菊池芳文

菊池芳文
Kikuchi Hōbun
本名 菊池常次郎
誕生日 1862年
出身地 大阪
国籍 日本
職業 日本画家
肩書 楳嶺門下の四天王
代表的な実績 「花鳥画の芳文」「桜の芳文」


概要[編集]

菊池芳文(きくち ほうぶん、1862年 - 1918年)は、明治・大正期に活躍した日本画家。幸野楳嶺の高弟で、竹内栖鳳谷口香嶠都路華香とともに「楳嶺門下の四天王」と称された京都画壇の重鎮である。とくに花鳥画の名手として知られ、「花鳥画の芳文」「桜の芳文」と謳われたらしい。

生い立ちと修行[編集]

大阪に生まれた芳文は、本名を常次郎といった。1881年(明治14年)1月から幸野楳嶺に師事し、「師匠の筆跡のかすれまで真似させる」と評された楳嶺の厳格かつ合理的な指導を、実直・勤勉に吸収していった。翌1882年(明治15年)、第1回内国絵画共進会に出品した《修学院夏雨図》が銅賞を受け、四条派の正統を継ぐ画家として華々しく画壇デビューを飾る。

花鳥画の芳文[編集]

芳文は円山応挙以来の写生を基礎としつつ、叙情味あふれる花鳥画を得意とした。1903年(明治36年)に出品した《春の夕・霧の朝》で「花鳥画の芳文」との評価を確立し、1914年(大正3年)の第8回文展に出した《小雨ふる吉野》では「桜の芳文」という異名まで得た。しっとりとした情趣をたたえた桜や鳥の表現は、四条派の写生に近代的な抒情を加えたものとして高く評価されている。

画壇での活躍[編集]

1894年(明治27年)に京都市美術学校(のちの京都市立絵画専門学校)の教諭となり、翌1895年には京都青年絵画共進会の審査員を務めるなど、教育・審査の両面で京都画壇を支えた。門下からは、のちに芳文の娘あきの婿となり「契月様式」の人物画を確立した菊池契月が出ている。芳文・契月と続く菊池家は、幸野楳嶺の系譜を近代へと橋渡しする一大画系となった。

余談[編集]

楳嶺四天王のうち、栖鳳が動物・風景、香嶠が歴史画、華香が装飾的・禅的表現と、それぞれ個性を打ち出すなかで、芳文は一貫して花鳥の抒情を磨き続けた。1918年(大正7年)に没。穏やかで気品のある花鳥画は、いまも数多くの美術館に収蔵され愛されている。

関連項目[編集]