「斎藤義重」の版間の差分

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2026年7月2日 (木) 18:57時点における版

斎藤 義重
Saitō Yoshishige
ファイル:斎藤義重.jpg
誕生日 1904年5月4日
死亡日 2001年6月13日
死亡年齢 97歳
出身地 青森県
国籍 日本
居住地 神奈川県横浜市
職業 現代美術家
肩書 多摩美術大学教授
活動期間 1950年代 - 2001年
代表的な実績 戦後現代美術、「もの派」への影響


概要

斎藤義重(さいとう よししげ、1904年5月4日 - 2001年6月13日)は、青森県弘前出身の現代美術家。絵画と彫刻の垣根を超えた表現を追い求め、戦後日本の現代美術を代表する作品を数多く残した。多摩美術大学の教授として関根伸夫菅木志雄ら「もの派」の作家を育てた「もの派の師」としても知られる。97歳まで生き、最晩年まで新作を作り続けた、文字どおり生涯現役の前衛だった。

油彩から「複合体」へ

陸軍軍人の家に生まれ、転居を重ねながら東京で育つ。少年期からセザンヌやゴッホに憧れて油彩を描き、独学に近い形で前衛美術へ進んだ。ダダや構成主義の影響を受け、戦前から板にドリルで穴を穿ったり傷をつけたりする実験的な作品を制作。戦後の1958年に東京画廊で開いた個展で本格的に注目され、ベニヤ板を組み合わせてレリーフ状の物質感を立ち上げる「複合体(コンプレックス)」シリーズで独自の世界を確立した。素材そのものの存在感を見せる姿勢は、のちの「もの派」を先取りするものだった。

もの派の師として

1964年に多摩美術大学教授に就任。その「斎藤義重教室」からは、関根伸夫・吉田克朗・成田克彦・小清水漸・菅木志雄といった、のちに「もの派」と呼ばれる作家たちが続々と巣立った。彫刻家の宮脇愛子も指導を受けたひとり。多摩美のほとんどの学生が斎藤教室を選んだといわれ、関根伸夫は受験に失敗して入った多摩美で斎藤と出会い、作風を根本から覆されたと振り返っている。1968年の関根伸夫《位相—大地》に始まる「もの派」のうねりは、この教室の土壌から生まれたといってよい。

晩年まで現役

1960年代以降はパリ、ミラノ、ニューヨークなど海外でも個展を開き、国際的に評価された。後年は板を蝶番でつなぎ、空間に向かって展開する立体的な作品へと進化。色は黒や朱に絞られ、ますます禁欲的で力強い造形になっていった。横浜の丘の上のアトリエにこもり、訪れる人にサインや落書きを外壁に残させたという逸話も残る。97歳で世を去るまで、現代美術の最前線に立ち続けた。

余談

  • アトリエの外壁は、訪れた美術家たちの落書きで埋め尽くされていたという。前衛のサロンのような場だった。
  • 「絵画か彫刻か」という問いそのものを無効にしたのが斎藤の仕事で、ジャンルの分類を嫌った。
  • 映画好きで、若い頃はチャップリンよりバスター・キートン派だったらしい。

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