円山応挙

円山応挙
Maruyama Ōkyo
ファイル:円山応挙.jpg
誕生日 1733年
出身地 丹波国桑田郡穴太村(現・京都府亀岡市)
国籍 日本
職業 絵師
活動期間 江戸時代中期 - 後期
代表的な実績 円山派の祖、写生画の確立
別名 主水、夏雲、応挙


概要[編集]

江戸時代中期から後期にかけて京都で活躍した絵師で、円山派の祖。とにかく「写生(しゃせい)」を重んじ、ものを徹底的に観察して描くスタイルを確立した人。その革新は弟子の呉春の四条派と合流して「円山四条派」となり、近現代の京都画壇まで脈々と続いた。竹内栖鳳川端玉章ら近代の巨匠も、たどればこの応挙に行き着く、らしい。

農家の子から絵師へ[編集]

1733(享保18)年、丹波国(現・京都府亀岡市)の農家の次男に生まれた。幼くして地元の寺に小僧として預けられ、15歳で京へ出て玩具商「尾張屋」に奉公。人形の彩色や、覗き込んで遠近を楽しむ「眼鏡絵(めがねえ)」を描くうちに絵の技を磨いた。この眼鏡絵づくりが、後の徹底した遠近・写生表現の下地になったと言われている。

写生画の確立[編集]

17歳頃から狩野派の絵師・石田幽汀に入門し、画の基礎を学ぶ。応挙は常に写生帖を持ち歩き、暇さえあれば草花や虫、動物をスケッチした。1765年の《雪松図》で独自の写生様式を完成させ、翌1766年から「応挙」と名乗るようになる。リアルな観察と、それを画面の中で詩情へ昇華させる構成力——この両立こそ応挙の真骨頂だった。

円山派の隆盛[編集]

応挙の人気はすさまじく、多くの弟子を抱える一大画派へと成長した。ついには寛政の御所造営にあたって、土佐派・狩野派とともに円山派も参画。物のリアリティと空間のイリュージョンを見事に融合させた応挙の絵画は、近代日本画の一つの礎を築いたと評される。1795(寛政7)年、63歳で没するまで、屏風や障壁画など大画面の大作を精力的に描き続けた。

余談[編集]

  • 応挙が描いたとされる「足のない幽霊画」は、のちの幽霊画のイメージを決定づけたとも言われる(真筆かどうかは諸説あり)。
  • 写生を重んじた一方で、子犬を丸っこく愛らしく描くのも得意で、「応挙の仔犬」は今も人気のモチーフらしい。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]