中島来章

中島来章
なかじま らいしょう
ファイル:中島来章.jpg
誕生日 1796年
出身地 近江国(大津)
国籍 日本
職業 日本画家(円山派)
活動期間 幕末
代表的な実績 幕末円山派を代表、平安四名家のひとり
その他 門下に川端玉章


概要[編集]

中島来章(なかじま らいしょう、1796年-1871年)は、幕末から明治初期にかけて活躍した円山派の日本画家。花鳥画、とりわけ鯉と鶉を得意とし、円山派の伝統をしっかり守りつつも洒脱な感覚をのぞかせた絵師らしい。のちに近代日本画の大物となる川端玉章の最初の師としても重要な存在である。

生い立ち[編集]

近江国甲賀郡(一説に大津)の出身。はじめ画を渡辺南岳に学び、のちに円山応挙の孫弟子にあたる円山応瑞に従って一家をなした。円山派本流の写生を受け継ぎながら、自分なりの軽やかな筆致を加えていった。

平安四名家[編集]

幕末の京都画壇では、四条派の横山清暉・塩川文麟、岸派の岸連山らと並んで平安四名家と称され、円山派を代表する絵師として高い名声を得た。鯉や鶉といった身近な題材を得意とし、写実のなかに親しみやすさを宿した画風が好まれたという。

門下の育成[編集]

来章の画塾からは、近代日本画の礎を築く逸材が次々と輩出した。なかでも川端玉章は11歳で来章に入門しており、のちに東京美術学校教授・帝室技芸員となって平福百穂結城素明を育てる「写生派の祖」へと成長する。ほかにも幸野楳嶺、加納夏雄ら、幕末明治の京都画壇を担う面々が来章のもとから巣立った。

余談[編集]

  • 明治4年(1871年)、76歳で没した。
  • 門下の川端玉章を介して、来章の写生の系譜は近代日本画へと脈々と受け継がれていった。
  • 同じ円山派・森派の動物画家森狙仙とは、ともに円山応挙の写実を受け継いだ同時代の絵師にあたる。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]