| 中西 夏之 Nakanishi Natsuyuki | |
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| ファイル:中西夏之.jpg | |
| 誕生日 | 1935年7月14日 |
| 死亡日 | 2016年10月23日 |
| 死亡年齢 | 81歳 |
| 出身地 | 東京市品川区 |
| 国籍 | 日本 |
| 学歴 | 東京藝術大学絵画科(油画) |
| 職業 | 前衛美術家、現代美術家、画家 |
| 肩書 | ハイレッド・センター メンバー、東京藝術大学名誉教授 |
| 活動期間 | 1950年代 - 2016年 |
| 代表的な実績 | ハイレッド・センター、コンパクト・オブジェ、舞台美術 |
概要[編集]
中西夏之(なかにし なつゆき、1935年7月14日 - 2016年10月23日)は、日本の前衛美術家・現代美術家・画家。伝説の前衛集団「ハイレッド・センター」のメンバーとして戦後アートに名を刻み、後年は静謐な抽象絵画へと向かった、振れ幅の大きな作家である。
「ハイレッド・センター」は高(高松次郎)・赤(赤瀬川原平)・中(中西)の頭文字をとった名前。中西はその「中」を担い、銀座の街頭で都市そのものを舞台にした過激なハプニングを繰り広げた。一方で土方巽の暗黒舞踏の舞台美術を手がけ、晩年は白い筆触と紫の色面による絵画を探求するなど、生涯にわたって「見ること」の根源を問い続けた。
山手線を舞台にした青年[編集]
東京・大井町に生まれ、東京藝術大学の絵画科(油画)を卒業。藝大時代の同窓には高松次郎や工藤哲巳がいた。1962年、高松次郎・川仁宏らと山手線のホームや車内で卵型のオブジェを用いたハプニング「山手線事件」を決行。翌1963年の読売アンデパンダン展には、洗濯バサミをびっしりと付けた代表作《洗濯バサミは攪拌行動を主張する》を出品した。日常のなかに突如あらわれる違和感——それが中西の出発点だった。
ハイレッド・センター[編集]
1963年、中西は高松次郎・赤瀬川原平とともに「ハイレッド・センター」を結成。銀座の街頭を白衣で清掃する《首都圏清掃整理促進運動》など、日常に懐疑を突きつける数々のイベントを実践した。美術館やギャラリーの外へ飛び出し、都市と社会そのものをアートの場にしてしまうこの活動は、戦後日本前衛のもっとも刺激的な瞬間のひとつとして語り継がれている。
中西はまた、透明なアクリル樹脂のなかに時計や卵などの日用品を封じ込めた「コンパクト・オブジェ」でも知られ、物質と知覚をめぐる独自の探求を見せた。
舞踏とのコラボレーション[編集]
1960年代から、中西は舞踏家土方巽と深く交流する。瀧口修造や澁澤龍彦、シュルレアリスム系の画家・詩人たちと親交を結びながら、1965年の暗黒舞踏派公演『バラ色ダンス〜澁澤さんの家の方へ』、1968年の『土方巽と日本人—肉体の叛乱』で主要な舞台美術・装置を担当した。前衛美術と暗黒舞踏が交差する、まさに戦後アングラ文化の現場に中西はいた。
絵画への回帰[編集]
1960年代後半から、中西はふたたび絵画へと向かう。《山頂の石蹴り》、弧線をモティーフにした《弓形が触れて》などをへて、1980年代以降は白い筆触の集積と紫の色面による独自の抽象世界を確立した。1996年から東京藝術大学教授を務め、後進を育てた。前衛のハプニングから静謐な絵画まで、その歩みは「絵画とは何か、見るとは何か」をめぐる一貫した問いだった。
余談[編集]
- 「ハイレッド・センター」のネーミングはメンバー3人の名字の頭文字(高・赤・中)の英訳——シャレのきいた命名は赤瀬川原平らしさが効いている。
- 美術家の養成機関「美学校」の設立にも奔走した教育者の顔も持つ。
- もの派の菅木志雄・李禹煥や、前衛の岡本太郎らとともに、戦後日本美術のうねりを語るうえで欠かせない存在である。
関連項目[編集]
- 高松次郎 / 赤瀬川原平 - ハイレッド・センターの盟友。
- 土方巽 / 澁澤龍彦 - 舞台美術で協働したアングラ文化人。
- 李禹煥 / 菅木志雄 / 関根伸夫 - もの派の作家たち。
- 岡本太郎 - 戦後前衛芸術のレジェンド。
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