瀧口修造

瀧口 修造
Takiguchi Shūzō
ファイル:瀧口修造.jpg
誕生日 1903年12月7日
死亡日 1979年7月1日
死亡年齢 75歳
出身地 富山県
国籍 日本
居住地 東京都
学歴 慶應義塾大学文学部
職業 美術評論家、詩人、画家
活動期間 1920年代 - 1979年
代表的な実績 日本のシュルレアリスムの理論的支柱、実験工房


概要[編集]

瀧口修造(たきぐち しゅうぞう、1903年12月7日 - 1979年7月1日)は、戦前・戦後の日本美術を陰で動かしつづけた美術評論家・詩人・画家。日本における正統シュルレアリスムの理論的支柱であり、若い前衛芸術家たちの「精神的な父」のような存在だった。武満徹らの「実験工房」を主催し、草間彌生や河原温ら後の大物を世に送り出した目利きとしても知られる。自らはほとんど大きな個展を開かず、ことばと友情で前衛を支えた、稀有な裏方の巨人である。

シュルレアリスムへ[編集]

富山の医家に生まれ、家業を継ぐはずだったが学校嫌いの文学青年に育つ。慶應義塾大学では講義よりウィリアム・ブレイクを原書で読むことに熱中した。詩人・英文学者の西脇順三郎に学び、その自宅でダダやシュルレアリスムに触れ、ランボーやアンドレ・ブルトンに夢中になる。1927年、西脇を中心とするシュルレアリスム詩のアンソロジー刊行に加わり、自身も詩を発表。ブルトンの『超現実主義と絵画』を翻訳するなど、海外の最新の芸術運動を日本へ紹介する旗手となった。

弾圧と戦後の再起[編集]

シュルレアリスム運動の中心人物だったため、1941年には治安維持法の名のもとに検挙され、半年あまり拘束される(翌年1月釈放)。この弾圧で戦前のシュルレアリスム運動は終息に追い込まれ、1945年の空襲では戦前の原稿や文献をすべて焼失してしまった。それでも戦後は評論家として旺盛に再起。マルセル・デュシャンやアンドレ・ブルトンら海外の作家とも親交を結び、日本の前衛美術の理論的な背骨であり続けた。

実験工房とタケミヤ画廊[編集]

1951年、瀧口は武満徹ら若い芸術家たちと総合芸術グループ「実験工房」を主導し、音楽・美術・詩の垣根を越えた前衛活動を後押しした。同じ頃から神田駿河台のタケミヤ画廊で企画展を次々に開催。会場使用料を無料にして若手に発表の場を与え、草間彌生・河原温・池田満寿夫・加納光於ら、のちの大物たちがここから巣立った。約6年で201回という企画展の数が、その面倒見のよさを物語っている。読売アンデパンダン展の運営にも関わり、1950〜60年代の前衛芸術家の卵たちから絶大な信頼を集めた。

余談[編集]

  • デュシャンを敬愛し、「ローズ・セラヴィ」をもじった言葉遊びや、オブジェ・詩・デカルコマニーなど、評論の枠におさまらない表現も多く残した。
  • 自分の名を冠した賞を望まなかったが、没後にその精神を継ぐ展覧会や研究が続いている。
  • 「みづうみ」「妖精の距離」など、繊細な詩語の人でもあった。前衛の理論家にして、根は生粋の詩人だった。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]