幸野楳嶺

幸野楳嶺
Kōno Bairei
本名 安田鼎
誕生日 1844年
出身地 京都
国籍 日本
職業 日本画家
肩書 京都府画学校設立者
代表的な実績 近代京都画壇の確立、楳嶺四天王の育成
別名 鶯夢


概要[編集]

幸野楳嶺(こうの ばいれい、1844年 - 1895年)は、幕末から明治にかけて活躍した京都の日本画家。円山・四条派の写生の伝統を受け継ぎつつ、日本で最初の近代的な美術教育機関である京都府画学校の設立に深く関わり、近代京都画壇の開拓者と呼ばれる超重要人物である。なにより竹内栖鳳をはじめとする「楳嶺四天王」を育て上げ、その後の京都画壇のかたちを決定づけたことで知られるらしい。

師系[編集]

京都に生まれた楳嶺は、まず幕末円山派の中島来章に学び、次いで四条派の塩川文麟に師事した。つまり円山派と四条派の両系統を受け継いだわけで、円山応挙に始まり呉春松村景文岡本豊彦横山清暉へと連なる京都写生画の流れを一身に集約した存在だった。この出自が、のちの楳嶺の幅広い指導につながっていく。

京都画壇の近代化[編集]

楳嶺の最大の功績は、絵を描くこと以上に「教育」と「組織づくり」にあったといってよい。1880年(明治13年)には京都府画学校(のちの京都市立絵画専門学校、現・京都市立芸術大学の源流)の設立に尽力し、さらに京都青年絵画研究会や京都美術協会を組織して、後進の育成と画壇の近代化に身を捧げた。旧来の徒弟制度に西洋的な合理性を持ち込み、参考図書を充実させるなど、その指導は「師匠の筆のかすれまで真似させる」と評される厳しさと、開明的な姿勢を併せ持っていたという。

楳嶺四天王[編集]

楳嶺門下からは、近代京都画壇を背負って立つ俊英が続々と巣立った。とりわけ竹内栖鳳菊池芳文谷口香嶠都路華香の4人は「楳嶺門下の四天王」と並び称される。栖鳳はのちに文化勲章第1回受章者となる巨匠に、芳文は「花鳥画の芳文」「桜の芳文」と謳われる名手に、香嶠は数少ない歴史画の第一人者に、華香は禅や波の表現を究めた個性派にと、それぞれが一家をなした。芳文の女婿菊池契月も京都画壇を代表する人物画家となっており、楳嶺の系譜は孫弟子の代まで広く枝を伸ばしている。

余談[編集]

楳嶺自身も花鳥画を得意とし、写生を重んじる端正な作風で多くの作品を残した。号の「楳嶺」は梅の花にちなむもので、別号に「鶯夢」もある。惜しくも1895年、京都府画学校や京都美術協会といった「器」を遺して51歳前後で世を去ったが、彼が整えた近代教育の土壌のうえに、近代京都画壇はその後半世紀以上も花を咲かせ続けることになった。

関連項目[編集]