年、ヤング101のメンバー)
- 『ぎんざNOW!』(TBS、1975年 - 1976年、水曜レギュラー)
- 『キンキン・ひろみのシャボン玉こんにちは』(TBS、1979年 - 1981年、愛川欽也と司会)
- 『課外授業 ようこそ先輩』(NHK総合、2008年、ナレーター)
- 『太田裕美40周年ライブ 音楽と歩いた青春』(BSジャパン、2014年)
- 『ヤングタウン東京』(TBSラジオ、1975年 - 1979年)
- 『太田裕美の公園通り一丁目』(ローカル各局、1978年 - 1981年)
- 『ミュージックプラザ』(NHK-FM、2005年 - 2008年)
主なCM[編集]
- 味の素「赤いシャポーの味の素」(1976年 - )
- キリンビール「キリンオレンジエード」(1980年、「南風」)
- JR東海 高山本線キャンペーンソング「メタモルフォーゼください」(1990年)
- ダイエーCMソング(1994年 - 2012年)
- サントリー「白い金麦」CMソング(2012年)
人物・エピソード[編集]
「架け橋」としての自己認識[編集]
2006年のインタビューで、太田は自分を「アイドル歌謡曲とフォークシンガーの架け橋的存在」と表現している。デビュー時に吉田拓郎らフォーク勢に紹介され、伊勢正三や大瀧詠一から曲を提供され、晩年はフォーク仲間とユニットを組む。1970年代の太田のキャリアは、まさにその言葉どおりの軌跡をたどっている。
1976年当時のインタビューでは「人気歌手という言い方は好きではない」と語っており、アイドル扱いされながらもアーティスト志向が強かったことがうかがえる。アルバムには自作曲も収めており、同時代の岩崎宏美や山口百恵らと並ぶ人気を得ながら、作り手としての顔も持っていた。
「さらばシベリア鉄道」の誕生秘話[編集]
「さらばシベリア鉄道」は、もともと大瀧詠一が自身のアルバム『A LONG VACATION』用に作っていた曲である。録音を進めるうちに、大瀧は女言葉で歌う部分に違和感を覚えた。そこで、男言葉と女言葉が交互に出てくる構成が同じ松本隆作詞の「木綿のハンカチーフ」とそっくりだと気づき、担当ディレクターも同じ白川隆三だった縁で太田に提供することにしたという。
太田版は1980年11月に発売され、オリコン最高70位。翌1981年3月に大瀧自身の版を収めた『A LONG VACATION』が発売されて大ロングセラーになり、曲そのものの知名度も一気に上がった。大瀧にとっては、作曲家として初めて100位以内に入った曲でもある。
性格・暮らし[編集]
性格は男っぽくさっぱりしているといわれる。「酒豪」という噂については、みんなで飲む楽しい雰囲気が好きなだけで、大酒は飲まないと否定している。
2010年には自宅に太陽光発電のパネルを取り付け、その設備を「太田裕美発電所」と名付けて自ら「所長」に就任した。犬好きとしても知られ、柴犬の「小太郎」(2011年 - 2016年)、保護犬の「十兵衛」(2018年 - )を飼っている。
書く人としての太田裕美[編集]
作詞・作曲は少女時代からの趣味で、アルバムには自作曲も多い。作曲時に「大福敏太」、作詞時に「山元みき子」といった別名義を使っていたこともあるとされる。2020年には庄野真代のアルバム『66』に作詞で参加した。
文章の仕事も多く、『まごころ』(1976年)、『まごころパート2 背中あわせのランデブー』(1978年)、『ニューヨークなんて怖くない』(1983年)、『太田裕美白書』(2000年)などの著書がある。
受賞歴[編集]
- 1975年 - 第17回日本レコード大賞 新人賞
- 1975年 - 日本歌謡大賞 新人賞
- 1976年 - 1980年 - NHK紅白歌合戦 5年連続出場
- 1982年 - 第4回ニッポン放送青春文芸賞 優秀賞(「八番街西五十一丁目より」)
- 2020年 - 「木綿のハンカチーフ」が日本レコード協会ゴールド認定(ダウンロード)
炎上とバズ[編集]
ワクチン・デマへの反論[編集]
2024年4月に入院が公表されると、SNS上では「コロナワクチンのせいでがんになった」といった投稿が広がった。これに対し太田は4月30日のメッセージで、ワクチンは一度も接種しておらず、新型コロナにも感染したことがないと明言。事実と異なる情報が拡散されることを悲しんでいるとして、投稿をやめるよう呼びかけた。この反論はスポーツ紙などでも報じられた。
「復帰してほしい歌手」ランキング[編集]
活動休止の発表後、週刊誌の「現役復帰してほしい歌手」ランキングで河合奈保子と並んで6位に入ったと報じられた。特に50〜60代男性からの支持が厚く、「『木綿のハンカチーフ』は歴代歌謡曲のナンバーワン」という声も紹介された。休養中もXの短い投稿がそのたびにニュースになっており、根強い人気を示している。
余談[編集]
- スクールメイツのオーディションを受けた動機は「ジュリーに会えるかもしれないから」で、しかも本来は友人の付き添いだったとされる。
- 東京音楽学院の同期にはキャンディーズの伊藤蘭・田中好子がいた。
- 「木綿のハンカチーフ」を作曲する際、筒美京平から文句が来ないよう松本隆が締め切り当日まで雲隠れしていたという逸話がある。
- 「木綿のハンカチーフ」の作詞の参考になった話は、ディレクター白川隆三の故郷・福岡県田川市の炭鉱閉山にまつわるものだった。
- 1976年の紅白では時間が足りず、「木綿のハンカチーフ」をテンポアップしたうえで2番を飛ばして歌った。
- 『みんなのうた』の「パパとあなたの影ぼうし」で、子どもの頃に太田の声を聴いていた世代もいる。
- 漫画『星の瞳のシルエット』のテーマ曲として「星がたり」が使われたことがある。
- なごみーずの名前の候補には「ピンク唐揚げ」もあったとされる。
- 自宅の太陽光発電を「太田裕美発電所」と命名し、「所長」を名乗った。