横山清暉

横山清暉
Yokoyama Seiki
誕生日 1792年
出身地 京都
国籍 日本
職業 絵師
肩書 四条派・平安四名家
代表的な実績 幕末京都画壇の取りまとめ役
別名 霞城、吾岳


概要[編集]

横山清暉(よこやま せいき、1792年 - 1864年)は、江戸時代末期に活躍した四条派の絵師。松村景文の弟子で、中島来章・岸連山・塩川文麟とともに幕末京都画壇の「平安四名家」と謳われた花鳥画の名手である。「四条派の総親玉」とまで記された、当時の画壇の大立者だったらしい。

略歴[編集]

京都に生まれた清暉は、名を清暉または暉三、号を霞城・吾岳・奇文などと称した。はじめ江村春甫に手ほどきを受け、ついで呉春松村景文に学んで四条派の写生を身につけた。1820年(文政3年)には華道家元・池坊専定が選んだ生花100瓶の画集《挿花百規》の挿絵を景文とともに手がけ、文政度の東本願寺再建では白書院の杉戸絵を担当。1829年(文政12年)には祇園祭・長刀鉾の軒下絵《百鳥図》の彩色を任されるなど、京都を代表する絵師として重用された。

平安四名家[編集]

これらの実績が認められ、清暉は青蓮院尊超入道親王のお抱え絵師となった。幕末期には中島来章・岸連山・塩川文麟とともに「平安四名家」と並び称され、書画展観の主催者を務めるなど、画壇の取りまとめ役として重きをなした。円山応挙呉春松村景文を経て近代の幸野楳嶺竹内栖鳳へと続く四条派の系譜のなかで、幕末という橋渡しの時代を支えた一人である。

評価[編集]

生前の評価はきわめて高く、1850年(嘉永3年)の《帝京画家給銀位定》では970両の「大上上吉」、《平安画家評判記》では980両の「極上上吉」と、岸岱・狩野永岳に次ぐ第3位にランクされ、「四条派の総親玉」と記された。花鳥画を得意とし、軽妙で写実的な作風は四条派の本流を伝えるものとして珍重された。1864年(元治元年)、73歳で没。

関連項目[編集]